10 黙っているとは言ってない
『親愛なるヘネシー卿
お手紙を拝見いたしました。
先日は挨拶もそこそこの退室となり大変申し訳ございません。
貴重な時間を賜りましたこと、深くお礼申し上げます。
ヘネシー卿はわたくしにご迷惑をとおっしゃってみえましたが、とんでもございません。
逆にわたくしの言動により親子の絆にひびを入れることとなってしまい、申し訳なく思っております。
また、セドリック様がこちらにおいでになられてから毎日語学を教わっており、わたくしの方がお世話になっている次第です。
大変優秀で教え方もわかりやすく、ヘネシー卿はやはりご謙遜されてみえたのだと日々実感しております。
勘当についてのご意思もかしこまりました。
あの日、セドリック様が何も言わずヘネシー卿の指示に従われたことが、わたくしには何か誤解やすれ違いがあるように思えてなりません。
ヘネシー卿とセドリック様、双方の気持ちが落ち着かれましたらゆっくりとお話ができるよう、お時間を頂戴できますと幸いにございます。
またお会いできる日を楽しみにしております。 リーゼリット・フォン・ロータス』
「よし、これでいいわね。これをヘネシー卿のお屋敷に届けてちょうだい」
まだインクの匂いのする便箋を確かめ、真っ白な封筒に封蝋をしてナキアへと渡す。
本日届いたばかりのお手紙には、息子ともども迷惑をかけてしまったことへの謝罪と、勘当については息子の意思を尊重すること、それまでどうか息子をお願いしたいという旨の内容が書かれていた。
文面から察するに、一拍おいて冷静になられたのか、私への無体云々の誤解は解けたようだけど。
いかんせん、こうなった原因の本質はセドリック様側にありそうだもんなあ。
あのかたくなさだと、一筋縄ではいかんだろう。
セドリック様が邸宅に滞在されて早4日。
手紙にしたためた通り、医学に必要な語学を教わっているのだけど、さすがはあのヘネシー卿のご子息だ。
3つの言語の文法だけでなく医療用語まで頭の中に入っているようで、まさに生き字引と化している。
現在この国で主流となっているのはユナニ医学というものらしいのだが、それが記されているアラビア語と思わしき言語は全く解読の余地がない。
それにラテン語、ヒンディー語かな?
私には入門書を開いただけで無我の境地に入れる。
環境なのか素養なのかはわからないけど、この言語量をマスターできてるって相当だぞ。
たった二つしか違わないのにこの語学力はやばいし、これでなぜあんなに卑屈なのか謎でしかない。
父親が優秀過ぎるから比べられてしまうのかしら。
二世の宿命というやつか……大変だな。
「ちょっと。話を聞く気がないならもう僕部屋に戻るけど」
「えっ、まさかそんな。この単語には複数の意味があるというところでしたよね?」
ちゃんと聞いてましたよーと笑顔で返すと、短いため息が返ってきた。
「……次ぼんやりしてたら問答無用で出てくからね」
セドリック様は眼鏡のふちをくいと持ち上げ、入門書のページをめくる。
突き放すような言い方をするけれど、その実とても面倒見がいいのだ。
1時間ほど頭を酷使した後、ナキアの用意してくれたお茶とお菓子で至福のひと時に興じる。
ああ、お茶がしみわたる……
「統計の授業と違って、ずいぶん苦労してるよね」
「まったく未知の領域なんですもの。まあ、これほど難しいとは思わなかったわ。翻訳して出版したら一財産築けるんじゃないかしら」
「何言ってるの、医者ならみんなこのくらい自分で訳しちゃうから必要ないよ」
嘘だろ、なんというチート。
どの世界でも医者は頭が相当よくなければなれないものなんだな。
「それでも、これから医者を目指そうという者の門戸を広げることになると思うわ」
「……君みたいな?」
「あら、私は医者になるつもりはないわよ」
「目指しているんじゃないのか?」
「あの企画書でわからなかった? ヘネシー卿もご存じのはずよ」
「…………へえ……」
……やってしまった。
ヘネシー卿の名前を出してしまったせいだろう、どうにも暗くなってしまった。
勘当を言い渡されたこの状況で明るくいられる方なんてそうはいまい。
本当にこりゃどうしたもんだか。
