第16話~救出作戦その3~
今回は少し長いです
長いトンネルを抜けた先には今までの階層とは全く違う景色が広がっていた。
3階層までの人の手によって整備された道ではなく、人の背丈の数倍はあろう巨大な岩がそこかしこに点在する、非常に曲がりくねった先の見えない道が続いている。この多数の大岩があるせいでこの階層の道の整備が進まず、迷宮内での大型馬車を利用した攻略を阻害している原因でもあった。
その証拠として4階層に入ってすぐの場所に、ここからは恐らくそのままでは先に進めないと悟ったためであろう、姫騎士隊の残した馬車が数台半壊状態で横たわっているのを視界内に捉えることが出来た。
「あれは馬車か? こんなところで壊れているということは……」
「濃い血の臭いだ、近いぞ!」
転倒し土埃の被った馬車と馬の死体。そして獣人でなくとも微かに匂うほどに濃い、あたりに広まった人間の血の臭い。恐らく主級と遭遇して逃げた姫騎士隊員があと一歩のところで間に合わなかったのだろう。
敵はこの入口のすぐ近くまで来ていたのかもしれない、皆がそう考えていると――――――
「全員伏せろ! 早く!」
何かを察知したサートが大声で伏せるように指示をする。ほとんどがその声にすぐ反応をして素早く地面に伏せるが、何人か反応の遅れた者をサートが風で上から押しつぶすようにして無理やり地面に伏せさせた。
そして同時に自分たちの周りに真空の層の膜を作り、さらにその外側に自分たちを中心とした竜巻の結界を張る。
その瞬間空気が震え、衝撃波と石礫の壁がサート達を襲う。
―――ギィ―――ィィイイイイイイイイイイィィン――――――
竜巻の結界によって衝撃波と小さな石礫は防ぐことは出来るが、流石に高速で飛んでくる重い岩や瓦礫などは防げない。巨大な礫が竜巻と真空の壁を突き破り、それによって生じた僅かな隙間から結界の外で反響する音が漏れ聞こえてくる。
「ぬうっ」
「ぐっ」
「これはっ……」
「ここは私たちの出番かな、いくぞ息子よぉ!!!」
「おうよ親父ぃ!!!」
誰もが地面に伏せた状態で耳を塞いでいる中、集まった魔術師のうち最後に残った親子の魔術師コンビが物理攻撃に特化した障壁結界を石礫が飛んでくる正面に張る。そのおかげで飛んでくる礫や岩を防ぐことが出来るようになり、その隙にサートの張った結界に空いた風穴部分も復活する。
「ふうー、助かったよ。俺、流石にあの一瞬で強い結界張るとか出来んもの」
「いやこちらこそ、おぬしが気付かなければあっさりと全滅していたかもしれん」
「石と風は防げても、音は防げないんだよなあ俺ら」
「ちょうどお互いに足りないものを補うことが出来たってことか。運が良かったな」
「じゃな」
「それにしても外の景色が酷い、何時になったら止むんだこれは」
サート達が張った結界の外ではいまだに突風と礫が吹き荒れ、一向に止む気配が無かった。今まで地面に伏せていた者たちも少しずつ轟音から立ち直り、怪我がないかを確認しながら服に着いた砂埃を払っていた。
「さあ? 叫び声じゃなくて口の中にある襞を擦らせて出している音だからなあ。呼吸に頼らない分、その気になればずっと続けられるんじゃないかね?
