26 こちら迷子ですが何か
石畳の回廊を、スカートを翻しずんずん進む。
大きな窓から差し込む光は徐々に赤みを増していき、私はひどく焦っていた。
次の角を曲がれば、今度こそ……!
どうかどうかと念じながら端から頭を覗かせたが、期待もむなしく、そこには青々と茂った木々がそびえているだけだ。
見慣れない光景に頭を抱えて天を仰ぐ。
「ここは……どこなの……?」
鍛錬場を離れてから早二時間。
お城から出られません。
誰かに道を聞こうにも、こんな時ばかり誰とも遭遇しないし。
城内だっていうのに侍従や衛兵の一人も見かけないなんて、いったいどういう確率なんだ。
みんなでかくれんぼでもしてるのかよぉぉぉ!
あのあと、次の休憩時間までご指南いただいてから鍛錬場を辞した私は、送迎の申し出をお断りして一人正門へ向かったのだ。
殿下も騎士も鍛錬途中だったし、侍従たちは休憩の準備に忙しそうだったしで、頼むのが忍びなかったからなんだけど。
…………こんなことになるなんて。
なんで忘れていたんだろう。
かつて職場や駅の構内でさまよったことは数知れずだっていうのに。
車や自転車を停めた場所にたどり着くまで、毎回30分は要していたあの過去を。
記憶力も絵心のなさも前世のままなら、そりゃあ方向音痴も引き継がれるってものだよね。
鍛錬場に戻ろうにも、行きつ戻りつを繰り返したせいで、それすらできそうにない。
……いったいここはどこなの……
回廊を進んでいたはずなのに、気づけば城内の森みたいなところに来てしまったし。
もういっそのこと城壁伝いに進んだ方が早く城門に至れるんじゃないだろうか。
迷路だって中をうろうろするよりも外周突っ切った方が早いしね。
よしそうしよう、と一人納得し、壁に手をつき足を踏み出した。
殿下に用意されたのが踵の高くないブーツでよかったわ。
整地されていない地面でも、足をくじいたりせずにすみそうだ。
しかし、このまま暗くなると足元も危うくなる。
とっぷりと更けてから衛兵に見つかったら、不審者として引っ立てられちゃうんじゃなかろうか。
それに、今から帰って手紙を書いても、配達人に依頼することは困難だろう。
今日中にエレノア嬢と連絡を取ることはできそうにない。
木が生い茂っているせいか薄暗いし、日が傾いてきているのもあって悲しくなってきた。
おうち帰りたい……
めげそうになっていたところに、ばあんっという大きな音がして飛び上がった。
「え、なに、何の音??」
すぐにあたりを見回すが、応えはない。
代わりとばかりに木々の間から鳥が一斉に飛び立ち、反射的に身構えてしまう。
え、怖いよ、不気味さ5割増しだよ。
誰にも頼れない中、自習もしてねとお借りした懐剣の存在を思い出し、すぐに鞘から抜いて及び腰で構える。
夢想していた姿とは違い、悲しいほどのへっぴり腰に空笑いが滲むが、丸腰よりはマシだ。
おうおう、こちとら人生二週目だっての。
30数年生き抜いてきた女の根性、舐めたら痛い目見るんだからね!
習いたてほやっほやの剣術、とくと御覧じろやがれぃ!
気概だけは強気で迎えた第二報。
少し間をおいて再び聞こえたその音に、つま先から剣先までびびびと震える。
怖いものは怖いし身もすくむが、こういうのは正体がわからないから恐ろしいのだ。
知ってしまえさえすれば対策も取れるというもの。
大きく深く息を吐いて、これまで見聞きした音と照らし合わせる。
薪を割るときのような軽い音ではない。
もっと重い、空砲のような。
だが、この世界には銃火器はないのだ、その可能性は低いだろう。
大きな獣が木に体当たりでもしているのか?
城の敷地内でそんな獣を生かしておくだろうか。
音の大きさや響き具合から見て、こちらへ近づいてくる様子はないように思う。
このまま後退して城内に戻るか、城門に向かって駆け抜けた方が早いか。
そう思案しているうちに三度目の音が鳴る。
どうやら、これまですべてほぼ等間隔のようだ。
城壁や木々のせいで方角がわかりにくいが、おそらくは進行方向、張り出した塔の方角だろう。
そちらへと耳を澄ますと、合間に馬の蹄の音が聞こえた。
誰かいる!
