一章 五話
フランクリン邸の三階には東側にバルコニーが設けられている。
この階層は上級使用人以上の者が主に利用する空間だ。ライアは毎朝リディを起こしに来てはいるが、階段を上がってすぐの部屋までであった。奥に入るのは実に六年振りだ。
広さに対して利用者は少なく、未使用の部屋が多い。その為にどことなく漂って来る埃臭さと、葉巻の匂いが鼻に付いた。
ライアがドレスの裾を元に戻して階段を上がると、テオドールが迎えに来ていた。
「ライアお嬢様、こちらですよ」
テオドールに呼ばれて後に続き、角を曲がると二人の姉が笑顔で手を振っていた。
ライアはほんの少し下を向いた後、はにかんだ笑みを返す。
「お仕事お疲れ。今日はリラックス出来るお茶にしてみたのよ」
室外にも関わらず辺りにはいい香りが漂っていた。ライアが育てたハーブとレオナが汲んできた水でリディが入れたものだ。
「旦那様からお茶菓子を頂きました」
テオドールの後ろから茶菓子を運ん来た家政婦長が現れた。
トレーの上の皿にはクリームチーズがたっぷりと盛られたクラッカーが乗せられている。
「では、爺は席を外します。ご用命の際は、このハルモニアにお申し付け下さいませ」
そう言って礼をして、彼は通路の向こうへ消えていった。
家政婦も机の上に皿を並べた後、ビジネススマイルと共に深々と一礼した。去り際にリディとレオナには気付かれないよう、ライアを一睨みする置き土産も欠かさない。
テオドールが置いて行ったハルモニアとは、一本の羽根ペンの事で、ライアはお茶に手を付けず、それを物珍しそうに見ていた。
「どうしたの? そんなまじまじと」
リディは首を傾げながらクラッカーを一口齧り、幸せそうな笑顔を浮かべて伸びをした。
クラッカーに乗せられていたのはレモン風味のクリームで、リディの好物である。
座っているだけで汗を掻く時期だけに、すっきりと心地良い酸味がたまらない逸品だ。
そこへとても小さなコウモリがやって来て、リディの髪飾りに頭を下にして止まった。片手でも軽く包む事が出来る程小さく、ガラス玉のような綺麗な目をしていた。顔の形はハウンドに似ていて愛らしい。
二人の妹はそれに別段驚くでもなく、話を続けた。
「久しぶりに見たなぁって思って」
「テオドールさんの使い魔っておしゃれよね」
レオナは二つのクラッカーを手に取ると、一方をライアに渡した。遠慮しているのかと思っての、気遣いからだ。
「わたしにも法術が使えればなぁ」
ライアはレオナから受け取ったクラッカーを齧ってから言った。
「ファミリアなら、ライアにも使えるんじゃないかな?」
リディはレオナの方を向いて聞いた。
「そう……そうね。ライアのアストラル、前に比べてかなり増えてるみたいだし、出来るかもしれないわね」
「好きな動物とか、思い入れのある物って何かある?」
リディは今度はライアに話を振った。
「んー、剣とか、盾とか、割と好きよ」
にこにこと嬉しそうなライアは姉に期待の眼差しを送ったが、二人の表情は若干申し訳無さそうだ。
「重いのは駄目……かなぁ。欲を言えば元から飛行能力のある生き物がお勧めね」
レオナの反応に、ライアは難しい顔をした。
「テオドールさんのこの子は羽根ペンだから飛べるの?」
「羽根ペンだから、っていう訳じゃないけど、ハルモニアは使い魔としての効率は悪いのよ。飛べない物を主人のアストラルで無理矢理飛ばしてるって感じかな」
「でもハルモニアは軽いし負荷はそれ程でもないわ。剣や盾とはとても比べ物にはならないぐらいなのよ」
リディの答えにレオナが補足した。
しかし実際にやった事の無いライアにとって、どの程度の負荷が掛かるかは解らなかった。
「金属変成術で言うと?」
「私達は金属変成術が使えないから……少し難しいわね」
レオナの言葉を聞いて、ライアの耳が少しだけ垂れた。
リディはそれに気付き、ライアとの間にある確かな溝が更に深くなってしまうのでは、と不安に駆られた。
「ところで免罪符は貰えそう? 父さんがライアと打ち合ったら互角だったんだって、母さんに泣き付いたらしいじゃない」
リディが悪戯な笑みを浮かべながら言うと、レオナはその光景を想像してくすりと笑った。
