イケメン店長に説教されるバイト
短編のつもりで書いたのですが、気付いてみたら結構な長さになっていました。
店長のお説教が始まるまで、ちょっと長いかも知れません。始まってからはもっと長いですが…。
お暇なときにどうぞ^^
はあ、まただ。
空調で冷えたレジカウンターに顔を伏せると、ごん、と音がした。
おでこが痛い。
脱力が過ぎて、勢いがついていたようだ。
目を閉じ、痛みに耐えながらカウンターでおでこを冷やす。
上手くいかないなあ。
良い感じだと思ったんだけど。
やっぱり、一回目のデートでさせちゃったから、軽い女だと思われて一度限りの遊び相手に格下げされたのかな。
2週間前に初めてデートした男から、その後一切連絡がない。
ここ何ヶ月も少なくとも週に二度はこのリカーショップを利用していたのにも関わらず、あれ以来一度も顔を見せない。
やり逃げ確定だな。
まあ確かに、真面目そうには見えなかったけど、でも携帯番号聞かれるまでかなり長く仲良しの客と店員やったじゃん。
付き合う見込みなしと判断したにしても、もう少し優しい対応出来るでしょうよ。
いや、デートしただけなら、普通の顔して客に戻れるだろうけど、やってしまった訳だし、今更私の機嫌とってまでこの店使う必要もないよね。
近くに酒売ってるとこなんて腐るほどあるもんね。
なんで、我慢できなかったんだろうなあ私。
何度かデートを楽しめば良かったじゃん。
そんなに人肌恋しいのかね。
・・・・・・恋しいんだろうね。
ピンポーン。
自動ドアが開く音に勢いよく頭を上げると、勝手に口が動く。
「いらっしゃいませー」
自動ドアからいつもの仏頂面で現れたイケメンは、店長だった。
空元気のいらっしゃいませも、全くの言い損だ。
時計を見上げると既に交替時間になっていた。
もうそんな時間か。全く補充してないや。今からやろう。
よっこらせと立ち上がると、カウンターの向こうを通り過ぎバックヤードのドアに向かおうとしていた店長が立ち止まった。
「まだレジ締めてないのか?」
普段なら、交代時間までにレジ締めと商品補充を済ませているからだろう、店長が怪訝な表情を見せた。
「すみません。ちょっとぼんやりしてたら。レジ締めたら補充もやります」
どうせもう帰って寝るだけだ。
明日は日中のバイトが休みだし。
帰ったって、一人あの男からの連絡を虚しく待つだけだ。
働いてた方がマシ。
中のお金を数えるためにレジを開いていると、店長がカウンターの中に入って来た。
交替時間ぎりぎりに来る店長とは、いつもならすでにバックヤードで帰り支度をしている私と挨拶を交わしながらすれ違うだけなので、ここに二人で並ぶのは多分、いや間違いなく初めてだった。
2年前にバイトを始めた時も、ここで先に働いていた元カレに仕事を教えられたし、店長とは大して関わっていない。
イケメンに免疫がないので、無駄に緊張する。
一人でやるからバックヤードに入っててくれれば良いのに。
計算機をカウンター下から出しながらそんな失礼な事を思っていると、案の定店長に言われた。
「どうせ合ってるだろ?俺がやるからもうあがって良いぞ」
確かに、つり銭が合わない何てこともう滅多にないけど、レジに手を突っ込みながら答える。
「やります。明日はもういっこのバイト休みなんで」
店長が無言で、カウンターから出て行った。
店長の姿を追わず、さっさとレジ締めを始めていると、バリバリと段ボールを開く音が聞こえて来た。
音のする店内を覗くと、店長がでっかい特用焼酎を段ボールから引き出し、下に詰まれた段ボールの上に次々と並べていた。
「店長!やります」
確かにそれ重いから、普段なら超助かるけど、今日は時間かけて頑張りたい気分なのよ。
やるって言ってんのに、残業扱いを主張されてバイト代余計に払いたくないのかしら。
無駄にイケメン店長のくせにけち臭いな。
しかも、金なんて要らないんだよ。
もう少しここで働いてたいだけなのに!
すがるような睨みつけるような視線を送っていると、店長がこっちを一瞥した。
そのまま、次の焼酎の段ボールに移る。
うぬう!店長め!年若い娘が傷付いて寂しがっているのを察知しろ!大人だろ!
