二章 六話
バリエントグラム王国は大戦期から高い工業力を背景に専守防衛に努めている。ディルジアの中心に位置する関係上、他国からの侵攻を常に警戒しなければならなかったからだ。
そんなバリエントグラムが中立的立場を維持する為、自国民が信仰する神と他国民が持つ宗教観を内包した全く新しい宗教を興した。
ディルジアで信仰されている十二神の全てを信じる事が許され、誰を主神としても構わないという良く言えば寛容、悪く言えば中途半端な宗教であるが、ディルジア全土に信者を獲得している最大規模の宗教である。それがヘルメス正教だ。
ヘルメス正教の総本山、チェトリッチ大聖堂はグラム城から南下し、居住区に入ってすぐの所に存在する。
ルイーズが書いた地図を頼りにそこへ向かっていたライアも、商業区に入った時点で大きな鐘が吊るされた塔が見えた為に初めての王都を歩くにも関わらず、迷う事は無かった。
中に入ったライアは、幼い頃に行ったロレンティスの教会の三倍を超える広い敷地に思わず足を止める。
複数設けられた天窓から射す日差しが純白の床を光らせ、中央通路の左右には沢山の長椅子が並べられ、突き当たりには祭壇、その右には懺悔室が、左にはパイプオルガンが置かれている。
祭壇の後ろの壁には巨大なステンドグラスがあり、色とりどりの光が祭壇を照らしていた。
「わぁ……」
広い空間を前にライアが声を出すと、壁を支える無数の柱に反響した。
コツ、コツ、コツ。
レイナルドへ祈りへ捧げようと祭壇に向かうライアの足音がとても良く響き、それを聞きながらライアは不安に駆られた。実家に居た頃から人の気配がしない事の方が少なかった為、ライアは先程調理場で感じた不安を再び意識してしまったのだ。
宗教施設なだけに騒がしいとは思わなかったが、ヘルメス正教が所有する一番大きな施設だとルイーズから聞かされていただけにその想像との差は大きなものとなっていた。
広い上に物音一つ聞こえないこの空間に一種の異様さを覚え、ライアは人の存在を求めて懺悔室の前まで移動し、扉の前で立ち止まった。
そこは〝室〟と言っても別室に繋がっている訳では無く、二人が入る事の出来るようになってる木製の仕切り席になっている。正面から見て左右に扉があり、右に聖職者が、左に信者が入る事になっていて、内部は二人が座る椅子とその中央に衝立が設けられていた。衝立と言っても上下に張り出した板の間は開いており、覗き込めば相手の顔を見る事が可能な造りである。
ライアは左の扉の横にある柱を四回ノックした。
「どうぞお入り下さい」
人の声がして驚きと喜びを同時に感じたライアは懺悔室の扉を開けた。入って内側からそれを閉め、木の丸椅子に腰掛けると衝立越しに確かな息遣いを聞いてライアは安堵したような表情を浮かべた。
「マイナ・コレットと申します。司祭様はお出掛けになられていますので、助祭の手前でよろしければお伺いします」
マイナと名乗った女性は良く通る声で言った。凛とした響きだがライアのそれとはまた違った声色で、落ち着いた大人の女声である。
ライアはその声を聞いて格好いい人なんだろうな、とイメージを膨らませると、遠慮がちに衝立の間を覗き込む。
マイナの厚く柔らかそうな唇には紅が差されており、切れ長の目に高い鼻を見る事が出来た。その美しさに思わずライアは目を奪われた。
薄暗い仕切り席の中ではあるが藍色と白色の矢羽を並べた様な独特な柄の異国の服を着ている事が分かった。
「もし話し辛かったら……紙に書いて頂ければ後で読ませて頂きますよ?」
「あっいえ、ごめんなさい。実はこんなに大きな聖堂に入ったのは初めてなのですが、あまりにも静かなもので誰も居ないのかと思い、不安になってしまいまして……」
ライアが照れながら言うと、マイナは鼻からふっと短く息を吐いた。おかしくて笑ったのではなく、ライアの初々しさに微笑ましく思ったからだ。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ローズウッドの実り、ライア・フランクリンと申します」
ライアが衝立越しに頭を下げながら言うと、マイナはすぐにその意味を理解した。
「実り……ロレンティスから遥々《はるばる》いらしたのですね」
「はい、ライセンスを取りに来ました」
「なるほど。手前も母国を出て王都まで来ましたから……少しですがお気持ち、理解出来るかもしれません」
マイナの話を聞いたライアは嬉しくなり、ルイーズに相談出来ない事があればここに来ようと思った。
「マイナ様、ありがとうございます。実はルームメイトも出来たばかりなので少し不安でしたが、お陰様でなんだか気持ちが楽になりました」
「お力になれたようで良かったです。何かあればいつでも告白にいらして下さい」
ライアは礼を言って懺悔室の外に出る。
最初は人が居るのか確認したかったという動機ではあったが、マイナと話せた事で胸の内にあった嫌な気持ちはすっかり無くなり足取りは軽くなっていた。
短期間の内に御者の青年、ルイーズ、マイナと親切な人達に出会えた事は本当に運が良かったように感じられ、ライアはこの調子でライセンスもすぐ手に入るような気がしていた。
本来の目的であった祭壇の前まで行ってライアは立ち止まると、片膝を着いてしゃがむと顔の前で指を組んでから目を閉じた。
「レイナルド様、わたしは人を殺してしまいました」
ライアは眉間に皺を寄せた
「奴隷商人というものについて、わたしは良く知りません。けれども人生を狂わされた人が居たという話は疑いようが無い程で、わたしは沸き上がってくる気持ちが抑えられませんでした」
目を開けてライアは周囲を見た。レイナルドの姿は確認出来ず、目を閉じる。
「わたしが取った行動は私利私欲ではなく、父に教わった悪を挫く正義の鉄槌であったと考えています。それでも異端審問会に突き出す事が出来たならば、もしかしたら被害者の方々を救えたのではと思わずにはいられません」
再びライアは周囲を見たが、やはりレイナルドが現れる気配は無かった。
「ディータが穴掘りを手伝ってくれたので、埋葬は済ませてあります。捕まって使命を果たせなくなるなんて事……は無い筈です。レイナルド様のお名前において、お祈り致します」
ライアはルイーズにもマイナにも打ち明けられない罪を打ち明け、レイナルドに許されたいが為にここに来たのだがその望みは叶わなかった。
レイナルドが姿を現さないマイナが懺悔室に居るからだろうか。それともライセンスを取得しろという指示を達成していないからだろうか。その答えはライアには判らなかったが後者の可能性に賭けようと、明日の試験に向けて意気込みながら聖堂を後にした。