プロローグ
プロローグ
帰宅、それは家に帰ること。
その日何かを成し遂げた者、何も成し遂げられなかった者、どんな者にも等しく与えられる権利。
人間の一日の終着点は帰宅することだ。
人は帰宅するために生きていると言っても過言ではないはず……。
帰りたいと願うときに溢れ出す欲情。それを帰欲という。
帰宅に魅せられし者のみが感じることができるものだ。
常に帰欲に対し貪欲で帰宅することに命すらもかける、生粋の帰タラー。
それが俺、足早巽。
今は帰りのSTの最中。……そんなことはどうだっていいか。
もう帰宅ルートの脳内再生は終えた。あとは学校さえ出ればこっちのもの。
「な、何か連絡のある人はいないですか……?」
この二年四組担任の和気先生が、あからさまにひきつった顔で尋ねている。
和気先生は今年が初のクラス担任らしい。教卓に立つ姿は落ち着き払っていてこなれた様子――なんて微塵も感じさせないほど足が地に着いてない。
騒がしいクラスに戸惑ってるのか?
「ないなーい」
「和気ちゃん、早く終わろーよー」
「みんな空気読めよ~」
クラスの連中は各々で談笑をしていたが、どうやら和気先生の話は耳に入っていたらしい。所々からST終了を促す声が聞こえてくる。
早く帰らせろと主張する姿は、実にみっともないものだな。
俺は逸る気持ちを抑えつつも、本心を表に出さないよう大人しく座ったまま。
「えっ、えーっと。連絡のある人……いませんよね?」
生徒に急かされた和気先生はあからさまに狼狽えた様子ながらも、もう一度確認を取る。――が、そんな生徒はいるわけもなく教室内はざわざわとしている。
今は五月中旬。先週にゴールデンウィークという五月最大のイベントを終えたばかりのこの時期に行われる行事なんてものは皆無。
特に目立った学校行事もない五月だからこそ、この連絡を募る時間はすぐに――。
「で、では少し早いですけどこれで終わりに……」
案の定、和気先生がSTの終了を決定づけると、
「起立っ!」
不快な騒がしさを一掃するよう教室に響き渡った一声。
女子のクラス委員長のものだ。
和気先生の言葉の意味を察したのか? いい判断だ。
まばらに生徒が立ち上がるにつれ、教室内のやかましい声がより一層大きくなっていく。中には帰れることの嬉しさゆえか、発狂したかのように叫び声をあげる奴もいた。
その中で俺は、椅子を引く音をたてないよう細心の注意を払って立ち上がり、おろおろしている和気先生や騒ぐクラスの連中を尻目に、ルートを確認。
現在地は教室の左側。
窓際の前から三番目の席。考えようによっては好ポジションかといったところか。
そして、教室の出入り口は二か所。
今の俺の位置から考えて、一列に七脚ずつ並べられた机の最後尾。とほぼ同位置の後方の扉より、机の最前列一歩手前にある前方の扉へ向かう方が近い。
ここで前方の扉の混雑を予想し、あえて後方の扉から出るというのは浅はかなことだ。
教室の最奥ってのは、後ろのロッカーに教科書をしまいに行く奴や教室掃除の奴らが溜まったり、部活のない暇な連中が駄弁ったりとロクな場所じゃない。
帰宅時にそんな無法地帯に近づくなんて、よっぽどの技量がない限りは自殺行為。
……いや別に、俺が切り抜けられないってわけじゃないぞ?
常に確実性を見極め、帰ることを最優先する。それが生粋の帰タラーだ。
にしても、このクラスの騒々しさときたら明日から土日で休みだからって、どんなけテンション高――さっき叫んでだ奴泡吹いてるっ!?
このクラスのテンションの上がりよう。……死人も出かねんな。
これは机と机の合間を縫うように扉へ向かうより、素直に出来るだけ少ない動きで行くのが正解だ。下手に動くと何かしらに巻き込まれかねんからな。――よしっ!