短大を出て就職浪人1年目の私より、10近く年上のはずの店長の背中を睨みつける。
「じゃあ、他んとこはやって帰ってくれ」
超重い腕プルプルゾーンの品出しを手早く終えた店長が、そう言ってバックヤードに入って行った。
無愛想イケメンがそう言うさり気ない優しさ振りまいてんじゃないわよ。
無愛想なら無愛想で徹底しなさいよ。
何とも言えないやるせなさを感じて、溜息を吐いた。
ここのバイトは楽だ。酒は重いけど。
店内に頼る人の居ない一人きりでの接客は最初こそ不安だったが、大して客も多くないし、慣れてしまえば好きなことが出来て極楽だった。
現に私も、客がいない時は試験勉強ができて助かっている。
もし他のバイトを昼夜掛け持ちで働いていたなら、勉強時間など取れるはずはない。
去年落ちてしまった公務員試験の勉強をしながら、生活費を稼ぐのに最適なバイト。
だから続けてる。
でも、学生時代から長く続けている、今は日中長時間働かせて貰ってる事務のバイトの方で、正社員として雇っても良いと言われている。
今年試験を受けても採用される保証はない。
今の会社に入った方が良いのかも知れない。
勉強を続けるか、ここを辞めて就職するか。
決断の時でもあった。
大して知りもしない男にやり逃げされて、逃げる者を追いかけたくなる馬鹿な気質を全開にしている場合ではない。
ほんと、何やってんだろうな、私。
結局、もう慣れきって単純作業になってしまっている仕事では悩み事も振り払えず、男日照りで寂しい自分と、そんなくだらない事に囚われている場合じゃない将来の掛かった決断を迫られている現状に落ち込んだ。
「終わりました」
店内に沿うようにある細長くて狭いバックヤードに入り、奥にある事務机でパソコンに向かい作業をしていた店長に声を掛ける。
ロッカーに他のバイトと共同で使っている店名の入ったエプロンをしまって、開いていた扉を閉めると、その扉の影から店長が現れて激しく驚いた。
「うわ!び、び、びっくりした。店長。びっくりしますよ」
一瞬止まりかけた心臓が、ばっくんばっくん言っていた。
ほんとにびっくりした。
ここ暗いし。超狭いし、お化けでそうだし。お化けかと思った。
「お、お疲れ様でした。帰りまーす」
挨拶しに出て来てくれたのかと、ぺこりと頭を下げると、無表情に見下ろされた。
こういう顔をしていると、本当に怖い。イケメンが無駄で勿体ない。
でも、おかしいな。
別れ際の挨拶はいつも笑ってくれるのに。
『お疲れさん』
って、激しく無駄な笑顔を見せながら、激しく無駄な大きな手の平ぽんを私の頭にしながらすれ違うのに。
無愛想で怖い店長のその一瞬の笑顔のお蔭で、この店が居心地良いのだ。
冬はコートの上から毛布をかぶらなきゃいけないぐらい寒くても、店内にトイレが無くて、店を閉めて隣のスーパーまで走って借りに行かなくちゃいけなくても、辞めたくない位に居心地が良いのだ。
「すみませんでした」
一応怒ってそうな店長に謝ってみる。
日頃ちゃんと働いてるから、今日一度のことでこんなに怒られる気もしないけど、雇われてる身だからな。
「何に謝ってるんだ?」
何故か店長が怪訝そうだった。
「え?あ、今日補充も、レジ締めもしてなかったから」
眉を寄せる店長の不機嫌面を見上げながらそう言うと、短く溜息を吐かれた。
店長のこんな態度は初めてで、地味にきついショックを受ける。
ちゃんと働いてるし、バイトの中では結構気に入られてると思ってたんだけど、勘違いだったかも。
大体一人ずつしか入らないから、日中のバイトの人とも交替の時間に顔合わせるだけで、店長と一緒にいるとこなんて見たことないもんな。
あの笑顔が私に対してだけのものだと、無意識のうちに勘違いをしていたようだ。
恥ずかしい。私、何て恥ずかしい子。馬鹿だ。
交わす言葉は少ないにしても、店長と一バイトとしてはかなり馴れ馴れしかっただったろう私の近頃の態度が、無性に恥ずかしかった。
店長に、何だこいつ勘違いして、とか思われてたらどうしよう。
恥ずかし過ぎて、もう顔合わせられない。
「おい」
余所を向いて考え中だった私を店長が呼んだ。
おい、って。仲良しでもなきゃ、随分な態度の店長よね。
「はい」
店長を見上げると、相変わらず不機嫌顔だった。
「仕事の事はどうでも良い。昨日若い阿呆そうな男の客が連れと、お前とどうのって話してたがどういうことだ」
「え」
え!
