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第32話~冒険の気配~

「眠い……超眠い」


「佐藤さん、寝不足ですか?」


「ああいえ、昨日少し遠くに出掛けた後、そのまま天体観測をしていまして」


「へえ、良いですね。でも大丈夫ですか? なんだかフラフラしていますけど」


「流石に疲れたので今日は大人しく寝ることにしますよ。それよりも、ゴミ袋が一杯になってしまったので新しい袋を持ってきますね」


「ありがとうございます。ついでにこちらもお願いしますか?」


「はい、分かりました」


「やっぱり若い男手があると違いますねぇ。あ、それと来月なんですけれど、実は佐藤さんに代理で町内会の役員をやってほしいんですよ」


「え?」


「来月は色々と地区の行事が重なっていて人手が足りなくて、出来れば男の人がいてくれたら色々楽になるんですけど。佐藤さん真面目だし、良い人だし、ね? 来月の土日だけだから、お願い!」


「は、はい」


「ありがとうー! みーんな忙しいって言って断られてしまって困っていたんですよ! それじゃあよろしくお願いしますねー!」


「……っは! しまった、眠気と勢いに押されてしまった……どうしよ。え、マジでどうしよ」





 窓から差し込む太陽の光で朝斗は自然と目が覚めた。

 長年碌に掃除をされていなかったせいで汚れが取れなくなり、少し灰色に曇っている小さな窓ガラスだったが、朝の日差しを感じるには十分だった。


 朝斗が今泊っているのは以前サートが代わりに料金を払っていてくれた高級宿ではなく、普通の駆け出し冒険者が泊まるような安宿である。

 隙間風や雨漏りなども多くあって、決して良い宿とは言えなかったが、それでも迷宮奴隷時代の環境と比べれば十分天国だった。壁も屋根もあるし、地面の上で寝なくても良い、それだけで朝斗は十分満足をしていた。


「寒いなあ」


 早朝の気温は低く、薄くてごわごわした粗雑な掛け布団に頭を埋める朝斗。

 数秒ほどその状態を維持した後に、このままずっとベッドの上で寝ていたい欲望を何とか抑えて、のそのそとゆっくりとした動きで出かける支度をし始める。

 部屋に備え付けてある水瓶に布を浸して湿らせ、顔と体を軽く拭いた後に今度は水差しに入っている水を一口飲む。口の中を軽く湿らせたら、サートが調合してくれた薬をいくつか口に入れ、水で無理やり胃まで流し込む。


(もうすぐこの苦みともお別れだ)


 弱った体を回復させるための滋養強壮に効く薬や体調を整える胃腸の薬など、サートから渡された大量の薬ももうすぐ底を尽く。これらを全部呑み切る頃には体も万全になっている筈だと言うサートの言葉通り、効き目は抜群なこの薬。だが味が今一つであるその薬をもう飲まなくて済むようになるのは素直に嬉しかった。


「手足、関節の痛みも無い、頭のだるさも無い。お腹の調子も万全。よし!」


 服を着替えた後に貴重品や護身用のナイフを服の下にしっかりと身に付ける。そのまま軽く体を動かして今日の体の調子を確認すれば準備は終わりだ。


「黒丸、行くよ。今日はお前のご主人が来る日だ」


 部屋の隅に立てかけてあるサートから預かった杖、それにぶら下がりながら寝ている黒丸に朝斗は声をかける。そのサートの杖を眠ったままの黒丸ごと持って宿屋から出ると、早朝から既に多くの人が大通りの中を歩いているのが見えた。


 荷物を積んだ馬車や皮鎧をまとった冒険者たちが大通りを忙しなく行き来をしている。まだ昇ったばかりで低い位置にある太陽と朝霧の靄が無ければ、今が真昼間だと勘違いをしてしまいそうなほどに賑やかだった。


「相変わらず凄い人の数だな。日本の都会だって流石にこんな朝早くからは賑やかじゃないぞ」


 そんな大通りをしばらく歩くと、迷宮から朝帰りをしてきた冒険者の笑い声が遠くから聞こえてくる。恐らく今回も迷宮から無事に生きて帰ることが出来たお祝いと、稼いだお金の額の大きさに気が大きくなっているのだろう。

 そしてその声に負けてたまるかとばかりに、字が読めない冒険者のためにギルドの職員が依頼書の内容を大声で読み上げている声も聞こえてきた。


「なんだか、日に日に騒がしくなってきている気がするなあ。良いことなんだけど」


 そんな活気あふれる街の光景を見た朝斗はその熱気に飲み込まれてしまわないよう、朝斗は自分の両頬を軽く叩いて自分に気合を入れ、人にぶつからないように気を付けながら目的の場所に向かうのであった。




 あの『アルバの大蛇』が目覚めてから、今日でちょうど四週間が過ぎた。

 朝斗達が迷宮から戻ってきたあの日、この迷宮都市アルバは『アルバの大蛇』による大洪水で崩壊寸前の被害を受けてしまった。ユーザスから情報を与えられた各ギルドの長たちの指示によって、住民はあらかじめ避難をしていたおかげで被害は無かったが、町の中心にある建物は殆ど崩壊してしまったのだ。

 それ以外の崩壊を免れた建物も一階部分は浸食されてしまい、朝斗が泊まっていた高級宿も町の中心に近い一等地に建っていたことが災いして、とても客を取れる状態ではなくなっていた。


(うーん、お礼の品は何が良いかな? 早いとこお金を貯めて準備をしないと、タイミングを逃しちゃいそうだから急がないと。だけど、下手なものは選べないしなあ……)


 そんな宿無き子状態となってしまった朝斗は最初の数日、職人ギルドが急遽用意した仮説の宿に泊まっていた。だがそれを知ったゴッツ達に自分たちの拠点に留まらないかと誘われ、朝斗は暫くそこでお世話になっていたのだ。

 幸いゴッツ達の拠点は町の郊外近くにあり、洪水の流れる方向と多少角度がずれていたおかげで被害が少なく済んだ。全くの無傷という訳ではなかったが、それでも人が泊まる余裕は十分にあり、そこでお世話になったお礼として何を贈ろうかと朝斗はずっと考えているのである。


(そんなこと気にするなって言われたけど、そういう訳にもいかないよなあ……)