おら、早く立てよお前らー、敵は近いぞー」
「これが主級の力か……、凄まじいな。ん、待てよ? 何故こんな攻撃をしたんだ? 俺たちに気付いたのか?」
「いや、それは無いはずだ。俺たちは今ここに着いたばかりだし、未だに姿を見せていないということは主級はまだ遠くにいる筈だ。一応聞いておくが、遠くにいる獲物を察知する能力は備わってはいない筈だよな?」
「頭部についている二本の触角が一番の感覚器官だからそれは無いだろ」
元々は光のない真っ暗な地下空間に生息する群体の魔物だ。数えきれないほどの仲間が生息する環境で一々広範囲の気配を察知できるようにまでできているとは考えにくい。
「と言うことは、考えられることは……何かと戦っている?」
「何かって、この階層に主級と戦えそうな敵なんて……ん? 待てよ」
「……生存者がまだいるのかもしれない!」
素早く態勢を立て直したサート達は主級に気付かれないよう慎重に、されど手遅れにならないよう迅速に主級がいると思われる方向に移動を開始した。
距離にすれば今までサート達のいた入り口付近から直線距離で僅か数百メートルほどであったが、4階層のそこらかしこに点在する大岩が壁となり、まるで迷路のように先に進もうとする者の足を遅らせる。
だが獣人たちはその恵まれた身体能力を活かして、そうでない者たちはサートの風魔法と魔術師の親子が張る障壁結界を足場に応用するなどして無理やり岩の山を乗り越えていく。
一応目的が救出であるが故に、迷宮に潜る際に用意する狩った獲物を積む荷車や、大量の食糧などの荷物が無いからこそ出来た強引な手段により、それほど時間をかけずに目標を発見することが出来た。
「うーわマジか、フラグってすげえな本当にいたよ生き残り。……やっべ、本当に生き残りがいた場合の対策あんま真面目に考えてなかった、どうしよ」
「言ってる場合か! 助けるぞ!」
だが、いざ助けに入ろうとしたサート達の目に入ったのは、ある意味異様な光景であった。
その男は一目で分かるほどに痩せ細っていた。
薄汚れた襤褸切れから伸びる手足は骨の形が浮き上がり、背丈は180㎝半ば程であろうか。遠目故に正確な値はよく分からないが、サートよりも拳一つ分以上高い身長と長い手足がその痩せた身体を一層際立たせている。
スラムの浮浪者のように伸び放題の髪は砂と埃にまみれ、かろうじて黒い髪であることが判別できるばかりであった。そして恐らく主級の放つ衝撃波によって鼓膜が破れたのだろう、耳からは大量の血を流していた。
いや、砂で汚れていて分かり難いがよく見れば鼻や口元、両目にまで血が流れた痕がある。
主級ではなく、その何故生きているのか不思議なほどにボロボロな人間の姿を見て、思わず助けに入る足が止まってしまったサート達救助隊。
「なあ、本当に生きているのかあれは?」
「死んだ人間を蘇らせたと言った方がまだ納得できるな。
(というか本当にゾンビじゃないだろうな)」
そう思ったのはサートだけではないだろう。
足の裏が擦り剥け、血と土で赤黒く塗られている踵。皮が丸ごと剥けて血の流れが止まらない膝が生々しい死の気配を感じさる。曲がった背中から力なく垂れる両腕はただでさえ骨と皮しかないその姿をより力ないものに見せていた。
しかし既に体力が限界にきているのだろうか、息切れをし、遠目から見ても分かるほどに激しく上下している肩と、錆と刃毀れだらけの短いナイフを力強く握るその右手が彼を死人でないと教えてくれる。
姫騎士団に男はいない。
となると必然的に彼は肉壁として連れてこられた迷宮奴隷の一人であることになる。生き残りが奴隷であったことに驚嘆する者、そして落胆する者など反応は様々であったが、次の瞬間には誰もがその顔を驚きに染めることになった。
奴隷の目の前には巨大な影。
建物が動いているのではないかと錯覚してしまう巨大な体躯には、人を一瞬で真っ二つに噛み千切ることが出来そうな大顎。背にはその暗闇を思わせる艶のない黒い体色とは対照的に網目模様の入った白く薄透明な二枚の羽が生えている。
そして何より六本ある足の内、前脚一本だけが欠損している。それが紛れもなくサートが接触し姫騎士隊を壊滅させた巨蟻の主級<アント>であることを証明していた。
だが、サート達が驚いたのはその恐怖を形にしたような主級の容貌に対してではない。
攻撃があたらないのだ。
奴隷の攻撃が、ではない。
主級の攻撃が奴隷にあたらないのである。
主級はその巨躯からは想像も出来ない俊敏さで相手を仕留めようと息をつく間もなくその前足と大顎を振るうが、そのどれもが奴隷にあたらない。いや、正確に言うと主級の攻撃によって起きた風圧や礫などの余波は受けている。だがその巨大な前足と顎の直撃だけは紙一重で避け続けている。