まさか店長からその話題を振られるとは思わず、しばらく固まる。
あの男!ムカつく。私が出てない時間にはここに来てるのか!
腹立ちと同時に、酷く悲しくなった。
確定だな。確定だと思ってたけど、まだどこか連絡があるかもって期待してたけど、こりゃ駄目だ。
「いつもビンの洋酒一本ずつ買っていく阿呆そうな二人連れがいるだろ。お前あれと何かあったのか」
お前。流石に今までお前呼ばわりはなかったけどな。
一応、シフト変更とかの用がある時は、伊藤さんって苗字で普通に。
「おい。返事」
思考が飛んでいた私に店長が命令した。
「特に阿呆そうじゃない方と、会いましたけど。連絡来なくなったんで駄目だったんじゃないですかね」
態度の悪い店長に、適当に笑って返すと、呆れた顔をされた。
「どっちも阿呆そうだよ。何でお前があれに?」
眉を寄せて店長を見上げる。どう言う意味?
「馬鹿かお前。あんなのにやらせて何考えてんだ。他に色々いるだろうが、何でよりによってあれなんだよ」
うわー。あの男店内で何の話してたんだよ。最悪。最悪。
私が一回目のデートで身体を許して、その上やり逃げ状態なのも全部店長に伝わってんの?
恥ずかしい。死ねる。今すぐ、気絶したい。
「恥ずかしいって意識があるんなら最初からするな。あんな夜な夜な遊び歩いてますってやつの何処が良いんだよ?頭おかしいぞ、お前」
頭おかしい?
「店長」
店長を睨んでみるが、店長に睨み返されてすぐに降参した。怖いし。
「だって、あんなのしか寄って来ないんだから仕方ないじゃないですか。私だって、いっぱいいる良い男から選び放題ならあんな軽そうな男選びませんよ。阿呆そうだけど、楽しく仲良く出来てたんです。デートも楽しかったんです」
情けない声になったが、一生懸命反論すると、店長に更に睨まれた。
こっわ!
「結局やり捨てられてるだろ。病気貰っただけなんじゃないのか」
う!今まであそこまで遊んでそうな人とどうにかなったことがなかったので、そこまで考えが及んでいなかった。
一気に血の気が引く。どうしよう。薬飲めば治る性病くらいなら良いけど、最悪なら死に至る病気に感染することだってある。
いや、多分大丈夫よね?でもコンドームも100%安全じゃないって言うしな。
「病院行きます。もうしません。お疲れ様でした」
真面目に、超反省した。
明日バイト休みで丁度良かった。検査してもらいに行こう。
鞄を肩にかけ、ドアにかけようとした手が掴まれて引っ張られた。
ぐるんと振り向かされる。
「まだだ」
まだ、店長の説教が終わっていなかった。
「大体お前は、そんな胸元の開いた服着てバイト来るな」
バイト時の服装など今まで注意をされたことはなかったが、以前から気になっていた様な様子だったので真面目なバイトらしく神妙にした。
いや、でも、日中のバイトの人達だって、元カレ含めフリーターで音楽やってる人とかの仲間内で繋がった人ばかりで、頭がドレッドだったり、有り得ない所にピアスつけてたり、ズタボロの服着てたり、なんでもありじゃん。
内心愚痴りながらも注意を真面目に聞こうとする体勢になった私に、店長の声が落ち着いた。
「お前小柄だから、レジで袋詰めする時、男の客には間違いなく服ん中見えてるぞ」
げ。
「マジですか。エプロンしてるのに?」
「そんなサイズ合ってないダルダルのエプロンが何の役に立つんだよ。Sサイズがあるだろ。何でいつもでかいの着てんだよ」
「いや、別にこれと言って理由はないですけど。最初山田がこれ着ろって適当に取ったのがこれだったってだけで。それに、Sってあの変な色のでしょ?わざわざそれ選ぶ人はいないと思います」
ピンクみたいな紫みたいな微妙な奴だ。
それにしても、今まで胸見えてた?
