第29話~おはよう~
一目見ただけでは何体いるのか数えるのが困難なほどのキメラが目前に迫ってきている中、朝斗は今猛烈な頭痛に襲われていた。
原因は分かっている。間違いなく今自分たちの正面に見えるあの『アーイ』のせいだ。この湖にたどり着いて、『アーイ』の姿を視認した時から既に頭痛は始まっていたが、ついさっき脈動をし始めてからはより一層頭痛が激しくなってきている。
『あと少し』
『まだ足りない』
これがテレパシーや、思念波というものなのだろうか。ただひたすら、この二つの言葉が頭の中で反響をしている。実際に日本語でこう言っているわけではないが、何故か意味だけは分かった。
最初は小さな呟きだったのが、今は正にぐずって泣き出した赤ん坊そのものだ。早く何とかしないと、こちらの気がどうかしてしまいそうだった。
『何があと少しなんだ。足りないって、一体何が足りないんだ』
心の中でそう叫びながら、上から落ちてくる瓦礫を身を翻して躱し、同時に襲いかかっててくる敵の喉元を短剣で切り裂いていく朝斗。
「やっぱりあいつおかしいわ」
自分の頭の上という死角から落ちてくる物体を避けつつ、そのまま流れるように敵の急所を切りつけるなんて芸当が出来る人間が、一体この世界に何人いるというのだろうか。
獣人のガランでさえ同じことをするには相当の集中力が必要となるのに、それを二度も三度も続けながら前進をしていく朝斗を見て、普通だという感想を抱く者はいないだろう。
しかも見るからに何か体に異常が起きていることが分かる今の状態でこれだ。実は朝斗が日本にいた頃に怪しげなとんでも古武術を習得していたり、忍者の家系だったと言われても思わず信じてしまいそうになるほどにその動きは人間離れしていた。
「彼、凄いね。人間種で、しかもあの若さであそこまでの動きをするなんて、一体何者だい?」
「二年ほど前までは全く暴力とは縁のない平和な世界で暮らしていた、元迷宮奴隷……の筈なんだけどなあ」
あんな動きをする人間が今まで平和なところで暮らしていたなど、一体何の冗談だと中々信じることが出来ないリラ。だが、戦い以外の時の朝斗から感じた穏やかな性格と知性を思い出し、もしかしたらその話もあながちウソではないかもしれない、と思い始めた。
「それよりも、これから具体的にどうするつもりなのか教えてくれよ」
そんな、キメラ相手に無双をする朝斗を改めて見て驚くリラに対し、手短に事実のみを伝えたサートは、これからどうすればよいのかと逆に質問を返す。
「正直に言うと、まだまだ湖の光が弱い、と思う。確実にミラの魂を呼び起こせると断言するには、もっと力が強い水が欲しいんだけど……」
リラが見た文献によれば、『アルバの大蛇』が眠りから目を覚ましている状態が、一番水の効力が強いという記述があった。
『その光は夜空を真昼に変えた』と記される程の強い光と比べると、洞窟全体を照らすのみに収まっている今の光が最大だとは考え難い。文献に記された表現に多少の誇張はあるにしても、これが最高潮だとは思えなかった。
「たた、私もここまで来たのは初めてだからね。残された文献だけじゃ、分からないことが多くてね」
推測だけならいくらでも立てられるが、具体的に『アルバの大蛇』の目覚めとは一体どう意味なのかということまでは知ることが出来ない。
分かるのは、先祖たちが『アルバの大蛇』と呼んでいる存在が約三百年周期で活動期と休眠期を繰り返していること。そして、勇者アルバや先祖たちがまだ生きていた時代に休眠期に入り、それがもう間もなく活動期に入ろうとしている、否、もう既に活動期に入っていなければおかしい時期になっているということである。
しかし、『アルバの大蛇』が活動期に入ったという現象はどこにも見受けられない。もしかしたらこの湖の水の発光自体が活動期に入ろうとしている予兆か、既に活動期に入っているという証明なのかもしれない。
だがリラが残されていた資料から得た情報によると、この発光自体は休眠期の時からずっと起こっている現象のようであった。そのことから、やはりまだ『アルバの大蛇』は活動期に入っていないと考えられる。
この湖の水と『アルバの大蛇』に一体どのような関係があるのかは不明だが、それでも全くの無関係ということは無いはずだ。
だからリラは、『アーイ』が水のエネルギーをほとんど吸い取ってしまっている影響で、『アルバの大蛇』の目覚めが阻害されているのではないか、という仮説を立てた。
「とまあ、ここまで仮説を立てられたはいいけど、じゃあそこからどうするのかと言われても、実際問題これ以上はどうしようもないんだよね」
あの『アーイ』を無理やりこの場所から引き離すことが出来ればまた話は違うのだろうが、神族を相手にそんなことが出来ると思えるほどリラは自惚れてはいない。
だから今はせめて少しでも力の強い場所、湖の水源付近の水を手に入れる事を目標とする。
そのことをサートや、同じ後衛から弓を射っているアイラに伝える。それを聞いたアイラは、だったらなるべく湖の近くに近づかなければならない、と後衛を守るために前で奮闘している三人に大きな声で指示を与えた。
その横ではサートがいつものように何やら企んでいる顔をしていたが、とりあえずはどんどん増え続けるキメラ達を何とかしなければチャンスは訪れないと思ったのか、前衛のサポートに集中するのだった。
「本当に数が多いな。しかも段々と手強くなっている気がするし、ここで一度敵を一掃して仕切り直すぞ。手伝えリラ」
敵のキメラは初めは数もそこまで多くなく、少し深い傷を負えば簡単に霧散してしまうほどに脆い状態であった。それこそミラが光る川の水を利用して、その水で押し流せばそれだけで消えてしまっていたのだ。だが、『アーイ』から次々と生まれてくるキメラ達は少しずつ与えられる力が増えて存在の密度が上がったのか、次第に水に触れたり傷がつくだけでは消滅をしなくなっていった。
それどころか、『アーイ』が近くにいる為だろうか、キメラ達の消滅の仕方にも違いが表れていた。初めてキメラと戦った時はその場で黒い霧となるように消滅していたのが、今は倒されてもその場で消滅するのではなく、黒い霧がまた『アーイ』に吸収されていくのである。
これではいくら敵を倒し続けていても『アーイ』のエネルギーが減ることは無い。それどころか時間をかければかける程、湖の光から吸収する分のエネルギーでトータル的にはプラスになる。
このままではじり貧だと思ったサートは、一度態勢を立て直す意味も込めて大技で敵を纏めて一掃することに決めた。手伝えと言われたリラもサートのやろうとしていることを瞬時に理解して、補助に入る。
