一章 七話
ライアはフランクリン邸の裏手に来ていた。
目の前にあるのは木造の古びた物置小屋で、普段あまり使われない類の道具が置かれている。
屋根の一部は腐っており、雨漏りした箇所の床が脆くなっていた。客人の目に留まらない所には金を使わないというのも貴族が貴族であり続ける為の秘訣だ。
壁には釘が何本も打ち込まれていて、持ち手が非常に長い鋏や柵を作る時に使う滑車、ロープ、先端が鉄で補強された杭などが掛けられていた。
ライアが雑然とした庫内に視線を漂わせてしばらくして、やっとの事で目的のものを見つける事が出来た。
刃渡り四十センチの大振りな鉈、マチェテだ。細い枝を落としたり雑草を切り払う為の道具なのだが、屋敷の周囲はしっかり管理されている為、今は殆ど使われていない。
ライアはマチェテを革製の鞘から抜いて状態を確認した。片付ける時にしっかりと手入れがされており、刃は輝いて見えた。新品同様である。
ライアは庭仕事をしていた時のようにドレスの裾を上げ、しっかりとベルトで固定した。
そして足を何度か上げて落ちないか確認し、撓んでいたソックスも上まで上げた。
続いて水瓶の首の部分にロープを縛り付けて背負えるようにし、それを身体に回して固定すると、準備が出来た事を再確認してゆっくりと歩き出す。
しかし整備された庭を抜け、森の入り口まで来たところで足が止まった。
魔物を見た事すら無いライアは、免罪符も持たない自分が有り合わせの装備で危険地帯に赴かなければならない事態に、やるせない気持ちになる。
ライアは左手に持ったマチェテの鞘をギュッと握り締め、同行者を探す方法を考えたが思い当たらずに断念した。
今はフランクリン家の者と、戦闘が可能な使用人達は出払っている。
それにフランクリン邸の周辺警備を担当している聖十字騎士団の見習い騎士達も一部は救援活動に出ており、今は最低限の警備要員しか残っていない筈だ。
ライアは続けてこの後の展開を考えた。
上級貴族の娘でありながら、下級使用人でもあるという立場は複雑だ。
ライアが幼い頃には〝お嬢様〟と言って笑顔の仮面を被っていた者も、使用人という同じ土俵において自分より立場が下になった途端、無理難題を強いるようになった。
しかし元を辿れば法術の上達が著しく遅かった、あるいは才能が無かった自分の不出来さが原因だ。それを思うと、ライアは溜息をつかずにはいられなかった。
もしも水汲みに行かなかった場合、家政婦長から厳しい罰を受けるだろう。
それを回避する為に最大の権力を持つヒルダに相談する手もあるにはあるのだが、どうせ言っても無駄だろうとライアは決め付けていた。家政婦長とは仲が良さそうに見えるし、何より自分の言葉を信じるとは思えなかったからだ。
ツェーザルに言えば料理長に真偽を確認した後、家政婦長は早々に暇を申し渡されるだろう。だがそうなった時、他の女中が今よりも更に巧妙な手口で嫌がらせをしてくるようになる事は容易に想像出来た。
元はと言えば中流階級出身の女中が、上流階級であるフランクリン家の者へ仕える事が屈辱であるという理由でライアへの嫌がらせを始めたのが切っ掛けである。
職を失うリスクを背負いながらもこれが続けられている理由は、ライアは気弱だから大丈夫という漠然とした余裕と、自分が標的になるのではという恐れから「やめよう」と言い出せる者が居なくなった為だ。まさに集団心理の典型例と言える。
ライアは結局どう転んでもいい結果にはならないし、さっさと水汲みを終わらせてしまおう。という結論を――とても納得は出来なかったが――出した。
その時、ライアの頭の中で「必ず遭遇するとは限らないでしょう?」という家政婦長の言葉が響き、薄ら笑いを浮かべて森に入って行った。雑役女中としての生活から解放されるなら、万が一の事があってもいいじゃないか、という発想からだ。
しかししばらく歩いていると、時折虫や鳥の鳴き声や草木が揺れる音が耳に届き、ライアはその都度そちらを警戒し、立ち止まってしまった。やっぱり怖いんじゃないか、と情けない気持ちになった。
今度はこう考える事にした。昨晩はあのツェーザルと互角に打ち合ったのだから、訓練通りにやれば死ぬ事は無いと。
足元の土は柔らかく踏み心地こそいいが、いざ走らなければならない状況に陥った時に足を取られてはかなわない。時々盛り上がっている所を見つけては、足場を何度も踏み固めた。邪魔になる背の高い草を、右手で抜いたマチェテで左右に切り払いながら進む。
ふと視線を上げると、蝶が木々の間を飛んでいるのが見えた。
ライアの瞳と同じ藍色の羽を持っており、羽ばたく度に鱗粉がこぼれ落ちる。
木々の隙間から差す日差しに照らされて輝くそれは、ぞっとする程に美しい。しばらく頭上を飛んだ後、視界から消えていった。