 最初はゴッツ達の拠点に行くことを遠慮していた朝斗であったが、ゴッツやアイラといった押しの強い面々を相手にしては成す術もなく、最終的にその二人に無理やり連行されてしまった。サイスとガランに可哀想な物を見るような目で見守られながら、両脇を抱えられて引きずられた時の光景をサートが見たら間違いなく爆笑していただろう。


 勿論アイラ達も朝斗が遠慮をするということは分かっていたし、無理やり泊まらせても心が休まらないということは理解していた。

 だが、一緒に死線を越えた仲間がタコ部屋で雑魚寝している現状を見逃すわけにはいかない。せめてちゃんとした一人部屋に泊まれるようになるまでは、体だけでもしっかりと休ませられる環境に置かせたのである。


 なので、こちらが無理やり引きずり込んだのだから礼なんて必要ないと朝斗は言われたのだが、そのおかげで朝斗がしっかりと体を休ませることが出来たのも事実。そしてそこまで気を使ってもらって何もしない、という選択肢は朝斗の中には存在しなかった。


(せめて菓子折りを持って行って挨拶に伺うぐらいはしないと)


 その菓子折りに相当するものを探しているのだが、探すついでにこうして色々な場所を見て回ると、改めて一月近く前に未曽有の大災害が起こったとは思えない程の活気だと感じる。


 今いるこの大通りも最初は土砂と瓦礫の山で覆われており、それを重機も使わずに整備をしようすれば、それだけでどれほどの時間がかかるのか想像したくもない重労働であったのだ。

 そんな状態から僅か一月足らずでここまで元通りに復興が出来たのは、実は殆どユーザスのおかげと言っても良かった。



 あの日、サートによって蘇らされたユーザスは暫くの間怒りが治まらぬといった面相だった。しかし流石は年の功というべきか、暫くすると自らの感情を自力で制御して落ち着きを取り戻した。

 逃げ出したサートには後日必ず説教をしてやる、と固く誓って気持ちの整理が出来たおかげなのかもしれないが、そんな落ち着きを取り戻して気持ちを切り替えたユーザスに、朝斗は今回の依頼の報酬について尋ねられたのだ。


 本来であればユーザスの残した遺産の一部を報酬として、冒険者ギルド長であるジエーラを通して朝斗達に渡す予定だった。しかしこうしてユーザスが生き返ってしまったので遺産云々は難しくなってしまったが、それでも金銭にはかなりの余裕があるため報酬として払う分に関しては問題無かった。

 そのまま一生お金に困らない程度の金銭を報酬としても良かったのだが、サートに黒丸を渡したように、金銭以外に何か欲しい物は無いかとユーザスは朝斗に聞いたのだ。


『今、何か欲しい物はあるかね? もしくは、叶えて欲しい願いでも良い』


 土地でも地位でも何でも構わない、私の力が及ぶ範囲ならどんなものでも用意をしよう、とRPGの敵キャラの様な台詞を言うユーザス。

 実際に朝斗達はユーザスにとってそれだけ価値のあることをやってくれたし、しかも朝斗は神族の声を聞くことが出来る貴重な人材である。故に今後の繋がりを保つためにもユーザスは朝斗の要望に最大限応えるつもりだった。


 神族を自らの手で造り出し、そしてサートに渡した死者蘇生すら可能にさせてしまうアイテムも元を辿ればユーザスが作ったものである。ここで朝斗がどんな無茶な願いを言ったとしても、大抵のことならユーザスは叶えられるだろう。

 だが、そんな何でもありの大魔術師に対して朝斗が要求したのは金銭でも地位でもなかった。


『この町の復興に、力を貸して下さい。あなたの力が、必要です』


 その自らの予想とはかなり違った朝斗のお願いの内容を聞いて、ユーザスは少しだけ驚いた顔を見せ、同じくその場に居たジエーラは思わず片眉を上げた。

 確かに魔術を使えば崩壊した建物の大量の重い瓦礫も簡単に移動できる。そして『アルバの大蛇』が巨大な水柱として飛び出してきたせいで地面が吹き飛び、今は巨大な縦穴が開いている迷宮の入り口もユーザスが力を貸せばすぐに元通りになるだろう。そうなれば本来なら数年はかかるはずだったこの町の完全な復興まで、相当な時間を短縮することが出来る筈だ。

 だがそれは本当ならジエーラのような町を運営するトップ達が頭を悩ませ、その胃を痛めながらユーザスに打診するべき事柄である。それを報酬代わりとしてユーザスに要求してくれるというのであれば、ジエーラ達にとっては有り難いことこの上ないのだが、問題は何故そんな事を朝斗が言ったのかだ。


『仕事が出来るようにならないと、お金を稼げないので』


 ならば最初から金銭を報酬として要求すれば良いのではないか。と、朝斗に理由を尋ねたユーザスとジエーラはそう思った。しかし、二人はすぐに朝斗が自分だけのことについて言っているのではないことに気が付いた。

 仕事が出来るようにならないとお金を稼げないのは、この町にいる全ての者に言えることだ。


 それに、よくよく考えてみると朝斗はつい最近まで元迷宮奴隷だった人物だ。しかも使っている言語からしてこの国の出身ではない。後ろ盾といえるものはサートしかおらず、そのサートも七日に一度しかこの町を訪れない。そんな人間が大金を得た後にどうなるのか、そんな事は子でも分かることである。


『ふむ』


 そのことを踏まえて改めて考えてみると、朝斗の要求した『街の復興の手助け』というのは案外悪くない内容だったのかもしれない。むしろ、ジエーラを含む各ギルドの長に貸しを作り、そしてこの町に住む住人と冒険者達を全て自分の味方に変える良い手だったと言える。

 何故なら、この町のために自分が得られる筈だった莫大な報酬を手放した功労者に対して、町のトップ層であるジエーラ達が何もしないわけにはいかないのだ。最低でも当分の生活に困らない程度の金銭と生活環境を提供しなければならないだろう。勿論その程度で借りを返せるわけではないが、それ位はしないと町の支配者層としての面子が立たないのだ。


