二章 四話
ディルジア歴一七三年五月一五日
旅立ってから二日目の夜、エメローンでディータと別れた後 ライアはハウンドキャリッジに乗り換えて防壁門を潜り、幾つかの集落を抜けて王都入りを果たしていた。
バリエントグラム王国は国土の全てを囲う長大な防壁に守られ、その中央にある城塞都市グラスバリー、通称王都には更にもう一周防壁が設けられている為にディルジア一安全な街であると人々に認知されている。
都市構造は十角形をしており、中心に聳え立つのは一平方キロメートルを超えるディルジア一巨大で難攻不落のグラム城だ。その外側に工業区、商業区、居住区と広がっている。
その商業区には石造りに赤い屋根で統一された家々が立ち並んだ舗装された石畳の街道が続き、とっくに日は落ちている時間帯にも関わらず沢山のスタンドが出ていた。花や雑貨、装飾品等を売る従業員達が声を張り上げている。
無数の街灯に照らされて街道を行くハウンドキャリッジは御者の他に最大で二十名が乗車可能な大型のものだが、今は最前列の右側に座るライアだけになっていた。
国境を超えて王都に入るまでの八時間、初めて見る外国を楽しみながら外を眺めていたのだが、見渡す限り人と人工物のこの国の景色に自然国家出身のライアは目を回していた。
「お客さん、観光ですか?」
御者台に座るヒューマン族の青年が上半身を右に回して言うと、頬杖をついていたライアは慌てて姿勢を正した。
「いえ、ライセンスを取りに……」
「へー、何を取得するんです?」
「錬金術師組合で取れる金属変成術士……あまり有名では無いと思いますが」
「専門職って憧れます。錬金術師組合かぁ……通り過ぎてますが、大丈夫。引き返しますよ」
「あ、ありがとう……」
ライアは申し訳ない気持ちになったがこの時間に知らない街を彷徨うのは不安だった為、甘える事にした。
「もっと早く聞けば良かったですね。ごめんなさい……」
「気にしないで下さい。これも仕事……なんて、普段はしませんがね。お客さんは僕の好みなので、特別です」
青年が笑顔で言うと、ライアは照れて視線を逸らした。
それを見た青年はニッと歯を見せて楽しそうに笑い、正面に向き直って手綱を引いた。
ハウンドキャリッジが二度右に曲がると、洒落たカフェにパブ、料理人組合が管理するレストランの他に軽食を販売するスタンドが並んだ大通りへ入る。
「バリエントグラムは初めてですよね?」
青年がまた振り向いて聞くと、ライアは同意を示した。
「この国は十六歳から酒が飲めるんですが、もし年齢が足りているなら是非一度、フローズンワインを飲んでみて下さい。シャーベット状になっているからこの時期は最高に美味いですよ。人工的に氷室を維持出来るのは王国の工業力あっての事ですからね。ここの名物なんです」
「機会があったら飲んでみますね」
ロレンティスでは二十歳から飲酒が許される事からライアは飲んだ事は無い。両親か酒好きで前々から興味はあったものの、一人で酒場に入るのは気が引けたので当たり障りの無い返事をした。
「良かったら奢りますよ。ちょっと待ってて下さい」
青年はライアの返事を待たずにハウンドキャリッジを路肩に止め、御者台から飛び降りた。
「皆、あと少しだけど一旦休憩にしよう」
御者台の脇から木箱と水袋を取るとハウンド達の前に出し、水を注いでから一番近くのパブへ飛び込んで行った。
あまりに楽しそうだった為に引き止める事が出来なかったライアは、彼はどうしてここまで自分に良くしてくれるのだろうかと疑問に思った。
先日の出来事があっただけに、行為を素直に受けていいのか、何か裏があるのではないだろうかと疑わずにはいられない自分に気付く。客車から見た街はあまりに人が多く、ライアは不安だった。
