一章 弱者はただ生かされていた事を知る 一話 【挿絵あり】
ディルジア歴一七三年五月九日
ロレンティス共和国は、ディルジア大陸の南西にあった。
紀元前の大戦期に動植物との共存を好むエルフ族が集まって誕生した国であり、現在でもその割合は国民の九割を占める。
魔物が現れるまで、動物達の楽園と謳われていた自然国家である。
広大な森林地帯を有しており、明確な境界こそ設けられていないが便宜上〝森〟という単位で地域を区切っている。
その国の中程、ローズウッドの森と呼ばれる地域に一軒の家が建っていた。
大戦期に発生した『赤熱する森の戦い』によって、一時は火の海と化した古戦場跡であり周囲は広範囲に渡って開けている。
豪邸と言った方がより正確だろうか。煉瓦造りの堅固な建物で、緑に囲まれたこの地では異様なまでの存在感を誇示していた。
日の光を求めて上へ上へと伸びる枝葉のように、屋根から大小合わせて五本の煙突が伸びている。
陽が水平線を超えて登り始めた頃、ライアはそこの一室で目を覚ました。
体ごと右に向き、掛け布団を抱きしめた格好だ。髪は至る所が跳ねてまとまりが無く、寝間着は肌蹴ている。
しかめっ面で掴んでいた物をベッドの外に放り投げ、頭をガシガシと掻いた。
目覚めて一番最初に嗅いだのは土と花の香りだ。
それもそのはず。室内だというのに隅から隅まで植木鉢が並べられ、棚には土の付いた鋏や鎌など庭仕事用の道具が収まっている。床に敷き物は無く、天井や壁には灯りになる物は無い。キャビネットの上に置かれた燭台に狭いベッドに壁掛けの小さな鏡と、簡素なハンガーラックの他に生活感を感じられる物は見当たらない。
「うぅ……うー!」
ライアはうめき声を上げながら何度も寝返りを打った後、意を決して仰向けになり、両手を上げ、勢いをつけて上半身を起した。
目を擦りながら少しでも早く血が巡るよう、手足をばたばたと動かしてはみるものの、今にもまぶたが閉じてしまいそうだ。
ライアに好意を寄せるものがあれば、百年の恋であろうと冷めそうな程に酷い寝起きである。
それからしばらくの間、頭の中で睡魔と戦っていた。
投げ出された足は身長のわりにすらりと長く美しいが、肉付きが悪く色気は無い。
睡魔に負け掛けたところで激しく左右に首を振ると、尻に敷かれていた髪が突っ張って抜けた。
「痛ったぁ!?」
不意を突かれたライアは後頭部を押さえ、半べそをかいた。その時である。
コン、コン、コン。
三回のノックは家族や友人、恋人などの親しい間柄で使われるものだ。
規則正しいその音に反応してライアの耳が小さく跳ねた。
「ごきげんようライア。大丈夫? ベッドから落ちた?」
「ご、ごきげんようレオナ姉様。大丈夫。着替えるから先に行ってて」
「うん、わかった。昨晩は居ないみたいだったから、夕飯の後に本を持ってくるわね」
「うん、ありがとう」
返事をすると、ドア越しに聞こえる足音は遠ざかって行く。
ライアはそれを聞き、安心したように大きなため息を付いた後、裸足のままベッドを降りて着替えを始めようとした。
「ん?」
ふと視線の端に何かを捉えて振り返ると、普段机代わりに使っているキャビネットの上に水瓶とタオルが置かれている事に気付いた。昨夜は疲れて眠ってしまった為、ツェーザルが用意してくれたのだ。
昔はよく体を拭いて貰ったものだが、とうとうわたしを女として見るようになったかとライアは内心にやりとしながら服を脱いだ。しかし上半身も下半身も平面に近く、腰や腿は引き締まっているがそれなりに筋肉が付いており抱き心地はどちらかと言えば硬そうだ。女として、ではなく年齢を倫理的に判断したのだろうという事は容易に想像出来る。
立ったままぬるくなった水で体を拭いた後、紺色のドレスと白いエプロン、ソックスと手際良く着替え、両の太腿にベルトを留めた。鏡で身嗜みを確認してから革靴を履き、タオルを入れた水瓶を持って部屋を出た。
縁に金の糸で刺繍がされた毛足が長い赤色の絨毯を踏み締めながらエントランスホールまでの道を行く。廊下には早朝だというのに沢山の明かりが灯されていた。
ライアはただでさえ寝起きで不機嫌そうだった目を更に釣り上げた。前方から二人の女中が歩いてきたからだ。
フランクリン家の娘としてならば目下の相手だが、今のライアにとっては先輩である。
「おはようございます」
すれ違い様に出来るだけ明るく聞こえるように声を張って挨拶したが、二人はそれを無視して通り過ぎて行った。
「雑役女中のくせに、主人に起こされるなんてねぇ。これだから上流貴族様は」
