38 畏れ多くも演習開始・後
まずは一度やってみましょうと、食い入るような視線の中、一連の手本を示していく。
ひとまずは、気道確保のみでアンビューバックも使用しない方法をば。
胸骨圧迫の力加減については、大人と子供の場合とをそれぞれ示した。
「胸骨圧迫は、柔らかいベッドの上ですと効果が半減しますので、その場合は体の下に板を敷くなどしてくださいませ。また、肋骨が折れることはよくあります。命には代えられませんので、折れるものと割り切ってください」
私の言葉に、傍らでエレノア嬢が納得したように頷いている。
これはばれましたね。
そうですよ、あのえぐい内出血跡は胸骨圧迫によるもので間違いないです。
「途切れのない胸骨圧迫のために、周囲にいる人へ交代する旨を告げ、事前に声を掛け合うなどして連携してください。例えば、『30まで数えたら』、『3、2、1、0で交代』のように、何でも構いませんわ。また、圧迫時の振動で頭部の位置が変わる恐れもありますので、交代要員は必ず相手の顎先を上に向けるようにしてくださいませ」
解説を交えながらの手本を終えると、セドリック様がぽそりと呟いた。
「僕らは今、顎を引いても息ができるんだけど」
おお、こちらもなかなかえぐいところをついてくるな。
これを語る上でも、睡眠と意識障害の観点を切り離すことはできない。
「空気の通り道を塞ぐのは舌ですわ。私たちが今、舌を自在に動かせるのは、意識がしっかりしているためですわ。眠っている状態では、手足に力が入らずだらりとされるでしょう? けれど脈や呼吸が止まることはない。眠っている間、命をつなぐための最低限の力を維持しているのですわ。意識を完全に失うとその最低限の力の維持もままならなくなるため、舌が垂れ落ち、空気の通り道を塞いでしまうのですわ」
極力、今示せる知識でわかりやすくを目指したが、この回答で果たして納得が得られるのか……ドキドキである。
まったく、2人とも視点がえぐいってば。
「外傷があり、出血している場合はどのようにされますの?」
今度はヘネシー夫人からの質問に、記述していなかったことを知る。
「胸骨圧迫は心臓の動きを人力で行うものですから、出血があれば助長させてしまいますわ。出血量によっては失血死する場合もございます。同時進行でかまいませんので、止血処置を行ってください」
フローチャートへの追加を忘れないよう、手元のメモに残していく。
「他にご質問は」
ぐるりと見渡すが、今すぐ出てくるものはもうないようだ。
実践することで思いつくこともあるだろうし、先に進めるとしよう。
「ないようでしたら、手順書を見ながら実践してみましょう。少し匂いがいたしますが、お気になさらず」
少しと言えるような匂いではないと誰もが思っていたのだろう、小さく苦笑が漏れる。
夫人は見ているだけでと辞退されたが、セドリック様はヘネシー卿の強い勧めにより参戦と相成った。
順に実践をしてもらい、その上で改善すべき点を指摘していこうとしたのだが。
ヘネシー卿は普段患者と対峙しているだけあって、確認方法や力加減に迷いがない。
エレノア嬢も一度実際の現場を見たことがあるためか、流れが実にスムーズだ。
セドリック様は予備知識ゼロにもかかわらず、器用にもさくさくこなしてしまった。
……見聞きしただけでそんなさらっとできるものでもないんだぞ。
このチートどもめ。
「なお、人工的に息を吹き込む方法は熟練度を要しますし、抵抗感が強いと思われましたので、こちらの手順書から省いております。騎士や一般の方への伝達はここまでとしてくださいませ」
「そうね、あれでは女性どころか、男性にも難しいのではないかしら」
頬に手をあてたヘネシー夫人の言葉に、ヘネシー卿が咳払いを返している。
エレノア嬢にいたっては頬を赤らめ、しきりに瞬きをしているくらいだから、この場においても受け入れは困難だったろう。
人工呼吸については潔くカットして正解だったな。
「どんな方法だったの」
周囲の反応が気になったのだろう、セドリック様が問いかける。
「口づて(マウス・トゥ・マウス)よ」
夫人が唇に手をあて、茶目っ気たっぷりに返すと、セドリック様は寒いぼを隠しもせずに腕を擦り合わせた。
「……君のところはどこまでも前衛がすぎるよ」
いや、テニスと同じように語られましても。
人工呼吸に限らず、何かを提示する上で、その土地や時代に受け入れられないものは、流布したところで定着することはない。
文化や慣習に反してしまうと、どんなによい方法であろうと絵に描いた餅と化してしまうのだ。
まあ、前世であっても、そう誰もが抵抗なく率先して行えるものでもなかっただろうけどね。