サートが風の魔術で起こした竜巻にリラが作った水の竜巻を合体させて勢いを増し、そして大量の氷の刃を混ぜ込んだ巨大な竜巻を敵陣のど真ん中に放り込む。その竜巻に巻き込まれたキメラ達は次々と宙を舞い、そして氷の刃に切り刻まれて再び『アーイ』に吸収されていく。運良く竜巻の範囲から逃れることが出来た僅かなキメラ達をアイラが弓矢で射抜ぬいていき、『アーイ』に生み出されていく以上のペースでキメラを消滅させていくその竜巻は、キメラ達を一体残らず処理をし終えたところで役目を終えたように消えて行った。
「なんか俺、久々に活躍した気がする」
はっきり言ってこの程度の敵ならば、サートとリラがいる限りどれだけ数が多かろうと大した問題にはならない。サートとリラ、それぞれ一人だけでも同じことが言えるのだが、その二人が一緒にいて協力をしているのだからなおさらである。
「次は量より質で来たか。何かゲームのラスボスみたいなことしやがるな」
キメラ達を一掃し、この隙に一気に湖に近づいて水を回収しようとしたのだが、やはりそう簡単に上手くはいかなかった。
キメラ達を一掃したことで向こうも学習したのか、それともこちらの方が効率が良いと判断したのかは分からないが、次に『アーイ』から生み出されたキメラは、先ほどまでと打って変わって非常に数が少なく、十体にも満たなかった。
しかし、その十体の魔物の大きさは、先ほどまでのキメラ達とはとても比較にならない。その一体一体が、アイラ達が討伐した猪の主級やサートが遭遇した蟻の主級、そして先ほどリラが倒した主級に匹敵する大きさのイモリと比べても、更に二回りほど大きい。
「亀っぽい奴、蝙蝠っぽい奴、ムカデっぽい奴。色々いるけど、一つの例外もなく皆キモくて気分が萎えるわ」
目の前に現れた巨大なキメラたちを見て、サートが呆れたように呟く。
ハリネズミのような無数の棘を生やした甲羅を持つ亀に、猿のような顔をした蝙蝠。さらには獣の脚を生やしたムカデその他諸々を見て不快な気持ちにならない人間など、相当なゲテモノ好き以外は存在しないだろう。
「どうする? あんだけでかいとアタシがどんだけ矢を射っても効果はねえぞ」
「この程度ならまーだ大丈夫。むしろ却ってやり易いかもしれん」
そう自信ありげに笑ったサートは、こんな時でも杖にぶら下がりながら寝ている燕の腹を撫でて合図を送る。
「お前本当に羨ましい性格してるな。まあいいや、とりあえず目標はあいつらだ、思いっきり行け」
サートが燕に指示をすると、数時間ぶりに目を開けた燕はスッと杖を掴んでいた足を離し、重力に従って地面へと落ちていく。
そのまま地面に激突するか否かという時にフッと燕の姿が消えたかと思えば、次の瞬間にはパァンッという音が響き、それと同時に空を飛んでいた蝙蝠の顔面に風穴が空いた。続いて二度、三度同じような衝撃波を伴う音が響くと、その都度キメラ達の急所に穴が開き、巨大なキメラ達が消滅していく。
「さっすが俺のトラウマなだけはあるぜ。決めた、お前の名前は『黒丸』だ」
理由は単純に、黒い弾丸のようだから、縮めて『黒丸』なのである。
音速を超えると小回りが利かなくなり、直線にしか進めないところもそっくりだ。しかし、そのせいで先ほどのような前衛の仲間が入り乱れる乱戦では、名前の由来の通りにフレンドリーファイアをしかねないのが難点と言えば難点だろうか。
だがその欠点を補って余りあるスピードと貫通力、そしてついでに耐久力を黒丸は持っていた。そんな、実はサートから主人より強いんじゃないかと疑惑を掛けられている黒丸が、正にあっという間にキメラの半数を抉ったところで、次の標的としていた亀のようなキメラが殻に閉じこもってしまう。
そんなことなどお構いなしに巨大な亀のキメラに突撃をする黒丸。しかし、無数に生えている棘の数本を纏めて砕きながら突き進むも、その先にあったとてつもなく硬くて分厚い、丸みを帯びた甲羅に上手くいなされてしまい、まるで跳弾のようにあさっての方向へと弾き飛ばされてしまった。
「うん、亀の姿をしているだけあって、恐ろしく硬い甲羅のようだね。私には関係ないけど」
弾き飛ばされて地面にめり込んだ黒丸が、ぴんぴんした様子で亀に再度の突撃を試みようと地面から勢いよく飛び出す。だが、その目的の亀のキメラは既にリラの作った氷の蛇に体内に侵入され、甲羅の内側から体の内部をずたずたに食い散らかされ、今まさしく消滅を迎えようとしているところだった。
残った他の巨大キメラ達も大体似たり寄ったりの状態であり、突撃すべき標的を失った黒丸は大人しくサートの下へ戻るのだった。
「お帰り。んで、ちょーっとこっちの杖の方に引っ越してくれ。こっちの方がまだぶら下がりやすいだろ」
サートは自分の影から予備の杖として保管していた新しい木の枝を取り出し、黒丸をそちらの方へ移動させる。今までの杖だとぶら下がり難そうだったというのもあるが、もしかしたらこれから古い方の杖を物理的に使用する機会が来るかもしれなかったからだ。
サートに頭を一撫でされて労われた黒丸は、またお呼びがかかるまで掴まり易くなった新しい杖でまたのんびりと眠りに入ったのであった。
「この状況でまた寝るとか、お前やっぱり良い度胸してるよ。本当に羨ましい」
消化不良なのも確かだが、黒丸としてはそんなことよりも新しい止まり木でのんびりと寝る方が優先度が高いようだった。圧倒的な存在感を放つ神族を目の前にしてこの態度なのだ。早くも主人に似てきた使い魔である。
「切りがないね、本当に」
サートが本格的に睡眠に入った黒丸を指で突いて弄っている横では、他の者たちが武器を強く握りながらより一層警戒心を高めていた。
リラが呆れたように言った言葉通り、『アーイ』は消滅した巨大なキメラ達が残した黒い霧を再び吸収し、また違ったキメラを生み出そうとしていたのだ。
どうやら今度は数で押すのではなく、中途半端な力押しでもなく、完全に一個体のみに力を注いだタイプのようである。黒い霧が今までとは比べものにならない程に濃く、大量に集まってキメラの身体を形成していくと、その姿をみたサートが思わず黒丸を弄る手を止めて、目が飛び出るほどに凝視する。
「お前、何処でそんなやつの遺伝子を手に入れたんだよ……」
サートの呆然としたような呟きが、まるで雷が落ちたかのような叫び声をあげたキメラによってかき消される。
黒い霧によって形成されたそのキメラの姿は、額に一本だけ生えている稲妻のような形をした白く発光する角が特徴的な漆黒の龍であった。
西洋のドラゴンのような形をした姿ではなく、胴体が蛇のように長い東洋の龍に姿がそっくりなそのキメラは、大きさで言うならば広大な湖の面積の半分を占める『アーイ』を、ぐるりと一周囲んでもまだまだ余裕があるほどの巨大さであった。
