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悪役令嬢は夜告鳥をめざす  作者: さと
とりあえずの4歩目
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41 ナトリウムはソーダである

次に向かったのは、併設の医学院内に設けられた資料室だ。

ガラス扉付きの棚には、さまざまな医療器具や研究成果が並ぶ。

前世では見たこともないような年代物の器具や、心惹かれる表題にやたらソワソワする。

やばい、ここなら一日中いられるわ。


さっそく脱線しそうになっている私をよそに、セドリック様は一つの棚の前に向かっていく。

「探し物はこれでしょ」

そう言って棚から取り出されたものに、思わず目を瞬かせてしまった。

一言でいうなら、金属製の大きな手押しポンプだ。

大きな注射器の先に針はついておらず、脇から水たばこの吸い口のような長い突起がついている。

レヴィの作ってくれたアンビューバックのように、薬液の吸い上げ側と注入する側それぞれに球状の弁がついており、薬液の流れを一方向にしているようだ。

ポンプを引いて先から薬液を吸い上げ、吸い口を皮下静脈に刺して注入するというものだったらしい。

先端は長く細く、力を込めても多量に注入しないような構造になっている。

手押しポンプという形状は、前世で使用していた注射器に通じるものがある。

ごく微量であれば、皮下へ持続的に注入する点滴法だってあるのだ。

大きくかけ離れた治療というわけではなく、ヘネシー卿の先見の明と試行錯誤したであろう苦労の跡が見受けられる。


「前にコレラが流行った時に、水分を直接注入することを目的に父さまが特注品を依頼したものなんだ。研究ノートと学術誌に送った書簡の草稿が残ってる」

文字を目で追うセドリック様の隣で、一人静かにぎょっとする。

点滴開発は、まさかのコレラ対策だったのか。

コレラはたしか、嘔吐と下痢で脱水状態になるんだったか。

口から水分を取れなければ詰むわけだから、点滴を試みようとするのも必至だったわけだ。

蛇口をひねれば水が出るし、排水もちゃんとしているようだし、原作小説で蔓延した感染症はこれじゃない、よね……?


「薬液が知りたいんだったよね。食塩と重炭酸ソーダを加えたものだって。瀕死の患者15人のうち、助かったのは5人とある」

生存率3割……低いのか高いのかわかりかねるな。

はたしてこの薬液は適切なものなのかも。

食塩は家庭にあるものをぶちこんだのか?

しかも、じゅう炭酸ソーダって何よ。

ジュース混ぜたのか?

血中に投与する薬液に?


「セドリック様、重炭酸ソーダについて詳しくお聞きしたいわ」

「昔は植物の灰を元につくっていたけど、今はソルベー法で生成してる。たしか原材料は、石灰石とアンモニアと海水だったと思うけど」

……植物の灰?????

石灰石にアンモニア??

…………私のイメージするソーダででないことは確かだな。

「もし何か別の名称があればお教え願えます?」


「別の? ……ほかの国では、炭酸水素ナトリウムとか重炭酸ナトリウムとか呼ばれてもいるようだけど」

ナトリウムかよっ、まぎらわしい!

ということは、塩分のダブルパンチを繰り出したようなものなのか。

心臓や腎臓への負荷は大丈夫か、それ。


「……この名前で納得する君はホント何なの」

事情を知る由もないセドリック様が、説明をぶった切られてぼやく。

ギプスと同じで、かつての日本がドイツやオランダから医学を学んだために、医学用語にはドイツ語圏のものが混在しているのだ。

一方、この国の公用語は英語で、医療用語だって異国由来のものでない限りもちろん英語。

日本生まれ日本育ちの私では、専門用語を英語名で言われるとピンとこないものの方が多いってことだな。

食文化だけでなく、こんなところに伏兵がいるとは。

10年分の英語漬け生活のおかげか、日常生活に支障がなかったから気づきもしなかったわ。

ナトリウムはソーダ、ソーダはナトリウム。

覚えておこう……


「なぜこの薬液にしたのかしら」

「当時の医学誌にあった、『コレラは激しい下痢と嘔吐が原因で脱水状態になること。それにより血中の塩分、とりわけ炭酸ソーダが失われる』との発表に示唆を受けて、とあるね。ああ、こっちにその資料もある」

