一章 六話
ライアは住み慣れた屋敷の階段を駆け降り、通り掛かった自室に飛び込んでお茶のセットをキャビネットに置いた。
そして再び廊下を走りエントランスホールに辿り着くと、そこで装備を整えた数人の使用人に囲まれたヒルダを見つけた。
「お母様っ、お話が」
使用人達に指示を出し終え、出発しようとしたところで呼び止める事が出来たライアは、一階への長い階段を二段飛ばしで降り切ると、ぜぇぜぇと肩で喘ぎながら次の言葉を絞り出そうと息を吸い込んだ。
「何です? こうして時間を浪費する事で人が死ぬかもしれないのですよ。それでも、話す必要のある事なのかしら?」
ライアは本当ならばヒルダ以外の肉親に声を掛けたかったのだが、三人は自分の準備や使用人達への伝令で出払っているはずで、今現在どこに居るかは見当が付きにくい。
ヒルダはこういった時には必ず取りまとめ役として玄関口に居る事から、止むを得ず頼ったのだ。
もしかすると魔物に襲われて死んでしまうかもしれない。そう思い、それこそ死ぬ気で走った結果にしてこの仕打ちである。
人命は大事だが自分の事も、少しだけでも見てはくれないのだろうか。そう思わずにいられなかった。
「……おかしな娘ですね。では、私は急ぎますので」
ヒルダは踵を返し、早足で外へ向かって行った。
しばらくしてヒルダが振り返った時も、ライアは棒立ちで居た。
ヒルダは少しだけその様子を見ていたが、眉間に皺を寄せ、目的地とライアの方を交互に見て、迷うような素振りを見せた。
「ハドレー、ライアが外に出るようならば教えに来なさい」
屋敷の屋根に向かって指示を出すと、ヒルダの使い魔がカーと一声鳴いて降りてきた。
翼を目一杯広げても三十センチメートル程の小柄なカラスで、くちばしから尾羽根の先まで見事なまでに黒一色である。
「奥様、ハウンドキャリッジの用意が整いました」
執事に呼ばれたヒルダはハドレーを空に放って客車に乗り込むと、二匹のハウンドがそれを引いて走り出した。
何も告げる事が出来なかったライアは階段に腰掛けると、この後どうすればいいのかを考えていた。
表情とは違い頭は回っており、答えはすぐに出た。
一先ず食器を洗おうと自室に寄ってからキッチンへ向かう。ホールの裏手から直接入って、そこの流しでカップを洗い始めた。
家政婦が言った通り水瓶の残りはかなり少なかった。ここまで減っているのは本来ありえない事だ。遅くとも一昨日には料理長が追加の水を要求している筈である。
その要求先は衣食住に関わる多くの仕事と、それに携わる人員を管理する立場にある家政婦長に他ならない。すなわち自分のミスを隠し、ライアに尻拭いをさせるつもりなのだ。
ライアは憤りを覚えながら洗い物を続けた。
救援要請があったエルムの森はローズウッドの森と比べて更に木々が多く、暗い森である。
足元に敷き詰められたように生えた草は、日の光が当たりにくい為に全体的に背が低い。そしてそれらの大半は真っ青な色合いをしていた。
常識から外れた異様な色彩の森だが、目にした者に抱かせる印象は意外にも幻想的である。
途中まで乗っていたハウンドキャリッジは道が険しくなると小回りが効かなくなる為に途中迄で待たせており、残りの道を徒歩で進んでいた。
救援に当たり、フランクリン家はいつものチームを編成した。
ツェーザル、リディ、ヒルダの討伐チームは人数こそ少ないものの、対魔物戦闘において高い実績を上げている。
八人の使用人から成る警戒チームは、単純な戦闘能力こそ討伐チームに劣るものの良く訓練されており、執事の優れた指揮の下で様々な状況に対応出来る組織力がある。