そして叫び声をあげたことから分かるように、この龍の姿をしたキメラは今までのような呼吸も思考もしなかった張りぼてのような手抜きキメラ達とは違い、実際の生物となんら変わりがないほどの情報量を与えられて顕現している。その証拠に、体の一部が湖の水に触れても全く消えるそぶりは無く、それどころかサート達と同じようにその水の光から力を得ている様子さえ見て取れた。
「突っ込んでくルぞ!」
「身体強化の魔術を皆さんにかけます! サトラク君!」
「分かってる。それでも躱しきれない場合は俺が何とかする」
不気味なまま沈黙を保ち続ける『アーイ』とは反対に、まるで本物の龍のように宙を駆けながら積極的にサート達に攻撃を仕掛けてくる龍のキメラ。
実際、『アーイ』はこちらを敵とは認識などしていないのだろう。ただの餌か、空気のような扱いなのかもしれない。それどころか、もしかしたら存在すら認識していないかもしれない。もしも『アーイ』がサート達のことを自分を害する可能性のある敵だと僅かでも認識していたとしたら、もう既にサート達はこの世には確実に存在していない筈だ。その分『アーイ』の手足であるキメラ達が動いているのだろう。
「次! 薙ぎ払いが来るぞ!」
その巨大な大質量による突進と薙ぎ払いは、それだけで十分に厄介で危険な攻撃となる。アイラ達はリラによって強化された身体能力と、サートの風の魔術によるサポートで何とか尾による薙ぎ払いを避け切ることが出来ていた。
「今更言ってもしょうがないことだけど、最初の雑魚キメラの段階で奥の手を使っていた方が楽だったかもしれん。失敗したなあ」
「そんなものは結果論ですよ。それよりも奥の手とは、何ですかっと、危ない」
「よいしょっと。言葉通り、あのデカブツと、ついでに『アーイ』もまとめて何とかできる俺の奥の手だよ。ただ、隙が無いんだよなあ……」
サートは敵の攻撃を軽く躱しながら、迫力だけならば『アーイ』に勝るとも劣らないその龍のキメラを相手にしてもいつもの余裕を崩さなかった。そして、隙がないと口では言いながらも手を止めることは無く、今まで使っていた古い方の杖に先ほどからずっと魔術陣を描いていた細長い帯のような布を巻きつけ、奥の手とやらの準備を始めている。
その様子からサートが言っていることがハッタリではなく、本当にあんな巨大な化け物をどうにかする術を持っているのだということが分かった。
「あなたも大概規格外な人ですね」
「もっと褒めろ。最近、俺が実は結構すごい魔術師だということを忘れている奴が多くて困っているんだ」
見るからに強力で、今までのように一筋縄ではいかないと分かるキメラでも、隙を作ればまだ何とかなる奥の手を隠し持っているというサートに、サイスは改めて目の前にいる魔術師の規格外さを実感する。
これでもっと威厳を感じさせるような性格をしていたら、周囲の反応も違っていただろうと思ったが、サイス個人としてはどこか庶民的で軽い性格をした今のサートの方が好ましかった。
「誰か隙とか作ってくれたらなあ」
「簡単に言わないでくださいよ」
『アーイ』の脈動に合わせてこの地下空間の天井などが崩れ始めている今の状況では、瓦礫に押し潰されないようにするだけでも普通は精一杯なのだ。そこから敵の気を引くようなことをしなければならないとなれば、その苦労は半端ではないだろう。
一体どうやってサートの奥の手を使う隙を作ろうか、そんなことを考えている間にも龍のキメラはサート達に狙いを定めて宙を飛びながら突進をしてくる。
『……そうか、よし、分かった。足りないのはそれなんだな? 何とかしてみる、だからもう少しだけ待ってくれ』
『おーい、どうした? 敵に集中しないと死ぬぞー、朝斗くーん』
そして敵の攻撃を避けている時ですら、ずっと頭を抱えながら独り言を呟くように誰かと話しているそぶりを見せる朝斗。そんな朝斗の様子がおかしいことに気が付いたサートが声をかけるが、朝斗はずっと抱えていた頭を上げて、逆にサートに伝えたいことがあると大きな声で叫んだ。
龍のキメラが再び突撃をするために一度距離を取って体勢を整えている僅かな間に、朝斗はサートに対してさっきから頭に鳴り響いている声について、何とか詳しい情報を得ることが出来たことを報告する。
『すみません、これだけしか情報を得ることが出来なくて……』
『まさか、神族と交信を取ることが出来たのか……?』
朝斗が手に入れることが出来た情報は実際それほど多くない。恐らく『アーイ』から発せられていると思われる「あと少し」、「まだ足りない」という声に、一体何があと少しで、何がまだ足りないのかを聞き返してその返答を得ることが出来ただけである。
それだけのことなのだが、神族と僅かでも意思のやり取りをすることが出来たということが一体どんな意味を持つのかを理解していない朝斗と、それの意味を正確に理解しているサートの間で反応の違いが現れる。
伝えられることはすべて伝えて、肩の荷が下りたというような表情をしている朝斗に比べ、今までで一番悩ましそうな顔をしているサートの様子に気が付いたリラが一体どうしたのかと尋ねた。
「サトラク君? 君まで一体どうしたというんだ」
「……まあ細かい話は今は置いておこう。断じて問題の先送りではないぞ、うん」
そう自分に言い訳をして、朝斗から聞いた情報をサートが自身の予想も絡めて補強しながらリラにも伝える。
その朝斗が手に入れた情報とは、『アーイ』がこの世に生れ落ちるのに必要なエネルギーと物質についてのことだ。
この光る水の湧く湖を見つけたことで、エネルギーに関しては今まで吸収してきた魔物たちの分と合わせて十分すぎる程に得ることが出来た。だが、『アーイ』が顕現するのに必要な肉体を構成する物質の方が追い付いていないのだという。
恐らく、あともう一息のところでこの階層の魔物がほとんど狩り尽くされてしまったのだろう。この付近に残されているのは川の中に済む魚や魔物たちだが、それらの生物たちは危険を察知して湖には近づかないし、キメラ達もこの光る水には近づけないためあてには出来なかった。
つまり、エネルギーの方は十分に溜まって、「あと少し」でこの世界に生まれてくることが出来るのだが、肉体を構成する物質が「まだ足りない」せいでそれが出来ない。
朝斗が『アーイ』との交信によって手に入れた情報をもとにサートが考えた、今の時点で最も可能性の高い仮説がこれだ。
ただの岩や金属の原子だけでは意味がない。それで済むのならば周囲の壁やら地面を吸収していけば済むことだが、それだけでは駄目なのである。言うならば『アーイ』はユーザスが生み出したキメラの神なのだ。その特性ゆえに、生物の体の一部や死骸といった、魂の情報が含まれている物質を吸収する必要があるのである。