なるほど、元になる情報があったのね。

その資料をざっと読んではみたが、それ以上の成分についての記述はみられなかった。

ぶっちゃけた話、生理食塩水それ単品では、人は生きられない。

無菌調剤かを問う前に、薬液の内容としてもまだ実践段階ではなかったわけだ。


もう少し詳細な情報はないかと研究ノートをめくっていくと、各濃度は塩化ナトリウム0.5%に重炭酸ナトリウム0.2%との記載を見つけることができた。

重要とは思われていなかったのだろう、注入速度の記載はないが、3L程度を数回にわけて入れていたようだ。

生理食塩水の濃度なんて気にしたこともなかったから、この濃度が体に負担のないものなのかどうかはわからないが、3Lという量が多すぎることだけはわかる。

器材の大きさを見るに、おそらく1回量は1Lほど。

負荷かけすぎだ。


しかもこれだけの量を皮下静脈に、人力でとな。

薬液は練り直すにして、実用性を考えるなら、注入先の血管も皮下静脈から深部静脈に変えた方がいいな。

ポンプの形状も、手押し時間の削減のため、容器を吊り下げるか、ゴムバンドか何かで持続的に圧迫させるという方法もある。

あとは洗浄消毒しやすいように、極力シンプルな構造にできるといい。

素材は傷がつきにくく、劣化しにくく、中の確認が行えるもので。


「器具を洗浄する場所も見てみたいのだけれど、案内を願えるかしら」

「何の」

「うーん……病院で扱う器具でしたら、何でも……?」

じゃあこっち、と再び病院に戻り、1階にある流し台へと連れてきてもらった。

中は金属製のトレイや手術で用いる各種医療器具、それにガーゼっぽい布製品で溢れている。

スポンジに使われているのは海綿、洗剤となるのは石鹸。

以上終了。

……っ!?!?


血、血っ、血は?

浸出液や何かの体液は、どうやって落としているの?!

感染源たる体液の始末もせずに、器具を使いまわしているのか?

予備洗浄剤──使用済の器具に吹きかける、血液を固まらせないための薬液──があるとは思っちゃいなかったけど、それに類するものは何もないの?

このまま煮沸消毒したら、たんぱく質が固まってもっと汚れが取れなくなっちゃうじゃん!

感染症対策として、それじゃ何っっの意味もないから!


「血の汚れを落とす薬品は何かありませんの?!」

「僕に聞かないでくれる」

思わずかぶりつかんばかりの勢いで尋ねてしまったが、……そうだった、セドリック様には酷な話題だ。

遠巻きに様子をうかがうセドリック様を一人残し、ちょうど洗い物をしに現れた看護婦の手元を覗いてみたが、石鹸を泡立てた海綿でごしごし擦るだけだった。

しかも素手で……そうだった、手袋ないんだった……

くらり。

めまいでも起こしてしまいたいが、あの手術室の惨状からすれば予想範囲内よ。


いやまて。

職場ではこんな有様でも、洗うものが自分の大事な服ならば扱いも異なるんじゃないか。

そう思い、勇気を出して声をかけてみたのだが。

「あの、例えばの話なのですが、自分の服についた経血の汚れはどのように……」

「どんなしつけされてんだい! 人前でそんなこと口にするんじゃないよっ!」

と、結構な剣幕で怒られてすごすごと帰ってきました。

いいんだ、帰ったらナキアに聞いてみるから……


「案内感謝しますわ。知りたかったことは十分に確認できましたもの」

「最後、えらく怒鳴られてたけどよかったの」

様子を見ていたらしいセドリック様は、さもおかしそうに口の端を上げている。

私が一言でとんずらこいてきたのがそんなに楽しかったんかい!

