二章 十話
ディルジア歴一七三年六月六日
ライセンス試験から二週間が経った頃、ルイーズの献身的な看病によりライアの傷はすっかり癒え、勉学に励むまでに回復していた。
試験の結果は合格で、ライアは療養中に発行されたライセンスを受け取ってはいたものの、ルイーズとコーディの勧めもあってアカデミーへの入学を希望するに至る。
ライアは本日講堂で行われる講義に参加すべく、今日も早めに席に付いていた。
試験の時に使った席でライアが予め資料に目を通していると、生徒達がバラバラと講堂に入って来る。
そして全員が席に着いた頃、講師が入ってきた。長身細身のヒューマン族で眼鏡を掛けており、知的な印象の女性である。
全員が着席して資料を開いたのを確認してから話し始める。
「おはようございます。本日はアストラルの基礎についての講義を行います。部屋を間違えている方は居ませんね?」
講師はしばらくしてから大きく頷いて続ける。
「皆さん、まずアストラルについては一度は耳にした事があるはずです。生き物は呼吸をして空気を取り込み、体内でエネルギーを作って動く事が出来るのですが……アストラルもその過程で作られます。よって、生き物が息をしている限りアストラルは生成され続ける訳です。アストラルは情緒体などとも呼ばれ、術者の精神状態、いわゆる感情の変化などにも影響されるという、不安定なエネルギーです」
言っている事はライアが眺めている資料の内容と相違無く、講義を受けている生徒達にとっては新しい発見も無い。
ただ実用性重視のツェーザルから指導を受けていただけに、ライアにとっては初めて学ぶ内容であった。
「アストラルの利用は人一人の力では出来ませんから、神や精霊との契約を行って代償……すなわちアストラルを捧げる事で対価を引き出す事になります……余談ですが、錬金術は神秘学に分類されてこそいますが、ある程度解明されてきた現在、実践課で利用される術はエネルギー変換の話になりますので、科学的な側面もあると考える事も出来ます」
余談、と前置きされた時点でライアはその話を聞き流しすように努めた。代わりに資料に目を通し、少しでも実用的な情報を探していく。
しかし資料の端々で習っていない字や聞いた事の無い単語を目にし、字面から意味を想像しながら何とか読み進める。
先日ルイーズの案内で各施設を見て回った際に大量の書籍が置かれていた図書室があったのを思い出し、この後立ち寄る事に決めた。
「では次に、実際に術を行使する時のアストラルの変換工程を解説致します。非常に簡単に言うと契約、同調、発動という工程を踏みます。これだけ聞いて、疑問が浮かんだ方は鋭いですね。術を行使するにあたり、実際は詠唱する必要はありません。しかし契句を詠んで契約する神や精霊に呼び掛けたり、行使する術をイメージして言葉にする事でアストラルを同調し易くすると同時に、自身の感情を煽る事でアストラルの変換効率を上げる事が可能な訳です。これを言霊効果と言います。個人差はありますが、自分のアストラルをいかにして使う術に同調させるかという問題ですので、発する言葉そのものに決まりはありません。長くなりましたが、解らないところがあれば質問を受け付けます」
資料には概ねこれらの事が詳細に書かれていたが、それとは別に生徒達はいくつか素朴な疑問を口にした。
「アストラルを使い果たした場合、どうなってしまうのですか?」
「睡眠中に呼吸を続ける為にアストラルが消費される事が知られています。意識がある時も心臓が鼓動したり、本人の意志に関わらずまばたきをしたり……そういった無意識的な身体の機能が停止しますので、心肺停止状態となって数分後には死亡してしまいます。よって術の行使にはアストラル残量に気を配る必要があります」
「アストラルを利用して物質を変化させる工程はどうなっているのですか?」
「この話は次回の講義でするつもりでしたが、軽く触れておきましょうか。全ての物質はエリクシールという設計図のようなものを持っています。外的要因で物質が形を変えるとエリクシールは書き換わって安定し、逆に、エリクシールを書き換えると形が変わるのです。このエリクシールを書き換える、という技術、その代表が金属変成術ですね。アストラルを対価に、エリクシールの書き換えを神に依頼すると言えば分かり易いでしょうか。神は万能ですが、人の発想には限界があります。発想力と想像力が豊かであり、依頼の仕方が上手な人がより複雑かつ精巧な形に作り替える事が出来る訳ですね」