人工呼吸なしでも問題ないとする情報があっても、その逆の情報も得ていたために、代替品なしには決断できなかった。
すべてはアンビューバックを作ってくれたレヴィのおかげだわ。
「そこで、代わりに空気を送り込める補助換気用の器具をご用意いたしましたの。こちらは補助換気用の器具は緊急時だけでなく、例えば手術中に呼吸の手伝いがいるときなどにも使用できますわ。少々コツがいりますので、ご説明いたします。エレノア様、手をお借りいたしますね」
私の言葉に、エレノア嬢が竹細工のアンビューバックを手に取る。
実は助手として紹介する手前、ここへと向かう馬車の中でアンビューバックの扱い方を練習してもらっていたのだ。
アンビューバッグは、凹凸のある顔にゴムマスク部分をしっかりフィットさせ、頸部を挙上させたまま固定し、かつ反対の手でゴム風船部分を手押しして空気を送り込まなければならない。
そのため、片手の親指から中指まででマスクを押さえ、薬指と小指で顎先を持ち上げるという荒業がいるのだ。
大人の手でもけっこう大変だというのに、エレノア嬢は小さな掌をめいっぱい広げ、ほんの数時間前に学んだばかりとは思えないほどの手際で披露してくれる。
気道確保も完璧だ。
「一般の方が心肺蘇生法を行う場合は、気道確保した上での胸骨圧迫のみになりますが、医療者が行う場合は胸骨圧迫30回に対し、この器具を2回揉んでください」
これもヘネシー卿とセドリック様に実践していただくが、さすがのセドリック様でも初見ではうまくできなかったようだ。
今にも手がつりそうになっている。
「顎先へ軽くひっかけるようにされますと、手が痛くなりにくいですわ」
見かねたエレノア嬢がそっと手を添え、セドリック様がびくりと肩を揺らす。
一度だけこちらに目を走らせると、すぐに手元へと戻った。
つとめて普段通りの表情を作っているようだが、口元にはわずかに喜色が滲んでいるところを見ると、まんざらでもないらしい。
2人の間だけほんわりとした空気が漂っているようだ。
「わたくしも最初はうまくできなくて困りましたわ」
ふんわりとしたエレノア嬢の笑みに対し、小さくありがとうと返すセドリック様に、驚きを隠せない。
こいつ……私への塩対応とぜんっぜん違うんですけど……!
そりゃ、かわいらしいエレノア嬢と私とでは、比べものにはならないだろうけどさ。
なんっか釈然としない……!
・・・
「お茶の用意ができましたわ。ひと段落されたようですし、休憩にしましょう」
セドリック様の手際がよくなってきた頃合いを見計らい、夫人から声がかかる。
すでにセッティングが済んでいるお茶の席には、さわやかな香りの紅茶とともにトリークルタルトというお菓子が用意されていた。
タルトの中身は糖蜜入りの生地だけというシンプルなものだが、べっこう飴とカヌレ好きにはたまらん旨さである。
おいしい……舌にじゅわりと染み入る甘さ。
添えられたクロテッドクリームとの相性も最高だ。
どうにかこうにか心肺蘇生法の伝達を終えることができたという安堵もあって、顔が溶けきってしまう。
「リーゼリット嬢。たいへん有意義な演習でした」
ヘネシー卿の言葉に、しまりのない顔を引き締める。
おいしいお菓子に満足したので、はいさようならってわけにはいかないもんね。
「こちらこそ教わることが多くございましたわ。もうひとつ大事なことをお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
かまいませんよ、と頷くヘネシー卿へ、質問を投げかける。
「例えば、一人の患者が命の危険に瀕しているとして、その一人にかけられる時間はどのくらいなのでしょう」
今回演習するにあたって、手順を記す上で最も苦慮したのは『どのくらい長く続けるか』だ。
前世では、たしか10分前後くらいだったか。
長いものであれば30分以上続けるケースもあったはずだ。
すぐに匙を投げてしまっては蘇生もままならないし、逆に永遠に行うことは不可能なため、どこかで中断の目途をつけなければならない。
前世では、電気ショックを行える除細動器がいたるところに設置されていたし、屋外であれば救急車が到着するまで、病院であれば二次救命処置を行うまでという目安があった。
それがここにはないのだ。
心肺蘇生法を中断する目安を何とするか。
それを考えるためには、まずこの国で一人にかけられる時間を確認する必要があるのだ。
「それは、病院においてということでしょうか? 屋敷に赴いた場合ということでしょうか」
問い返された意味がわからず、ぱちぱちと瞬きを返す私を、ヘネシー卿は穏やかに見つめる。