ルート修正を終えた俺は、委員長の「礼っ!」と、凛とした声の後に軽く頭を下げる。その後、クラスの連中は『さよーなら』と言ったが、それは口にしない。
言っておくが、決して和気先生に挨拶をするのが嫌だとか、委員長の後に続くのが気に食わないだと、かそういう捻くれたもんじゃない。
英語の授業で「みんなでこの本文を朗読します」みたいなものを、特別読みたくない理由はないが声を出さないのと一緒。特に理由はない。
和気先生、委員長、許してほしい。
これは思春期の照れ――じゃないよ? 一種の通過儀礼のようなもの。
挨拶を終え、今すぐにでも走り出したいところだが、即座に動くことはしない。
馬鹿騒ぎする連中と呼応するように、高鳴る気持ちを落ち着かせながらも、鞄の取っ手に袖を通す音、布と布が擦れ合う乾いた音が聞こえないくらい慎重に鞄を肩へ。
早く帰りたいのは事実だが、周りからあいつはいつも早く帰る奴、みたいなレッテルを貼られるのってみっともないからな。
「何あいつ走ってんの? 早く帰りたいの?」
とか思われるのは癪。俺はスマートに早く帰りたいんだ。
ふと教室の時計に視線を向けると、午後三時十五分。
大きく一呼吸分の間を置いた俺は、意思を固めて一歩踏み出す。
教室内は、友達同士で集まり土日の予定などを語り合う奴ら、自分の机からロッカーまでを行き来する奴、箒と雑巾を使い野球もどきをしだす奴ら、部活があることに嘆く奴、とごった返し。
すでにそこは戦場だった。
更に目の前には、おそらく何かしらの法則性で等間隔の幅で並べられた机、それに紛れるよう所々に地雷原のように散らばったクラスメイトの人間密林地帯が広がる。
俺の確定したルート。
このまま真っ直ぐ机の最前列まで行き、そのまま右折し教卓の前を通って前方の扉へとたどり着くという単純明快なルートにすら、少なからずも妨げとなる連中がいた。
机の並びも生徒の位置だって至って普通に見えるが、これは全部俺の邪魔をするために計算し配置されているに違いない。――でも心配なんてものは無用だ。
実は、帰宅時の俺は極力目立たないよう、小さな生活音さえも断って行動している。
だから、周りには不可視といってもいいほどに認識されていないはず。
こんな教室とっとと出てって……。
「足早―っ! 今日も一緒に帰ろーぜー」
後ろの席の男が声をかけてきた。
――はぁっ!? なんで話しかけて来てんの? 空気読めよっ!
「一緒に帰るとかそういうの無理だから。それに今日もって、いつも一緒に帰ってるみたいな言い方するな。一回も一緒に帰ったことないだろ」
俺は全く振り返らずに告げ、後ろから肩におかれた手を振り払う。
いつもいつも俺が帰る時にコイツは……。
絶対意図的に邪魔しているに違いない。決してゆるさない。
「おいおーい、なんだよそれー? そういうのってなんなんだよぉ。つれないなー」
相変わらずのたらたら口調。
そんなにたるそうに喋るんなら寝てろっての。二度と起きて来るな。
ったく、少しも自分で考えないで、すぐに人に聞いて解決しようとしやがって。
なんでも質問すれば答えると思うなよ? 自分で考えろ。
それにこれも俺を足止めするための罠。そんな安い手には引っ掛かるか。
「ちょっと足早ーっ。待っ――」
俺は完全に無視をきめこんで、そのまま道なりに進む。
今は教室を出るために、全神経を費やしている。
この騒がしい教室内の、最奥にいる連中の会話だって聞こえるほどだ。
もし俺の帰宅を阻止する策略なんて練ってたら、すぐに潰してやるっ!
俺は机と机の間。窓際が唯一前に出れる道の真ん中で、無神経にもマシンガントークを繰り広げる女子の前へと差し掛かる。この女ども……。
「おいっ! こんな所で話すな。邪魔だ」
などと、口に出すのも表情で訴えるのも時間の無駄。
俺は向かい合って話をする片方の後ろ。
左端の人一人通れそうな隙間へと素早く入り、二列目を抜ける。
「――あっ」
ふいに真後ろから、抜けたような声が聞こえた。
と思えば、俺の足元にカタカタカタとピンク色のペンが音を立てて存在主張してくる。
……いやいやいや。違う、俺ぶつかってないからね。かすりすらしてないから!
絶対に俺が落とさせたわけじゃない。拾わんぞ! 俺は早く帰りたいんだっ!
後ろを通ったことに気づかないほど話に夢中だったくせに、今では二人が俺に拾えと言わんばかりに、ペンと俺の顔を交互に見比べてくる。
た、確かに俺が横を通ったことで、風の軌道とか何かしらの目に見えないようなエネルギー量とかが変わって……そんなことあるかっ!