この後もアストラルを捧げる対象である神の得意な分野について、法術と錬金術の各分野におけるアストラルの変換過程、アストラル備蓄量を増やす為の訓練方法についてなどの質問が続き、講義の時間はあっと言う間に終了する。
ライアは少しでも多く知識として吸収出来るよう、実践的か否か、理解出来たか出来なかったかを分けながらメモを取り続け、鐘が鳴った時には疲労感に襲われていた。
ライアは若干の眠気を感じていたが頭を振って意識を呼び戻し、他の生徒に続いて退出する。
先ほどの講義で理解に乏しかった部分の補習、並びに字の読み書きや各種単語の理解を深める必要性などを感じて図書室へ足を運んだ。
湿度が高く感じられる暗い室内。
照明の少なさのせいで奥まで見る事は出来ないが、足を踏み入れた時に鳴った足音からかなり広い奥行きである事が推測出来た。
床と本棚は全て黒塗りの木製で、壁は黒い石で出来ている。
入ってすぐカビと木の匂いに混じって、ハーブ類で作られた防虫ポプリのほんのりと甘い香りが漂って来た。
ライアが周囲を見回すと、入り口のすぐ左にあるワゴンの上に手燭――持ち歩き用の柄付き燭台――が置かれている事が分かる。
実家にあったような照明用魔道具の種火が小さく揺れており、ライアはそのコックを捻って火力を少し上げ、手燭を取って先端に灯した。今度は反対に捻って元の強さまで火を落とす。
そうしているうちに硬い革靴の音が室内に響く。
コツ、コツ、コツ。
規則正しいそれは、正面の本棚を迂回してやって来た。
「久し振りのお客さんかな」
白く長い髭を蓄え、白衣を身に纏ったドワーフ族の老書士である。
「こんにちは、講義で分からないところがあったので調べに来ました」
ライアがお辞儀をして挨拶すると、髭がふわりと持ち上がった。口元は隠れているが、微笑んでいるようだ。
「はいこんにちは……それは殊勝な心がけですなぁ。ここの利用方法はご存知かな?」
「いえ、初めてです。一度中を覗いた事はありましたが……とても読書をする明るさでは無いですね?」
「そうなのです。本を保存するのに最適な環境にしているので、その手燭で本を探さなければなりません」
「借りてから寄宿舎で読むのでしょうか?」
「ああ……それなら、読書用に別室がありますよ。先客がおられますが、静かな方ですので問題ありますまい……」
ライアは老書士の後に続いて図書室に隣接する部屋の扉の前まで案内された。
「こちらです」
ゆっくりと開かれたその先は、暗い部屋から移るにはいささか眩し過ぎる。
手燭を持っていない左手を目の前に翳して顔をしかめているライアの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「なんだ、講義が終わって真っ先にここに来るなんて殊勝な奴だな」
ルイーズがペンを片手にライアの方を振り返った。
六人程が座れる長机が二つという、保管されている本の数に見合わない広さの部屋でただ一人、分厚い本を何冊も積み上げて研究に励んでいたようだ。
「む、教授のお知り合いですか?」
老書士が尋ねると、ルイーズは「ああ」と短く同意を示す。
「なるほど、では私は仕事に戻ります……ここの利用の仕方、教えてあげて下さいませ」
「そうだな、っと……私が居るうちに食事でも行って来たらどうだ。これを片付けたら用事があるんだ。そうだな、二時間もかからないはずだ、その内にな」
「それでは、お言葉に甘えて」
「案内ありがとう御座いました」
礼をして去ろうとする老書士に、ライアが礼を言った。
「なんだ、講義で解らないところでもあったか?」
隣の席を示され、ライアはそちらに向かう。その足取りは若干上の空で、天井の方に視線を上げている。
「そうね、知りたい事が多すぎてどこから手を付けたらいいか……」
席に座ったライアはルイーズが積んでいる本の背表紙を眺め、難しい顔をした。
錬金術に関わる書物である事だけは分かるが、占いに関するタイトルも一部混じっている。
「何から手を付けたら、か。そうだな、この図書室を利用するのは初めてだろう。どんな本があるのか、ざっと眺めてきたらどうだ?」
「図書室の利用法、っていうのは?」
「ああ、それは借りる本が決まった時に説明しよう。足元が暗いから気を付けるようにな」
「わかった、行ってくるわね」
言われた通り本を眺める為にライアは席を立った。徐々にこの部屋の明るさに慣れてきた矢先に再び暗い部屋へ入ると、頭の芯が急に冷えたような、背筋がゾクリとする異様な感覚に襲われる。
何者かに導かれているのだろうかと思った瞬間、レイナルドの可能性を感じライアは足早に歩み出した。