レオナにフォルクハルトと、その同僚三名で構成された救援チームは治癒法術に長けた者が多く、怪我人の治療で高い成果を発揮する。
魔物は目標を定めると、周辺の個体同士が集まって一時的な群れを形成する性質があり、何陣かに別れて襲撃を行う。
狼煙が上げられたのはターホルツという六世帯が暮らす小さな集落で、第二波が予想される、もしくは第二波が来た場合は持ち堪えられない状況であるとヒルダは予想していた。
ターホルツは連なった巨木に囲まれ、狭い出入口が一箇所だけという変わった地形であり、出入口に攻め込まれると中にいる者達の救出は困難になる為、その死守に最も人数の多い警戒チームを配置する事となった。
集落の中に入り、怪我人の治療に当たるのが救援チームで、主に魔物との戦闘を行うのが討伐チームである。
作戦と装備、人員。全てにおいて無理は無く、完遂が予想された。
討伐チームの先頭を行くのはツェーザルだ。続いてリディ、ヒルダと並んでいる。
薄暗いながらも、周囲にはランプ草と呼ばれる黄色く輝く草が点々と生えており、今はそれを目印に移動していた。
ツェーザルは胸、手、脚を防御するスチール製のプレートアーマーを装着している。右手には得意のサーブル、左手には逆三角形の盾、カイトシールドを持っている。
リディは朝食の時と変わらぬ格好だが、ロッドを右手に持っている。それは艶のある紫掛かった赤茶色をしており、両端が金属で補強されていた。長さは百八十センチメートルにも及び、鈍く先端が尖ったそれは、遠くから見ると槍と誤認しそうな外観である。
ヒルダも着替えてはいないが、右手には焦茶色のステッキを、左の腰にはもう白茶色のステッキをもう一本吊っていた。どちらも長さ六十センチメートルの棒状で、若干先端が細くなっているだけの至ってシンプルな作りだ。
リディとヒルダが法術に用いる道具は全て、ロレンティスの森から切り出された精霊が好む木材で出来ていた。ロッドはローズウッド、ステッキはエボニーとサンダルウッドで、何れも釘を打ち込む事すら困難な程に高い硬度を有している。
到着してから三十分が経過し、リディは本当に魔物が出たのだろうかという疑いを持ち始めていた。
周囲を警戒しながら最前列を進んでいたツェーザルは、家族を守る立場の自分が気が抜く訳にはいかないと緊張感を保ち続けている。
「キキーキーキ、キキーキーキ」
ツェーザルは頭上に現れた生き物を鋭く睨み付けたが、リディに肩を掴まれ反射的に後ろを振り返った。
「あたしのピスティスに殺意を向けないでよね……怖がってるじゃないの」
「いやぁ、すまんすまん、つい癖でな。ハハハ」
「魔物を見つけたって言ってるわ」
頭を掻きながら笑って誤魔化そうとするツェーザルを無視し、リディはピスティスが戻って来た方向を指差して言った。
その先で黒い何かが蠢いているのが分かった。
ヒルダは右手に持っていたステッキの先に火を灯し、それを暗闇に向けた。するとそれは徐々に大きくなり、眩い炎となった。
それは、付近の木々から垂れ下がる蔓に引火しない精霊の炎で、簡単な法術の為に詠唱は省略したが火の精霊との契約は完了していた。
「アントの群れだな。少なくとも三十匹は居るか」
ツェーザルは目を凝らして言った。
アントとは体高七十センチメートル程、六本の足に長い触覚と、鉄をも噛み砕く強靭な顎を有する蟻の魔物である。
通常、魔物の相手は一匹に対して剣と盾を装備した一般の兵士が三人掛かりで当たるのが普通である。ロレンティスの場合、各森に配置された自警団の前衛一人と法術士一人でも二匹の相手が限度と言われているが、三人は微動だもせずに様子を伺っていた。
