11 やるべきことが多すぎる
今回も◆内は飛ばしていただいて構いません。
その後セドリック様が語った話によると、昔見学した手術中に倒れ、それ以降血がだめになってしまったらしい。
おい、12歳の言う昔って何歳だ。
大の大人だって見学中に倒れる人もいるっていうのに、ヘネシー卿よ無茶しすぎだろう。
「昔は熱心にいろいろ教えてくださったのに、倒れてから父様は何も言わなくなってしまった。手術中に卒倒するようでは医学に向かないと、呆れられてしまったんだと思う」
仰向けになり目元に濡れたハンカチを置いたまま、セドリック様がとつとつと語る。
いつもより幾分か弱々しく感じるのは、布を一枚隔てているせいか。
過度な期待を寄せられるのは辛いものだが、全く気にかけられないのも堪えるものがある。
特にこの時期の親からの関心というのは、子供に多大な影響を与えうるのだ。
そこに私がひょっこり現れてしまったわけだもんなあ。
とうとう代わりの子供を探してきたのかと邪推もするよね。
「なるほど…そんなことが。……私の存在はさぞ疎ましかったでしょう」
「まあね」
ずばっと答えるところはさすがですなセドリック様よ。
何とも言い難いものを感じていると、小さな衣擦れの音が耳に届く。
「……ねえ、君が医学知識をつけようとしている理由は何?
医者になりたいわけでもないのに、必死になって語学を学ぶのは」
ハンカチを持ち上げこちらを見やるセドリック様の瞳は、まるで凪いだ海のように静かだ。
眼鏡を外したその目にはぼんやりとした輪郭しか映っていないのかもしれない。
すべてを打ち明けるわけにはいかないが、それでも、ごまかしたり嘘をついたりはしたくなかった。
「この国はいつまた諍いが起こるかもしれないでしょう?
将来起こりうる被害を、少しでも抑えたいと思ったから」
まっすぐ見返し答えた私を、その回答を、セドリック様はどう思ったろう。
「…………そう」
セドリック様は一言だけつぶやいて、再びハンカチを落とす。
引き結ばれた口元は何も読み取らせてはくれないのだった。
◇ ◇
さて、日をまたいで本日は3回目の統計学の授業であります。
お父様はお仕事で今日も不在。
不安なようなら様子見に行ってやろうかとセドリック様が珍しく自分から声をかけてくれたけど、対策はばっちりなので心配ご無用だ。
そう、たとえ全く前知識のない攻略キャラにぐいぐい来られたとしても!
「リーゼリット嬢……すごく、待ち遠しかった……」
今日も今日とて先生のキラキラの余波がすごい。
すさまじい風圧を感じるけど大丈夫、これは敬愛だから。
視覚に妄想フィルタをオンして、耳と尻尾をつければあら不思議、美青年わんこの出来上がりだ。
「私も今日を楽しみにしておりましたわ。本日は調査期間と改善の具体策について確認をしたいと思っておりますの」
前回より詳細に記述した資料に目を通すなり、先生は尻尾を大きく振り回……したように見えた。
「うん、すぐにでも始めようか」
頬を染めどこか儚げな笑顔を向けるこの方は、実は偉大な人物だったりする。
レスター・フォン・ローバー、現在18歳。
原作小説では、周辺国の国力を数量的に比較する、いわゆる政治算術を行っていた方だ。
ゲーム内でヒロインとどういう絡み方をする設定だったのか全くわからないけど、たしか小説では彼の情報を元に国が戦争の方策を決めていたはず。
何年か後の話ではあるけど、まさか国政に関わる重要人物だとは。
そんな偉人がたった今、小娘の脳内でわんこにされちゃってるとは誰も思うまい。
◆
「データ採取6ヶ月のうち、最初のひと月は何も行わない調整期間とし、具体策の実施は2ヶ月目からと考えています。そうすることで変化がわかりやすいかと思うのですが、いかがでしょう」
「調整期間は可能なら2ヶ月はほしいところだね。1ヶ月目が必ずしも平均的な数字になるとは言い切れないから。ただ、調整期間が長くなると全調査結果が出揃うのが遅くなるだろうし」
リーゼリット嬢が懸念しているのはそこでしょう?と投げかけてくるのに、頷きで返す。
2ヶ月とれるならその方がいいが、実施期間を短くしては意味がない。
かと言っていたずらに期間を延ばすのも、この先を思うと……
「過去のデータをさかのぼることはできるのかな」