一人がライアに届く声量で言った。
「違ッ……」
ライアは訂正しようと背後を振り向いたが、視線の先に居るはずだった二人は既に通路を曲がって見えなくなっていた。
「あははっ! ほんとよねぇ」
もう一人が笑いながら同意する声が、小さくもしっかりと聞こえた。
ライアは気持ちのやり場に困りながら、両手を胸の前で組んで俯いた。
しばらくして、一歩だけ前に進んでみたが、よくよく考えてやめた。
追いかけて文句を言おうものなら、他の使用人にある事ない事言い触らされるのが目に見えている。
ライアはエントランスホールの長い階段を下りて、目の前の大きなドアの前で立ち止まった。
ドアノッカーを鳴らせば、この重い扉を門衛が開けてくれるだろう。
しかしライアは、ちゃんと笑えるだろうか、と不安であった。
こういう時は指で口の端を上げて、無理矢理にでも笑顔を作るのが最善。と、一番上の姐から教わった事がある。
ライアはそれを実践し、ドアノッカーを鳴らした。するとすぐに、重い音を立ててドアが開いた。
それを開けたのは、ライアよりも耳の短いハーフエルフの青年、フォルクハルトである。
急所を最低限守れる程度の控え目な胸甲と手甲を着け、赤を基調とした騎士見習い用のコートを羽織っている。
爽やかな薄水色の髪をしていて、前髪は中心で丁寧に分けられていた。髪を伸ばせば女子に見間違えられそうな、端正な顔立ちの美青年である。
「おはようございます、ライア様。ご機嫌麗しゅ……くはないようですね。どうかなさいました?」
何故だろうか。ライアは思った。聡明な姉の教え通りにやったはずだ。こんなに早く気付かれるはずはない。
「ご、ごきげんよう、フォルクハルト様」
ライアはぎこちない笑顔で挨拶を返した。
「私の思い過ごしならばいいのですが、あまり自然に笑えていないように……感じまして」
フォルクハルトは言い辛そうに、鼻の頭を軽く掻いた。
ライアはそう言われて先程の事を思い出した。しかしここで愚痴を言えばフランクリン家の看板に泥を塗る事になりかねない。
フォルクハルトはツェーザルの紹介でここに務める事になった経緯がある為、ライアがフランクリン家の者である事を知っている可能性は高かった。
雇い主の娘が使用人として家に仕えている事が既におかしな話である上に、目下のはずの使用人達から虐げられていると知ればどう思われるだろうか。
「いえ、大丈夫です」
ライアは急に、にこやかな笑顔を作って言った。
フォルクハルトは顔見知りの相手であるが、客人に対して接していると思い込めば良かったのだと気付き、実践してみたのだ。ライアは自分の頭の単純さに感謝した。
「そう……ですか。詳しくは聞きません。ただ、何かあれば、遠慮無く私にご相談下さい。貴婦人に奉仕する事は、騎士の……騎士を目指す者の努め。父にそう言い聞かされて育ちましたから」
フォルクハルトは屈託の無い笑顔をライアに向けた。
ライアはフォルクハルトの顔を見て少しだけ頬を上気させたが、意識的に視線を逸らした。
その先には巨大な毛玉があった。赤茶色のもふもふである。それはこちらに背を向け、何かを貪っていた。
「アウリッシュ。こちらに来なさい」
フォルクハルトに呼ばれ、巨大な動物が重い足音を立てながら近付いて来ると主人の横に腰を下ろした。
ロレンティスでは良く見掛ける使役動物である、超大型犬のハウンドだ。
「ワンッ!」
アウリッシュは挨拶代わりに小さく吠えた。
「この子、なんだかいい匂いがするわ」
ライアはアウリッシュの頭を撫でながら言った。
「昨日騎士の仲間入りを果たしまして、儀礼の際に香水を付けたからでしょうね。アウリッシュ、だらしないぞ。しっかり挨拶なさい」
おとなしく頭を差し出していたアウリッシュだったが、名を呼ばれた途端姿勢を正して右前足を上げた。首に掛けられた銀の聖十字が胸元で揺れている。
「よろしくね、アウリッシュ」
ライアは微笑むと前脚の関節を掴んで握手を交わした。ハウンドは非常に爪が鋭い為、この様にするのが常識だ。そのズッシリと重い足は、フォルクハルトの上腕よりも太く、逞しい。
「やはり今の笑顔の方が、ライア様にはお似合いですよ」
「そ、そうですか……? わかりました」
フォルクハルトはにっこりと微笑んで、アウリッシュの背中に跨った。
「そろそろ時間ですかね」
フォルクハルトが空を見てから言った。
「お気を付けて」
ライアは頷き、軽く礼を交わして別れた。
フォルクハルトは哨戒に、ライアは庭の清掃に。仕事の時間だ。