『……この国の読み書きを覚えたら、私の所へ来なさい。肉体労働以外の仕事を用意しよう』


 お金を稼ぐにしても、どうせなら命の危険が無い方が得だろう? と、傍で二人のやり取りを見ていたジエーラが言った。

 偶然か、それとも計算していたのかは分からないが、目先の利益にとらわれず、現時点では最良といえる選択肢を掴み取った朝斗。そんな朝斗に思うところがあったのか、それともただ単純に気に入ったのか、ジエーラはそんな言葉を言い残して自らの仕事に戻って行った。


『えー、と……?』


『金に困ったらいつでも自分を頼れということだ。分かり難いと思うだろうが、あいつは子供の時からああなのだ。慣れなさい』


 ユーザスの説明を聞いてようやく理解をした朝斗。つまり、ならず者に目を付けられないようにジエーラは気を遣って、直接現金を渡すのではなくきちんと労働の対価として金銭を用意すると言っているのだ。さらに、冒険者が嫌になった時にはギルドの職員として雇っても良いと暗に言っているのである。

 流石は政治家の血が流れていると言うべきか、朝斗はたった一つのお願いで自分に降りかかるリスクを避けつつ味方を増やし、ついでに仕事のあてまで手に入れることが出来る妙手を打ったのだ。


『そういう、人ですか。だったら、大丈夫です。慣れてます』


『クク、そうか』


 なにせ両親とその親類のおかげで、色々な人と会う回数だけは飛びぬけて多かったのだ。こういう時だけは自分の家族事情に感謝が出来る。


『サートに会ったらよろしく言っておいてくれ。それと一応、感謝もな』


『分かりました。でも、直接言わないのは、サートさんが逃げるからですか? それとも、照れく―――』


『さて、な』


 朝斗の言葉を全て聞き終わる前に、ユーザスは機嫌が良さそうに笑いながら朝斗の頭を一度だけ優しくポンっと叩き、そのまま何も言わずにその場を去ったのであった。



 そしてユーザスは朝斗の要求通り翌日から町の復興に積極的に手を貸していった。大量の重い瓦礫を一カ所にまとめ、一度完全に粉砕してから再び建材として再生したり、完全に崩壊した迷宮付近の地面を元に戻したりと、ユーザスは魔術を使って八面六臂の大活躍をしていた。

 その活躍によって日毎に以前と同じ町並みを取り戻していくアルバの町を見て、後はもう自分がいなくても大丈夫だろうと判断したユーザスは暫く留守にするとだけ言い残して姿を消し、未だに戻ってきていない。


 そのことを先週サートがこちらに来た時に朝斗が伝えると、どうせまたどこかで陰謀でも巡らせているのだろうという返事を返された。もう既にユーザスの目的は果たされた筈なのだから、それは無いのではないか。そう思ったが、同時にものすごく想像がしやすかったので二人して笑っていた。


『おっと、着いた』


 そんな事を思い出しているうちに、朝斗は目的の場所だった冒険者ギルドに併設された酒場に辿り着いた。その酒場の扉を開けて建物の中に入っていくと、席に座って食事をしていた最近知り合った冒険者達の一人が朝斗に気が付いた。その冒険者は手を上げて朝斗に挨拶をした後、親指で奥の机の方を指差す。

 多分朝斗が探している人物がそこにいると教えてくれたのだろう。朝斗はその冒険者に会釈をしてから、指差された方へと進んで行く。


『おはようございます』


『おーす、おはよう。朝飯は食ったか? まだなら奢ったるからとりあえず座れー』


『はい、御馳走様です』


 朝斗が向かった先にいたのは、いつものように値段が安いだけが特徴の、間違っても凄腕の魔術師が食べるようなものではないメニューを、実に不味そうな顔で食べているサートであった。そしてこのやり取りも今回で四回目だ。


 この人もいい加減その変な趣味をやめれば良いのに、と思いながら朝斗はそのままサートの対面に座って、字が読める冒険者用に用意をされたメニュー表を手にとる。


『よし、決めた』


 今まで空いた時間を全てサイス達から教わったこの世界の文字の勉強に費やしてきた甲斐あって、この程度の文章なら苦も無く理解することが出来るようになった朝斗は、遠慮なく自分が普段食べられないメニューを選んでいく。

 頼む料理が決まったら、少し離れた場所でこちらをニコニコしながら見ている看板娘のアンを呼び、軽い足取りでこちらに向かってきたアンに自分が選んだものを注文していった。


「えーと、若鶏の串焼きと麦粥、豆と兎肉のスパイス煮、あと小麦の白パンに根野菜の特製スープをお願いします」


「はーい。あ、因みに今日のお勧めは、今朝届き立ての新鮮葉野菜を使った特製サラダです」


「じゃあそれもお願いします」


「おーう、アンちゃん。ここぞとばかりに金を毟り取ろうとしてんじゃねえよ」


 ここ最近で随分と上達したこの国の言葉で流暢に注文をする朝斗。そんな朝斗にもう一度はーい、と返事をしながら上機嫌で厨房まで注文を届けに歩いて行くアン。その後姿を見ながら、サートは頬杖をつきながら呆れたような口調で口を開いた。


『朝斗君、何か段々食べる量が増えてきてない?』


『遅れてきた成長期の時に取れなかった栄養を、今摂取しているみたいです』


 その言葉通り、一月前と比べると朝斗の体格は見違えるほどに変わっていた。

 身長こそ変わっていないが、今まで骨が浮き出ていた手足にはしっかりと筋肉が付き、デコピンをしただけで背骨が折れそうなほどに薄かった胴体にも厚みが出てきた。元々が細身なせいで見た目には分かり難いが、朝斗が今上着を脱げば以前の様なガリガリの貧弱な体ではなく、機能美を突き詰め極限まで絞り上げられた筋肉の鎧が姿を現すだろう。


 診察の時にその変化を見たサートが思わず、つくしからアスパラへの大変身だ、などと呟いたほどの変化だ。

 あのガリガリの状態でさえ常人離れした動きを見せていたのに、今のこの筋肉を身に付けた万全な身体ではどれほどの動きを見せるのだろうか。そんなサートの感想を余所に、朝斗はただ呑気に自分が注文した料理が来るのを今か今かと待っているだけだった。