それが可能ならばありがたいところだが、果たしてこの世界にカルテの保管義務というものがあるのかどうか。
「その辺りも一度窺ってみます。先生のおっしゃる通り、調整期間は長い方がいいですから」
ヘネシー卿に相談する事項が増えるな。
セドリック様の状況を思うとすぐの依頼は難しいだろう。
◆
ヘネシー卿に確認し、この企画書を書き上げ、企画が通り。
実際に行動に移れるのはいったいいつになることか。
良い検証結果が出たとして、それが世に認められて現場に導入されるのは。
勘当騒ぎさえなければ、あの不用意な言葉さえなければとは思うが、今考えたところで仕方がない。
メモを取っていた私の髪がはらりと降りたのを、先生が掬い取って耳にかけてくれた。
「何か、焦ってる……?」
心配をかけてしまったのだろう、覗き込むその瞳には労わるような色が乗っている。
「やりたいことが、多すぎるのですわ」
「大丈夫、僕がいるよ」
真摯にささやかれたそれはとても小さな声。
耳を澄まさなければ聞き逃してしまうような。
それでも、今の私には本当に頼もしく心に響いた。
じんと染み入り俯いてしまった私の頭を、おずおずとだが優しくなでてくれる。
うう、泣いてしまいそうだ。
しばらくされるがままになっていたのだが、額にそっと掌以外の感触がして顔を上げた。
先生の顔がものすごく近くて、思わず後ろに飛び退る。
「……っ」
驚き過ぎて涙も引っ込んだわ。
「あの、先生……?」
今、何をなさいました??
おそらくは唇が触れたであろう額から広がるように、じわりじわりと顔に熱がたまっていく。
「えっと、ごめん。なんだろ……その、慰めたかったん、だけど……」
「は、はあ……」
しどろもどろな先生の顔も赤く、ついには二人で黙り込んでしまった。
「…………………………」
「……、…………っ、…………」
時計の針の音だけが妙に響くこの空間。
……喪女には無理、耐えられない……!
「私が間違っておりましたわ、どうか助けてくださいませ……」
「………まあ、そんなことだろうとは思ったがな」
セドリック様に助けを乞おうと部屋を出たところで待ち構えていた、フットマンについていった先の部屋で。
なんとギルベルト殿下が優雅にお茶を傾けていた。
というか、おい。
いつからいたんだ。
「その企画書とやら、サインだけ強奪していったアレだよな。合わない相手とこうも頻繁に話し合う必要があるのか」
……はあ? ……何言ってくれちゃってんの?
研究っていうのはな、計画書を綿密に練っておかないと後で大変な目に合うんだよ。
研究方法に明るくない指導教授と膝をつき合わせる時間のむなしさを。
必死になってとったデータの2/3が使えなくなってしまった時の、あの絶望感をおまえは知っているのかー!
言葉にせずとも表情に現れていたのだろう、悪かったもう言わないと告げる殿下はずいぶんと引いた表情をしていた。
あら失礼、ちょっと熱くなってしまったわ。
企画書のサインにしろ、こうしてなんだかんだ気にかけてくれていることにしろ、感謝はしているのだ。
第二王子の婚約者として本来ならいろいろ制限がかかるところだろうに、城からもお父様からも何のお達しもないのは、きっと殿下がとりなしてくれているのだろう。
「自由にしろとは言ったが、何事もほどほどにするんだな。ロータス伯爵から嘆きの声がきている」
「そうは言っても、この国とあなたを守るためだから」
ぐ、ごふっ、ごほごほ
おお、殿下ともなるとむせ方も上品になるらしい。
「全く関係性が、見いだせないんだが」
むせた加減か照れているのか、口元を隠しながら憮然とつぶやくその頬は赤い。
「必要になる日が来るかもしれないでしょう?」
ギルベルト殿下の身の上に起こる出来事はなんとか回避したいけど、それ以外は避けられるものではないだろう。
国同士の諍いの回避とか、一介の小娘風情がどうやるんじゃっつー話よ。
「おまえの夢はそれか?」
問われ、かのお方の写真がボンと出てきて思わずうなってしまう。
「まあ……そういうことになりますわね……」
本来なら目指すこと自体おこがましいというか、レベルが違い過ぎてちょっと恥ずかしいくらいなのだけど。
何とも歯切れの悪い私に、殿下は一つため息をつき、組んでいた足をほどくと悠然と立ち上がった。
「……乗りかかった船か。おい、まだ授業中なんだろう。連れていけ」