そんな『アーイ』の詳しい事情などサートは知らないのだが、朝斗が交信で手に入れた情報を元に、前世でユーザスの研究を手伝っていた時の知識も合わせて、もしかしたらという程度の推測は付けることが出来ていた。
そして、もしやその足りないものを補充するために『アーイ』がここを離れて、迷宮の上階層か地上を目指した結果がアルバの町の滅びに繋がるのではないか。
サートがそう考えていたところに、リラがまさか、というような顔をしながら自分を見ているのに気が付く。
「何だよ。言っとくけどこの情報を手に入れたのは俺じゃなくて朝斗……アシャットだからな」
「それも気になるけど、そうじゃない」
もしやリラも神族と交信をしたということが何を意味するのか、それを理解しているからそんな顔をしているのかと思ったが、どうやらそれは違ったようである。
「サトラク君、君もしかして最近大量に魔物を狩ったか、もしくはユーザス氏に何か仕事を依頼とかされたことはあったかい?」
まさかそんなことを聞かれるとは予想していなかったサート。何故そんなことを質問するのかと疑問に思いながらも、ユーザスにサートとして初めて仕事を依頼されたあの日のことは色んな意味で忘れられるはずもなく、リラに肯定の返事を返す。
そのサートの返事を聞いたリラは、やっぱりそうか、と納得したように頷いてから自らの懐から数枚の白い紙を取り出した。その白い紙にはどこかで見たような独特な魔術陣が描かれており、それに魔力の気配を感じることから何かしらの魔術が封じられていることが見て取れた。
「―――ってそれ、俺が作った奴じゃねえか」
どこかで見覚えがあると思ったら、サートがユーザスと共に迷宮地下43階層で大量の蟻の死骸をひたすらに掻き集め、それらを全て封じ込めた紙である。
黒丸と同じ種族である燕の大群からの集中砲火を長時間浴び続けながら作業をしていたせいで、新しいトラウマが出来た時でもあるため、その日のことは非常に鮮明に記憶に残っているのだ。
一体どこからそれを手に入れたのか、というのはまず間違いなくユーザスからだろうからそれは敢えて聞かず、いつ手に入れたのかということをリラに尋ねるサート。
「今日、この場所につながる洞窟へ入る前に、調査の報酬の前払いの一部としてミラがユーザス氏から頂いたんだよ。きっと必要になるだろう、という言葉と共にね」
「……俺、あの人がどこからどこまで計算していたのか、後で絶対に聞き出してやる」
サートがミラから渡された、大量の蟻の死骸が封じ込められている数枚の紙を眺めながらしみじみと呟く。
ユーザスが迷宮の地下43階層で倒し、サートが死んだような眼をしながら回収した巨大蟻の量は膨大である。『アーイ』が顕現するために必要とする残りの物質の量とやらがあとどれくらいなのかは知らないが、「あと少し」というのが本当ならば、十分すぎるほどの物量をサートは紙に封じ込めたつもりだ。
「なんか、俺が苦労して回収した物が、廻り廻ってお前の目的のために使われると思うと凄い微妙な気分になるな」
「心が狭いよサトラク君」
「だがこれで道筋は見えた。あとはそうだな……」
ふと今の時間が気になったサートが、影にしまってあるスマートフォンを取り出してその画面をちらりと見ると、日本時間の時刻は既にかなり遅い時間帯となっていた。少し前に仮眠をとったとはいえ、それもかなり短い時間であり、そこに加えて隣にリラがいる状況でサートがぐっすりと寝られるはずもない。
これはもう徹夜確定コースだと開き直って完全に深夜のテンションとなったサートは、そのせいで細かいことを考えるのが面倒になったのか、いつも以上に適当な性格になっていた。
「ちょっと思いついた作戦があるんだけど……」
そんなサートが思い付いた作戦を全員に伝える。その内容とは、要するに『アーイ』が必要としている物が何かは分かっており、そしてその必要な物も既に手の内にある。ならばそれを与えて大人しくさせて、サートが備えあれば憂いなし、と事前に準備をしていた奥の手で『アーイ』を一時的に何とかして無効化をする。そしてその隙に、堂々と湖の水を回収したらそのまま撤退すればよい、というものだった。
「あとの細かいことはあの爺さんに責任とらせる意味も込めて丸投げすれば何とかなんだろ! 完璧!」
「どこがだ、アホ。適当すぎだろ」
「サートさん、あなた偶にゴッツ以上に頭が悪くなりますよね」
「疲レていルのだロう。無理もない」
「お前ら酷いな。俺結構本気なのに」
サートの考えた自称完璧な作戦に対してそれぞれ言いたいことを言いながら、再度敵のキメラの攻撃を躱しきったアイラ達。いくらリラとサートによる魔術のサポートがあるとはいえ、あの巨体から繰り出される攻撃をここまで躱し続けているのは、間違いなく本人の力量が高いからこそである。それについていけている朝斗の方がおかしいのだ。
「サトラク君の奥の手とやらに期待したいけど、その前にあれを何とかしないと何も始まらないんじゃないかな?」
そのリラの言葉通り、牽制として放っていた氷の槍を意にも介さずこちらに突進をしてくる龍のキメラ。まずはこの敵を何とかしないことにはサートの考えた作戦を実行するどころか、下手をすればこのまま何もできずに撤退をせざるを得ない状況にまで追い込まれてしまう可能性もある。
「おう、自称水辺では無敵のリラさんよ。何とかしろよあれ」
「私、無敵とは言ったけど、最強とは言ってないもの」
このまま敵の攻撃をいなし続けてリラが一人で生き延びるだけならいくらでも出来るが、それ以上のことは出来ない。敵が完全無防備の状態のところに、最大威力の魔術を中てることが出来れば何とかなるかもしれないが、今この場でそんな状態を期待するのは無駄以外の何でもない。何せ敵である龍のキメラは、自分の攻撃が何度も躱されているのを見てますます闘争心が上がってきているのだ。
そして攻撃も単調な突進と薙ぎ払いだけではなくなってきていた。その特徴的な稲妻のような形をした白い角を更に強く発光させ、この攻撃ならどうだと言わんばかりにその角から全方位に強烈な電撃を放つ龍のキメラ。
「魔力持ちのキメラまで造れるのかよ。もう純粋に凄いと言うしかねえわ」
これが他の魔術師や強力な魔物が相手だったなら今の放電で確実に勝負が決していただろう。数秒もの間、目を焼き尽くしかねない程の強烈な雷の光がこの地下空間全体を満たす。それほどに強力な電撃だったのである。
だが、これは運が良かったというしかないが、この放電によってサート達が受けた被害はほぼゼロであった。理由は簡単で、サートとリラがそれぞれこういった電撃を放つ攻撃に対する対抗手段を持っていたからだ。