『……毎日ちゃんと飯食べてんのか?』


『食べていますよ。ただ、今日は一週間ぶりのご馳走なので』


 サートの質問に笑顔を崩さないまま返答する朝斗に、ここまで喜んでくれるのなら奢り甲斐があるな、と思っておくことにしたサートであった。


 実際、朝斗もここまで豪華な朝食をとるのは一週間ぶりなのだ。朝斗が泊まっている安宿はただ夜を越すためだけが目的の宿なので朝食などは出しておらず、朝斗は食事は全て外で取っていた。

 このギルドに併設された酒場の食事はあまり安い値段とは言えないが、逆に安すぎる食事を出す店は食べ物の質も客の質も危険なところばかりである、と朝斗はサートに忠告をされていた。そのため、そんなところに行って余計なリスクを負うよりは、少々値段が割高でもギルドのおひざ元であるこの酒場で食事をした方が何倍もマシであると、基本的に食事はここで取っていたのだ。おかげで看板娘であるアンとはしっかり顔なじみである。


 すぐ傍に冒険者ギルドの建物があって目を光らせているこの場所で騒ぎを起こそうとする者などいる筈もなく、料理の値段も安全をお金で買っていると思えばそこまで高くは無いと思える程度だ。

 かといって朝斗もそこまでお金に余裕があるわけではなく、ある程度値段が高いのは必要経費として割り切れるが、それでも出来るだけ安く済ませるに越したことはない。


 そのため普段はオートミールもどきと屑野菜と豆の塩スープ、そして量だけは多いが未だに何の肉なのか分からないステーキを中心に栄養のバランスを意識して食べていた。

 駆け出し冒険者用というだけあって、どれも値段はそこそこでボリュームがあるため、朝斗はこれらのメニューにとてもお世話になっているのだ。勿論味も勿論値段相応なのだが、ついこの間までまともに食事をとることが出来なかった朝斗にとっては十分なご馳走と言えた。ただ、どんなに値段が安くても芋だけは決して注文しなかったが。

 しかし週に一度、サートがこちらに来る日はいつも食事を奢ってくれるため、その日だけは値段が高くて普段自分が注文できないメニューを好きなだけ頼むのである。


『まあぶっちゃけ、いくら頼んでもこっちの方の財布には殆どダメージが無いから良いんだけどね。あと、そうだ。忘れない内に、はいこれ』


 料理を待っている今のうちに済ませておこうと、サートが懐からある物を取り出す。


『それは……!』


 それはサートが初めて朝斗と出会った時、朝斗がその手に強く握りしめられていた眼鏡であった。レンズは抜け落ちて、フレームもがたがたに歪んでいたそれは、とても眼鏡としての機能を果たせる状態ではなかったのだが、朝斗はその壊れた眼鏡をお守り代わりとして今まで大切に持っていた。


 今はとある理由から眼鏡を掛ける必要は無くなった朝斗だが、それでもいつまでも壊れたままというのはどうなのかと思ったサートが修理をしたのである。

 オーダーメイドの品のため、下手に専門店に持ち込んで万が一にも足が付くのを避けたサートは、とりあえずレンズだけは店に用意をしてもらい、残りの金属フレーム部分は全てサートが錬金で地道に直していったのである。


『元の形は見たことは無いけど、どうよこれ? 結構な自信作なんだけど』


『完璧です。まさかここまで元通りになるなんて……』


『だろう? 苦労したんだぞー、特にここの名前が刻まれている部分とか―――』


「ああ、やっぱりここにいたんですね。サートさん、アシャットさん」


 注文した料理が出てくるのを待ちながら二人がこのように雑談を交わしていると、横から声が掛けられた。その落ち着いた響きの声が聞こえた方向に顔を向けると、そこには二人が予想した通りの人物、ミラが立っていた。


「席、ご一緒してもよろしいですか?」


 以前のように中途半端に母親の真似をした髪型ではなく、きちんと丁寧に編んだ髪の毛を後ろに纏め、より女性らしさが高まったミラ。

 元々綺麗な顔立ちをしていたが、それがより一層際立っている。それなりに手間がかかる髪型だが、リラが遺してくれたその髪の編み方を忘れないように、偶に時間がある時にアーグやアイラに手伝ってもらいながら練習をしているのだ。


「もう朝食は食べたか? 奢るぞー」


「ありがとうございます。んー、何かお勧めはありますか?」


 同席をしても良いかと尋ねるミラに特に断る理由も無い二人はそれを了承し、三人はそのまま一緒のテーブルに座る。そして朝斗と同じように朝食がまだなら何か奢ろうと言うサートに、ミラも遠慮なく甘えることにした。


「新鮮なサラダが今日のお勧め、らしいです」


「では、私もそれで」


「俺もなんかお代わりしよ」


「フフ、サートさん、今日も相変わらずですね」


 ミラはよく笑うようになった。

 今までも笑顔を見せなかったわけではなかったのだが、その頻度が格段に増えたし、笑い方も変わった。今思えば母親であるリラの真似をしていたのだろう、口角を上げて二コリと微笑むような上品な笑い方から、にっこりと向日葵の様に顔の表情を大きく動かした華やかな笑い方に変化したのだ。そしてミラのサートに対する態度も以前と比べて随分と柔らかいものとなっていた。


 一体どんな心境の変化があったのかは分からないが、そんなどこか吹っ切れたような様子のミラを見ながら、そういえば昔はやんちゃな子供だった、とリラが言っていたのをサートは思い出す。

 普段は冷静でどこか冷たい印象を抱かせ、大人びた雰囲気の綺麗な女性が不意に見せるまるで子供のように無邪気な笑顔。サートはその笑顔を見て初めて、ミラが小さい頃は男の子と同じくらいやんちゃな子供だったというリラの言葉を信じることが出来た。


(あ、何かあいつのことを思い出したらまた腹が立ってきた)


「急に不機嫌になりましたね」


「この顔は、私の母のことを思い出している顔ですね」




 あの日、サートがユーザスから逃げて更にリラからも逃げ出したその後、リラはどこか不機嫌そうな雰囲気を出しつつもゴッツ達にさりげなく合流した。

 それからジエーラ達によって避難命令が解かれてゴッツ達と一緒に拠点に戻ると、洪水のせいで荒れた建物の中を軽く整えた後に、リラは早速『アルバの大蛇』から手に入れた光る水を使って薬を調合し始めた。

