一章 八話
ライアは走りながら肩越しに背後を見て、相手の姿を確認しようとした。
すると木から木へ、軽々と飛び移って移動する生物が視認出来た。それは庭仕事をしていた時に見た事のある、屋敷の外壁に張り付いていたトカゲに似ており、緑色の体表で蛇に四本の足を生やした様な長い体と尻尾を持つ。ライアにはとにかく大きく感じられた。
全長一メートル、体高三十センチメートル程、リザードと呼ばれる魔物である。
しばらく走った後ライアは再び、一瞬だけ背後を見て目を細めた。
リザードは木に飛び移る際に鋭い爪を引っ掛けている事が分かる。それに小さい頭ではあるが、鋭い牙を有している事も。
一斉に飛び掛かられて爪でしがみ付き、何度も噛み付いて来るのだろうかとライアはその光景を想像したが、痛い割りに簡単には死ねそうに無く、恐ろしい気持ちになった。
リザードはざっと見ただけで三匹は居た。付近には木、草、岩、身を隠せる所は無数にある。音の数からしても、五匹は居ると思っていいだろう。
アントの巨大な顎に比べれば個体としての殺傷能力は低いものの数が多く、身体的にも精神的にも疲労しているライアにとって脅威である事に変わりは無い。
先頭に居た一匹が木から降りて這うような低空で跳ね、ライアとの距離を詰め始めた。それに合わせて他のリザードも速度を上げる。
ライアは囲まれたら下がりながら応戦しろ、というツェーザルの教えを思い出しながら走っていたが、このままでは追い付かれると判断して一度立ち止まった。体ごと振り返ってリザード達の動きを見る。
ライアは腰を落として真正面から迫るリザードに狙いを定めると、右膝の前で逆手に持ってマチェテを構え、左上に振り上げる。斬ったというよりも、リザードを掬い上げる様にだ。
首元を叩かれたリザードは浮き上がって背中から地面に落ち、土の上で転がった。
次は木の上、ライアのほぼ真上から襲い掛かる。
今度は顔の横にマチェテを順手で持ち、タイミングを合わせて振り上げると頭に命中し、刃がめり込んだ。
リザードは一瞬の断末魔と共に、血を吹き出して絶命する。
血液を頭から被って不快そうな顔をしながらライアはマチェテを払い、リザードの屍を振り落とす。
残りは何匹だろうか。そう考えながら奥歯を噛み締めて目を凝らし、視界を巡らせた。すると視線の先に四匹のリザードが映った。
ライアの目にはその四匹の動きが統制の取れたものの様に見えた。同時攻撃は不味い。上下左右から迫るリザードに対して弾かれたように背を向け、再び走り出す。
アントと戦っていた時には興奮のあまり気にならなかった背中の傷が、地面を踏みしめる度に痛み、ライアの歩調が乱れる。
ライアがよろめいた時、木の上から飛び掛ってきたリザードが背中の傷口に貼り付いた。
背中に食い込んだ爪の痛みにライアは顔を歪め、空いている左手を背中に回す。
リザードを素手で掴み、無理やり引き剥がすと手近な木に向かって投げ付け、マチェテを持ったままの右手で体重を乗せて殴り潰した。
虫酸が走るような感触に身震いする暇も無く、ライアは足を前に出す。
今度は三匹が同時に襲いかかってきた。ライアはそれを辛くも回避したが、無数の爪で引っ掻かれ背中に傷を負った。外れかけたエプロンを引きちぎって後方に投げ、足止めを試みつつ転びそうになりながらもひたすら足を上げ、前に出す。
ライアは走りながら決定打になる武器を考えていた。しかし一本のマチェテでは金属の量が絶対的に少ない。良案が出る前に、前方の木々の隙間から屋敷の壁が見えてきた。
ライアが家まであと少しだと思ったその時、草陰に隠れて並走していた一匹が左足のふくらはぎに喰らい付いた。
ハッとしてライアはそれを避けようとしたが、リザードはしっかりと四本足でしがみつき、牙を立てた。
痛みに気を取られてバランスを崩し、ライアは前のめりに倒れたが、途中で体を丸め肩から転がった。その勢いで転がり続ける。転がっている最中、頭の傷が開いて金色の綺麗な髪が真っ赤に染まった。
リザードは何とか振り払ったものの、食い込んでいた爪と牙に引き裂かれた傷から血が流れ、ライアは足を動かす事が出来なくなっていた。
もはや立ち上がる事は出来ない。しかしライアは諦め切れず、上半身を起こしてマチェテを握り直した。せめて、一匹でも道連れにと、目を釣り上げて口を開く。
「鋼の誓約! ドラート!」
ロレンティス語で鋼線の意味を持つ言葉を叫ぶと、ライアはマチェテから可能な限り細く、強度の高いワイヤーをイメージして形成、持ちうる力を絞り出した。左右の木に縫い付けるように鋭利な先端が何度も往復し、リザード達の行く手を塞いだ。
勢いに任せて飛び掛ってきたリザードが数体、それに触れて両断される。だが、本命はまだ残っていた。
今まで見た中で最も大きなリザードは地面とワイヤーの隙間をするりと抜け、ライアの前にゆっくりと近付いて来た。
先ほど振り払った個体も横から迫ってきていた。
武器はもう手元に無いが、悔いも無い。実力を出し切った結果だとライアは納得した。ツェーザル・アルバート・フランクリンの娘として生まれた事を誇りに感じながら、静かに目を閉じた。
真っ白な世界。ライアは温かく柔らかな光に抱かれていた。
死後の世界なのだろうか、とライアは思った。