「いいんです!」

相変わらずいい性格してるわ、まったく。



・・・



帰りの馬車に揺られ、今後の算段を練る。

ひとまず器具の洗浄消毒、手指消毒、手袋の普及は急務だな。

術後経過を良くし、医療者自身の健康を守り、看護師が専門的な職業として確立できる。

うまくすれば待遇の改善やモチベーションの向上につながるかもしれない。

となると、そっちの検証を同時進行で行えるように、清拭とシーツ交換に関しては内科病棟で行う方がいい。

薬液や器具の改良より先に、手袋と洗浄消毒液の開発に着手しよう。

向かいの席に横たえた、お借りした体内注入の器具の包みを見やる。

レヴィにはひと声かけておくとしても、改良版のお目見えはしばらくお預けだな。


「セドリック様、ヘネシー卿にご依頼願えますか。検証の場を内科病棟に変更したいと」

包みに席を奪われ、私の隣へと腰かけたセドリック様に伝言を頼む。

「伝えとくよ」

「そしてもう一つ検証したいことがありまして。培地が完成しましたら、私も使用させていただきたいのです」

「別にかまわないけど。何するの」

「消毒法の検証ですわ。掌や器具を培地に押し当てて、洗浄消毒がきちんと行われているのかを確認するのです」


前世ではその場で確認できるブラックライトだかなんだかを使ったものにとってかわられちゃってたけど、少し前まではこの方法だったんだよね。

自分の掌や医療器具にどれだけ雑菌が残っているのか、目で見て理解できるのだ。

これほど啓発になることはないし、知識技術伝達のとっかかりとしては最善だろう。

「へえ、おもしろそう。その形のまま残るから、どこに雑菌がいるのか一目瞭然ってわけだ。固形培地ならではだね」

「でしょう? 従弟にお願いしている手袋ができ次第にはなりますが。ほかにも検討したいことが山積みですので、すぐの実践には至りませんわ」


「従弟って、アストラル・ランプの?」

「ええ。兄弟のように過ごしましたの。私よりも一つ年下なのよ。実に優秀でしょう?」

にんまりと笑めば、呆れたような声が返ってくる。

「君のところの血筋でしょ。別に驚かないよ」

お、おお?

これってもしや、私も一緒に褒めてもらってるのか?

セドリック様からのお褒めの言葉とか、何気に初めてじゃないか。

しかもレヴィとニコイチでなんて光栄すぎる。


滲み出る喜びに口元を緩ませていると、セドリック様は窓枠に肘をつきため息をついた。

「君さあ、一度懐に入れると途端に警戒心ゼロになるよね」

「別にゼロってわけでは……」

セドリック様と比べたら誰もがゼロと評されるでしょうに。

怒られそうだから言わないけど。

「全く、同情するよ。君みたいなのと一緒に育つなんて」


…………上げて落とすとは、これいかに。


器具については、1832年にリースの開業医トーマス・ラッタが実際に行った治療を元に記述しております。

当時の医学誌にあった記述というのは、アイルランドの内科医オショーネシーがランセット誌に送ったもののことです。

なお、ここから先の器具改良やら消毒法開発やらは史実関係なしの創作になりますのでご容赦ください。


ちなみに表題の「ナトリウムは〜」ですが、正しくは「ナトリウム化合物はソーダ」、もしくは「ナトリウムはソディウム」になります。

ナトリウム単独だと名前が変わるのです。


ややこしいけどちょっと楽しい、重炭酸ソーダの解説

英語名は重炭酸ソーダ、ドイツ語名は重炭酸ナトリウム、炭酸水素ナトリウム。なじみ深いのは重曹かな。

重曹は、重炭酸ソーダの当て字である重炭酸曹達が略されたもの。

医療現場ではもっぱらナトリウム表記なのですが、日本の工業分野ではソーダ表記を使っているようです。

かつての日本がどこからその分野の技術を会得したかが表記別れの原因なんだとか。

じゃあなぜ炭酸水のことをソーダというのか? それは炭酸水を作るのに重曹を使っていた名残らしいですよ。

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