 薬の調合自体はあまり複雑なものではなく、必要となる材料を準備して手順さえしっかりと理解していれば短時間で完成する薬であった。その薬を作り終えた後、リラはアーグが用意をしてくれた食事を仲間たちと一緒に取り、一夜限りの団欒の時を過ごした。


 そしてその日はそのまま全員が眠りにつき、翌日になって皆が目を覚ました時にはもう既にリラの魂は消えていた。


 だがリラは薬を飲んで眠る前にミラに宛てた手紙を書き遺していた。

 丁寧に折りたたまれた紙が枕元に置かれているのを、身体の主導権を取り戻して目を覚ましたミラが見つけたのだ。そのリラの遺した手紙の枚数はとても多く、そこに書かれていた内容も我が子を心配するリラの愛情を深く感じられるもので、ミラは涙を流しながらそれを読んだ。


 それ以外にもアイラ達や朝斗へ向けた手紙もあり、どれもミラが世話になったことへの感謝が丁寧な字と言葉で綴られていた。そしてその手紙の中にはサートに宛てたものもあった。


 ―――あったのだが、その一つだけやけに雑に折りたたまれた手紙の中にはただ一言、


『このヘタレ野郎』


 という言葉が大きく殴り書きされていただけであった。


 その手紙を読んで顔を引き攣らせていたサートを、ミラは母とは一体どんな関係だったのだろうかと思いながら観察していた。

 リラの精神が表に出ていた時のことをミラは最初あまり覚えてはいない。まるで夢でも見ていたかのように断片的で、ぼやけた映像程度にしか始めは思い出すことが出来なかった。ただ、それでもサートとリラの関係が普通とは違うということだけは分かる。

 リラと知り合いだったということは以前サートから聞いたことはあるが、それだけにしては距離が近いし、かといって友人というのも少々違うように感じる。


(サートさんって本当に何者なんだろう?)


 ミラの記憶にある母は死ぬ直前まで顔に皺一つ無い若々しい姿のままであった。しかし、十年以上ミラを育ててきたことは確かで、それだけ年齢を重ねているのも事実だ。魔術の知識やそれを扱う腕も、ユーザスと会うまではリラ以上の魔術師に出会ったことなど無かった。

 だがアイラ達から聞いた話だと、そんなリラを相手にサートは一歩も引かずに対等に渡り合い、しかもリラはサートのことを『サトラク』という名で親しげに呼んでいたそうだ。


(お母さんの昔の話、聞きたかったなあ……)


 それ以外にも母とはいつ何処で知り合ったのか、どうやってその若さでそれほどまでの実力を身に付けたのか、『サトラク』という名は何なのか。サートに聞きたいことは山ほどあったが、そんな事を聞かれても簡単に教えてくれる筈がないだろうということはミラも理解している。

 誰にだって知られたくない過去はあるし、それを無理やり聞き出すことは出来ない。それが分かっているからアイラ達も何も追及していないのだ。だがそれでも、いつかサートがリラのことを語ってくれるのをミラは期待して待っていた。


「お待たせしましたー」


「どうやら来たみたいですね」


 ミラがそんなことを考えているうちに、先ほど注文した料理が運ばれてきた。その殆どは朝斗が頼んだ料理であったが、色とりどりの料理が一つの机の上に所狭しと並べられているのを見ると、それだけでなんだか楽しい気分になってくる。


 熱々の野菜スープと麦粥から立ち昇る湯気が顔を撫で、鳥肉が焼けた香ばしい匂いと、スパイス煮の食欲を促進させる刺激的な香りを嗅ぐだけでお腹が鳴りそうになる。焼き上がってそれほど時間が経っていない白パンの優しい小麦の香りは、まだ口に入れていないのにもう既にその柔らかさが想像出来た。


「むう、これは……、注文の追加をお願いします」


「はーい。兎肉の特製シチューがお勧めですよ?」


「では白パンとそれで」


 間近で人の食欲をダイレクトに刺激する香りの直接攻撃を受けたミラは、これはサラダだけでは到底満足できそうにないと察して追加の料理を頼む。そしてアンに進められるが儘に、地味に手間がかかって値段が高い特製シチューを注文してしまう。


「何か、アンちゃんが最近すごい商売上手になってきている気がする……」


 多分こうなるだろうと予想して、近くで待機をしていたアンが上機嫌に歩いていく姿に、サートは人の成長というものを感じたのであった。




「サートという魔術師はここにおるか?」


 今日は食事中に良く声を掛けられる日だなと、そう思いながらサートは食事の手を止めて声が聞こえた方向に顔を向ける。すると、酒場で食事をしていた他の冒険者たちもそちらに顔を向けているのが目に入った。


「げっ……」


 サートの視線の先にある大量の冒険者達の後頭部の更に向こう側には、そこいらの冒険者とは明らかに放つ空気が異なる人物が酒場の扉の戸を開けて立っていた。

 それを見て思わず声を上げてしまったサートは慌てて口を押さえ、目立たないように頭を下げながら入口の方向を盗み見る。


(なんでこんな所にいるんだ? うわ、まったく良い予感がしないぞ……)


 その人物は美しい女性であった。細かな紋様が彫られた白い金属製の鎧を身に纏い、そしてその鎧以上に輝く銀色の長い髪。

 一目でただの一般人ではないことが分かるその女性を見て、サートは顔を隠し、朝斗は即座に存在感を消し、ミラは目をぱちくりと瞬かせて呆然としていた。


「もう一度訪ねよう。サートという魔術師はここにおるか?」


 今まで経験したことのない高貴な雰囲気にのみ込まれて誰も言葉を発することが出来ないのか、先ほどまで騒がしかった酒場の中がシーンと静まり返っている。

 その様子に少しだけ困ったように眉を下げ、その人物は少しだけ口調を和らげながらもう一度同じ言葉を繰り返す。すると二度目でやっとその言葉の意味を理解できたかのように、酒場にいた冒険者たちは一斉にサートのいる方へ首を回した。


(こっち見んなお前ら。って、やべ、こっち来た)


 今まで反対方向を向いていた頭が一斉にグルンと自分の方に顔を向けてくる光景はかなり不気味だったが、そんな事など今は気にしていられない。冒険者たちの視線に誘導されるように、コツコツと足音を立ててサート達のいるテーブルに近づいてくるその人物は迷いなく歩を進めてきていた。

