32 それを勧められても困ります
毎度ながら、◆部分は飛ばしていただいて構いません。
「えっと、……もし一人あたりの給与をこのくらいとすると、8人雇った場合に、拘束時間が、そうなると半年間で……」
机上の何もないところで指先をもにもに動かし、反対の指を額にあててふうとため息をひとつ。
見た目はこども、醸し出す風情は疲れ切ったおとな。
リーゼリット・フォン・ロータス、絶賛、頭唸らせ中であります。
検証する病棟数が当初の予定の2倍に増えたこともあり、今は費用算出表を修正しているところなのだが。
そもそも経理とかやったことない私にとっては苦行である。
最終的にはお父様に見ていただくにしろ、大筋は作っておかないと打診すらできない。
穴ぼこはお父様がなんとかしてくれる!
そう信じて突き進むのみよ。
◆
とりあえずだな、ヘネシー卿には同規模の病院を選んでいただいているから、ベッド数もだいたい同じと仮定すると。
1病棟につき約40回、単純計算すれば2病棟分で約80回清拭とシーツの交換を行う形になる。
患者の自立度は半々程度だったことを鑑みると、約40回は患者が寝たままでの施行になるな。
準備から撤収まで1回実施するのに30分と仮定して、それをもし4つのペアで行うとしたら……寝たまま行う分だけで5時間か。
座って行う分を1回20分とするなら、これだけで3時間強。
計8時間に加えて、寝衣とタオル、シーツの洗濯の時間を考えたら……だめだ、気が遠くなってきた。
2病棟を一度に行うなら、移動時間も考えないといけないし、実施する側の体力的にもきついだろう。
募集に対して何人来るかもわからないことだし、実施日は2日に分けた方が無難だ。
そうすると、例えば8人のスタッフを雇った場合、1日4時間で済む。
その日のうちに洗濯までしてしまいたいけれど、進行状況次第か。
翌日以降でそれぞれ洗濯日も設れば、週4日の拘束時間になる。
基本給の相場は新聞の求人広告を参考に、期間限定なのと、変則的な勤務時間というのもあって若干高めに設定。
研修期間は少し安くするとして、果たしてこれで人を集めることができるかどうか。
それに人件費だけでなく、諸経費もかさむ。
患者が退院するまでシーツを交換することもなかったらしく、交換用のシーツを準備する必要もあるし、タオルや寝衣だってそうだ。
これを2病棟分かあ。
前回お父様に提出したレポートには、繊維産業の株投資でペイバックが期待できると記していたのだが、当初想定していたよりも効果が薄そうなのもあって、どこまでの反響が得られるのか予測がつかない。
国策として取り組んでもらえるなら予算もつくのだろうけど、従騎士の件で直談判する手前、そちらからの出資は期待できないしなあ。
◆
あ~だめだ~、考えることが多くて頭パンクしそう。
決意など10分ももたぬわ。
午後からの授業までにまとめておきたかったけど、少し休憩しないと能率も悪かろう。
そう自分に言い訳をして、もそもそと椅子から腰を上げた。
庭でも散策するかとレヴィの作業場の前を通りかかると、開いていた扉の奥からこちらに気づいたらしく、レヴィが振り返った。
昨日の今日だけに、ぎくりとした私のところへ、樽を手に駆け寄ってくる。
「姉さま! その……改めて昨日はごめんなさい。殿下に失礼な態度をとってしまって。姉さまも驚かれたでしょう?」
殿下が帰られてからすぐに謝ってくれてはいたが、昨日はどこか張りつめた空気を感じた。
一晩経って落ち着いたのか、今のレヴィは普段通りの穏やかさに戻っている。
昨日の毒舌っぷりには驚かされたが、内容は私を心配してのものだったわけだし。
ほわほわぽややんな癒しっ子も、失恋のショックと殿下の軽薄な態度はこらえきれなかったのだろう。
わたしがふがいないばっかりに……申し訳なさしかない。
淡い初恋を断ち切ることはできなかったけど、なんとかして軌道修正してみせるからね!
「少し驚きはしたけれど、私は大丈夫よ。私こそ、レヴィの想いに応えられなくてごめんなさい。
殿下には、今度お会いした時にきちんとお詫びするのよ?」
こくりと頷くいつも通り素直なレヴィの様子に胸をなでおろすと、腕に抱えている樽が気になった。
「──これは?」
樽の中には白い液体が入っている。
へらが刺さっているのをみるに、これでかき混ぜていたようだ。
ゴム特有のにおいはしないから、また別の素材なのだろう。
「昨日試作したものを石膏に直しているところなんです。ご覧になられますか?」
見ないという選択肢などない。
こくこくと頷き、部屋へと上がり込む。
レヴィは木枠の中へと混ぜてどろどろになった液体を注ぎ、その上に縦割りした竹細工を押し込んでいく。
竹細工の内側にも石膏液を流し、表面を平らにならしていった。
なるほどなあ、石膏の型取りってこんな風にするものなのか。
レヴィの手元をしげしげと眺めていると、作業を終えたらしいレヴィが小さくほほ笑んだ。
「実は、姉さまから効果時間の短縮をと依頼された日にいろいろ試しておいたんです。石膏と水の配分を変えて、練り上げの時間を長くすることでより早く固まるようになりました。まだ型作りの段階ではありますが、一番早くなる方法で作りましたので、二日とかかりませんよ」
え、すご……早くもこの進捗率。
どこまで優秀なんだこの従弟はっ!