ヘネシー卿からの手紙には、勘当についてはセドリック様の意思に準ずると書いてあったが、そのことは本人に伝えてほしくないようなニュアンスだった。
あくまでも、セドリック様の意思に任せたいということなのだろう。
そうでなくとも、我が家に誘った日にこちらから聞かないといった手前、私から触れることはできない。
この数日のセドリック様の様子を見ても、あんな家出られて清々したぜ、みたいなやさぐれ感は見受けられなかった。
むしろ帰りたそうにしているくらいなのに。
もどかしい……
ええい、家の中でうじうじ考えていたって仕方ないわ。
天気もいいし、こんな日は。
「外に行きましょう」
「………勝手に行ってくれば」
家の者に簡単なお弁当を用意してもらって、木製のテニスラケット片手に訪れたのは、屋敷からほど近い公園だ。
領地にある邸宅とは違い、王都にあるタウンハウスの庭は満足に走れないからここに来てみたのだけど、けっこう賑わってるのね。
ちょっとした大道芸も見れるみたいだし、小さな屋台なんかも出ている。
惹かれるものを感じながらも広いスペースを見つけた私たちは、さっそくテニスを楽しむことにした。
「さあ、行きますわよっ!」
「…………なんでこんなことに」
若干引き気味のセドリック様をよそに、元気よくジャンプサーブを繰り出す。
一度バウンドしたボールはセドリック様の真横をすり抜け、後ろにいたナキアのところまですっ飛んでいった。
ちなみに、私の後ろにはカイルが控えているため、どんな返球が来ようと対応可能だ。
「セドリック様、動かないとテニスになりませんわよ?」
ナキアからの緩い返球を受けている間に、次弾を待つはずのセドリック様がこちらにずんずん近づいてくる。
今動く必要はないのだが。
「ちょっと君、僕を殺す気なの」
「まあ。そんなつもりは毛頭ございませんわ」
なんかお怒りのご様子っぽいけど、思い当たる節はない。
「テニスってもっとこう、優雅にするものなんじゃないの」
見てみなよ、とラケットで示された向こうには、テニスで優雅にキャッキャうふふしている男女がいた。
もはや違うスポーツだ。
「あれがテニス? そうとは知らず……うちの領地ではこうでしたもので」
「……君のところはいろいろと前衛的すぎるよ」
セドリック様は大きなため息をついた後、うなだれた首を戻した。
「テニスをするつもりならあれで。それ以外は認めないから。あとその喋り方、寒いぼ立ちそうだから普段通りに戻してくれる」
半眼でそう言い放つと、元の場所へと戻っていった。
寒いぼとな……
私だって気にせず喋りたいけど、誰がいるともしれない外で素を晒すわけにはいかんのよ。
まあ、辞めたもう帰ると言わずにちゃんとつきあってくれるのが、憎めないところか。
今度は大きく山なりのボールを放ち、また山なりのボールを受ける。
キャッキャうふふという風にはならないが、まあ形にはなっている。
たまに来る意地の悪い返球につい本気打ちしそうになりながらも、示されるラケットにハッとなってしぶしぶ山なりに返す。
そんな、なんとも言えない時間を過ごしたのだった。
「とてもつまらないわ」
ひとしきりラケットを振り回し、木陰で休憩をとっているのだが、テニスしたって気がしない。
「君にはそうだろうね」
芝生へと足を投げ出すセドリック様の表情は、心なしか和らいでいるように見える。
「セドリック様はいかがでしたか?」
「……まあ、ちょっとは気晴らしになったんじゃないの。君のその、解せないって様子がおかしくて」
「…………意地が悪いわ」
こちらは不完全燃焼だっていうのに。
邸宅で用意してもらったサンドイッチをほおばりながら、この後はカイルとテニスし直そうかしらと考えを巡らせていると、目の前を横切ろうとした5歳くらいの子がべしゃりと頭からすっころんだ。
起こして服の汚れを払ってやると、膝を擦りむいたらしく血が滲んでいる。
「まあ。びっくりしたわね。泣かないの? えらいわね」
傷口を洗えそうな水場を探すが、近くには見当たりそうにない。
どうしたものかと考えていると、慌てて駆け寄ってきた母親の方へと元気にすっ飛んで行った。
あの分なら大事ないだろう。
親子に手を振って後ろ姿を見送り、背後を振り返ると、セドリック様がひどい顔色をして俯いていた。
な、何事?!