 往生際悪くフードを深く被り、顔を隠して無駄な抵抗をしているサートだが、その人物の突き刺さるような視線を感じて完全にロックオンされたことを悟る。


(もういっそ逃げるか? 逃げちゃうか? あ、でもまだ食事代払ってないや)


「こうして直接言葉を交わすのは初めてになるか。だが、それでも言っておこう。久しぶりだな、魔術師サート」


 一瞬、転移魔術でこの場を離れることを考えたサートだが、料理の代金を支払っていないことに気が付いた。朝斗達に奢ると言った手前このタイミングで離脱するのはどうだろうか、などと悩んでいる間に目の前まで距離を詰められてしまった。

 そして、こうして声をかけられたら最早手遅れである。こうなったら何とか無難にこの場を凌ぎ切るしかない、と思ったサートは営業スマイルで返事を返した。


「いやー、ははは。やっぱり顔覚えられてましたか? お久しぶりですフェルマリス様」


「あれほど堂々と無視をされたのは初めてのことだったからな。貴重な体験であったぞ?」


 完全に開き直ったサートに対してその女性、『姫騎士』ことフェルマリス=エルムウラは軽く鼻を鳴らし、どこか冗談めいた口調でそう返した。


(うん? この反応はちょっと予想外)


 彼女は以前、自らの私兵姫騎士団を率いて蟻の主級<アント>を討伐に臨んだが、主級の圧倒的な暴力の前に膝を屈した過去がある。そこで多くの仲間を失い、本人も主級等言う存在の恐ろしさを思い知ったのだ。

 そして主級相手に何とか生き延びたフェルマリスは自らの手で仲間たちを助けるために、姫騎士団の救出部隊という建前で主級に挑むサート達を呼び止めようとしたのだが、それをサートに思い切り無視をされたのである。

 なので、サートはもっと自分に対して刺々しい態度をとってもおかしくはないと思っていたのだが、その予想は外れた。


「いやー、私もあの時はもの凄く緊張していたせいか、全く気が付きませんで。私も後から話を聞いて驚いていたのですよ」


(嘘つけ)


(嘘つけ)


(ゴッツ達から直接聞いたぞ、俺。追ってきた姫騎士を目の前でガン無視したって)


 勿論嘘だ。未だに静かなままの酒場の中で、二人のやり取りを聞いていた冒険者達が皆ひそひそと小声で会話をしているのが朝斗達には分かった。サートも周りが何を考えているのか大体察しが付いていたが、そんな事を気にせずに笑顔を張り付けたままフェルマリスの反応を観察していた。


「聞いた通り中々良い度胸をしているな、お前は。普通の者なら仮にも王族の前でそこまで堂々と開き直ることは出来ないぞ。うむ、新鮮だ」


(あ、やっぱり欠片も信じられてねえや。にしても……)


 やはり心に余裕がある、とサートはそう感じた。自分を慕う多くの仲間を一度に失い、絶望のどん底に突き落とされたはずだ。常人なら一生ものの心の傷を負うレベルだと言うのに、その表情はどこか柔らかい。王都に連れ戻されてから何があったのかは知らないが、既に完全に立ち直っているように見えた。


「……フェルマリス様は少し雰囲気が変わりましたね。貴族訛りも出ていませんし」


「あれは気が動転して幼少時代の口調が出てしまっただけだ」


 フェルマリスは思い出したくない部分を突かれたせいか、ぶすっとしたように少しだけ顔を歪めてそっぽを向く。そんな彼女に対し、へー、と乾いた返事をした後に、サートはぼそりと呟いた。


「……待つのじゃー」


「本当に良い度胸をしておるの、お主……」


 日本の公家言葉のように、高貴な身分の者が偶に話す独特な訛りをサートが突っつくと、少しだけ頬を引き攣らせたフェルマリスの素の表情が現れる。恐らく今は意識して堅苦しい口調で話しているのだろうが、こちらの方が彼女の本来の口調なのだということが分かる。


(でも怒りの感情を見せたり、露骨に不機嫌になったりはしない、か。うーん困ったな、どうしよ……)


 サートは過去の印象から、フェルマリスのことをもっと直情的な人物だと思っていたがその予想は外れた。ここで自分のことを侮辱されたのだと受け取って、冷静さを失うタイプだったらまだつけ入る隙があって有り難かったのに、とサートは悩む。


 しかし、よく考えればサートが見たことのある『姫騎士』フェルマリスといえば、蟻の主級<アント>に敗北した後の姿だけだ。

 しかもサートが初めて彼女を見た時は、まさに仲間を全て全滅させられた直後であり、本人も怪我を負っていた時である。どんな人間だろうとそんな状況では平常でいられるはずもない。そう考えると、今サートの目の前にいるこの状態の彼女が、本来の姫騎士の姿なのだということに思い至る。


 そして、サートがフェルマリスを観察していたように、フェルマリスも同じようにサートを観察していた。だがフェルマリスはほんの数秒間だけサートの目を見続けたかと思えば、急に疲れたように深い溜息を吐いた。


「お前に言いたいことはそれなりに多くあったが、まあ良い。全て水に流そう。なんだか急に馬鹿馬鹿しくなってしまった」


「何か良く分かんないけど、あざーす」


 言葉とは裏腹に、人の顔を見て溜息を吐くとか失礼な奴め、という思考を全く隠そうともしないサートの顔。そんな自分の心情を欠片も理解していないだろうサートの様子を見て、フェルマリスはもう一度溜息を吐いた。


 そのフェルマリスの顔からは多少の疲労感が感じ取れたが、逆にそれ以外の負の感情や暗い影は見られない。本当に一体何があってここまで立ち直ったのか、サートには想像がつかなかった。だがそれをいくら考えても分かるはずも無いので一旦保留とし、改めてフェルマリスに向き直る。


(何か睨まれてる。怖えー)


 だが、これが王族のカリスマ性というものなのだろうか。堅苦しさだけでなくどこか人間味を感じさせる性格に、声一つで人々の視線を集め、そしてそのまま目を離させない不思議な魅力を持つ人物であることは感じ取れた。


 サートが視線をフェルマリスから周囲に逸らすと、いつの間にか他人の振りをして違う席に移りながら気配を消して、フェルマリスの様子をじっと観察している朝斗が見える。そんな朝斗を除けば、ミラを含めたこの酒場内にいる殆どの冒険者がフェルマリスの放つ雰囲気に呑みこまれていた。