ライアは蝶を見送った後、再び道なき道を進むと、川の流れる音が耳に届いた。
ロレンティスの川は精霊に清められていて、魔物が近付かないとレオナから聞いていたライアは、ほっとして笑顔を浮かべた。
マチェテを鞘に収めてベルトに挟むと、背負っていた水瓶を両手で抱え直し、川辺まで走った。
水瓶を運べる限界の重さになるまで満たし、ついでに貼り付く程に乾いていた喉を潤す。
両手で髪を抑えて顔を直接川に突っ込み、ゴクゴクと喉を鳴らし、暑さと緊張で流れた汗の分をしっかりと補給したライアは、疲れて帰ってくるツェーザルとリディ、レオナを玄関で一番最初に笑顔で出迎えなければと、息つく暇も無く帰路を急いだ。
ライアはそう思うと気力が湧いてきた。大好きな姉に元気な顔を見せなければ。それには何としても怪我無く帰らなければならない。
気を引き締めて歩を進め、道の中程に差し掛かった辺りで、また蝶を発見した。ライアの頭から三メートル程上をひらひらと飛行している。
ライアは右へ左へと優雅に飛び回るその姿に思わず目を奪われた。目と鼻の先に舞う、きめ細かな鱗粉もその動きに釣られて四方八方に散っていく。
その様はとてもこの世の物とは思えず、ライアは次第に夢を見ているのではないかと疑い始めていた。
全身の力が徐々に抜け、突然膝がカクンと折れる。水瓶の重さに負け、バランスを崩した。踏ん張ろうと前に手を伸ばしたが間に合わず、思わず掴んだ草が千切れた。右へ左へよろよろと後退し、背中から倒れる。そのまま硬い木の根に衝突した。
陶磁器の水瓶が大きな音を立てて割れる。中の水を大胆にぶちまけ、ライアは水と土にまみれた。破片が当たった背中と後頭部に血が滲んだ。
ライアは声にならない叫びを上げながらも、あまりの出来事に身体を動かす事は叶わなかった。気が動転して何が起こったのか判らなくなっていた。今は頭と背中が痛いという事以外に意識は行かない。
ライアは体を丸めて横向きにうずくまっていると、突然虚しさに襲われて涙が溢れ出した。
家政婦長や先輩女中に未経験の仕事を押し付けられ、失敗すれば執拗な折檻にさらされる日々。食事を抜かれ、寄って集って箒で全身を叩かれたり、水の入った桶に無理矢理顔を押し付けられた事もあった。
ライアはこんな最下級の雑役女中であり続ける自分の将来を思うと、全てが嫌になった。
ここならば人目につかない。そう思うともはや涙を止める事はできなかった。
ライアはこれでもかとしゃくりあげながら、全力で泣いた。みっともないと思う余裕も無く目一杯声を上げ、赤子の時よりも更に激しく、胸の中に溜め込んで誰にも言えなかったやりきれない思いをぶつけるかのように。
何かに追いすがるようにライアが目の前にある無数の雑草を両手でまとめて掴むと、あるものは簡単に千切れ、あるものは地面から抜けた。手に残った草を放り投げ、また他の草を掴んだ。
可能ならば姉の手を握りたいとライアは思った。レオナなら何も言わず、悲しそうな笑顔を向けて手を握り返してくれるはずだ。リディなら慰めの言葉を掛けながら抱きしめてくれるだろう。
十分程そうしていただろうか。今までの鬱憤を思う存分吐き出して落ち着きを取り戻したライアは、のそりと体を起こして顔に着いた泥を手の甲で払った。
可能ならば今すぐにでも水を浴びたかったが、嫌という程浴びた後だったとライアは思い直して苦笑した。
気が緩んだ時が一番危険だ。それはツェーザルに良く聞かされた事だ。
ライアがそれを思い出した時、微かだが遠くから音が聴こえてきた。マチェテを抜き放ち、後ろを振り向く。
ライアは自分を浮き沈みの激しい性格だとは理解しているつもりだった。
だがまさか姉の膝で甘えたいという願望を胸に、魔物との戦いを決意する程単純で、滑稽な思考の持ち主であったとは知らなかったが、ちょっとした事でポジティブになれるのはツェーザルの血を継いだせいだろうかと思うと、つい納得してしまった。
五メートル程先の草むらから現れたそれは、大きな黒い塊だった。蟻の魔物、アントである。
虫としての蟻ならばライアは畑仕事中に嫌という程見ているが、当然この大きさは初めてである。
「はは、は……」
何の冗談かと、ライアは込み上げてきた笑いをそのまま吐き出した。
後退る様にじりじりと、家に向かって下がり始めたが、ライアの腰は引けていた。
この時、ライアは本能によって死の恐怖を理解させられた。目の前の怪物は、確実に自分を殺しに来ると。
辛うじて百五十センチメートルに届くかというライアの身長の、半分近い高さを持つ生き物だ。その迫力は想像を絶するものがある。
初めて魔物を目の当たりにしてライアが感じたのは、生きて帰りたいという強い気持ちだった。
群れから逸れた個体なのだろうか。ライアは目の前に居るアントの匂いを嗅ぎ分けようと、必死に鼻を動かした。そして土の匂いに微かに刺激臭が交じっている事に気付く。