「確かに随分と凛々しくなったものね。お父様を超える日は近そうだわ」
レオナの言う通りだった。見ず知らずの人間がライアを紹介されて、良家のお嬢様であると言われてもピンと来ないだろう。釣り上がった双眸から粗野な何かを感じる。
「ん……もう少し掛かるかな。父さんもいい歳なのに、剣術となると人が変わるから参っちゃうわよね」
三姉妹の中で免罪符を持たないのはライアだけだ。
ロレンティスの国民は食事の前に祈りを捧げていた、レイナルド・オリヴィエを主神としたオリヴィエ教を信仰している。
その教えの中で『例え相手が愚者であれ、手を差し伸べる気持ちを忘るべからず』というものがあった。
言い換えれば凶悪な魔物に対しても慈悲を与えるように、という事になる。
しかしオリヴィエ教は魔物が発見される以前に新興されており、この教えを守り続けたならばいずれロレンティスは崩壊してしまうだろう。
そこで教会が魔物の討伐許可証として〝免罪符〟を配るという手段を講じた結果、大抵の大人が所持する程に一般化したのである。
もはや子供から見た免罪符は大人の証、程度の位置付けでしかない。
しかしライアは自分だけが未だに子供扱いされるのは、免罪符を持っていないからだと思い込んでいた。
「私達後衛からすれば目を覆いたくなるような事を、前衛は当たり前の様に要求されるのよ。ライアの可愛い顔が傷付けられるのは見たくないもの。出来ればじっくりと、鍛錬に励んで欲しいかな」
「レオナお姉様……」
ライアは頬を染めた。
歳の離れたレオナはライアにとって、目標としている憧れのお姉様なのである。
その様子を見ていたリディは笑いを堪えた。おかわりを入れようとして手にしたティーポットが音を立てて揺れている。
「ちょっと何さ、初恋した乙女みた……いに」
リディは口を動かしながら異変に気付いた。ライアが訝しげな表情をして、すんすんと短く鼻を鳴らしていたからだ。
リディは反射的に視界を巡らせ、空を見た。
「なんか、焦げ臭くない?」
ライアの言葉を聞いてレオナも二人と同じ方向を見た。
三人の視線が集まるのは木々の更に上、青空を左右に分けるように灰色の筋が走っていた。
救援要請の狼煙である。
「流石に匂いは判らないなぁ。エルムの森の方角だけど、距離はわかる?」
「そうね……二キロ弱ってところかしら」
リディが聞くと、レオナは額に手をかざしてから目測で答えた。
「ハルモニア。エルムノモリ、ニキロ、ケムリ」
「ピスティス。父さんに伝えて」
ライアは羽ペン、リディは自身の使い魔に指示を出した。
「悪いけど、片付けお願いね」
「こっちまで来るかは分からないけど、外の仕事はお休みしなさいね」
カップの残りを飲み干して走りだしたリディにレオナが続いた。
「二人とも気を付けて!」
思わず声を張り上げたライアは訪れた静けさに寂しさを感じ、急いで後片付けを始めた。
ティーセットをトレーに乗せて廊下を歩き始めると、家政婦が二人とすれ違いざまに通路の角を曲がってきた。廊下の掃除をしていたようだが、左手にぶら下げている塵取りにはゴミを集めた形跡は無い。
「ライアさん、休憩は終わったのかしら?」
言葉尻に含みを感じ、ライアは露骨に嫌そうな顔をした。
「ええ、エルムの森で狼煙が上がっていました。残念ですが今日は、庭仕事は出来ませんね」
「あなた、剣の心得がありますよね? 台所女中の代わりに水を汲みに行って下さらないかしら。道具の持ち出し許可は私がいたします」
そう言って、腰の束から一本の鍵を抜いてトレーの上に置いた。
台所女中という事は料理用の水だ。魔物が出た時は本来、裏口の井戸から汲む決まりになっている。
「困ります。わたしはまだ免罪符を授かっていません。それに」
「たまたま持っていた道具でたまたま相手を殺めてしまった。正当防衛なのだから咎められる事はありません。それに、何です? 必ず遭遇するとは限らないでしょう? ほら、とっととお行きなさい。仕事なのですよ」
言うが早いか家政婦は自分の仕事に戻っていった。
ライアは彼女の正気を疑ったが追い掛けて文句を言う度胸も無く、同行してくれる人を探す為に玄関へ向かった。