「病院では、治療薬の経過を最後まで確認する意図がなければ、助かる見込みがない場合は救貧院や修道院へ送ります。貴族の屋敷への往診時であれば、その方が亡くなるまでその場に留まるでしょう。私共の務める病院は、あくまでも治療法を見出す場所。最期まで手を尽くすということは稀だとお考え下さい」
なるほど、そのような医療体制か。
ヘネシー卿には医者を家に呼ぶことしか知らない令嬢だと思われたのだろう、世の理に疎い子供に向けるような響きが混じっていた。
知らなかったことは事実だが、理由が違う。
まさかヘネシー卿も、社会基盤が異なるためとは思うまい。
ともすると前世の記憶に引っ張られがちだが、ここは格差社会が色濃い世界。
病院の機能すら、根本的に異なるのだ。
今までの話を統合すると、ここでの病院は研究機関としての意味合いが強いのだろう。
それも、前世よりずっと見切りが早い形での。
「そうでしたのね……では、少し質問を変えましょう。もし病院や街中においてこの方法で人を救おうとする場合、どのくらい時間をかけることができますか」
「長時間にも及ぶ方法なのですね」
「場合によっては。すぐに回復することもございますが、たとえ長く続けたとしても効果が望めない場合もございます」
「それでは、辞め時を考えねばなりませんな。……『リーゼリット嬢が行うとして』どのくらいをお考えですかな」
この場でヘネシー卿から求められているのは、言葉通りの理想論ではない。
あの日、ファルス殿下が回復するまでに要した時間を暗に尋ねられているのだ。
エレノア嬢がどこまで把握しているかヘネシー卿はご存じないからだろう。
ファルス殿下のことを内密にしたいという、私の意を汲む細やかな配慮を感じる。
たしか、殿下は事故から20分ほどで回復した。
駆けつけるまでの移動の分と状況の確認分を合わせてのものだから、実際に胸骨圧迫を行った時間は15分にも満たないだろう。
「10分から15分ほどかと」
私の回答に、ヘネシー卿は考え込むように一点を見つめた。
「……救貧院や修道院からの迎えを待つ間や、街中で医者が駆けつける時間を考えれば、15分ならば……ただし状況次第ではそれだけの時間をその一人に割けないこともあるでしょう」
「十分ですわ。では、手順書にそう記しましょう」
今までは助かる見込みなしと即座に判断されていた症例なのだ、その体制を崩すとなると現実的な数字の方が無難だ。
苦慮していた項目はこれでクリア。
ただ、今の話の流れでは、心肺蘇生法をすべての症例で行うものと誤認している恐れもある。
この誤解だけはあってはならない。
「ヘネシー卿。この方法はあくまでも、それまで元気だった方が急に倒れてしまった場合に行うものであることを忘れないでほしいのです」
特に医療現場において、心肺蘇生法を行う上で念頭に置くべきことは、『はたして今その方に蘇生が必要か』どうかだ。
前世では、入院時に万一の際にはDNRの確認を──蘇生するかどうか、本人もしくは家族に同意を得ていた。
呼吸状態が悪い患者やがんの末期患者では、いたずらに苦痛を伸ばすことになってしまうためだ。
点滴のないこの国では、口から食べられなくなった時点で治療手段がほぼなくなるといっていい。
そんな医療体制の中で、今にも衰弱死しそうになっている患者に蘇生が必要だろうか。
手の施しようがないとわかっていて、本来であれば寿命を迎えるその日に蘇生を行う意義は。
もしも医療者が最後まで手を尽くしたという証として形ばかりの蘇生を試みるくらいなら、家族とともに最期のときを穏やかに迎えてほしい。
この国で今その看取りの形が常であるのならば、その形は崩してほしくはない。
必要なときにのみ、行うものであってほしい。
「入院中もしくは自宅療養中の方に実施する場合には、あらかじめ患者自身の希望を確認することと、医師として必要性の判断を必ず行ってくださいますよう」
「心得ました。必ずやそのように。伝達の際にも重きをおきましょう」
私の切なる願いを、ヘネシー卿は真摯なまなざしで迎えてくれる。
この方であれば、正しく伝えて下さるだろう。
もう幾度目かになる確かな信頼に安堵するのであった。
トリークルタルト
トリークルという糖蜜を使った、イギリスでは家庭的なタルト。
古代ギリシャ時代で解熱剤として用いられていたトリークルは砂糖のない頃のイギリスでは貴重な甘味料だったようです。
19世紀後半にはゴールデンシロップを使ったタルトにとってかわられ、名前だけ残っている模様。
トリークルの方が苦味えぐみが強いらしいのですが、せっかくなら名前の通りのお品を食べてみたいです。