勿論奴隷の方も余裕があるわけではない。避け続けていると言えば聞こえはいいが、実際は偶然と賭けの積み重ねの綱渡りに等しい。
残り少ない体力でどうにか生き残ろうともがいている。時には転ぶように、時にはあえて懐まで潜りこみ、地面を這いずり回りながら周りの岩陰に隠れるようにギリギリで相手の攻撃を躱しているのだ。
だがそれでも、少しずつではあるが四階層への入り口方面まで逃げ続け、近づいている。
「(さっきの衝撃波も岩陰に隠れて吹き飛ばされないようにしてたのか。まあ即死は避けられるかもしれないけど、本当にギリギリだな、生きているのが)」
吹けば飛ぶほどに痩せ細った男が主級から逃げるその姿は、例えるならば歩く際に生じた微風に煽られて偶々踏み潰されずに済んだ枯れ葉の如く。文字通り一歩間違えば即死亡と言う光景に、気付けば全員の助けに入る足が止まっていた。
「あいつは……まさかアシャットか?」
グラルが奴隷を見て何かに気付いたのか、よりはっきり姿を見ようと目を細めながら言った。
「ん? 知ってんの?」
「ああ、少し前に噂になっていた迷宮奴隷だ。だが今はそれよリもあいつを助けねば」
「まあリアルオワタ式とかやってるし、ここまで来て目の前で死なれるのも寝覚めが悪いか」
「オワ?」
「とか言ってる間にゴッツが突っ込んでるし」
皆が目の前の光景に衝撃を受けて足を止めている時に一人、オオオッ、と叫びながらまさに鉄砲玉のように主級まで走り抜けていくゴッツ。
「どっせい!!」
僅か数秒の間に敵との距離を縮め、金槌の柄だけを長くしたような特製のハンマーをたっぷりと遠心力をつけてフルスイングをする。
ガキィ、と甲高い音が響き、
「あ、こりゃぁダメだ。かってぇ」
掠り傷一つ付けることなく弾かれた。
「そして一気に窮地。助けてくれサート!」
「うえーい」
ダメージを与えることは出来なくも主級の注意を逸らすことは出来た。だがそれは同時に危険を意味する。
巨大な蟻の顔がゆっくりと此方を向き、目玉があるわけではないのにその無数にある複眼の一つ一つがこちらを見つめているように感じる。新たな敵、いや、獲物が現れたとでも思ったのだろうか、その人間の胴体を軽々と切断出来そうな二つの大顎とその奥に見える縦にさけた口がギチギチと音を鳴らしている。
「あー、こいつはヤバいわ」
先ほど見たこの主級の動きからしてその巨体に見合わぬ敏捷さを備えていることは既に理解している。今この瞬間に回れ右をして後ろに駆け出しても数歩もかからない内に追いつかれてミンチになるだろう。
そもそも重量の差が桁違いなのである。前脚一本に弾かれただけでも交通事故だ。
だからこそ今までその攻撃から生き延び続けた奴隷の男が異常だったのだが。
しかしその彼も突然の乱入者によって集中力の糸が切れたのか疲労が一気に押し寄せ、尻もちをついたままその体勢から起き上がれないようであった。
そんな状態の敵よりも今は目の前で動く獲物の方が邪魔なのかゴッツにターゲットを定めた主級はその大きな顎を振りかぶって突進の動作に入る。
「ちょ、はや、これはまず―――――いいぃっ!!?」
この距離ではどうあがいても躱しきることなど不可能であったが、主級の攻撃がゴッツに直撃する直前に、サートの魔法によってまるで後ろから一本釣りされたかのように体が引っ張られて宙を飛び、難を逃れた。
「どあっ!」
「お帰り、空を飛んだ気分はどうだった?」
「そんなことを話していル場合ではないだロう。感触はどうだ?」
「だっはー、もう経験したくねえわ。っと、まあ見ての通りだよ。
熊の頭蓋骨でも陥没させられる自信はあったんだが、まあだ手が痺れてら」
「あレでダメなラばもう武器はただの重リにしかなラんな」
「よし、聞いたなー? なら早く散開だ。今度はこっちに気付いて突っ込んできてるから一旦仕切り直すぞ」
全員がその言葉を聞いてハっと気を取り直し、自分の持ち場に素早く駆けていくのを確認したサートは、パン! と大きく手を一度叩いた。サートの良く使う、音の波を起点に空気の振動を増幅して突風のレベルまで圧縮・増幅を繰り返して打ち出す魔術である。
そよ風レベルから、一瞬だけならそれこそ家の屋根を吹き飛ばす強さまで調節が出来、やっていることは簡単な単純魔術の繰り返しなので燃費が良く、非常に使い勝手の良い魔術であった。
「(難点は細かい範囲調整が出来ないってことと、何より主級のその衝撃波とちょっと被ってるんだよ!!)」
キャラが被るだろうが、キャラが!!
