大人の赤子
鈴は玉座に来ていた。そして蹂我の元へまで行きこう言った。
「市夜の顔をまだちゃんと見てないの。もう一度私の手でその子を抱かせて。娘のことは……諦めたわ。」
鈴は息子の顔をもう一度しっかり見るために、一旦預からせて欲しいと懇願する。
「……」
蹂我は何も言わず、側にいた兵士に合図すると奥から市夜を抱えた兵士がこちらに向かってくる。そして市夜を鈴に手渡した。
「きゃっ、きゃっ!!」
市夜は無邪気な声を出してこちらを見ている。鈴はこれ以上ない程の笑顔でそれに応え、市夜を抱えたまま寝室に戻った。
蹂我は生まれてくる子にあらかじめ「市夜」と名付けていた。名前からして息子が生まれてくることを信じて疑わなかったのだ。
寝室に戻るとすぐに、鈴は用意しておいたガイアの聖水を手に取る。南波家に代打伝わる聖水、それが寝室の隠し扉の先の部屋に管理されていることを鈴は知っていたのだ。
8代目夫婦は政略結婚であった。勢力をより拡大するために、南波は同コミュニティーの王族である「黎明会」との条約を結んだ。その際に、婚約の条件としてお互いの一切の秘密を明かしていた。ガイアの聖水がある場所を知っていた鈴は、容易くそれを手に入れることができる。
後は伝説の通りに、これを飲んだ市夜が青年に成長すれば、娘を救うことができる。
「市夜、この子を守ってあげれるのはもうあたなしかいないの。ごめんね。」
そう小さく呟くと、鈴は市夜に聖水を一口飲ませた。
聖水を飲んだ赤ん坊の体が、眩い光に包まれる。みるみるうちに市夜は、20歳前後の青年に変化を遂げた。
立ち込める煙が消えると、そこには黒髪に鋭い目つきをした青年が立ち尽くしていた。伝説の通りに、信じられない光景を目の当たりにした鈴は驚愕のあまり言葉がでない。しかしすぐに我にかえり、現状を市夜に説明する。
「市夜! あなたはこの子を守らなきゃいけないの! あなたの妹よ? わかる? このままじゃあなたの父親に妹は殺されてしまう。それを防ぐには市夜! あなたが父親を力で屈服させるしか方法はないのっ!」
「……あ……あぅ……」
「っっ!?」
当然といえば当然だ、肉体・精神的にピークの状態といえど、彼はつい先程まで産まれたばかりの赤ん坊である。母の必死な弁を理解できる頭脳があっても、根本的なところで言語を使えない。
「……れいな、礼奈よ! あたなが守るべき存在! それだけ分かって!」
鈴はその場で娘の名前を名付け、できるだけ簡潔に伝えたいことを述べてみたが、市夜は相変わらずきょとんとしている。
「ど、どうすればいいの……。兎に角今はこの場から離れないと! 市夜、付いてきて!」
そう言いながら市夜の手を引っ張って走りだそうとすると、市夜はその勢いで転んでしまう。当然ながら歩いたこともない市夜は走り方を知らない、その場でうずくまったままになってしまった。
鈴にゆっくりしている時間はない、今すぐにでも計画通りに動き出さなければ礼奈は処分されてしまう。
「市夜! お願い! 起き上がって!」
鈴は涙ぐみながら市夜の体をゆさっている。
鈴の大声に反応し、礼奈は泣き出してしまう始末。
「コンコン」
「!!?」
そんな最中、誰かが寝室をノックする。
「鈴様、いかがなさいましたか?」
扉の向こうからは、執事の声がした。寝室の中から鈴の尋常でない声が聞こえてきたため、中の様子を心配したのだ。
「だ、大丈夫よ! なんでもないわ、赤ん坊が泣き噦っただけ。食事の準備がてきたら教えて頂戴。」
「左様でございますか。」
……執事の足跡が遠のく音が聞こえた。
なんとかその場を凌いだが、現状は変わらない。目の前でうずくまっている市夜を動かさないことには。
一刻も早く市夜と礼奈をこの場から城の外へ連れ出さなければ!!