「すごいわレヴィ!」
思わず手を広げてしまったが、抱きつくわけにはいかないのだと踏みとどまる。
ぎしりと固まってしまった私を見るや、レヴィはしょんぼりと肩を落とした。
「できましたら……いつもどおり、姉さまには力いっぱい褒めていただきたいのです。それが僕の楽しみなので、なくなってしまうと悲しくなります」
うぐぅ、これは精神的に来るな……
「姉さまに褒められると、がんばってよかったなあって思えるので……」
ぎゅうと握りしめた手が小さく震えている。
ですからどうか、と頼む姿が本当にいじらしい。
これをつっぱねられる輩がおろうか。
手を伸ばしそろりと頭をなでると、伏せられていた瞼が上がりふんわりと笑みを深くする。
くうぅ、かわいいぃ……
「それで、姉さま。王都案内なんですけれど。ご褒美としていただくわけにはまいりませんか」
そ、そうだった。
あの時は安請け合いしちゃったけど、ばたばたしているのもあって、もともと時間を捻出できるか不安だったのだ。
それを抜きにしても、昨日のレヴィの様子から考えると、必要以上に期待させるようなことは避けたい。
ただ、こんなに頑張ってくれているレヴィとの約束を反故にするのは……
子犬のような目が、私を、私を見つめているううう。
「そうね、……二人きりというわけにはいかないけれど」
「もとよりそれは考えていませんよ。僕たちまだほんの子供なんですから」
そっか、そりゃそうだよなあ。
付き添いありならば、ことはそう複雑ではないかもしれない。
「殿下も一緒して「それだけは嫌です」
食い気味の返答に、うぐ、と言葉が詰まる。
「だって、そんなのご褒美じゃないでしょう?」
まったくもってそのとおりである。
レヴィからしてみれば、恋敵と一緒のおでかけなんてちっとも楽しくないだろうしなあ。
しかして期待も、ましてや殿下の婚約者としておかしな醜聞を立てるわけにもいかぬ。
「それでは、お父様かおじさまにお願いしてみましょう」
「やった。……よかった……」
ほっとしたように頬を緩ませると、レヴィは机の上のチラシを手にする。
「僕、父さまに頼んでみますね。実はもう行先に目星をつけていまして、ここが気になっているんです。万国産業大博覧会って言って、各国からの展示物がおもしろいらしくて」
チラシを手に一生懸命に説明するレヴィンの目がきらきらきらきら輝いている。
あー、脳が溶けそうなほどかわいい~~~!
慣れない経理もどきで疲れた頭に染み渡る…………のだが、これは大問題である。
私、レヴィのお願いにめっちゃ弱いわ。
このままでは押し切られる。
これは、……なんとしてでも早く本来の彼女さんを探し出さねば。
私が何とかしてみせるからねと、もう何度目かになる決意を胸に抱くのであった。
・・・
さて。
時は午後。
本日の授業は、ギルベルト殿下不在で執り行われることとなっている。
なんでも、私の面会を陛下に上申するためにこちらには来られないというのだ。
頼りきりですまないが、そっちは任せた。
たとえ殿下がいなくても、何があっても動揺しない、毅然な態度を取る、をモットーに乗り切ろうと思う次第であります!
…………と、思ったのもつかの間。
先生が席に着くなり、私はあえなく固まっておりました。
目の前で何が繰り広げられているかというと。
カイルが先生の腕を、赤い紐で縛っているのだ。
これでよしと頷く先生に、ようやく私のこわばりが解ける。
「ちょちょ、ちょっとお待ちくださいませ。何でカイルも快諾してるの」
「ご依頼されましたので」
いやいやだからっておかしいでしょ。
なんで縛ってんの?
なんで縛られてんの?!
「恥ずかしい話ですが、僕はまだ自制心に自信がなくて。毎回制止を依頼するのも忍びないし、これなら楽かなと思ったんだけど」
えーっと、何を言っているのか、ちょっと意味がわからないですね。
照れくさそうに涼やかな目元を染め、色の白い手首には赤い紐。
その先は先生の座る椅子の背もたれへと繋げられている。
散歩中のわんこじゃないんだからさあ!
いや、首輪でないだけましなのか……?
この場に控えるカイルもナキアも、表情を変えることがない。
……おかしいな、違和感を覚えているのは私だけなのかな。
異空間にでも来ちゃったのかな?