蟻が餌場まで行列を作るのは、分泌するフェロモンが道標になっているのだとホルストに聞いた事があった。この森で生活していて一度も嗅いだ事が無い匂いである為、その可能性が高いと判断する。そして周囲に同じ匂いがしないか確認したが、幸いにもそれは感じられなかった。
一対一は気迫で負けたら終わりだ、ツェーザルはそう言っていた。
ライアは突き出した右手で持つマチェテの峰に左手を添え、相手を睨みながら攻撃手段を推測する。
物欲しそうに左右に開閉する顎、それに鋭い爪が生えた六本の足が主な武器になるだろう。
触覚に攻撃能力は無さそうだが、武器に絡み付かれたら厄介そうだ。
それに甲殻の強度が解らなかった。突く事が出来ないマチェテでは不安がある。
距離にして五メートル。ライアは先手必勝とばかりに口を開いた。
「戦女神よ、我と契りを交わせ」
ライアが声を出すと、アントは一声鳴いて飛び掛かった。
「鋼の誓約! スティレットランツェ!」
マチェテを十字架の先端を尖らせたような刺突専用の短剣に変え、先端を引き伸ばした。
リーチこそ短いがレイピアによる攻撃と似ており、目論見通りそれは相手の右目を貫いた。
苦悶の声を漏らすアントに追い打ちを掛けるべくライアは力を込めたが、それ以上深く突き入れる事は出来なかった。
ライアは一度それを抜き、顔面目掛けて再び突きを放ったが硬い甲殻に阻まれてしまった。
内部を空洞にする事で不足した金属量を補いリーチを確保したものの、重量バランスが均一になっており思う様に攻撃が通らないのだ。
次の瞬間、アントは強引に距離を詰めた。片目をやられたと言うのに何という気迫だろうか。
ライアは突進を避けて相手の右側面に回り込みながら武器をマチェテに戻し、がら空きの後ろ足へ向かって振り下ろした。
それは思いの外脆く、簡単に切り落とす事が出来た。
アントはその場で五本になった足を動かしライアの方ヘ向き直ると、姿勢を低くして顎を打ち鳴らした。
右目と足から透明の体液を流しながら威嚇するアントに、ライアは生存本能というものを見た。
傷付いても立ち上がらなければ、辛い思いをして生きてきた甲斐がないではないか。
ライアは先程軽い気持ちで死んでしまっても構わないと思った、その時の自分の顔面を思い切り引っ叩いてやりたい衝動に駆られた。
何としても生きて帰ろう。ライアは再び固く決意して相手と距離を取ると、アントが動き出したのを見計らい、ドレスの裾を翻して左に体を振った。
単純な動きだった。ツェーザルの剣を避ける事に比べれば造作も無い事である。
ビリッ、ビッ
二本目の足を目掛け、マチェテを振り下ろした瞬間、服ごと体が引かれた。アントの前足が裾を踏み付け、爪が引っ掛かったのだ。
相手の旋回に合わせて回るスカートに足を取られ、ライアは思わず目の前にあったアントの足を左手で掴んだ。
倒れながら握ったそれにマチェテを叩き付けると、支えを失って切断した足ごと土の上を転がった。
ライアは反射的に体を起こし、手に持ったままだったアントの足を見て、気持ち悪そうな顔をして投げ捨てた。
そしてアントの足はとうとう四本になった。片側が一本である為、まともに自分の体を支える事が出来ず、地面に腹を付けている。
ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返すライアは水と土に塗れた上に魔物の体液まで浴びて、惨憺たる有り様ではあるものの、口の端を上げて笑っていた。
ライアはゆっくりとアントに近付く。距離が縮まるごとに、息はどんどん荒くなっていった。
「死ね……死ね!」
残りの四本の足を切り落とした。
そして尻と胴体の繋ぎ目にマチェテを何度も振り下ろし、切り落とした所でアントは絶命したが、ライアは、続けて胴体と頭の繋ぎ目にマチェテを叩き込んだ。何度も何度も、恍惚とした表情で。
そしてしばらくライアはバラバラになったアントを涙目になりながら見下ろしていたが、興奮のあまり過呼吸で酸素が不足し、意識が朦朧とすると同時に込み上げて来た吐き気に任せて胃の中身をぶちまけた。
嗚咽する様に苦しそうな声を上げた後、汚れきったドレスの袖で口元を拭った。
ライアは自分の体が自分の物で無くなる感覚に襲われていた。
アントに噛まれたりはしていないはずだ。頭を打った上に動き回ったからだろうか。それとも蝶の粉を浴びたせいだろうか。
答えを導き出すより前に、更なる身の危険を知らせる警報がライアの耳に届いた。ガサガサと草を掻き分ける音である。
それも数が多かった。一匹の顎を警戒するだけでもかなり苦戦したのに、二匹以上を相手にする事はとても想像出来なかった。
ライアは相手の姿を確認する事もせず、一目散に帰路を走り出した。