頼れる家族はここには居ないのだ。ライセンスを取りに来た事のあるリディとレオナに話を聞いてから出れば良かったと今更ながら後悔する。
何事も自分で解決しなければならないのだと意識すると、ライアは自然と鋭い目付きになっていた。
「あれ、お客さん?」
青年が戻って来て、客車のステップに乗って中を覗き込んだ。
「えっと……怒ってる?」
両手にジョッキを持って困った顔をしている青年と目が合っても、ライアは表情を変えずにいた。
それを見た青年はライアの予想に反して笑顔を返す。
「わかりますよ、初めて外国に来て気負わずにいられなくなる気持ち。僕もそうでしたから」
笑い掛けられたライアは目頭が熱くなると同時に、胸が高鳴るのを感じた。
青年は屈託の無い、本当にいい笑顔をしていてとても悪い人には見えない。それに暗くなっているとはいえ、周囲にまだ人は沢山歩いている。きっと安全だ。
そう思うと初めて飲むお酒への期待が大きくなり、ライアは勢い良く体を起こしてジョッキを受け取った。
「あ、ありがとう。ご馳走になります」
ライアは青年に頭を下げてからジョッキの匂いを軽く嗅いだ後、顔を顰めてそれを煽った。
「かんぱーって、あれ?」
ジョッキを打ち鳴らそうとした青年の手が空を切る。
「おお、いい飲みっぷりで」
関心したように青年は呟いて、自分の分を一口飲んだ。
「僕もここに来てからそんなに長くないけど、もし困ったら工業区のヴィクトール武具工房に居るから遠慮無く相談しに来……て?」
微笑みながら青年は言ったが、ライアの様子がおかしい事に気付いて勢いが無くなった。
ライアは目を閉じて手にしたジョッキをゆっくりと膝の上に下ろした後、頭を左右に揺らしながら静かになる。
青年は顔を近付けて頬の赤さを確認した。
「ぷっ、あはは! 一口で酔っちゃう人なんて初めて見たよ」
青年はジャケットを脱いでライアの肩に掛けると今にも落としそうなジョッキを回収して二杯とも飲み干し、ハウンド達に与えていた水を積み直してから再び街道を走り出した。
ディルジア歴一七三年五月一六日
バリエントグラム王国はディルジア大陸移動の中央に位置し四ヶ国に囲まれた工業国だ。
国土の北西に険しい山脈がある地域を除けば平野部が広がっている。
様々な職業の訓練及びライセンス発行を行う組合がある事で知られており、国民はドワーフ族が主だが中立である事から交易が盛んで他の種族も多く街で見掛ける事が出来る。
翌朝ライアが小鳥の囀りを聞いて目を覚まし、甘い匂いを感じて目を開けた。
「んなっ!?」
思わず声を上げて平坦な自分の胸元を見ると、そこには小さな頭があった。
それは小顔のライアよりも一回り小さく、青味掛かった黒髪からとてもいい匂いを漂わせている。
「ぐっ、ぬ……」
仰向けに寝ていたライアの左腕にしっかりと捕まっており、振り払おうとしても逃すまいと力を込めてくる為に仕方無く空いた右手で掛け布団を剥がし、その姿勢のまま固まった。
そこにはセミロングの髪に一メートル程の身長、そしてきめ細かい綺麗な肌の少女が裸で眠っている。
ライアは昨晩何か起こったか思い出そうとしたが、御者の青年に酒をご馳走になった後からの記憶を思い出す事は出来なかった。
そんな事よりまずはこの状況を何とかしなければとライアは少女に布団を掛け、自分の腕を掴んでいる指を一本ずつ剥がし始める。
「なんだ……起きたのか」
少女が呟きながら掴んでいた腕から手を離し、むくりと体を起こして眠そうな目でライアを見ると掛けられていた掛け布団が少女の肩から落ち、ベッドの外へ落ちて行く。
突飛な展開に眠気の一切が吹き飛んでいたライアも少女を見た。