その方法とは、まず最初にサートが真空のラインを作り、敢えて雷の通りやすい道を作ることで空気中に流れる電気が自分たちを避けるように誘導する。更にそこからリラが不純物を含んだ水と、魔術で生み出した超純水を組み合わせ、同じように意図的に電気が流れやすい場所を作ることで放たれた電撃を自分たちの後ろに受け流したのである。
「懐かしいねサトラク君。昔もこうやって電撃を放つ魔物と戦ったことがあったよね」
「思い出したくない記憶だが、その経験のおかげでこうして生き延びる事が出来たということだけは認めよう」
だが、そうそう何度も通じる手ではない。今回は敵の攻撃の前兆が分かりやすかったからこそ対応が出来たが、魔術を発動するタイミングが少しでも遅れたらその時点で黒焦げになることは間違いない。そうでなくとも、放電と同時にあの巨体で突進でもしてこられたらこちらには成す術は無い。ただでさえ目を開けていられない程の光の中、敵の突進を避けて魔術の範囲外に飛び出たら電撃が、避けられなかったら大質量に押し潰されるのだ。
「そうならないためにも、相手がまだその方法を思い付いていないうちに、早く何とかしたいんだけど……」
問題は、たとえこの敵を倒してもすぐにまた『アーイ』がより強力なキメラを生み出すだろうということだ。理想はこの龍のキメラを無視して直接『アーイ』の元にたどり着くか、撃退をしても新たなキメラを生み出さない内にサートの奥の手を『アーイ』に使用することである。
そして問題はそれだけではない。今の龍のキメラの放電によって、ただでさえ半壊しかけていたこの地下空間の崩壊速度がさらに早まってしまった。たとえキメラを何とかしたとしても、ちんたらしているとそれ以上何もできずに帰還するしかなくなってしまう。
(どちらにしろ、時間は無いか―――)
さてどうするか、と龍のキメラを睨みつけながら考えているサートの耳にアイラの焦ったような声が聞こえてきた。
一瞬、一体誰の声だろうかと思うくらいにアイラらしくない余裕のない声色だったため、そのことに気を取られて言葉の内容を理解するのが僅かに遅れてしまう。だが、アイラが視線を向けている先を見ると、何故彼女が焦っていたのかを理解することが出来た。
「おい! アシャット!」
「サートさん! 今からでもあれに追いつけますか!?」
「くっ、こんな時に邪魔をするように攻撃を仕掛けてくるか」
なんと朝斗が『アーイ』から伸びてきた触手に捕えられ、既に手の届かない湖の上空付近まで連れ去られてしまったのである。
一体いつの間に、そうサートは考えるが、タイミングとしては今さっき龍のキメラの激しい放電によって視界が奪われた時しかありえない。
『アーイ』が今までずっと沈黙を保っていたことで油断をしていたこともそうだが、まさかあの放電がただの目晦ましであり、その目的が朝斗だとは誰も想像していなかった。
サートが空を飛んで朝斗を追いかけようとするが、まるでそうはさせないとばかりに龍のキメラが間に入って尾による薙ぎ払いをしてくる。
「くっそ、仕方がない、リラ!」
その龍のキメラの攻撃を躱している隙に朝斗はさらに遠くへ連れ去られ、今から飛んで行っても確実に間に合わない距離まで遠ざかってしまっていた。
しかし、『アーイ』が何の目的で朝斗を攫ったのかは分からないが、このまま仲間が攫われるのをボーっと見ているつもりは無い。
幸か不幸か、朝斗をどうやって助け出すかを考え出したついでに、先ほど自分が考えた作戦を同時に実行できる方法まで一瞬で思い付いてしまったサート。正直この方法を実行するのは死ぬほど嫌だが、ここを逃すと次はもうチャンスは訪れないかもしれない。
(しゃーないか、これもこの依頼に誘った側の責任ってやつだ)
迷っている暇などない状況で、貴重なコンマ数秒の時間を使って行われたサートの脳内会議では、最終的に仲間を無事に帰すことに対する責任感の方へ天秤が傾いた。
そして、そうと決まってからのサートの動きは早かった。奥の手を使うことを決断したサートは黒丸が止まっている杖を地面に突き刺し、リラからある物を奪い取るように手で掴むと、次の瞬間には一人で『アーイ』の上空真上に転移をする。そしてユーザスから貰ったあの黒い珠を取り出して、そのまま何かの魔術を発動しようとするそぶりを見せる。
「駄目だ! 逃げてサトラク君!」
だが、その様子を離れた場所から見ていたリラが半分悲鳴の様な声で叫んだ。
しかしそのリラらしくない叫び声も無駄となってしまう。サートが魔術を発動させる直前に、龍のキメラがその巨体に見合わぬ俊敏さでその長い体をくねらせて、一瞬でサートの目の前にキメラの頭が現れたかと思えば、そのままサートを丸呑みにしてしまったのだ。
(やっぱり、お前もこいつに釣られたな)
やはりこれも本能なのかも知れないと、龍のキメラに飲み込まれながら心の中で呟くサートは、鋭い牙で噛み千切られないように、むしろ自分から体を押し込むようにキメラの体内に侵入していく。
(だけど、残念ながらコイツは囮だ)
むしろ、こうして丸呑みにされることを期待してあの黒い珠をわざわざ目立つように手に構えたのだ。
何故直接朝斗を助けに行かないのかといえば、今の一連のやり取りで分かったことだが、このキメラは自分たちが思っていた以上に頭が良い。それこそ朝斗を攫うという『アーイ』の本当の目的から目を逸らさせるために、わざと派手に動いて自分に注意を向かせていた可能性すらある。
直接朝斗の元に向かえば、それこそ狙ってくださいと言わんばかりの格好の標的となるのは間違いない。その場合、尾によってサートだけ叩き落されるか、もしくは朝斗ごと丸呑みにされていただろう。最終的に飲み込まれるという結果は同じだとしても、サートの考えている作戦の次の布石の為にはその状況は避けなければならない。だから一度『アーイ』の頭上までやってきて、わざわざこうして一人で丸呑みにされているのだ。
(ぐえっ、圧力が強すぎて全身の骨が折れそう)
サートが龍のキメラに丸呑みにされる瞬間に、リラたちがいる方向から何やら甲高い悲鳴が聞こえたような気もするが、そんなことを気にしている余裕はサートにはなかった。
狙い通りに飲み込まれたのは良いものの、このままでは全方向から襲いかかる肉の圧力で全身が潰されかねない。内臓が飛び出ない内に、サートは素早くリラから奪い取ったある物をキメラの体内に残し、すぐさま転移をしてキメラの体内から脱出をした。
「げっほ、おえ、死ぬかと思ったー。 で、朝斗はどこだ?」
キメラの体内から外へ脱出し、またキメラに気付かれてしまう前に急いでサートが朝斗の姿を探す。すると、まだギリギリ『アーイ』の本体まで辿りついていなかった朝斗を視線の先で見つけた。