図々しい奴らめ。俺は一秒でも時間が惜しいんだよ。
そうだ。こんなペンなんか――。
「このペン、どっちの?」
俺は足元のペンを手にして二人に見せる。
「あっ、やっぱり私のだ。ありがとね、拾ってくれて」
すると、さっき俺が後ろを通った方の大人しそうな女子が名乗りを上げた。
「あぁ……気を付けて」
「うんっ! また月曜日ね、足早くん」
その子は意外にも溌剌とした笑顔を向けて、お礼を言ってきた。
くっそ、上手く落としやがって……当たり屋なの?
控え目そうな感じなのに、何? その不意をつくはじけんばかりの笑顔は。
しかも、ちゃんとお礼まで……いい子だなっ! 図々しいとか思ったの謝るわ。
なんだよ。邪魔されたはずなのに不思議と悪い気しないじゃないか……。
ま、まぁでも今回は、このままウダウダしてたら時間が無駄だから拾ってやったんだ。もし礼を言うときに、上目使いやアヒル口みたいな媚びるような真似してきてたら、確実に鳩尾に一発入れてたからな。次はないぞ、次は。
俺は気を取り直して最前線へと向かう。
……少し感覚を過敏にしすぎている気がしないでもない。
いくら常に対処できるよう、神経を研ぎ澄ましていても、やり過ぎはよくない。
過剰反応が空回りしてミスに繋がるというのはよくあることだ。だからここは抑えるというのも手だが――俺は生粋の帰タラー。俺の帰宅に妥協は要らないっ!
あとはここを曲がって教卓の前を通れば。
「――っ!」
この一歩で最前線へと躍り出ようとしたところ。
俺の足元に大量の教科書やらが降り注いできた。
「あっ、ああぁすまない足早くん。大丈夫かい?」
窓際の一番前に座ってる、いかにも勉強が趣味です。とでもいいそうな銀縁眼鏡の男が、眼鏡を軽く押し上げつつ謝罪してきた。
――なんっ、なんっだよっ! どいつもこいつもっ!
知らないからな、俺じゃない、俺が落としたわけじゃない。
こんなもの俺に擦り切れになるまで踏む権利はあるにしろ、拾う必要は決してない。落とした奴が悪い。自分の尻くらい自分で拭え。あと、その指紋付きまくりの眼鏡も拭え。
こっちは降ってきた電子辞書の角が運悪く足に当たって痛てーんだよ! 青あざもんだ、ちくしょう。椅子の座ったまま謝る、この礼儀知らずメガネには、世間の厳しさを教えてやるってことで「足早はDQNだった」とかいう噂が流れてもいいから、ここは一発やってやろう。あぁこいつは面ね。二度と眼鏡ずれないよう顔に埋め込んでやる。
「ビックリさせるなよ。もう少しで足に当たるところだったから、気をつけろよ」
俺は地べたに散らばった数冊の本をかき集め、机の上へと乗せる。
「ありがとう……あれ? でも電子辞書足に当って――」
「ないね」
「へ?」
「何が当たったって? ほらっ――」
最後に足元に落ちてる電子辞書を渡す。
「あっ、よかったー。壊れてない。これ耐久性弱いから当たり所悪かったら液晶割れてたかも」
「そんなことはいいから早くロッカーに閉まって来たら? もう君の個人ロッカーの上使ってる人は退いたからしまいにいける――待ってたんでしょ?」
「……ホントだ。ありがと足早くん、助かるよ。いつも悪いね」
メガネがまた眼鏡を上げつつ、お礼を言ってきた。
「あぁ、気にしなくていいから」
いつもって何だよ。お前毎回落として俺に拾わせてる訳じゃ……確信犯か?
あと眼鏡いちいち上げんのやめろ。そんなすぐずれるような眼鏡掛けんなっての。
でも助かった。あのドジっ子メガネ、電子辞書壊れたなんてなったら泣きわめきそうな貧弱野郎だからな。そんなことになったら注目を……ドジっ子メガネはないな。糞メガネで十分だ。糞メガネ、糞メガネ。あー、糞糞言ってたら腹立ってきたわ。よし、明日会ったら殴ろう。
邪魔者をあしらった俺は、一列目の机が立ち並ぶ最前線から右折。
あとはここを真っ直ぐ、教卓の前を抜けて扉に向かうだけだ。
もうすぐ教室から出られるという喜びで、ハイになり始めてる気持を自重しつつも、俺は扉へと向かう。
「足早くーんっ!」
「ん?」
――しまったっ!
