2 うちの自慢の従者たち
「待て!」
馬車のタラップに足をかけ、さあ乗り込もうというところで後ろから腕を引かれた。
手すりを握る力もあまり残っていなかったらしく、ナキアの短い悲鳴をBGMに私の体が後ろに傾いていく。
ああ…空が青い。
こういう時って、本当にスローモーションみたくなるよね……
整地ローラーでの玉乗り中にひっくり返った遠い日を思い出す。
コンクリートに頭と背中を強打して一瞬呼吸できなくなり、硬直した体で蟹歩きしながら家まで帰ったんだった……
ちょいおてんばだった前世の子供時代では自ら笑い話にしてたけど、この令嬢ポジションでそれはできそうにないよね。
なんてことを考えていたら、背後にいた少年に背中がぶつかった。
支えようとしたみたいなんだけど、悲しいかな、体格はほとんど変わらない。
あわや少年を巻き込んでの転倒かというところで、ひときわ大きな腕に包まれた。
カイルのとっさの判断で、少年ごと抱えてくれたようだ。
ち、血の気引いたわ……
少年へと顔を向けると、赤に近い褐色の瞳とかち合った。
ああ、誰かと思えば、頭部固定を手伝ってくれたあの子か。
「失礼、手を」
「……っああ、すまない」
衝撃と動揺から頭の動きが鈍くなっていた私の体に、少年の腕が巻き付いたままだったらしい。
なんとカイルはそれすらも大変スマートにはがしてくれた。
うちの護衛、できすぎだろ……!
前世で担当していた学生と同い年くらいだろうに、この落ち着きっぷりはなんなんだ。
カイル、まさか攻略対象じゃないだろうな。
記憶を総動員してみたけど、護衛が攻略対象の作品はあっても、こんなイベントはなかったように思う。
私が読んでいない小説が舞台ってこともあったりするんだろうか。
何の予備知識もなくバトルで死亡とか、急に弾劾されて絞首台行きなんてのはごめんこうむる。
前世は全裸で溺死、今世は無抵抗でバッドエンドまっしぐらとか、どんな悪行を積めばそうなるんだ。
一人でうんうん唸っていると、わずかに頬を赤らめた少年がうつむきつつ切り出した。
「べ、別に、今のは引き寄せようと思ったわけじゃなくてだな。支えようとしたのも、おまえくらい余裕だと思ったまでで……」
歳の頃は私より一つ二つ上くらいだろうか。
体格こそそれほど変わらないが、首の後ろに回した腕は、細いながらも鍛錬を重ねたそれであった。
男の子としてのプライドを傷つけちゃったか……申し訳ない。
「その、……なんだ……危ない目に合わせて、すまなかった」
足元を見ながら、ひときわ小さくつぶやく。
純朴少年か。
なんともかわいらしい反応に、思わずほっこりしてしまう。
「気になさらないでください。こちらが手すりをしっかり握っていなかったからですわ。あなたこそ、どこか痛めたりはされませんでしたか?」
逸らされた視線を追うように覗き込むと、少年は一度瞬いた後、ああと頷いた。
「……さきほどの医者から、君の処置がなければ兄は助からなかったと聞いた。礼がしたい。屋敷に届けさせるから、名を教えてくれないか」
なるほど、あの子とはご兄弟だったのか。
ちゃんと躾けられてそうだし、この口ぶりだと良いとこのボンボンだろう。
私と同年代っぽいし、社交界とかで出くわすと嫌だな。
主に、はしたなさの面で。
婚期が遠のきそう。
「当然のことをしたまでですわ。お兄様が一日も早く回復されることをお祈りしております」
名乗るつもりは毛頭ないことを滲ませた笑顔で返せば、それ以上食い下がってくる様子はないようだった。
そっちから先に名乗るべきではとも思うが、墓穴を掘りそうなので。
三十六計逃げるに如かず、これにて退散いたします!
◇ ◇
いったん屋敷に戻った私はドレスを着替え、サンルームで昼食代わりのティータイムとしゃれこんでいた。
ひと休憩入れたら、再び町へと繰り出す予定だ。
明日に回そうかとも考えたんだけど、ドレスの手直しの時間がこれ以上短くなるのはさすがに申し訳ない。
それに、明日は明日で寄りたいところが増えたしね。
少年の前に出ていくつもりはないけれど、一応関わった者として、その後の経過が気にはなるのだ。
あの辺りの病院はそれほど多くないから、運ばれたところの目星はついている。
いや、ナキアが目星をつけてくれた、が正しいか。
ナキアだってまだ若く、領地から一緒に来てくれたからこの辺に詳しいってわけでもないと思うのに、なにかと情報通なのよね。
服のセンスもいいし、手先も器用だし、手際もいい。
淹れてくれる紅茶もとても美味しいし……
「おくつろぎのところ失礼いたします」
一口含んだ紅茶にほっこりしていたが、傍らからかけられた声に身を引き締める。
全神経を総動員させて優雅に振り返ると、優しげな双眸にかち合った。
「血だらけでご帰宅されたのをお見かけした時は、大変肝が冷えました。お怪我をされたわけではないと伺っておりますので、今回の件は旦那様奥様には内密にしておきますが……」
危ないことはほどほどになさってくださいねと締めくくるのは、ほっそりした体躯を燕尾服に包んだ我が家の執事長、ベルリッツだ。
年齢を重ね刻まれた目じりのしわと憂いを帯びた表情に、細身の老眼鏡がとても似合っている。
なによりその所作が美しい……
かつて一度だけ訪れた執事喫茶で、シルバーグレイなんていないんだと膝から崩れ落ちた私よさようなら。
そしてごめんなさい、今なら別の意味で崩れ落ちてしまいそうです……!
さすがに家の執事に五体投地する令嬢とか外聞が悪いだろうからしないけど、心の中は吹き荒れる嵐でいっぱいになっている。
「本題でございますが、明後日のお茶会は中止となったようです。なんでも王家主催のお茶会が急遽開催されるのだとか。そちらの招待状も届いております」
そう言って手渡されたカードには、王家の紋章が刻まれていた。
「えっ、……いきなり王家主催なんて」
領地では何度かお茶会に参加したことがあるものの、王都ではこれが社交デビューなのだ。
マナーは体に染みついているとはいえ、転生したばかりのこの身では正直不安しかない。
「リーゼリット様のマナーに関しましては、わたくしから見ましても申し分ございません。ご安心ください」
「まあ………」
一瞬呆けたが、反芻しているうちにじわじわと頬がほてっていく。
べべべ、ベルリッツから直々に、お褒めの言葉いただいたんですけどーーーっ!
「言動にのみ気を配っていただき、お淑やかに過ごされますと十分にございます」
……しっかりとくぎを刺すところもさすがすぎて、いろんな意味で心臓が痛いです。
口元がもごもごするのを軽い咳払いでごまかし、招待状を胸にすくっと立ち上がる。
「わかりましたわ。わたくし、必ずやロータス家に恥じないふるまいをしてみせます!」
さすがベルリッツさん、と小さく拍手を送るナキアと、にこりと微笑むベルリッツ。
上手く操縦されているような気がしないでもないが、それはベルリッツが敏腕な証拠だ。
ご自慢の敏腕な2人によって、頼んでいたドレスはより華やかな装いに手直しするよう手配され、この日の午後いっぱいがドレスと小物類の調整に終わったのだった。