そう怒りを込めて魔法をこちらめがけて突進している主級に最大出力で向かって放つと、その巨体が高く舞い上がり、サート達との距離を振り出しに戻すほど遠くに吹っ飛ばした。
「おお! もう全部それだけで良いんじゃねえのか?」
「いやー、前も同じことやったんだけどね……。
見た目は派手だけど、やっぱり今の吹っ飛び方を見るに体積の割には体が軽いっぽくて、あんまり効果は無いんだよなあ。
ていうかあいつ飛べるし」
これが獣系の魔物であったならば、いくら外側が堅くても脳震盪ぐらいなら起せていたのだが、おのれはしご状神経めと内心で愚痴をこぼすサートであった。
そしてサートの予想通り、地面に激突した主級は堪えた様子もなくすぐに体勢を立て直して再度突進の構えを見せた。
「ほらね。脚の一本すら折れてやしない。自信無くすわー。
蟻は理論上どんな高さから落ちても死なないって聞くけど、その大きさでこれは詐欺だろ」
「ここは俺らの出番の予感!! 親父!」
「おうよ!! 勢いに乗せる前に止めるぞ息子ぉ!!」
ここでゴッツの次に正気に立ち直るのが早く、既に持ち場に到着していた魔術師の親子が主級の突進を食い止めるために障壁結界を張る。主級の正面だけではなく、脚の間、胴体の繋ぎ目、翅の横など、前後左右どちらにも身動きが取れないように幾枚も障壁を重ねて動きを拘束する。
勢いに乗っている状態であれば障壁を何枚重ねようと突き破られていただろうが、この状態ならば力も入りにくく時間を稼ぐことが出来る。
「あの二人マジで優秀だな。ちょっとうるさいのが難点か」
やる気が無いのが難点なサートがそんなことを言っている間に、まるでオランウータンをそのまま直立二足歩行させたような猿の獣人が主級の下までたどり着いた。
そして親子の張った障壁結界や主級の脚を足場にまるで本当に木に登っているかのようにあっという間に主級の背中まで到達すると、腰につけた金属製の手斧をその常人の二倍はあろう長く太い腕で振りかぶり、思い切り主級の翅の付け根に振り下ろす。
だが、先ほどのゴッツと同じくガキンと甲高い音が響くばかりで傷を付けることは出来ない。
「だんめだ、オラの鉄斧でも刃が欠けちまうだ」
「チッ、付け根の細い部分なラあルいはと思ったが、ホヴゥの腕力でも駄目か。いや、そのまま続けてくレ、斧は使い潰しても構わない」
「んだ、分かっただ」
オランウータンの獣人、ホヴゥが主級の背に登っている間に他の者たちも既に自分の持ち場に到着していた。グラルやゴッツをはじめ、ガランなどの力自慢の獣人たちは主級の傍に、サイスやアイラ、一部の獣人は少し離れた場所から弓矢で主級の気を散らさせるために弓矢でけん制をしている。
「ぬああーー!! ここまでやってもまだ動くかあああ!!」
「気合を入れろ息子おおおお!! 私たちが生命線じゃあああ!!!!」
「分かってるけど、あああーーー、貯めてた魔力がゴリゴリ減っていくうううーー!!」
「てめえらもう少し静かにしろや! 何のために主級の意識をこっちに向けてると思ってんだボケェ!」
魔術師親子はアイラやサイス達とは反対の方向で今回の作戦の要である障壁結界の維持・強化をしているが、あまりにうるさいのでアイラに怒鳴られていた。