次第に大きくなる黒い影をしばらく見ていると、草を掻き分ける無数の足音が聞こえて来た。
木々の間を縫うように移動し、こちらへ近付いている。あの黒い波に呑まれたら、二度と陽の光を見る事は叶わないだろう。
「リディ、やれるか?」
ツェーザルが盾を構え、後ろを振り向かずに聞いた。
「水の精霊よ。我許に下り、その力を示せ」
リディは詠唱する事で肯定した。右手に持ったロッドを地面に立て、精神を集中させる。
「全てを洗う、猛き水よ。氷柱の牙を研ぎ澄まし、彼の者を凍て、貫け!」
ロッドの頭に左手を翳すと、そこに旋風が巻き起こった。
リディは更に集中力を高めて空気中の水蒸気を氷結させると、鋭利な尖端を持った雹を大量に生成し、連続的に放った。
輝く氷の刃が吹雪の様に迫るアントの群れに降り注ぎ、無数の風穴を作った。触覚を千切り、足を飛ばし、次々と行動不能に陥らせる。
凄まじい弾幕に体を縮める個体が多数だが、それを掻い潜った無傷の七匹は残り二十メートルを残す距離にまで近づいていた。凶悪な顎がこの身に届くまで、もはや十秒の猶予もない。時間にすると一見長く感じるが、詠唱を伴う法術戦においてはこれでもギリギリの判断である。
「よくやった! 下がるんだ」
ツェーザルの指示でリディは法術の展開を止め、後ろに下がった。そして少し億劫そうに、ロッドに体重を預ける。
照明係を担っていたヒルダが入れ替わりで前に出て、左の腰に吊っていたもう一本のステッキを取った。
「此方の血を以って更に命ずる。馬と守護の神よ、 守護神たる由縁、存分に体現して見せよ!」
ヒルダが法術の込められたステッキをツェーザルのカイトシールドに振り翳すと、防面に法陣が浮かび上がる。
薄紫色に輝くそれは、薔薇に彩られた盾の中に交差した剣と十字架が描かれた、守護神の紋章だ。
「よぉし!」
気合を入れて腰を落としたツェーザルの背中を見ながら、ヒルダはゆっくりと左手を前に出し、展開のタイミングを見極める。
最前列を走るアントの顎がカイトシールドに衝突する寸前、法陣の輝きが増した。それは盾を延長するかのように広がり、ツェーザルの全身を隠す程に大きな障壁となった。
耳障りな金切り声を上げながらアントはそれを噛み切ろうと、左右に大きく開いた顎に力を込めるが破られる気配は微塵も無い。
一匹目を乗り越えるようにして突っ込んで来た二匹目も、そのすぐ隣から迫っていた三匹目も障壁に阻まれて進行が止まる。
ツェーザルは目の前に揺れる六本の触覚を、 手首を使って器用に操ったサーブルで簡単に切断した。
すると三匹のアント達は、方向感覚を失ってその場でぐるぐると回り始める。
無力化に成功したアントにツェーザルが止めを刺すと、残りの四匹はその死骸を踏み越えながら横並びで突進して来た。両端に居た二匹が手前で進路を変え、ツェーザルの左右から回り込もうとする。
ツェーザルは前方にカイトシールドを突き出して構え、右から迫る一匹を一太刀の下に斬り捨てた。
リディはロッドを両手で担ぐように振り上げ、ツェーザルの左から飛び出した。そして回り込もうとしたアントの脳天に渾身の力を込めて振り下ろす。
顎が届かない距離から殴られたアントは、頭部から透明の液体を吹き出して絶命した。
その時、リディの法術を警戒して遠くで様子を伺っていた他のアント達が一斉に、正面と左右、三方向に散って接近を始めた。
「二人共、大丈夫かい?」
ツェーザルは二人の方へ振り向いて言った。
「あなたはリディだけ心配して下さればいいのですよ」
言葉とは裏腹にまんざらでもなさそうで、ヒルダの口元は緩んでいる。
「アストラルを使い過ぎたみたい。ちょっと燃費が悪かったかしら……」