若い男にならまだ見せても抵抗は少ないけど、おっさん!
酔っぱらって酒買いに来てセクハラ発言も多いあのムカつくおっさん達!
あんなのを楽しませていたのかと思うと物凄く不快だった。
「じゃあ、黒なら良いんだな。黒のS作ってやる。あと、お前は服も次から制服だ。ああ、なんかこの辺に景品の残りあったな」
そう言った店長が、壁面にそびえ立つ棚に並んだ酒の間を漁り始めた。
私には絶対に届かない場所だ。
もう店に出しもしない景品をそんなところに突っ込んどいてどうする気だ。
ちっとは片付けろこのバックヤード。お化けでそうで一人の時怖いんだよ!
「あった。ほらお前これ着てろ」
店長が乱暴にビニールを破って広げたそのTシャツには、発泡酒のラベルがでかでかとプリントされていた。
「これもでかいか?服の上からで良いからちょっとかぶれ」
うそでしょ?これが制服?
酒屋で酒のノベルティTシャツって、街に着て行くより更に恥ずかしいし!
しかも発泡酒!海外メーカーのお洒落ビールなら耐えられる!日本製だとしても、せめてビールー!
「ちょっと、嫌です」
店長が手で阻止しようとする私を脇で押さえる様にして、頭にTシャツを被せて来た。
肩からバッグがずり落ちるのと同時に、Tシャツの丸首からずぼっと頭が抜けた。
私を押さえ込む様に身体をくっ付けていた店長のイケメン顔が、超近くにあった。
うわ!
やはりかなり大きかった、多分メンズMサイズのTシャツの裾を引き下ろす店長から身体を仰け反らせた。
両腕がTシャツに拘束されバランスが取れず、そのまま後ろによろけた私の身体を、とっさに回された店長の腕が支えた。
せっかく離れたのに、また間近で見つめ合う体勢に逆戻りだ。
動悸がやばい。
「これ、エプロン以上にでっかいと、思います、けど」
店長のイケメン面に喘ぐように進言すると、店長がTシャツにすっぽり収まった私の姿を見て顔を背けた。
「そうだな。これはこれで何かエロいな。これは駄目だ」
「はあ?」
このミノムシ状態の何処がエロいと?店長の性癖を疑った。
店長がちらりと私の顔を確認して私の身体を支えていた腕を解き、身体を離した。
「変態見るような目で見るな。俺のTシャツ着せたみたいになってるだろ。誰が見てもエロい」
エロさを感じてしまったことへの言い訳か。意外と子供っぽいな。
だけど、店長にエロい目で見られたと言う事実に、有り得ない程心臓が跳ねまわっていた。
Tシャツの裾に手をかけた店長が、乱暴に私の頭からそれを引っこ抜く。
「じゃあ、エプロンと一緒に店のTシャツも作るから、出来るまで胸元の開いてない服で来い。良いな」
滅茶苦茶になっているはずの髪を両手で撫でつけながら、答えた。
「今度からちゃんとした格好で来ますから、Tシャツは良いです」
「何だ。それでも構わんが、文句が有りそうな顔だな」
もう何だか睨まれても怖くもなくなってきた。
やっぱり店長は私を気に入っていて、阿呆なバイトを心配してくれてるだけだよね?