さっきまでは何ともなかったよね?
私も同じものを食べたし、何かにあたったというわけでもないと思うけれど。
「ちょっとはしゃぎすぎたのかしら。ひどい顔色ですよ、横になられませ」
「別にいらない……」
つっけんどんなのはいつも通りだけど、口調にさっきまでの覇気がない。
このまま引きずって帰ってもいいのだが、それで悪化させてしまうのも怖いし。
「カイルにお姫様抱っこされて帰るのと私の膝枕、どちらを選ばれます?」
にっこり笑って提案すると、セドリック様は苦渋に満ちた顔で横たわった。
そっぽを向いてしまったが、髪の間からは赤い耳が覗く。
おやおや、セドリック様も思春期の男の子だものね。
「帰ったら、……もう一時間だけ授業してあげるよ」
「まあ、それはありがたいわ。しっかり良くなってもらわないとね」
よーしよーしと頭をなでててみたら、調子に乗らないでと手をはたかれてしまった。
そんなわけで、顔色の落ち着いたセドリック様とともに屋敷に戻った後、再度入門書と格闘することとなったのだが。
「……っ、あー……」
指の先から滲んだ血が、つぷりと玉になる。
やってしまったわ。
開始早々、紙の端で指を切ってしまったのだ。
これ、傷は小さいのにけっこう痛いのよね。
ナキアが手渡してくれた端切れを傷にあて、ふうと小さなため息をつく。
この世界には絆創膏もないし、右手の指先じゃ何をするにも不便だわ。
注意散漫なんじゃない、とここぞとばかりに皮肉が飛んでくるんだろうなあと覚悟していたのに、傍らのセドリック様は思いのほか静かだ。
珍しいこともあるもんだとそちらに視線を向けると、ひどく青い顔をしているのが見えた。
今の状況、さっきの公園での状況。
一致するものは一つだ。
なるほどなあ……
「あなた、血が苦手なんでしょう。こんなに優秀なのに、いつも自虐的な理由はこれ?」
無言で睨み返してくるその目は鋭く、肯定しているに等しい。
「なんてもったいない。あなたね、医者という職業がヘネシー卿の行っている形のみだと思っているの?」
詮索はしないとは言った。
でも黙っているとは言ってない。
こんな理由で才能あふれる若者をくすぶらせるのも、親から必要とされていないと誤解したままなのも見過ごせるもんか。
「あれだけ各国の本を読むことができていながら、気づいていなかったとは言わせないわ。どの作者もひとつの分野に絞って書かれているでしょう。それは、その方がより深い知見を得られるからよ。血を見ない医者なんていくらでもいるわ」
この世界で医師免許を得るためにどんな試練があるかはわからないが、資格さえ得てしまえばこっちのものだ。
薬理学、細菌学、微生物学など、前世でいえば基礎医学にあたる分野につけば。
目の前の患者を治療することはなくとも、目には映らない、より多くの人間の命を助けることができる。
「ヘネシー卿のような総合診療が行える医師も必要だわ。でもそれが叶わないというのなら、その背中を追う必要なんてない。あなたは、国内初の専門医になりなさい」
言いたいことを言いきったと、鼻息荒く仁王立ちしていた私の目の前で。
鼻先にびしりと突き出したその指から血が垂れたのを見て、セドリック様が倒れてしまったのだった。
日頃の恨みだとか、決してそんな、そのようなことは決して。