それを見たサートはこのまま空を飛んでいく時間も惜しいとばかりに転移魔術で朝斗のすぐ傍まで近づき、その体に巻き付いている『アーイ』の触手にはなるべく触れないようにしながら朝斗の体を掴み、再度転移魔術でアイラ達の下へ戻った。
「ただいま。いやー、やっぱ連続転移は脳の負担がキツイっすわ」
「げほっ、ごほっ、ごほっ」
「サトラク君! 君ねえ、もっと他にやりようは無かったのかい!?」
「お前……、心臓に悪いんだよこの野郎!」
サートが最初にアイラの叫び声に気が付いてから、こうして朝斗を助け出すまでまだ数秒の時間しか過ぎていない。
追い込まれてから僅かに見せたサートの本気の転移魔術の使い方に、その姿を初めて見たアイラ達は勿論、リラでさえ驚いた顔を見せていた。そんな仲間たちに詰め寄られ、心配をされているのか罵倒をされているのか分からない言葉を受けているサート。
「二人とも無事でよかったですが、何とも破天荒な……」
「わざわざ飲み込まレル必要はあったのか?」
「まあ見てろって。これだけじゃ終わらないから」
サートは触手による締め付けから解放されて咽る朝斗を地面に下ろすと、龍のキメラの頭がまだ『アーイ』の真上にいることを確認する。サートはそれを確認すると、狙い通りだと言わんばかりの悪い顔でとある魔術を発動した。
「魔道具を使用する時は正しい利用の方法を守り、目的以外のことには使用しないようにしましょう。でないとこうなります」
サートのその言葉と同時に、ボゴンッ、という鈍い爆発音が辺りに響いた。
そしてその音と同時に、龍のキメラの喉元の辺りがまるで蛙のように急激に膨れ上がる。さらに同じような爆発音が数回続けて起こると、その都度キメラの体が膨れ上がり、ついに龍のキメラの体が耐え切れずに破裂をする。
すると、そこから大量の巨大な蟻の死骸が飛び出してきた。
「あれは……、サトラク君、何時の間に」
「あいつに飲み込まれたときに置いてきた。ざまみろ」
サートがリラから奪い取り、キメラの体内に残してきたのは、大量の巨大蟻を封印してあった紙であった。本来ならば広い場所で紙を破ったりして、そこに描かれている魔術陣を崩すのが正しい使い方である。そうすればその中に封じられていたものが少しずつ流れ出してくるように設定をしてあったのだ。
だがサートはその設定を後から上書きして、紙の中に封じられている物を一瞬で全て出て来るようにした結果が、この爆発である。
キメラの頭から飛び散る大量の蟻の死骸は、そのまま真下にいる『アーイ』に受け止められ、そして吸収されていく。同時に巨大な龍のキメラも黒い霧となって同じように吸収される。だが蟻たちを吸収するので忙しいのかそれとも違う理由なのかは定かではないが、新たなキメラが『アーイ』から生み出される様子は見られなかった。
それだけでなく、先ほどから続いていた脈動も静まり、まるで時間が停止したかのように一切の動きが見られなくなった『アーイ』。だが決して死んだわけではない。喩えるなら蛹が羽化を始める直前、卵から雛が孵ろうとする寸前、その僅かな間に存在する一瞬の静止の時間であった。
「よっしゃ、隙ありいい! ここからが俺の奥の手の出番!」
だがサートはそんなどこか神聖さを感じさせる静寂などお構いなく、この時を待っていたと言わんばかりにそれ行けと叫びながら、事前に準備をしていた魔術陣が描かれている細長い布が巻かれた杖を『アーイ』に向かって投げ飛ばした。
魔術も使用してドリルのように綺麗に回転をしながら猛スピードで飛んでいく杖は数秒も経たずに『アーイ』まで辿り着く。そしてその表面に触れた瞬間に布に描かれた魔術陣が光り輝き始め、ある一つの魔術が発動された。
「強い敵、厄介な敵、その他諸々の面倒くさい奴。そんなもの、全部まとめて宇宙の彼方に飛ばしてしまえばいいじゃない」
「待て待て待て、お前が言っていた奥の手ってこれか? これなのか!?」
「その通りですが、何か文句でも?」
そのサートの奥の手の魔術とやらが発動すると、魔術陣の様な黒い線が混じった光が巨大な『アーイ』を丸ごと包み込む。そしてその光が収まると、そこにはただ光り輝く湖があるのみで、その上空には既に何の影も存在していなかった。
そのあまりにあっけない結末に、思わず本当にこれで終わりなのかと口に出してしまうアイラ。他の皆もアイラと同じ心情のようで、あれだけの存在感を放っていた『アーイ』が突如自分たちの目の前から消滅してしまったのだ。この今の状況についてまだ理解が追い付いていないかのようにぽかん、としていても無理はない。
「あんな神族に匹敵するようなもん、まともに戦って勝てる筈がないだろ」
本当ならすぐにでも自分が逃げたかったのだが、それが出来ないとなると相手を無理やり逃がす選択肢しかない、とサートは続けた。
そう、サートの言う奥の手とは即ち、敵を限りなく遠いどこかへ転移で吹き飛ばす魔術のことであった。
転移した先がどういう状況なのかを正確に知ることが出来ないため、間違っても人里近くに転移をさせないように基本的に地下深くか、もしくは大気圏を抜ける程空高くまで吹き飛ばす。
自分が転移で逃げるのではなく、相手を転移でどこかへ逃がす魔術であるため、いつもサートが自分で転移をするときにしている細かい座標の計算をする必要が無い。だから自分が直接触れていなくとも今回のように何かを媒体にして転移魔術を発動することも出来るのだ。
座標の計算をしても意味が無いので、かなり適当にとにかく深く、とにかく高くということだけ大雑把に意識すればよい。それで溶岩の中に放り込まれようと、宇宙空間に放り出されようと、そんなことはこっちの知ったこっちゃないのである。
しかし、それだけでもやたらと面倒で複雑な魔術陣を描かなくてはならず、どれだけ苦労をしても細かい場所の指定はまだサートにはできない。そのため、今の段階では何か他のことに有効活用をすることが難しい欠陥魔術でもあった。
「しかも、せっかく描いた魔術陣や、媒体になった杖も敵と一緒に転移しちゃうから基本使い捨てなんだよね」
はっきり言って、あまり使い勝手のいい魔術ではない。
強い敵に自分から近づいていくリスクを負うくらいなら自分が逃げればいいし、それほどでもない敵なら普通に倒せばいい。今回みたいに何かを媒体として間接的に魔術を発動させるのにも手間がかかるし、何より倒した敵を回収することが出来ないのだ。
自分が絶対に敵わないと感じる程の強敵ならば、さぞや珍しくて価値のある素材となるだろう。だが、それを決して回収することが出来ないくらい遠くに吹き飛ばしてしまうのだから心情的にも中々使いどころが難しい魔術であった。
「……よく神族相手に通じたね」