(これは認識を大幅に上方修正しないと駄目だなあ……)


 容姿、風格、カリスマ。どれをとっても世が世なら歴史に名を残しそうな女傑だ。そして、そんな一筋縄ではいきそうにない相手からどうやって逃れるか、サートはそれしか頭に無かった。


「では―――」


「おっと、このまま話を逸らして逃げようとしても無駄だぞ? お前のことはしっかりと聞いているからな。例えば……」


 こんな酒場で話を続けるのもなんだから場所を改めるのはどうか。そう提案して隙あらば煙に巻こうと席を立ちかけたサートの額を、フェルマリスは指先一つで押し戻す。そして額から指を離さぬままサートの耳に顔を近づけ、周囲に聞こえないように耳元で小さく呟いた。


「―――転移魔術は、こうして誰かに自らの肌に触れられていると、その相手も一緒に転移をしてしまう……とかな」


「む」


 その情報は正しかった。ある程度自分から離れている物を自分と一緒に転移させることは出来る。だが誰かに触れている時、あるいは触れられている状態で自分だけ転移をするというのは難しい。不可能とまでは言わないが、かなり精密な演算を要求され、最低でも十数秒は演算のみに意識を集中しなければならない。

 普段なら別に何の問題にもならない制約なのだが、いまこの時だけはサートにとって致命的であった。


(このお姫さん、目が笑ってない。てか、ちょ、マジで動けない)


 未だサートの額から離されないフェルマリスの人差し指。立ち上がろうとすれば押し戻され、動くことが出来ない。転移魔術で逃げようにもフェルマリスの言った通りこの状態では彼女も一緒についてくることになる。

 流石に一国の姫を大衆の面前で蹴飛ばして退かすわけにもいかず、フェルマリスの放つ威圧感で上手く意識を集中することもできない。この膠着した状態の中で逃だすことが難しいと悟ったサートは、とりあえず何か良い案が思い浮かぶまでの時間稼ぎついでに、先ほどから気になっていたことを質問した。


「……その情報を、誰から聞いたのかお尋ねしても?」


 フェルマリスはサートについて誰かから話を聞いていたと取れる発言をしていた。前世であるサトラクについてならともかく、この世界でサートのことを詳しく知っている人物はそれほど多くないはずだ。それなのに一体誰から自分の情報を得たのか、サートはそれが気になっていた。


「魔術師ユーザス・ハーザだ。お前の知り合いだろう?」


 勿体ぶることもせず、むしろ待っていましたとばかりにあっさりとフェルマリスはサートの質問に答えた。

 そして、その名前を聞いた瞬間に酒場にいた冒険者達は一瞬ざわめき、サートは体を硬直させる。まさかここでその名前を聞くとは思っておらず、不意打ちを食らった気分であった。


(一体どこで何をしているのかと思えば、そんなところで……)


「随分とお前のことを高く評価していたぞ。自分に対して正面から意見を言える数少ない対等の魔術師だとか、彼がいなければ自分の研究の進展は無かったとか。そうそう、命の恩人とも言っていたな」


(あ の く そ 爺)


 フェルマリスの言葉を聞いて、やはりあのまま死なせておいた方が良かったのではないかと本気で思うサート。


 確かに言っている内容に嘘は無い。だがそれはトカゲを指して恐竜だと言っているようなものであり、そしてわざわざそんな言い方をしたのは確実に故意だろう。

 どうせいつもの様に、何かしら理由があっての行動なのかもしれないが、間違いなく今頃どこかでほくそ笑んでいるだろうユーザスの姿が鮮明に思い浮かぶ。

 絶対に半分ぐらいは意趣返しだ。伊達に長いこと弟子をやっていないサートには、それが手に取るように分かった。


「先月、王都で夜が昼に変わるという異常事態が発生した。空を見上げれば、太陽の代わりに数えきれないほどの膨大な数の光の筋が合わさり、まるで昔話に聞く『流星の川』を連想させる光景が見えた」


 この町を去ったユーザスをほんの少しだけでも心配をした自分が馬鹿だった、と心の中で歯ぎしりをしているサートを無視してフェルマリスは本題に入る。


「王都以外の町や村々でも同じ現象が確認された。当然かなりの混乱が起きたが、それ以上に驚くべきことが起こった」


 フェルマリスは真剣な目でサートを見る。まるで吸い込まれてしまいそうなほどに真っすぐな視線に、サートは思わず軽口を叩くことを忘れてしまう。


「夜を真昼間に変えたその謎の光を浴びた、もう死を待つばかりの重度の病人が、見る見るうちに快癒したという現象だ。それも、一件や二件ではない。

 症状の軽い、病とも言えない程度の体の不調も合わせれば、光を浴びたほぼ全ての者が影響を受けていると言っても良い」


 病を癒す不思議な光。フェルマリスの言葉に反応して、朝斗が自らの目を確かめるようにそっと手を当てるのが視界の端に見えた。


「それから調査を進めていくと、どうもあの謎の光の発生源はこのアルバだということが分かった」


(うん知ってる。というか当事者だ)


 むしろ原因の一人といっても過言ではない。

 そのことについて聞くためにこのアルバに来たのだろうかと一瞬だけ思ったが、フェルマリスの目はまだ話は終わっていないと言いたげであった。


「その謎の光が消えた翌日、今度は巨大な黒い太陽が遥か上空から現れた。その黒い太陽はこのアルバの町に向かって沈んで行き、忽然と消えたという報告が上げられた」


(黒い太陽? ……あっ)


(『アーイ』だ)


(『アーイ』ですね)


 黒い太陽と聞いて一瞬何の事だか分からなかったサートだが、すぐにそれが自分が宇宙まで吹っ飛ばしたままほったらかしにしていた『アーイ』であると察しがついた。

 ただ、朝斗やミラ、そして酒場にいる冒険者たちの反応を見る限り、彼らもこの話は今初めて知ったようであった。


 自分達の住んでいる町に巨大な黒い物体が落ちてきて、しかもそれが突然消えたとなれば誰かが気が付いて、もっと噂になっていなければおかしい。それが無いということは『アーイ』なりに気を遣って迷宮の中に戻ったのかもしれない。