「あ、では……ハジメマスネ」
毅然な態度どころか片言になったとして、誰が私を責められようか。
本日揃えた資料は、どうにか作成した費用算出表と計画書の修正部分を抜粋したもの、それからこの間ナキアに描いてもらった手順書の絵だ。
先生はそれらにざっと目を通していく。
「予算については僕も詳しくないから、この場で言えることはないかな。絵もわかりやすくて伝わりやすい。この間指摘した、患者の状態に合わせた方法もちゃんと明記されてるね。うん、いいと思うよ。
ただ……そうだね、このついたてを使う意味について確認してもいい?」
必要物品に加えたついたての4文字。
細かいところまでしっかり見てくれてありがたいわ。
「ベッド間に仕切りありませんので、作業中の様子が丸見えになってしまいますの。普段からその状態のようですが、もともとカーテンなどがある前提で考えておりましたので」
「中流階級以上の家でされているような自宅療養とは異なるからね。ただ、そのことで清拭そのものの効果を測定できない恐れは?」
なるほど。
その考えは一理ある、が。
「先生、私はこの方法をプライバシーの保護抜きに広めたくはありませんわ」
この世界の病院は、怪我や病気の治療法を『研究』するところで、生活する場ではない、という認識なのだ。
そんな馬鹿なことあってたまるかい。
「病院は治療を施す場ではありますが、滞在する間は生活の場にもなります。その中で個人の人間性を否定するようなことはあってはなりませんわ」
「その回答ができるならよいよ。研究対象への姿勢といい、リーゼリット嬢は本当にすばらしいね」
先生はとっても嬉しそうに目を細めるが、それがふつうなんだよおおお。
そこ別に褒められるとこじゃないから!
◆
次に先生が目を留めたのは、修正箇所の一部。
避けては通れない、予測されうる効果の箇所である。
「昨日、病棟を見て回る機会に恵まれまして、その結果の数値になります」
「ずいぶんと下方修正をしたんだね」
「実践する内容だけではどうにもならない状況にありまして」
成果としての注目が得られるギリギリのラインには留めたが、やはり目につくよなあ。
事情を説明すると、ふむ、と考え込む。
「手術時の衛生環境に大きな問題があるのであれば、手術をしない患者を対象に変更するという方法もあるのでは」
で、ですよねえええええ。
先生の言われることがもっともすぎて、頭を抱えてしまう。
研究の軌道修正やら大筋の変更なんて前世でもしょっちゅうだったから、計画段階ならばこのくらいまだ許容範囲だ。
でも、すでにヘネシー卿に話を通し、調査対象の病院を選出していただいた後なのだ。
対象を変更すれば、再度病棟の状況を確認するところから始めなければならないし。
詰めの段階でこれは痛い。
この後、手術環境の改善にも着手したいというのに。
「リーゼリット嬢、焦ってはだめだよ。どちらがよいか書き出してみるのはどうかな」
先生の、小さいが安心する声に導かれる。
優しげに見守るその腕には、目にも鮮やかな赤がこれでもかと主張しているが、気にしてはならない。
「かしこまりました。対象者を内科病棟に変更した場合の、リスクとベネフィットを書き出してみますわ」
まずはリスク。
事前にヘネシー卿へ依頼した内容と異なるため、信用を失う恐れがあること。
内科病棟を再度拝見し、詳細を練り直す時間を要すため、検証の実施時期が遅くなる。
それに、内科に入院している患者の疾患によっては、外科病棟の患者よりも効果が出なくなることも懸念事項だ。
それからベネフィット──得られることが予測される効果──を書き出していく。
まずは、術前・術中の感染リスクに左右されないこと。
内科病棟や内科治療の現状を知る機会になりうる。
清拭が外科に特化した効果ではないと知らしめることができる、か。
手術環境の検証を同時に行っても、どちらの検証にも影響を及ぼしにくいということもあるな。
そうすると、同時進行で行うことにより、手術室環境を早期に改善できるのか。
◆
「内科病棟で行った方が、同時進行で手術環境の計画に移ることができるようです。長い目で見れば、内科病棟の方が早く効果の検証を行えますね。ただ、問題は病棟の状況がわからないということと、ヘネシー卿の体面を汚す恐れがあるということですわ。
どちらにせよ、まずは内科の現状を知ることが必須になります」
「それなら確かめてみればいい。その上でどちらかを決めた方が後悔しないよ。始めてしまってからのやり直しは効かないからね」
まったくもってそのとおりです…………っ!
私は昔からこうだと決めてかかるとそこばかり固執して、他の可能性に気づきにくくなってしまう傾向があるのだ。
わかってはいても、なかなか治らない悪癖。
ちゃんと指摘してくれて、視野を広げてくれる。
いい先生だわ。
ほんっと、この世界で出会えてよかった……!
「先生! 先生がいなければ、先走ってしまうところでしたわ。本当に感謝いたします。これからもどうか私を導いてくださいね」
「……は……」
先生の伸ばした掌が、私の頬に触れるか触れないかというところで。
紐がびんっと張った。
「……はい」
先生は一度紐に視線を送ってから、ふわりと相好を崩した。
本日も大変充実した、よい授業であった。
動揺こそちょっとはしてしまったが、これならば殿下不在でもなんとかなるな。
意気揚々と見送りに立つ私に、先生がしみじみと言い放った言葉は、これである。
「やっぱり紐は良さそうだよ。検証の場でも、患者の腕を固定するのを加えてみたらどうかな」
……あ……いえ、それは……丁重にお断り申し上げますね?