「いえ別に。ただ、ここにしか出会いが期待できないのに、色気も何もない恰好で来ると一層彼氏が出来ないんじゃないかと思って」
店長が怒ったような呆れた様な顔をする。
「お前なあ、分かってやってんのか。色気で男つったって良い彼氏になるような奴は寄って来ない。今回みたいな事を繰り返すだけだ」
本気で心配されてるみたいで、なんだか泣きたくなって、堪えるために口元に力を入れた。
「そうですね。もう分かりました」
すでに、何度か繰り返してますから。
「ゆっくり良い人が現れるまで待てば良いって分かってます。でも、寂しいから色々焦っちゃうんですよ」
少し間があって、我ながら面倒臭い事を言ったと後悔していると、店長が嫌そうではない声で尋ねてくれて、ホッとした。
「寂しいのか。大体お前、山田といつ別れたんだ」
「ここでバイト初めてすぐですけど」
店長が目を見開いた。
「2年経ってんのか?お前らその後も仲良くしてただろ?全く気付かなかったな」
「別に、寂しいのは山田のせいじゃないですから。お互い気になる人が出来てたんで、円満に別れましたし。今も仲良しです。向こうは好きな人と上手く行ったんで、もうここ以外では会いませんけど」
そうよ。私が寂しくて、ひと肌恋しくて、少しでも早く彼氏が欲しいのは山田なんかのせいじゃない。
店長の左手の薬指にいつもある、私を寂しくも虚しくもさせる物体を眺めながら思う。
「お前はその、気になってたっていう奴と上手く行かなかったのか?」
店長が尋ねて来るが、顔を見る気にもならず俯いたまま答えた。
「そうですね。最初から、上手く行きっこないのは分かってましたから。今思えば、こうやって寂しくなって、大して好きでもないどんな人かも分からない男に馬鹿なことを繰り返すより、山田と一緒に居た方が良かったのかも。外見はともかく取り敢えず中身が真面目だってことは分かってたし」
でも、駄目だったんだよね。
ちゃんとした好きが感じられなくなってからも、最初のうちは一緒に居られてたんだけど、気になる人が出来ちゃったら、もうどうしても駄目だった。
好きになったって意味ないって、分かってたけど、もうその時にはきっと好きだった。
好きだって認めたところで、相手に伝えられる思いでもなく。
早く他の好きな人を作って、忘れて、楽になりたかった。
上手く行かない。
こんな風に心配されて、距離が縮まった様な気にさせられて、思いが募ったってどうしようもないんだもん。
それなのに、バイトの度に、別れ際に仏頂面を優しく緩めて笑いかけたりするし。
私にだけだって雰囲気で、私の頭にふれたりする。
最初から期待など持たせないと、他の人との誓いを見せつけながら、淡い期待を抱かせ続けてここを辞める決心を付けさせてもくれない。
もう一度店長の指に目を向けると、有るべきはずのものが無かった。
間違い探しのような光景に、訳が分からなくなり、随分長い時間店長の手を眺めていた。
え?
ないよね。なんで?さっきは有ったよ?
一応反対の手も確認してみるが、握り拳を作っていたそっちにも、問題のあれはなかった。
店長の顔を見上げると、困った様な、気まずそうな、微妙な顔をして私を見ていた。
しばらく見つめ合っていたが、店長が握っていた右手を私の前で開いた。
「もしかして、これを、探してたか?」
力持ちの大きな手の平には、シンプルなリングが転がっていた。
これは、はいって言うと、私が店長を好きだって認めるパターンか?
どうすれば良いんだろう。
この際、告白してしまいたい気もする。
もうばれてるっぽいし。
でも、奥さんの居る人に告白する女って最悪じゃない?
私、店長にこれ以上最悪な女を印象付けたい訳じゃないし。
ばれたらここで働けなくなるんじゃない?そしたらもう会えないじゃん。
いやでも、もうばれてるんだよね?どうしよう。
「おい」
知らず俯いて考え込んでいた様だ。
低くてしびれる声に呼ばれ顔を上げると、店長が何かをスチールのゴミ箱に投げ入れ、固い音がした。
え!何かって。今まで持ってたのってあれじゃん!
店長、あれを投げたの?
信じられない。奥さんに不誠実。何か知らんけど、何か嫌だ。
「止めろ。その顔は止めろ」
嫌そうな視線に気づかれたのか、また店長に命令された。
「だって、結婚指輪ゴミ箱に捨てるなんて最低」
「違う」
店長に非難の言葉を遮られた。
違わんでしょう。最低だよ。
もし、もしかして、私を選んでくれるんだとしても、不倫相手じゃ嬉しくないんだよ。
だって辛いの目に見えてるもんな。
上手く行かない恋に馬鹿みたいにのめり込むのは得意だから、きっと今よりもっと好きになって、今よりもっと辛くなるのも目に見えてる。
だから嫌だ。
でも、選んでくれたら嬉しい。滅茶苦茶嬉しい。
でも、そんなダメ男の店長なんて、がっかりだ。
薄暗いバックヤードで店長と睨む様に見つめ合い、胸をバクバク言わせながら、ふとお客さんさっぱりだなと気づく。
「平日とは言え、今日お客さん少ないですねえ。お店大丈夫なんですか?」
ドアにはまっているマジックミラーから店内を窺うと、大きな手に頭を掴まれて顔を戻された。
「聞け」
「何ですか」
頭から手は離れたが、腕一本分の距離に居る店長に動悸が酷い。
ここ駄目だ。暗いし狭いし。
好きになってはいけない人と、深刻な話をする場所じゃない。
お客さーん!誰か来て!店長をここから出して!店長が接客してる隙に私帰れるから!