(だとしたら後もうちょっと、町の外の人間にも見えないようにしてくれたら完璧だったのに)


 などと無責任なことを元凶である本人が考えていると、フェルマリスは少しだけ目を細めて最後に、と前置きを置いて話を続けた。


「そしてつい先日のことだ。王都を中心にした広い地域で、今まで経験をしたことのない地揺れが起こった」


(それは俺知らねえや)


 周りの反応を見ると、サート以外の冒険者たちも地震が起きたことは知らないような素振りを見せている。


「建国以来、この短期間でこうも連続して異変が起こったという記録は無い。これが天変地異が起きる前触れなのか、それとも既に起きているのかは分からない」


 どちらにしろ、国はこの異常事態を黙って放っておくことは出来ない。故に、王は本格的にこれらの原因を調査するという結論を下したのだ、とフェルマリスは言う。

 そして当然のことながら、まず一番最初に調査すべき場所として『流星の川』の出処であり、黒い太陽が沈んだという目撃証言があるこの迷宮都市アルバの名が挙げられたのだ。


 そしてもう一つ、調査をしなければならない場所がある。

 それはこのアルバから飛び出した『流星の川』こと、迷宮の真の主である『アルバの大蛇』が向かったと思われる場所―――



「『魔華の森』の最奥、あの勇者アルバが訪れたと言われる『砂金の滝壺』に辿り着くために、お前の力を借りたい」



「……俺を探してた理由はそれか」


 サートが『砂金の滝壺』に行ったことがあるということを一体誰が教えたのか、なんて言うまでもない。何故そのことを教えたのか、などと考えただけで無駄である。ユーザスの起こす行動の理由をいくら考えたところで分かるはずなどないのだ。


「あの人が関わっている時点で今更細かいことは言わないし、気にしないさ。ただ、他にも何か理由があるでしょ?」


 それをさっさと吐きだしてどうぞ、と言わんばかりのサートの態度に、フェルマリスは少し目を見開いて驚いたような表情を見せた。まさかそこに気が付かれるとは思っていなかったようで、見直したと顔に書いてある。

 ただ、未だにフェルマリスに額を押さえつけられているせいで、今一恰好は付かなかったが。


「……別に隠していたわけではないのだがな。今回の一連の出来事に対して恐怖する者は勿論多くいるが、そうでない者も多くいるということだ」


「そんなやつがいるんですか? あと、いい加減間抜けに見えるんで、頭押さえるのを止めてもらっても良いっすか?」


「逃げるから駄目だ。他人事のように言うがな、そういう者の大半はお前たちと同じ冒険者なんだぞ?」


「え? ……あー、でも言われてみれば納得」


 人が未知の物と出会った時に抱く感情は二つ、恐怖と好奇心だ。どちらの割合が大きいかは人それぞれだが、冒険者には後者の感情の割合が大きいものが多い。そうでなければ冒険者という職業など続けられないのだろう。


 そんな人一倍好奇心が強い冒険者ならば、今の状況を昔話の中でしか聞いたことのない、この物語の様な非日常に少々浮かれ気味になっていてもおかしくは無い。

 これから何が起きようとしているのか、あの空に浮かぶ『流星の川』の降り立つ場所には一体何があるのだろうか。まるで虹の麓にある宝を探すように、ある意味『冒険者』という言葉の本来の意味に相応しい反応であった。


「もしかしたら自分が第二の勇者アルバとして後世に名を残せるのではないか。そう考えて『魔華の森』に突撃をしようとする男が絶えん」


「しょうがないね、男の子だもん」


 酒場にいるサート以外の男の冒険者達も分かる分かると同意するように頷いている。少し離れたところで話を聞いていたアンやミラといった数少ない女性陣は微妙な顔をしていたが、これは男なら誰しも一度は夢見る麻疹の様なものだ。


 などと言うサートの額を、フェルマリスは指で突いて前後にがくがくと揺らしながら反論する。


「無暗に『魔華の森』に入っても死ぬだけじゃ。そんな理由で国の民を死なせるなど出来るか馬鹿者」


「少しはエルマルドラ様の苦労を知ればいいと思うよ」


「ぬぐっ」


 興奮すると素が出るらしいフェルマリスに対して、サートは頭を揺さぶられながら苦労性の貴族であるエルマルドラの名前を出す。すると痛いところを突かれて何も言えなくなったフェルマリスの手が止まった。


「まあとりあえず事情は大体分かりました」


 要するに、個人や少数グループで魔華の森に突っ込んで、この国の重要な外貨獲得手段である迷宮産業の従事者を無駄に死なせるよりは、いっそのこと国がそういった者たちをまとめ上げ、組織的に運用した方が被害が少なくて済むということだ。


 人の好奇心を抑えることは難しく、しかもどの道調査自体はしなければならないのだ。だったら逆転の発想で、士気の高い冒険者たちを雇えるのだと割り切り、上手くいけば魔華の森の開拓にも繋がるかもしれない調査が出来る、と考えることにしたのだろう。

 そんな冒険者たちの纏め役として、王族という地位とカリスマ性、そして行動力を持ったフェルマリスは確かに最適だ。


「だがしかーし、それとこれとは話が別なのであーる!」


「わっ、とと。ちょ、サートさん!?」


「ぬ!」


 サートは懐から財布を取り出してミラに投げ渡すと、押して駄目なら引いてみろとばかりに自らが座っている椅子を体ごと思い切り後ろに倒す。


「俺、今月町内会の役員だから無理」


 国の事情は理解した。フェルマリスが魔華の森に関するアドバイザー兼案内役兼便利な転移魔術使いとしてサートの力を借りようした理由も理解した。あと分からないのはユーザスの思惑だけだが、それはいつものことなので無視をする。


 これらを総合的に判断してサートが導き出した答えは、町内会が忙しすぎて無理、であった。


「後よろしく」


「待て、チョーナイカイってなんじゃ!」


「え? え? 後よろしくって、え?」


(僕も今のうちに逃げようかなあ……)


 フェルマリスが不意を突かれて指を離してしまった隙に、サートはミラと朝斗に顔を向けて無茶振りを言い残し、転移魔術でその場から逃げ出した。

 残されたのはパタンと椅子の倒れる音と、気まずそうにお互いの顔を見合わせる可哀想な被害者達のみであった。



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