少女の下目蓋には薄く隈が浮いているが、エメラルドグリーンの大きな瞳は幻想的なエルムの森の風景を連想させた。
低い鼻に柔らかそうな頬と短めな首から幼さが見て取れる。その先、視線を落としてライアは歯噛みした。
ずんぐりとした体型にも関わらずの丸見えの胸は、身長や顔立ちに似合わずしっかりと存在を誇示している。
「何をジロジロと見ている」
「あ、や、いえ、別に……」
ライアは首ごと視線を反らし、真っ赤になった顔を隠そうとする。
「まぁいい。小娘、貴様名前は何という?」
「ライア・フランクリンです。い、以後お見知り置きを」
少女は「ほう」と小さく言うとライアの顔を両手で掴み、自分の方を向けさせると目先十センチの所まで顔を近付けて不敵に笑った。
「自己紹介をする時は相手の目を見る事だ。わたしはルイーズ・アルケミア・フィッツクラレンスだ。よろしく頼む」
「と、とにかく服を着られては如何ですか?」
顔を固定されているライアは目のやり場に困って言った。
「そうだな、流石に肌寒い」
ルイーズはベッドから降りてクローゼットまで歩く。
解放されたライアは状況こそ飲み込めていないが、少なくとも危害を加える気配が無い事に安堵した。
「ここはどこですか?」
ライアはレイナルドと出会った時、こんなやり取りをした事があったなと思いながら聞いた。
「錬金術師組合が保有していて、アカデミーのすぐ近くにある寄宿舎……お前が目指していた場所だ。酒に酔って眠りこけたのは覚えているか?」
「はい。初めての王都なのに、早々にやってしまいました……」
「まぁ、自覚があるなら問題は無い。誰しもミスはするんだ、過ちを繰り返さない様にすればいい」
ルイーズは頭の右上で髪を結ぶと服を着始めた。
白いブラウスに紺色のネクタイ、長袖のコート型の上着は詰まるところ白衣ではあるが淡い青色に染められている。
下はクリーム色のホットパンツに黒のタイツ、赤茶色のローファーというスタイルである。
ルイーズの右斜め前、腰に巻かれた細身のベルトには青紫色に輝く水晶の短剣が下げられている。
ライアは見るからに子供のルイーズが偉そうな口調で話す事に、小馬鹿にされている気分になってきていた。
「貴様が乗ったハウンドキャリッジの御者は私の知人だ。初対面の娘を眠らせてしまったから泊めてやってくれと私を訪ねて来たのだ。甲斐性無しのあいつの事だ、何もされていないだろう。安心したか?」
「は、はい」
「道中、錬金術師組合でライセンスを取りたいと話したそうだな。丁度わたしはここに住んでいたから貴様を預かる事にしたんだ」
両手を広げてルイーズは制服姿を見せ付ける様に一回転する。白衣の裾がふわりと大きく広がって、裏地に縫い付けられた何かが触れ合って音を立てた。
「これは錬金術師、研究科の制服だ。わたしは既にライセンスを取得済みだが、名誉教授としてここに籍を置かせて貰っている。昨晩のうちに貴様がこの部屋を使えるよう、手続きも済ませてある。自由に使って構わない」
自慢気に語る少女を見て、ライアは妬みを込めて渋い顔をした。
「あの、名乗ったのだから普通に呼んでくれないかしら?」
「普通? ああ、確かにルームメイトに他人行儀が過ぎたか。なんと呼べばいい?」
「ライアでお願いします」
「わたしはルーという愛称で呼ばれる事が多い」
「ルーちゃん、ところで何で隣に寝てたの?」
フランクリン家の看板を背負っているつもりは無かったが、ライセンス取得済みの先輩である事を考慮しても子供に見下されるのは気分が悪かった為に意地悪な目でライアは聞いた。
「ベッドが一つしか無いからだ。別に人肌が恋しかったとか母を想って抱きついていた訳ではない。狭かったから仕方なくな」