店長から視線を逸らし、ちらちらと諦めがたく店内を窺っていると、溜息が聞こえた。
「なあ」
「何ですか」
ってさっきから言ってるでしょ。早くしてくださいよ。視線を逸らしたまま答える。
「もし、俺の勘違いなら、相当間抜けに見えるだろうけど、一応言っとくぞ」
その言葉に、眉を寄せて表情を窺うと、なんでもない様な顔をした店長が何でもない様に言った。
「俺は独身だ。指輪はおもちゃで、面倒臭い女除けだ。バツイチでも何でもない、れっきとした一人もんだ」
は、はあ!?えええええ!うそーーーー!!!
内心、驚愕の事実に叫びまくっていたが。
さっぱり声にならなかった。
店長が固まった私を見下ろしながら、また説教口調に戻った。
「良い男を探したいんなら、お前は見た目で絶対に損をしてる。チャラチャラした阿呆なあいつらと似合いの外見だが、中身は真面目なもんだろ?仕事も真面目にやって、空いた時間も、他の奴らみたいに携帯いじってんじゃなくて参考書見てる。大して有りもしない谷間で害虫呼びよせんじゃなくて、他の良いとこ見せてりゃ良い男が勝手に寄って来る。分かったか。あんまり自分を安く見せるな、折角中身が良いのに勿体ないだろうが。後、大して知りもしねえ奴にやらせるのはもっての外だ。どんどんどんどん安い女になる。それに、病気も心配しろ」
仏頂面で説教されてるけど、なんだか動悸が止まらなかった。
頭に血がのぼってしまって、店長の言葉が正確に理解出来ない。
「そう言うことで、お前次からTシャツ出勤な。薄いのじゃなくて、ダサい本気のTシャツにしろよ」
はっきりしない頭でもこれは理解できた。
「本気も何もTシャツなんて持ってないです」
店長が呆れた顔をする。
「着ろよTシャツ。そんな下着みたいな服ばっかり着てねえで」
ちらりと見下ろされた店長の視線に自分の服を確認する。
ノースリーブだけど、ちゃんとインナーぽくないデザインの奴だし、下着には見えないとおもうけど。
「じゃあ、店のTシャツが出来てからで良い」
今のところこの店に唯一の女バイトの私の為だけに、本気でTシャツを作るつもりなんだろうか。それは困る。
「困ります!Tシャツ勤務は勘弁して下さい!わざわざそう言うとこ避けてバイト探してきたのに」
店長が嫌なものを見る顔をしたので、結構悲しかった。
「見てくれ気にするのも大概にしろよ。俺の言ったこと聞いてたか?」
うう。違うのに。誤解されて馬鹿女を見る目で見られてる。
折角さっき、多分褒められてたのに。
「Tシャツ駄目なんですよ!汗っかきなんで、・・・脇に汗染みできちゃって」
女を捨てる覚悟がなきゃ、夏場のTシャツ勤務なんて出来ないんです。
脇汗なんかかきそうにない店長のお腹辺りを見ながら情けない声でそう言うと、長い沈黙の後、低い押し殺した笑い声が聞こえ始めた。
驚いて顔を上げる。
『お疲れさん』の時に見る一瞬の笑顔以外で、店長の笑う姿など見たことがなかった。
目を細めて笑い声を立てる店長はやっぱり格好良かった。
いつもの不機嫌顔も好きだけど、やっぱりそれが緩んで可愛くなる時が最高に魅力的だ。
「ああ、良いんじゃないか?」
意味が分からず、小さく笑い続ける店長に首を傾げる。
「脇に汗染み作って頑張って働いてる女に惚れる男は、きっと良い奴だぞ」
私の深刻な悩みを茶化す店長に腹が立つが、店長が言うことを考えてみる。
「まあ、確かにそうかも知れないですけど、脇汗が酷い女に惚れてくれる男がいるなんて思えません」
不貞腐れてそう言うと、店長が目を細めながら私の頭に手を伸ばしてきた。
どきん、と心臓が打つ。