そのアイラの近くでは貴族の魔術師ことエルマルドラが鳥を模した火の玉の魔法でサイスと一緒に主級の注意を引くためにけん制をしていた。
「出来れば主級の触角を狙ってください。ダメージはあまり無いとは思いますがあそこが一番敏感ですから。流石に、あんなに素早く、小刻みに動いている触覚には弓矢ではとても中てられませんので」
「う、うむ分かっているさ。僕が魔術で触角を、君たちが弓矢で複眼を、だね。主級の正面に立つという中々無い(出来れば二度と経験したくない)貴重な体験だ。受ける威圧感が凄まじいが、味方を守るために必要な、重要な役目だ。分かっていいるとも。
というか君の相方の女性……」
「根は優しいんですよ、本当に、ええ」
「ミラ、もう準備は良いの?」
「はい。水でない分いつもより時間はかかりましたが、もう問題は有りません。護衛をしてくれてありがとうございました、アーグ」
「そう、それじゃあ私はゴッツ達の方へ手助けに行ってくるわ。頑張ってね、ミラ」
「はい、アーグもお気を付けて」
そうしてアーグを見送ったミラの周りには、いつぞやの猪の主級の命を奪った蛇がその身を守るようにとぐろを巻いて佇んでいた。ただ一つ違うのは、その身を構成するのが水ではなく、サートが準備をさせた瓶いっぱいに詰められた獣脂を融かした油であるということである。
ミラは来たるべき時機を逃さないよう、静かに、そして誰も死なないように祈りながら時を待つ。
「よーし、生存者の回収は俺にまかせろー。決してサボっているわけじゃないぞー」
「俺様特製の棍棒もダメ、ホヴゥの斧もダメ、サートの魔法もダメとあっちゃあもう打つ手はない。少なくとも今は思いつかん。
不幸中の幸い、生存者を一人発見することが出来た。主級も今は動けない。だから後はこのままとんずらかませば任務完了だ。誰も死なずに済んで作戦は大成功だ。
だがしかぁし!! こんだけの精鋭を揃えて敵に傷一つ付けられずに逃げるのは我慢できねえ!!!
つーわけでこの羽もぎ取るぞ野郎どもおおお!!!」
オオオオオォォオォォオオオ!!!
と、賛同の意を表す雄叫びが辺りに響き渡る。
「あいつ一応、純粋な人間種のくせに獣人より獣人らしいかもしれん」
ゴッツの言葉に釣られてテンションが最高潮に達している獣人たちを見てそう呟くサート。
要は脳筋と言いたいだけだ。
そういえばゴッツが戦っているところを見るのはこれが初めてだったと気付き、サイス達の方を見る。するとやはりと言うべきかいつも大体こんな感じなのだろう、特に驚いている様子もなく慣れたように我関せずにひたすら弓を射続けていた。
そのすぐ近くにいるエルマルドラはドン引きしたような顔をしているので、本来ならばあちらの方が正しい反応なのだろう。
「まあ、どちらにしても満足するまで戦って貰うつもりではあったけどもさあ……」
叩いても、斬っても、吹っ飛ばしてもダメなら直接もぎ取る。
「仮にも文明を築きあげた種族の発想としてそれはどうなの……? いやむしろ有りなのか? 駄目だ俺もよく分からなくなってきた」
ゴッツのあまりにも突き抜けた脳筋ぶりにサートは少し混乱しはじめていた。
「ぉぉおおお息子よおおお!! 分かっているだろうなあああ!! 意地でも結界を持たせるんじゃあああ!!!」
「分かってるぜ親父ぃぃいい!! 俺達が生命線だ!!