「コツは、対象のみじゃなくてその周りの空間ごと転移させることかな」
リラの言う通り、神族が相手では転移魔術が通用しない可能性も十分にあったのだが、サートは前世で一度だけ『アーイ』と似たようなレベルの敵にこの手を使用したことがあった。
その時に得た教訓が、対象のみを転移させようとするのではなく、その周辺を丸ごと吹っ飛ばすつもりで転移させれば、格上の存在にも十分通用するということであった。
故に、もし朝斗が『アーイ』の触手に掴まれたままの状態でサートがこの魔術を使用していたら、間違いなく朝斗ごと空の果てへと飛ばしてしまったことだろう。
「っと、こんな無駄話してる場合じゃないな。おいリラ、早く水を回収して帰るぞ」
「もうかい? 私が言うのもあれだけど、何もそこまで急がなくてもいいんじゃないかな?」
リラの言う通り、サートの活躍でもう『アーイ』やキメラといった脅威も去り、この地下空間の崩壊もすでに治まっている。
すぐに帰るというのも悪いという訳ではないが、この湖の光には疲労を回復する力があるのだ。ならば、体力が回復するまでしばらくここで体を休めるというのも有りではないか、とリラは言う。
「神族舐めんなよ? あいつら、死っていう概念がないから、地中に埋めても宇宙に吹っ飛ばしても戻って来られるんだよ。これ経験談ね」
「そんなこと……」
「あったんだよなあ、これが……」
そう言って遠い目をするサート。過去に一度神族相当の相手にこの奥の手を使用し、これで一安心だと油断していたところに、まるで時間を巻き戻したかのように相手が目の前に舞い戻って来たのだ。
神族に、人智を超越した存在に人の常識など通用しない。サートが苦労して取得した転移魔術を、それが基本技能の一つだと言わんばかりに何の前触れもなく目の前に現れたのである。
同じことをあのユーザスが造り上げた『アーイ』に出来ない理由は無い。恐らくこの地下空間の座標やサート達の魂の匂いやら何やらは覚えられているだろう。それを辿って今すぐにでもこの場所に戻ってこないという保証はない。
「要するにただの時間稼ぎにしかならないんだよねこれが」
しかも神族相手に同じ手が二度も通用するのかは不明なのだ。改めて割に合わない魔術であると実感するサート。
だからこそ早く目的を済ませてしまいたかったのだが、どうやらそう簡単にはいかないようであった。
『あの、すみませんサートさん』
『……おう、何か嫌な予感がするけど、とりあえず身体の方は無事か?』
『ええ、そちらの方は問題ありません。助けてくれてありがとうございました』
先ほど『アーイ』に連れ去られかけた朝斗が何やら深刻そうな顔をしてサートに話しかけてくる。どうやらその時に強く締め付けられた影響はなさそうだが、その代りにまた頭痛に耐えるかのように頭を押さえていた。
頭痛はまだ治まらないのかとサートが尋ねると、『アーイ』がサートによって転移で飛ばされてからは頭に響く声も無くなり、頭痛も治まっていたと朝斗は答えた。
ただ―――
『頭の中の声が消えたと思ったら、ついさっき、また別の声が響いてきまして……』
『……因みに、今度はなんて言っているんだ?』
『それが……』
その朝斗の言葉を聞いて嫌な予感が止まらなくなるサート。その先の言葉を聞きたいような聞きたくないような複雑な気持ちで続きを待つサートの耳に、湖の異変を察知したアイラ達の声が入ってきた。
「おい、湖の光が強くなってるぞ」
「『アーイ』が居なくなった影響ですかね?」
「何が起こルか分かラん、まずは後ロに下がレ!」
「これは……、もしかして」
どうやら湖の発光が強くなってきているらしい。リラが何か察していたようだが、もしや朝斗の用件もそれに関係することなのだろうかとサートは思った。
そしてその湖の光が強くなるにしたがって朝斗の表情もより辛そうなものに変わっていく。明らかに先ほどの『アーイ』の声が頭の中に響いていた時よりも苦しそうにしている朝斗だが、ここまでくればサートも湖から発せられる存在感に嫌でも気が付かされる。
『一つ、二つではなくて、数えきれないくらいの声が何重にも重なり合って、皆同じことを言うんです―――』
『―――「おはよう」と……』
朝斗がその言葉を言い終わるのと同時に湖の発光も最高潮に達する。これはヤバいと思ったサートが転移魔術の準備をしようとするが、その魔術が発動されるよりも早く、急激に水嵩を増した湖から溢れ出た大量の水に全員が飲み込まれてしまった。
「がっ、っぐは」
まるで台風の日の海を彷彿とさせる様な大波に飲み込まれ、その衝撃で意識を失いかけてしまうサート。それを何とか気合で耐えるも、この僅かな時間で湖から溢れ出る水はどんどん勢いを増し、この地下空間全体を水で埋め尽くすのも時間の問題かに思えた。
サートはそんな勢いで水嵩を増す水流の中で、よく体がばらばらにならないものだなと頭の片隅で考えていた。それと同時に他の仲間たちがどこにいるのかを探すため、水飛沫に耐えながら目を開けて周囲の様子を見ると、自分の周りだけ水の流れが他とは違うことに気が付いた。正確に言うと、ギリギリまだ目視の範囲内にいる他の仲間達も同じように比較的緩やかな流れの中に身を置いていることが分かる。
「リラか……!」
サートから比較的近い場所に、リラが水の上に立って魔術で何とか水流を制御しようとしている姿が見えた。先ほどの大波の衝撃でせっかく時間をかけて結った髪の毛も解けてしまい、それでも必死に水流を操作してサート達を守りながら一カ所に集めようとしているのが見える。
しかし、流石に水の流れが強すぎるのか、それとも他の要因があるのかは分からないが、どうやらかなり苦戦をしているようであった。
「そろそろ真面目にきついんだけどなあ」
だが今はそんなことを言っている場合ではない。如何にリラといえどもこの急流を制御して全員を一カ所に集めることは難しい。それに、このままでは水嵩が天井にまで達してしまうのも時間の問題だろう。それほどに水の勢いが凄まじかったのだ。
サートは一度深く息を吸って呼吸を整え、まだ杖にぶら下がっていた黒丸へ先にリラの元に行くよう指示をしてから転移魔術を発動する。
(まずは一人目)
最初に自分から一番近い位置にいたガランの下へと転移をして、その腕を掴むと次にサイスとアイラの元に転移をする。
(二人目、三人目っと)
サイスがアイラと離れ離れにならないようにその手を強く掴んでいてくれて助かったとサートは思った。これで転移魔術を使う回数を一回分少なくすることが出来るからだ。
(ヤバい、集中力が切れそう)
ただでさえ転移魔術は座標の計算がシビアで脳みそを酷使するというのに、流石に短時間で転移魔術を連続で使いすぎてしまったのか、頭がぼんやりとしてきたサート。一度氷砂糖やチョコレートでも食べて糖分の補給をしたいが、そんな余裕は当然あるはずもない。