私の頭にゆっくりとのせられた大きな手が、いつもより長く居座っている。
「馬鹿言うなよ。脇汗ぐらいで女を否定する男なんて、最初からお前が相手にする価値もないんだよ」
覗きこむ様に目を合わされて、笑う店長の驚きのイケメン顔に胸が破れそうだ。
「好きな女の汗なんか、可愛くしか見えないもんだよ」
ああ、もう、どうしようかな。
告白されてるのかな。
本当は独身だった店長に、好きだって言ってもいいのかな。
「そ、んな人に出会ったこと、ありませんし。これからも、出会うとは、思えません、から、Tシャツ着たくない、」
です。
と言いたかったが、徐々に迫ってきていたイケメン店長の緩く笑んだ超可愛い顔に、最後は言わせて貰えなかった。
軽く押し付けられた唇が離され、頭にのっていた手もポンと軽く私を叩いて降ろされた。
「どっちにしろ、その肌丸出しの恰好は禁止だ。一人で夜まで店番してんだから、いくらなんでも危ないだろ。客の半分は酔っぱらってんだし。Tシャツ持ってないんなら、汗が目立たないデザインと色で制服作ってやるからお前も協力しろ。お前、去年はその上に何かしら羽織ってただろ?光熱費対策で空調弱くしたからか?」
何も答えられないでいた私に、店長が困った様に笑った。
「俺にさわられて嫌だったか?それなら悪かったな。制服の事も余計な世話なら言え。別にお前が俺を受け入れられなくても、気まずくなってクビとか言うようなことはしないし、気にしないで今まで通り来てくれれば良い。俺ももうお前にはさわらん。ま、お前が自分を安売りしてんのを見つけたら、また説教はするぞ。あれはもう止めろよ」
店長が『お疲れさん』の時の優しい顔になってる。
「長々引き留めて悪かったな。お疲れさん。気を付けて帰れよ」
頭の手はやって来ない。もうさわらないって言ってた。
何か答えなきゃ、もうぽんってして貰えない。
胸の中が焦りと緊張でえらい騒ぎだった。
何て言えば良い?分かんない。
早く。店長が奥に戻っちゃう。
焦るけど何も出て来ず拳を握りしめる私を、店長が見下ろしていた。
「何か言いたいことあるか?」
引き留める為に一応頷く。何を言いたいのかは分からないが。
店長が私を見つめたまま目を細める。超可愛い。ドキドキする。どうしよう。
「可愛い顔してんな。何言いたいんだよ」
さわらないと言ったくせに、店長が私の頬を指先で撫でた。
びくりと身体が震え、店長が驚いた顔をして、手を引っ込めた。
「ちが!ちがい、ます!嫌じゃないです!もっとさわって良いです!」
何言ってんだ私。一気に顔に熱が集まってくる。
店長がまた笑った。
「そりゃ嬉しいな。俺の勘違いじゃないんだな?お前、俺が好きか」
そう。言いたいことはそれだ!
「好きですう!店長ーううう、何で指輪なんてはめてんですか!いくらイケメンだからって!自意識も過ぎると嫌味ですよ!馬鹿!どんだけ私がきつかったと思ってるんですか」
涙が出て来て前も見え無くなって、堪らず両手の甲で目元を押さえていると、固い何かがおでこにぶつかった。
固いけど、レジカウンターみたいに、無機質で冷たくはなかった。
店長の胸だと気付くと同時に、ぎゅうと頭を抱き締められた。
酒が詰まったとんでもない重さの段ボールを軽々と持ち上げる、細身でも力持ちの店長の胸は、やっぱり分厚くて男だった。
「まさかお前が俺を見てるなんて思わないだろ。分かりにくいんだよ。もっとアピールしろよ」
「結婚してる人に、アピールなんかできる訳ない、じゃないですか。真面目なんですよ、私」
店長が笑った。
「知ってる」
多分良いんだよね?怒られないよね?気持ち悪がられもしないよね?
