二章 二話
ライアはディータの背中に揺られながらローズウッドの森を超え、エルムの森に入っていた。
幼い頃、ヒルダに連れられて教会への道すがら通った事はあったが、ライアはその頃に比べて随分と変わった印象を抱いていた。木々の量が格段に増えており、日の光が殆ど差し込んでいなかったからだ。
黄色に輝くランプ草に照らされた青い森はツェーザルやレオナから外は魔物だらけだとライアは聞いてはいたが、ディータは今のところ察知した様子を見せていなかった。それでも、すぐにレイピアを抜けるよう心構えだけはしていたのだが、長くは続かなかった。
集中力も精神力も、代わり映えしない森の景色を見続けていた事ですっかり緩んでしまっている。
フランクリン邸を発ってから、ディータは五時間走り通しであった。
ディータに疲労の色は見えないが、ライアはいい加減お尻が痛くなって言った。
「休憩にしない?」
ディータは一度首をめぐらせたものの、正面に向き直してしまった為ライアは手綱を引いて減速するよう指示を出した。
「クゥン?」
するとディータは右の前足と後ろ足、左の前足と後ろ足を同時に前に出す特徴的な歩調に変えた。ベルトに留めた革紐が鳴る程左右に大きく揺れるが、上下の動きはかなり小さくなっていた。
ライアは鐙に体重を掛けて膝でバランスが取りながら、ディータの腰に吊るしておいたハウンド用の食事を取った。
その袋を揺らすと、中身のドライフードが音を立てた。
それを聞いてディータは急に立ち止まってその場で回り始める。ライアの方に首を巡らせ、目と鼻の先にある食事に近付こうと足を前に出すが、背中に乗ってそれを持つライアも動き、堂々巡りに突入した。
「ちょっと、うわっ!?」
自分の尻尾を追いかけて遊ぶ仔犬のような動きは客観的に見れば可愛らしいのだが、上に乗っているライアにとっては地獄だ。
落ちたくてもベルトと鞍が繋がれていてそれは《かな》叶わない。ライアは餌の入った袋を投げ落とすと、ディータはそちらに気を取られて回転を止めた。
「おぇっ……」
ライアは乙女にあるまじき声を上げながらベルトからフックを外し、草の絨毯に転げ落ちると大の字に寝そべって目を閉じた。
頭の中をぐるぐるとかき混ぜられるような感覚に負けて思わず体を起こし、両手を地面に着いて平衡感覚が戻るまで項垂れていた。
そうしている間にもディータは袋を咥えて振り回したり、鼻先で転がしたりしている。
ライアは這って行き、袋の口を開けて差し出すと、ディータは鼻面を突っ込んで食べ始めた。
カリカリと美味しそうに食べるディータの姿を微笑ましく思い、ライアは自然と笑っていた。八重歯を見せるその表情は、実家に居た頃には見せなかったものだ。
ディータの餌が半分程になったところでライアは強制的に袋を閉じると、今度は手で作った器に水袋の中身を注いで飲ませた。唾液でベトベトになった手を軽く洗って再びディータに跨る。
移動を始めた背中の上で堅パンを口に入れ、紅茶を含む。柔らかくなるまで十分に待ってから咀嚼して飲み込んだ。それを繰り返してようやく一食分を食べ終えた頃、森の色が変わった。ウォルナットの森に入ったのである。
枝葉の密度の低い木々が増え、ライアの目には日差しが眩しく感じられた。
「ディータ、ここがウォルナットの森なの?」
それに対してディータが小さくワンと鳴いた為、ライアはそれを信じた。
すると突然、ディータの足は前方に立ちはだかる木々を軽々と避けながら跳ぶようにして走り始めた。あっと言う間に時速五〇キロに到達する。
ライアは後ろに引かれる髪を抑えながら、ディータが魔物を感知したのだと判断して念の為にレイピアを抜いた。
ズ……ン……
はるか遠くで地響き鳴った。ライアは魔物の臭いを探りながら気を引き締め、周囲を見回す。
ライアが左を見ると、山の様に大きな岩の塊が見えた。ディータはそれを迂回するように右回りに進んで行く。
五分程移動した頃、ライアは何かが焦げたような匂いを感じた。ディータもそれに気付いたようで、その匂いのする方へ顔を向ける。
ライアが同じ方向を見ると白い煙が立ち上っているのが確認出来た。救援要請に使われる灰色の狼煙とは違う。
「魔物に気付かれないようにあそこまで行ける?」
あそこがエメローンかと思ってライアが聞くと、ディータは一声鳴いて答え、更に速度を上げた。
そこに辿り着くまで十分と掛からなかった。
先程見た岩に横穴が開いており、その前に男達が居た。
赤いバンダナを頭に巻いた細身の男、髪も髭も白いがたいの良い男、そして中肉中背の頬に傷のある男の三人だ。
ライアは目的地でない事がすぐ分かったが、何れの男も痩せており、土気色の不健康そうな肌をしている事が気に掛かった。
朽ち掛けた布で腰回りを隠すのが精一杯という様子で、温かい地域にして温かい季節である為風邪を引く心配こそ無いが、余りに不憫な格好である。
男達は煮炊きをしているところだったようで、浅い鉄鍋の中で得体の知れない茶色い液体がゴポゴポと嫌な音を立てていた。
「お、俺達……助かったのか?」
バンダナの男の発言に突き動かされるように、他の二人も顔を上げた。
「ど、どうも。こんにちは」
ライアが何か訳ありなのだろうと声を掛けると、男達は目を輝かせて一人と一匹を囲むように集まってきた。