何の音かは依然として知れないが、馬が単独で駆けていれば等間隔に音を打ち鳴らすことは稀だろう。
待ちわびた人の気配に心がはやる。
塔の周囲は上り坂になっているようだが、きつさなど感じられない。
足取りも軽く、蹄の音へと小走りに近づく。
塔の向こう側を覗いたそのタイミングで、目の前を馬が駆け抜けていった。
黒々とした体躯の馬の背には黒鉄の鎧に身を包んだ一人の騎士が騎乗し、丸太かと見まがうほど長大な円錐状の木を携えている。
進む先には、人の頭ほどの大きさをした革袋が木の枝から提げられているのが見える。
騎士は馬の勢いそのままに、革袋へ向けてその先端を突き出すと、ばごんと重い音を立てて革袋が大きく揺れた。
音の正体はこれだったのだ。
よく見ると、木々の間にはトラック状にロープが張られている。
騎士はこのロープの外側に沿って馬を走らせているようだ。
周りに人気はなく、鍛錬場での訓練の後に、ひとり自主練習を行っているのだろうと思われた。
騎士は枝を軋ませて揺れる革袋を行き過ぎると、ロープ伝いに馬を反転させる。
衝撃で乱れた丸太もどきを水平に抱え直し、再び突進をかけていく。
3mはあろうかという重そうな丸太もどきは、揺れる革袋を見事に穿った。
熱心に馬を駆けるその姿に、また初めて見る訓練風景に、私は声をかけることも忘れて魅入っていた。
ロープに沿って再び戻ってくる騎士は、直線に入るとぐんと走力を増し、丸太もどきを脇に抱えてひたりと据える。
もしやこれが馬上槍試合で用いられる槍なのだろうか。
狩りのように弓を射るのではなく、馬ごと突進していく迫力もさることながら、的を正確に射貫く技量は見ていて気持ちがいい。
嬉々として見つめていたのだが、向こうからすれば窪地にいた私は明らかに不審者だったのだろう。
先のように革袋へ向かうと思われた馬が、大きく進路を外れたかと思うと、瞬く間に目前に迫った。
鋭くいななき、後ろ足で立ち上がった馬の体長は、ゆうに私の3倍は超える。
「────ッ」
巨大な黒い影に飲み込まれそうな心地に逃げることも言葉もなく立ちすくし、その場にへたり込んでしまった。
「ロータス……、リーゼリット嬢」
夕暮れ時の薄暗がりの中、馬上の騎士が兜のバイザーを上げる。
「なぜこのような場所に」
馬から降りこちらへと駆け寄ってきたのは、あの黒髪黒目の従騎士だった。
クレイヴ・フォン・ベントレー。
ファルス殿下が馬車に轢かれたあの場にいた、私が親を呼びに行かせた少年だ。
「お帰りになられたのでは」
「ええと、邪魔をして申し訳ありません。帰ろうとしたのですが、道に迷ってしまって……」
手を取られ立ち上がろうとしたが、膝が震えてすぐに尻もちをついてしまう。
こ、腰が抜けてる。
「どこか痛めましたか」
立てない私を気遣ってか、膝をつき顔を覗き込まれる。
私の青ざめた表情に、クレイヴ様はわずかに眉をよせた。
「大丈夫ですわ、少し休めば治ります」
「驚かせて申し訳ありません。剣を持つ人影が見えたもので、侵入者かと見誤ってしまいました」
言われてようやく気づく。
懐剣を握りしめていたことをすっかり忘れて、抜き身のままだったのだ。
「わたくしこそ、怪しい行動をして申し訳ないですわ」
慌てて鞘に納めてはみるが、すぐには立ち上がれそうにない。
城門までの道のりが合っているかだけ伺って、落ち着くまで見学させてもらうか。
「訓練の邪魔をしてしまいましたわね。少し経てば歩けますので、城門までの道を教えていただけると幸いですわ」
「お送りしましょう。馬ならば城門までそうかかりません」
「いいえ。熱心にされてらっしゃいましたし、お邪魔でしょう」
「かまいません。ここから城壁づてに行くなら、起伏も多く悪路を通ります。馬を走らせた方が早い」
ありがたい申し出ではあるが、まったく足が立たないのだ。
このままでは馬の高い背に乗るのも、不安定な馬上で踏ん張るのも難しいだろう。
立ち上がれるようになったらお願いしようかと思案した私に、馬がそっと顔を寄せた。
驚かせてごめんなさいと伝えるかのようなしぐさで、頬ずりする。
ふさふさとしたまつげに彩られたつぶらな瞳があまりにも優しくて、こわばっていた指先がほぐれていく。
そっと鼻筋を撫で返すと、その小さな耳を揺らした。
「きれいな馬ですのね」
領地で狩りした時のような馬とも、馬車を引く大柄な馬とも違う。
軍用として交配され、育てられた馬だ。
だというのに毛並みは美しく、気性も荒いようには見えない。