自問自答しながら、恐る恐る店長の身体に腕を回すと、今度は頭ではなくて肩と背中を強く抱きしめられた。
店長の固い身体に、薄着の私のふにゃふにゃの身体が押し付けられる。
うっわあ。ドキドキし過ぎて胸が痛い。死にそう。
「俺が彼氏で良いんだよな?」
耳元でささやかれる。
駄目だ、もう頭がばくばくで訳分からん。
「返事は?」
「あ、大丈夫です!」
くっくと笑う息が肌に当たってやばい。
「大丈夫ってなんだよ。緊張し過ぎだろ。可愛いなあお前」
店長の顔が、私の首元に埋まり、首筋を食べられそうな予感がした。
店長の頭を全力で押しやった私に、不機嫌な目が向けられる。
「何だよ。やっぱり俺は嫌か。あんな阿呆が大丈夫なのに俺が駄目か」
「違います!店長は嫌じゃないですけど、ていうか!超好きですけど、良く知らないのにさせるなって、さっき店長がーー」
きょとんとしたイケメンが、ゆっくり破顔した。
「ああ、よく憶えてた。良い子だな。ちゃんと帰れるか?送ってやろうか?」
うわー。このイケメン、可愛い。それで優しい。
「送って、貰いたいですけど、ご存知の通り原付なんで、自分で帰ります」
まだ私の背中に手を回していた店長が、頭を撫でてくれる。
「こけるなよ?」
かくかくと頷くと、頬を両手で挟まれ止められた。
唇を押しつけられる。
押し付けられただけで、店長の唇は一切動かなかったが、長くてやばかった。
死ぬ。動悸で死ぬ。
我慢できず店長の胸を押して自分から離れた。
「い、嫌じゃないです。でも、帰る前は駄目です。こけますよ。ふらっふらになって原付でこけます」
店長が笑いながら私の身体を放した。
「じゃあ、もうこれ以上は無理だな。ちゃんと落ち着いてから帰れよ」
奥のデスクへ戻り際、思い出した様に振り返った店長が入り口の方を親指で示した。
「ああ、出る時札外して自動ドアのスイッチ入れてってくれ」
成る程。最初から、説教の為に店閉められてたんだ。気付かなかった。
「店長」
店長がもう一度私を振り返る。
「何だ?」
頑張れ私。ここでしっかり聞いとかなきゃ、後できっと悩むぞ。
酷い動悸を堪えて震える声を絞りだした。
「店長も、えと、私が、あーその。えーっと」
言いよどむ私を面白そうに眺めていた店長が、笑った。
「ああ、俺もお前が、可愛くて真面目で大好きだよ。大分前からな。明日休みなら昼間どっか行くぞ。時間空けとけ」
どうしよう。どうしよう。どうしよう。嬉しい。
身体中が熱い。身体中がどっきんどっきんばっくばっく言ってる。
大好きだって!イケメンが、超優しい怖い顔の可愛いイケメンが私を好きだって!信じられん!
一しきり心の中で興奮をすませると、店長の言葉の後半が気になって来た。
店長今から朝までここじゃん。私と会ってて、明日の夜勤大丈夫なのかな。
「返事は」
店長が私を見て笑ってる。
「はい。でも、私、今から、寝られそうに、ない、ですけど。それに、店長も」
ばくばくする心臓に引きずられて、片言になってしまった。
店長が引き続きそんな私を面白そうに笑っていた。ずっと笑ってるな。可愛すぎだぞ。
「寝られんかったら、一緒に昼寝すりゃいい。じゃあ、公園か映画館で昼寝だな。決めとけよ」
「りょ、かいです」
ふわっふわしながら、家に帰った。
店長に就職のこと相談してみよう。
店以外でも会えるのなら、バイトにこだわらなくても良いもんね。
とにかく、帰り道にこけて死んじゃわなくて良かった。
だって明日は、大好きなイケメン店長と初デートだもん!
あ。検査も行かなきゃ。
浮かれた頭が、ちょっと冷えた。
お終い。
発泡酒に対する偏見は一切ありません。うちも発泡酒あるいは第三のビールしか飲みません^^