「結果的に何とかなったものの、やはり修行が足りていないようですね。弱点である水の精霊を選択したのはいいとしましょう。けれどもあの数に対して、範囲も狭ければ一撃も軽すぎます。見ていなさい、法術とはこう使うのですよ」
ヒルダは最前列に歩み出て炎を消すと、両手のステッキを交差させて構えた。
今度は同時に一二匹である。四体ずつに分かれ正面と左右四五度の三方向から迫るアント達は、目の前まで迫っていた。
「続けて風の精霊よ、此方の血を以って命ずる。汝は暗天に吹き荒ぶ力ある烈風。我は、神撃の魔女!」
突如凄まじい竜巻が前方に発生した、かのように見えた。
巻き込まれた筈の木々には一切の影響を及ぼさず、アントの群れだけを上下左右から吹き付ける猛烈な風で引き千切り、ねじ切り、切り裂き、あっという間にバラバラにしてしまった。
そして細かくなったアントだったものが竜巻に巻き上げられ、彼方へと飛ばされて行ったところで風は止んだ。
三人は念の為に周囲を警戒したが結果は見た通り、全員無傷で殲滅完了と断定出来た。
「火の精霊、馬と守護の神、風の精霊。我、汝等を隷下から解き放つ」
「水の精霊よ。我、汝との契約を破棄する……お疲れ様」
ヒルダに続いてリディも戦闘態勢を解いた。
一息付いてからヒルダは、したり顔でリディを振り返る。
「圧倒的な力でねじ伏せた……ように見えたかしら?」
「あたしが水の法術を使ったから水の精霊が〝場〟に現れて、水属性に強い風の精霊が力を持った。だから母さんは風属性を選択した」
「ご名答。解っているじゃないですか。弱点ばかりに気を取られて、次の法術に繋げる事を忘れてはなりませんよ」
「でも、別の精霊と契約するのには時間が掛かるし、その分父さんの負担が増えるわ。それなら水の精霊で少しでも数を減らした方が」
「迅速に殲滅出来るのであればそれでも構わないのよ。でも貴女はそれが出来なかった」
「……」
リディは反論出来ず、悔しさを胸に歯を食いしばった。
「一つの契約で一掃する。多重契約を習得する。前衛に頼って堅実に術を回す。やり方はいくらでもあります。何れにせよ、最終的に全員が無事に立っている事が出来れば構いません。しっかりと方向性を決めて突き詰めなさい」
「俺達が元気な内は、沢山失敗してくれて構わない。挑戦する事を恐れず、しっかり学ぶ気持ちを忘れないでいてくれるなら、親としてこれ以上、嬉しい事は無いんだからな」
ツェーザルはニカッと笑い、ヒルダが伝えたかった事を柔らかくして言い直した。
「うん、わかった」
家族水入らずの時に限って使うツェーザルの俺に、飾らず本心で言っている事を察し、リディも笑顔になった。
ヒルダも少しだけ表情を和らげたが、不意に上を向いて言った。
「あら、ハドレーが来ましたね」
視線の先、天蓋の様に広がった枝葉の小さな隙間からハドレーが飛び込んで来て、ヒルダのミニシルクハットに止まった。
「カッカーカッカーカー、カーカッ。カッカーカッカーカー、カーカッ」
ハドレーは甲高い声で「デ」と「タ」の符号を繰り返した。ライアが森の外に出た事を知らせに来たのだ。
「ふむ。私は先に戻ります。ターホルツでレオナ達と合流してから全員で戻って来て下さい。あとリディは使い魔を使ってここの自警団に、事は済んだと伝えなさい」
「はい。母さんも道中、念の為だけど気を付けて」
リディは手を振って言った。
ツェーザルはヘルムのバイザーを上げるように、右手をこめかみの当たりに翳す騎士流の敬礼で見送る。
ヒルダはハウンドキャリッジへ迎えに来させるよう、ハドレーに指示を出しながら歩き出した。