「ふーん……」
ライアが疑いの眼差しを向けるとルイーズは腰に両手を当て、ふんぞり返って言った。
「アルフレッド……例の御者が居る工房には世話になっているからな。責任を持って名誉教授である優秀なわたしが直々に世話をしてやるんだ、光栄に思え。重ねて言うが人肌が恋しかったとかいい匂いがしたとかそんな事は一切無くだな」
「わかったわかった、ルーちゃんが子供だって事が良くわかりました」
呆れ顔で言葉を遮ったライアはどっと疲れが出てベッドに横になった。
昨晩窮屈なコルセットを外してくれたのはきっとルイーズだろう。気が利いて頭も良さそうではあるがとても頼り甲斐の有る大人には見えず、この先上手くやっているのだろうかとライアは頭を悩ませた。
「ライア、まさかドワーフ族を見た事が無いなんて言わないよな?」
「いえ、あまり……」
ライアはフランクリン邸に客として来たドワーフ族を遠目に見た事はあったものの、自信を持てずに曖昧な答えを返した。
「そうか。ところでお前は何歳になるんだ?」
「今年で十八歳です。だから世話をして貰う必要は無いんですよ」
「こう見えてもわたしは今年で三十八歳になる。ヒューマン族に換算すれば十五歳だからドワーフ族の中では子供だが、それでもお前の倍は人生経験があるからな。それにここでの生活も長い。困った事があれば意固地にならずに聞いてくれて構わない」
「ヒューマン……換算?」
「ヒューマン族の平均寿命に当てはめた場合、今が何歳ぐらいかという比較基準の事だ」
「な、なるほど……」
ライアは取り敢えず年代が近い事だけは解ったので呼び方は変えないつもりでいたが、 実年齢が倍以上である点からルイーズの言動に納得がいった。
「子供だなんて言ってごめんなさい。長年努力した結果だったのよね」
「わたしは気にしていない。だからお前も気にするな。それに近い内に肩を並べる事になるから安心しろ」
ルイーズの目が少しだけ笑っている様に見え、タイプは違えど姉のように気遣ってくれるいい人なんだと認識してライアは少しだけ安心すると、体を起こしてベッドの横に置かれていた自分のバッグから着替えを引っ張り出した。
いくつか持ってきた服の中からコットと呼ばれる長袖で丈長のチュニック型の服を取り出して着ていたものを手早く脱ぐと、それを頭から被って腰の紐を締めた。黒い厚手の布がライアの長い髪と白い肌を際立たせる。母から貰ったバレッタもテオドールが付けてくれた位置で留めた。
「まぁ、年上ではあるがもっと気楽に話してくれ。これも何かの縁だと思ってな、わたしも友人としてお前と長く付き合いたい」
ルイーズの表情はあまり変化していないが、ライアは誠実な人なんだなと思った。
「うん。わかった。改めてよろしくね」
ライアは着替えが終わると脱いだ服を適当にまとめてバッグに詰め込んだ。
「畳まないのか? 皺になるぞ」
「洗濯するまで着たく無いし、取り敢えずこれでいいわ」
「なら洗濯に出しておいてやるからそこに置いておけ。ところで朝食のリクエストはあるか?」
「バリエントグラムに入る前に買っておいた保存食があるから、それを食べちゃおうかなと」
「何があるんだ?」
「堅パンとお水が少し残ってるのよ」
「まだ保存は効くんだろう?」
「えっと、二日前に買ったやつだから……」
「なら、温かいものを用意するから待っていろ」
「あっ、わたしも手伝うよ」
「研究三昧なのも悪く無いが、刺激が足りなくて飽きてきたところだったからな。これでもお前との巡り合わせに感謝しているんだ。少しぐらいその気持ちを示させてくれ」
ルイーズは微妙に目元と口元を緩めた後、部屋から出て行った。