名前を呼ばれたから、つい反射的に振り返っちまった……。
無視すればいいものを、教室中に神経を張り巡らせていたせいで……。
ここでいつも邪魔して来る奴はあいつしかいないのに。
振り返ると俺がさっきまで座っていた席の隣。
幼い顔立ちをした女子が、ぴょんぴょん跳ねながら手を振っている。
艶々の栗色。ふんわりとした手触りのよさそうな長い髪が印象的な天ノ上美優だった。
声質的にも大体こいつだろうと確信はしてたけど、やっぱりか。
「足早くん、もう帰るのー?」
屈託のない無邪気な笑顔で尋ねてくる天ノ上は、小走りで俺の方へと近づいてくる。
クラスで男女ともにモテはやされている人気者が、あんな嬉しそうに駆け寄る姿を見せるせいで、教室中から無数の視線が。
「あー……今日はもう帰るだけ」
背中がピリピリしてくるほど痛く視線が集まる中で、人気者を無視するわけにはいかない。俺は不覚だが口を動かすことに。
ここは出来るだけ真摯な対応でいきたい。――が、俺の返事が聞こえなかったのか?
天ノ上は返事一つ返さず、俺の前へと一直線。
邪魔者どもが自分から道を譲ってるのが腹立たしい。
なんだよ、この差は。俺の時は見向きもしなかった癖に……。
にしてもさすが人気者と言ったところか、天ノ上は幼い顔立ちだが何処となく品がある。綺麗な二重瞼が無垢さを演出する瞳、小奇麗に整っていて芯の通った鼻梁、柔らかい微笑が似合う薄い唇のパーツ一つ一つ過剰主張することなく、小さい顔に上手くまとめられている。気に食わんが、ホントに癪に障るが――可愛い。それだけは認めてやる。
目の前まで来た天ノ上が足を止める。
でも笑みを浮かべていた顔を俯かせるだけで、何かを発しようとはしなかった。
一方で、俺たちがつっ立ってるだけなのをつまらなく感じたのか、教室中の視線が一つ二つと減っていく。
急にフリーズした天ノ上の様子を窺うと、身長差のせいで真一文字に結ばれた口元しか見えない。腕や肩をぷるぷると小刻みに震わせてるように見えるのは気のせいか?
「はっ!?」
――ふいに俺の研ぎ澄まされた神経が、微かな変化を感じとった。
出来上がった状態の教室内に、微かに乾いた音と空気の流れの変化があったから。
音源。後方の扉を見ると、廊下へと消える生徒の後ろ姿が見える。
今日はクラスのテンションが高かったからか、帰りのSTが終わっても誰かがすぐに教室外に出ることはなかった。けど、そろそろクラスの連中が外に出だしてもいい頃だ。
こんな所でグズグズしてる場合じゃない!
「あ、天ノ上。もう俺かえ――」
俺が声を掛けると見計らったかのように、先ほどまでのクラスメイトの視線も天ノ上の謎の震えも、一切がなくなっていた。
待っていたと言わんばかりに、天ノ上の口元が「にぃっ」と擬音が聞こえそうなほど端に吊り上げられ、固く閉ざされていた口を開く。
「今日は帰るだけ? ――ふふっ、笑わせないで。間違ってるよ、それ。今日も帰るだけなんでしょ? ぼっちのクラスで浮いてる足早は、学校が終わったら帰るしか選択肢がないくせに、見栄張ってんじゃねーよ。さっさと寄り道せずに帰れ、一人でな」
表情を隠して口元しか見えない。けど、さっきまでの明るくて柔和な口調とは打って変わる、親の敵とでも言わんばかりの憎々しげな罵声を浴びせてきた。
「………………」
俺は言葉が出なくて、天ノ上が言い切って清々しそうな顔をしていたのを確認したあと、その場からそーっと立ち去る。
「おーぅ、足早。ちょっと待てって言ってるじゃーん」
後ろからアイツが追い付いてきた。
「あ、足早テメェ誰が帰っていいって――チッ。あー、足早くーん。まだ話終わってないよー?」
天ノ上にも気づかれてしまった。
どうしてこいつらは俺の邪魔ばっかりしてくるんだっ!? ……いじめてんの?
ちくしょぉっ! 今日も俺は早く帰れないのかっ!