「ライア・フランクリンさん、とおっしゃいましたか」
突然、ライアの頭の中に声が響いた。とても優しい雰囲気で、落ち着いた声色だ。
「はい」
ライアは思わず返事をした後、目の前に女性の顔がある事に気付いた。痛かったはずの後頭部は、いつの間にかその女性の膝の上に置かれていた。
「ここは、どこですか」
ライアが当然の疑問を口にすると、女性はふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。
その表情を見て、ライアは泣いていた時に想像したレオナのイメージとそっくりだという事に気付いた。それと同時に、ここは死後の世界で、最後にレオナが看取ってくれているのだと思った。
「ここは天界や冥府ではありません。先程居た所から移動してはいないので、安心なさって下さい。私はレイナルド・オリヴィエと申します。人々が、善神と呼ぶ存在で、貴女を救う為に来ました」
「何故、わたしなんかを?」
「貴女に頼みたい事があります。それは貴女にしか、出来ない事です。意識ははっきりしていますか?」
ライアは安心しきって若干夢心地になっていたが、一度目を見開いて何回か瞬きをした。
「大丈夫です」
「そうですか、良かった。ではお話しますね。貴女は、とても過酷な運命を背負っています。しかしそれに耐え、立ち向かう事で必ず生き残り、幸せを掴む事が出来るでしょう。それはこのディルジアを救う事によって成しえます。おわかり頂けますか」
ライアにはディルジアを救う、という言葉の意味は解らなかった。
幼い頃家庭教師から習ったディルジアとは、海に囲まれた唯一の大陸であったはずだ。
「世界を救え……という事ですか?」
ライアは漠然としたディルジアの印象を、言い換えれて聞いた。
「端的に言えばそうなります。正確には貴女の資質……力が、このディルジアの未来には欠かせないのです。救うと言われてもよくわからないと思いますが、難しく考える事はありません。辛い事があっても前に進む気持ちを忘れず、歩み続けて下さい」
「……はい、解りました」
善神とは、大戦期に聖人と讃えられた者達の事で、劣勢に立たされていたロレンティスを救ったとされるレイナルドの他、二人から成る三神の総称である。その為、具体的に誰かは判らない。
ロレンティスの民は皆、食事の前に必ずレイナルド・オリヴィエに祈りを捧げている通り、オリヴィエ教を信仰している。
その事からフランクリン邸にもレイナルドの肖像画が飾られており、ライアそれを普段から目にしている。
目の前の相手がその絵に似ていたからというのが、初対面でありながら信じた理由だ。
そして浮遊感のある頭で深く考える事も出来ぬまま、神が言うのだからそうするべきなのだとライアは思った。
「貴女はまだ魔物に囲まれています。私が直接干渉する事は出来ないのですが、貴女は必ず助かります。傷は癒しておきましたので、体を起こして下さい」
ライアがレイナルドに言われ上半身を起こすと、周囲の光が薄れて畑と森が見え始めた。そして今にも飛び掛かって来そうな魔物も。
それを見てライアは思わず身構えたが、リザードはぴくりとも動かなかった。
「私がここに居られるのもあと僅かになりましたが、大丈夫ですよ。貴女のお母様が退けて下さいます」
レイナルドはそう言って、屋敷の正面玄関の方を見た。
ライアが釣られてそちらを向くと、その角からハウンドに乗ったヒルダが現れて、ライアの隣で停止した。
「ご無沙汰しております、ヒルダ・フランクリン女史」
「娘をお救い下さり、感謝の極みです」
「貴女は立派に使命を果たしてくれましたから」
「私には勿体無いお言葉です」
ヒルダがハウンドから降りて深々と礼をすると、レイナルドはライアに向き直った。
「ライアさん。貴女はまず、バリエントグラム王国へ向かい、金属変成術士のライセンスを手にするのです。さすれば新たな運命の歯車が回り始めるでしょう」
「新たな運命……」
ライアはレイナルドの言葉をそのまま反芻した。そしてその言葉を、下級使用人という立場から抜け出せると言う意味だと解釈した。
「それでは、ディルジアの未来をよろしくお願いします」
ヒルダが再び礼をすると、レイナルドは笑顔を残して空気に溶けるように消えていった。
「うわっ!?」
それと同時にリザードが動き出して、ライアは咄嗟に体を縮めた。
ヒルダはライアの背後に居たリザードに向かって、右手で抜いたステッキを突き付けた。
その先から水が高速で噴出し、軽く触れただけでリザードは真っ二つになった。
続けてライアの正面に居た大き目なリザードも、左手のステッキから出した水の剣で容易く両断した。
斬られた二匹に続いていた残りのリザード達はその光景を目の当たりにすると、即座に反転して森の中へ蜘蛛の子を散らすように消えて行った。
その光景を見てライアは生還した事を実感し、目に涙を溜めながらヒルダの方を向いた。
「この様な下等な魔物に対して遅れを取るとは何事ですか。まぁ……酷い格好ですが、無事なら何よりです。風呂を用意させますから、浴びていらっしゃい」
ライアはヒルダが差し出した手を借り、ゆっくりと立ち上がった。
久々にヒルダの温もりを感じたライアは、手を繋いだままヒルダの隣を歩き出した。