黒々としたつぶらな瞳からは人を労わるような心根が見て取れる。
「大事にされてみえるのがわかりますわ」
「セラムと言います。生まれた時から世話をして、兄弟のように育ちましたから」
馬の首を撫でるクレイヴ様の横顔に、穏やかな笑みが滲む。
表情が乏しい印象だったが、こんな顔もできるのか。
「セラムも、リーゼリット嬢に乗ってほしいと」
こちらに向き直るやよこされた言葉があまりにも意外で、つい頬がほころんでしまった。
だって、冗談とか言わなそうなのに。
しかも真顔で。
「それではお願いしようかしら」
立ち上がれるようになったら、と続ける前に、小さな首肯とともに体が宙に浮いた。
「ひゃわぁ」
いきなりの浮遊感に首へとしがみついてしまったが、重さなど感じないかのように横抱きにされ、馬の背へと運ばれる。
驚くほどスムーズな移動ののち、間を置かずクレイヴ様も鞍に跨った。
身長差があるとはいえ、前世で言えば高校生ほどの年齢だろうに、私くらいは軽々なのか。
あの大きな丸太もどきを自在に操ってたくらいだもんなあ。
促され、手綱を握るクレイヴ様にもたれてバランスをとる。
どれだけムキムキなんだと思ったが、鎧越しではまったくわからなかった。
実に残念である。
踏ん張りの利かない私のためか、クレイヴ様はセラムを急がせることはせず、ぽくぽくと進む。
ロープの張られた木々を過ぎたところで、ふと気になっていたことを聞いてみる。
「もしやさきほどのが馬上槍試合の訓練ですの?」
昼間に見たハルバードや、私がイメージする槍の形状とは大きく異なるが、この時期に特訓するならそれだろう。
クレイヴ様が、短く肯定を示す。
「初めて見ましたが、大変な迫力でしたわ。馬に乗りながらあのように小さな的を打ちぬくには、相当な訓練がいるのでしょう。音がし始めてからそう経っていませんでしたし、また戻られるのでしょうか。貴重な時間を頂戴して申し訳ありません」
「気に病むことはありません。従騎士の私には、出場資格がありませんから」
そういうものなのか。
トーナメントは若手騎士の登竜門と聞くが、騎士見習いの立場ではまだ出られないってことかな。
「では次年度以降のために、今から特訓を?」
まだ今年のトーナメントも始まっていないというのに、よほどストイックなのだろう。
前世でもアスリートは幼少期から盆や正月以外は休みなく練習だと聞くから、騎士にしてみればそれが普通なのか。
「私にはこの先、騎士となる将来は望めません。鍛錬を重ねるのは、愛馬も乗ってやれないのは不憫だろうと。未練がましいだけです」
まるで他人事のように淡々と語るクレイヴ様からは、感情が読み取れない。
衝撃的なことを言われた気がするのに、あまりの無表情さに意味を図りかねていた私に、言葉が足される。
「ファルス殿下を、危ない目に合わせてしまいましたので」
そうか……彼はあの日、殿下たちの傍にいたのだ。
責任を問われ、何らかの罰則が下ったことは容易に考えられる。
「わ、わたくしが親を呼びに行かせたせいでしょうか……?」
「いいえ、あなたの判断は正しかった。殿下の身を町医者に預けることはできません。それに、殿下に万一のことがあれば、私はその場で斬首されていました。家は称号をはく奪され、この国から居場所を失っていたことでしょう」
たしかクレイヴ様の家は武功を上げた公爵家だったはずだ。
後継として期待もされていただろうし、それが騎士の道を断たれたとあっては……
たとえ命永らえ、家の称号が保たれたとしても、そこにクレイヴ様自身の居場所はあるのか。
「私はその場にいながらにして殿下をかばうことも、犯人を捕らえることもできなかった。このようにいられるだけでも王の恩情かと」
ぶるるといななくセラムが主人の心に寄り添う。
慈しむように撫でるこの騎士は、この先一生、この馬とともに騎士としての誇りを得ることはできないのだ。
これが恩情だって?
あの場でとっさに動ける人がどれほどいるっていうんだ。
殿下を轢いた馬車は速度が出すぎていて、かばうことはおろか犯人の目視など困難だったろう。
結果論だとしてもファルス殿下は無事だったのだ。
それなのに、まだ高校生ほどの歳の少年が、一度の失態で人生を潰されてしまうって?
反省を生かすチャンスすらもらえないなんて、理不尽だとは思わないの。
それが当たり前だなんて。
「……そんなの間違ってる」
怒りとも悲しみとも言えない小さなつぶやきは、蹄の音にかき消されたのかもしれない。
背を預ける従騎士からの応えはなかった。