このまま朝斗のところまで転移し、それからリラも回収して帰還をしなければならない。一体あと何回転移魔術を使用しなければならないのかすら、すぐ頭に浮かんでこない程にサートは消衰していた。
だがこのままの調子で転移魔術を発動すれば、最悪地面の中に転移をしてしまうかもしれないということはかろうじて理解をしていた。
「アシャット君はもう私が回収したよ、サトラク君」
もしやこれは割と真面目にピンチなのではないだろうか、そんなことを考えながら何とか意識を集中しようとしていたサートの耳に、リラの声が入ってきた。
「……一瞬でもお前のことを天使のようだと思ってしまった、そんな自分に対する怒りで逆に頭が冴えたわ」
「一瞬だけじゃなくて、ずっとそう思っていてくれてもいいんだよ?」
サートがガランを回収してサイス達の下へ転移をした辺りで、もう水流を操作する必要はないと判断したのだろう。リラは水上を滑るように移動をしながら朝斗を回収し、そのままサートの下まで駆け寄って来ていたのだ。
「アシャット君が病み上がりで助かったよ。まだ体に肉がついていないから私でも運べるぐらいに軽かったからね」
「とりあえず、おかげで助かりそうだということに対しては礼を言うよ」
「んー、素直なサトラク君とかちょっと違和感がすごいね。何か変なものでも食べたのかい?」
自分に対して珍しく素直に礼を言うサートを、リラは朝斗を脇に抱えたままニコニコと顔を緩ませながら軽口を返していた。
もうすぐ別れの時が訪れるということを察したのだろうか、リラは最後に少しだけ寂しそうな顔をしてサートの手を握り、サートもそれ以上は何も言わずに転移魔法を発動した。
――――――
「ここは、あの凍りついていた湖か……」
「ここにいる冒険者達にも異変を伝えないといけないからな」
サートが転移をしてきたのは迷宮地下4階層の、ミラによって氷漬けにされていた湖の底。つまりはサート達が入って行った新しく発見された洞窟の入り口である。
あれからかなりの時間が過ぎたため、ゴッツ達はもう拠点に帰っているだろうが、その他の冒険者たちがまだここで氷を掘っているかもしれないのだ。そんな彼らに今起こっている異変を伝えて、避難をしてもらわないといけないためにわざわざここに寄ったのだが……。
「だーれもいねえ」
「気配もしないね」
サート達がここを訪れた時にはあれだけの人数が氷を掘っていたというのに、今は人っ子一人見当たらない。サートがスマートフォンで時間を確認すると、外の時間的には真夜中に当たる時間であったため多少人が少なくなるのは理解できる。だが、太陽が無くて昼も夜も関係のない迷宮の中で、いくら外が真夜中でも人が一人もいないというのは少々おかしい。
「ここで考えていてもしょうがない。私が皆を起こすから、その間にサトラク君は頭を休ませておきなよ」
おかしな状況ではあるが、確かにこれ以上考えていても仕方がない。とにかくこれで一息つくことが出来るのだ。そう思ったサートはリラの言葉に甘えて、影にしまってあった氷砂糖を取り出し、数個纏めて口の中に放り込んで糖分を補給するのであった。
「っ、ここは……」
「迷宮の地下4階です。サトラク君のおかげで何とかここまで逃げてこられました」
「ただ、誰の姿も見えなくてな。本当に誰もいないのかちょっと確認したら、地上に戻ってギルド長に報告だ」
リラが気を失っていたアイラ達の頭に手を当てて治癒の魔術を使用すると、しばらくしない内に皆の意識が戻った。
最後に意識を取り戻したアイラに事情を説明し終えたサートは、糖分を取って多少の余裕が出来たことを確認すると、全員に対して耳を塞ぐように指示をする。
一体何をするのかと思ったアイラ達であったが、とりあえず言われたとおりに耳を塞いだ。
「よし、それじゃあ行くぞ」
全員の耳がしっかりと塞がれたことを確かめたサートは、二三度軽く咳をしてのどの調子を確かめると、拡散の魔術と集音の魔術を発動する。
『誰か! いたら返事をしてくれ! 緊急事態だ! 聞こえていたら返事をしてくれ! 繰り返す―――』
「……うん、誰もいないな」
それから三回ほど同じ内容を繰り返して反応を待っていたが、反応が返ってくることはなかった。ここまでやれば、この階層には自分たち以外の人がいないと言っても良いだろうとサートは判断する。
「さて、どうする? 流石に他の階層まで行って同じことをする元気は俺には無いぞ?」
「それについてなんだけどね、サトラク君」
この4階層よりも下か、もしくは上の階層にいるかもしれない冒険者たちを探して、避難をするように呼びかけるには些か体力を消耗しすぎていた。もし何か起きても、悪いが自力で何とかしてもらうしかないなとサートが思っていたところに、地面に手を当てて何かを探っていたリラが声をかけた。
「どうやら私たちものんびりとしている暇はないかもしれない。さっきの水の気配がもう、すぐそこまで来ているんだ」
「はあ!? いやいやそれはあり得ないだろ。俺達がどれだけ深くまで潜ったと思っているんだよ」
いくらあの水の増加スピードが異常だったとしても、流石にこの短時間でここまで水嵩が増してくることなどあり得ない。それだけの深さを潜ったし、サート達が通ってきたルート以外にも道はあったのだ。それらすべての体積をこの短時間で満たしたなど到底信じることが出来なかった。
「これは、どうやら真っ直ぐ上に昇ってきているみたいだね」
「マジかよ……、水は下に落ちるもんだろうよ。宇宙の法則が乱れるじゃないか」
「知らないよそんなこと。実際にものすごい勢いで昇ってきているんだもの。まるで生き物みたいだ」
「でも確かに、私たちの入って行った穴から空気が押し出されていますね」
「……わずかだが、地響きも聞こえてくルな」
にわかには信じがたいリラの言葉だが、サイスやガランがそれが真実であるということを裏付ける証拠を指摘する。サートもその穴から空気を送り込んで中の様子がどうなっているのかを確かめると、確かに何かが近くまで迫ってきていることが分かった。
「もしかすると、アルバが滅ぶ原因は『アーイ』じゃなくて、こっちの方かもしれないね」
「しょうがない。全員、最後にもう一度転移をするぞ」
この調子だと迷宮の外へのんびりと歩いているうちに、また水に飲み込まれてしまいかねない。このことを地上にいる誰かに伝えて、少しでも町の被害を減らさねばならない。
今度こそ地上に戻るために気力を振り絞って転移魔術の準備をするサートだが、いざ地上に戻ってみると、そこには予想をしていなかった光景が待ち受けていたのだった。