「お嬢さん、どうか食べ物を恵んでくれないか」
「何でもいい、一口だけでも!」
白髭の男に続き、傷のある男が身を乗り出して言った。
「お困りのようですね……えっと、数日分の携帯食料は持っています」
「やった! 助かった!」
ライアはまだ譲るとは言っていないのだが、三人は歓喜に包まれていた。
「落ち着いて下さい。この付近は魔物が出ますので、まずは焚き火を消してその中に入りましょう」
先程のディータの反応から魔物が近くに居る事は間違い無かった。ライアは何よりもまず、その危険から逃れる必要があると判断して横穴を指差した。
男達は鍋を退かし、焚き火に土を掛けて手早く消化すると、互いに手を貸し合って何とか立ち上がる。
ライアはディータから降りると、周囲警戒の指示を出して男達と中へ入って行った。
入り口から数メートル先の横道に入ると、そこは床も壁も天井も湿った岩で出来ており、五平方メートル程の広さで時折水滴が落ちる音が聞こえるだけの静かな空間があった。
そこに敷かれているボロ布の上で、三人は左奥から順に座っている。
男達はアイアンプレートとも揶揄される堅パンに苦戦した後、腹の虫が鳴き止んで一息付いていた。
「神が救いの手を差し伸べる……ってのは、実際にあるもんなんだな」
左奥に居るバンダナの男が言った。
「俺達がしてきた行いの全てが、悪行ではなかったという証明か?」
「そうだな、やはり奴らの方が間違っていたという事だ」
真ん中に居る白髭の男に続き、右に座っている傷のある男が答えた。
ライアは初対面の男達に囲まれて居心地の悪さを感じていたものの、面識の無い守衛達と職務の関係で会話する事もあった為に何とか我慢出来ていた。
男達が食事を終えるまで手持ち無沙汰だった為、ライアは衣の切れ端で鍋を擦っていた。
「嬢ちゃん、そんな事までしてくれて、本当にありがとうな」
バンダナの男は安らいだ表情でライアに言った。
「いえ、オリヴィエ教徒として当然の事をしているだけです」
ライアは振り向こうかと思ったが、緊張から手を止めずに答えた。
「そうか、嬢ちゃんも神を信じてるんだな。信じる者は救われるって事か」
「ところでお嬢さんはどうしてここへ?」
バンダナの男に続いて、がたいのいい白髭の男が口を開いた。
「バリエントグラムへ向かっていたのですが、煙が見えて……エメローンかなと思ったのですが、結果的に間違いで良かったです」
男達はそのお陰で助かったと口々に礼を述べた。
ライアは少し照れながら堅パンの空き容器を回収し、男達が持っていた鉄の器に紅茶を注ぎ入れた。
「申し訳無いのですが、わたしの持っている携帯食、飲料水はこれで最後です」
「そうか、旅の途中だってのに備蓄を分けて貰っちゃって、悪かったなぁ……」
傷のある男は俯き、申し訳無さそうに眉間に皺を寄せた。
ライアはその様子を見て彼等はこの先、どうやって生きていくつもりなのかが気になった。
彼等はヒューマン族であり、無防備に外で煮炊きをしようとしていた事からロレンティスに来て間も無いのだろうと推測した。
それに鍋で沸かしていた泥水は、あまりに飲み水として不適切だ。精霊の好まない水を飲もうものならたちまち瘴気に当てられて病気になってしまう。ライアは特にこの事を心配していた。
「えっと、余計な事かもしれないのですが、魔物の対処は出来そうですか?」
「ああ。ダガーしか持ち合わせは無いが、ハーデンベルからここまで来られる程度には鍛えられてる」
バンダナの男が細い腕に力こぶを作る仕草をして言ったが、その細腕がライアには余りに頼り無く見えて苦笑いを返した。
「そうですね……この先にあるエメローンまで一緒に行きませんか? そこなら比較的安全な筈ですし、仕事が貰えるかもしれません。それに、ガーナ貨幣なら少しお分け出来ますから、よろしければ」
ライアはポーチから金貨を一枚取り出した。
男達は遠巻きにそれを眺めており、食事の時の様に群がったりはしなかった。
「流石にそこまで世話には……」
白髭の男が言うと、バンダナの男が天井を見上げて口を開いた。
「実は俺達、食べるのに困ってパンを盗んで、国を追われたんだ……」
ライアは俯いた。雑役女中として辛い思いこそしたが、飢えた事は無かったライアにとっては衝撃的な話であった。
「国の為に、領主の為に精一杯働いてたってのに、ちょっとしたミスをしたらもう来ないでいいって……何のケアもしてくれなかったんだ。妻と息子の為にやらない訳にはいかなかったんだ」
傷のある男が補足した。
「そう……でしたか。辛い、事ですね………」
どんな言葉を掛けるべきか判らなかったが、ライアは我が身に起こった事の様に考え、胸が苦しくなった。
彼等にとってはどんなに貧相でも衣食住が約束された生活が幸せの一つの形になるのだろう。それを実現するには集落へ行き、仕事を貰い、身の回り品を買うだけのお金が必要になる。
そう思ったライアは彼等の中央に居る白髭の男に歩み寄ってからしゃがみ、初めてしっかりと目線を合わせた。
「これが、少しでも役に立てるならば、わたしも嬉しいです」
ライアは言いながら金貨を握った右手を差し出した。
「少し、じゃ困るんだよお嬢ちゃん」
白髭の男は口の端を上げて、ライアの手首を掴んだ。