あ、でも魔力がヤバいんで早めにお願いします、本当に」
「魔力欠乏でカロリーが足りなくなってきてテンションが保てなくなってきたんですね、よく分かります。
急げーゴッツー!!」
ゴッツ達に発破をかけたところでサボっていると思われないよう自分の仕事に戻るサート。その足元には人が二人横たわっていた。
一人は今回の救出作戦最年少である姫騎士隊の魔術師だ。
第4階層に到着して主級の衝撃波を受けた時から予兆となる症状は出ていたが、実際に主級を目にした時に記憶がフラッシュバックしたのだろう。恐怖によって目に見えて震えが大きくなり、精神的にも半パニック状態になっていた。
このままでは魔術を使っても味方の背中を打ち抜きそうであったため、サートが無理やり意識を失わせたのだ。周りにも本人にもあくまで恐怖が限界に達して気絶したと思わせるように。無理にトラウマを刺激するよりもこうする方が自分たちにとっても、そして彼女にとっても結果的に一番マシな結果に落ち着くだろう。
サートとしては様子を観察していた段階でこうなる可能性が高いと考えていたため、あえて最初からあまり戦力として数えていなかったのでそのことは特に問題ではなかった。
「(ちょっと気の毒なことをしたかな? いや、ある意味これが一番彼女にとっては幸せか)」
とにかく今回の最年少魔術師への対応に関してはこれで良しとする。
だが倒れているもう一人の方――――――
「酷い顔してるだろ。生きてるんだぜ、これ」
このままゾンビ映画に混じっていたとしても違和感のない、今回の救出作戦唯一の生き残りであるアシャットと呼ばれた迷宮奴隷が気を失った状態でサートの足元に倒れている。
その見た目はまさに骨と皮のゾンビ。栄養どころか水分すら碌に取れていなかったのだろう、乾燥途中のミイラと言われても信じてしまいそうなほどに顔は皺くちゃで年齢の断定は難しかった。
「いかん、ふざけていたら本当に死んでしまう。秒単位で死に向かってるんだから急がんと」
そういって自分の影から治療に必要なものを次々と取り出していく。
「見た感じからすると、失血死三歩手前、栄養失調一歩手前、過労死半歩手前ってところだから必要なのはー……」
生存者が一人もいなかったのならそれはそれで別に構いはしなかったのだが、ここまで来てせっかくの生存者が死んでしまっては骨折り損も良いとこである。
こういったことは専門外であるために、きちんとした治療は後でミラにでもしてもらうとして、とりあえず自分はしぶとくも逞しく生き延びたこのアシャットという男の命を繋ぎとめるだけだ。
使用した道具や薬などは後で必要経費として補填してくれる手筈になっている。そのため今までの稼ぎで溜め込んだはいいが使う機会のなかった秘薬・霊薬と言った類の薬を惜しげもなく使っていくサート。
「……うーん?」
ゴッツ達が主級相手に奮闘する掛け声をBGMに男の応急処置を進めていくサートだが、ここで一つおかしな物に気が付く。
気を失ってもなお離さない右手のナイフの方はまだ分かる。恐らく強く握りすぎて筋肉が硬直しているだけだろう。
だが楽な姿勢にさせようと縮こまった体を動かした際に、そのまるで何かを守るかのように抱えられていた反対の手が懐から出てきた。
そして、その手に強く握られていたものが異常であった。
「こーれはどー見ても……?」
拳の端から僅かにはみ出ている針金のようなもの。一体何を握りしめているのかと固く閉ざされたその拳を少しずつ広げていく。するとそこには―――
レンズは抜け落ち、フレームは歪み、もはや本来の役割を果たすことが不可能な状態ではあったが、間違いなくそれはこの世界には存在する筈のない物。
「眼鏡だな」
何故此処にこんなものがあるのか、何故それをこの奴隷が持っているのか、疑問は尽きない。
もしかして知らない内に眼鏡を持ってきて落としてしまったのだろうか? いや、俺眼鏡かけないし、と自問自答をしながらその壊れた眼鏡を隅々まで観察してくサート。
「[Asato Shindou]
シンドウ アサト? アサト……アシャット? んん?」
恐らく、ただの市販品ではなく誕生日の記念品か何かで送られたオーダーメイドの品だったのだろう。耳かけの内側に所有者の名前と思われる文字が小さく、掠れてはいるがしっかりと彫られていた。
改めて男の姿を観察するサート。
名前の響きからして日本人のように思えるが、だとしたら何故こんなところに炭鉱奴隷と並ぶ消耗品の代名詞と名高い迷宮奴隷として死にかけているのか?
「こいつの名前か? 髪の毛は確かに黒いが、んーむ、生乾きミイラじゃ顔の判別がつかんな。
ちょっとグラルさーん、グーラールーさーん!! 聞こえてる?」
「何だ!? 今取リ込み中だ! 見て分かルだロう!!」
「このアシャットって迷宮奴隷について聞きたいんだけども」
「詳しい事は私も知ラん! ただ仲間の迷宮奴隷が何度全滅してもそいつだけは死なない、不死身として有名な奴隷だったのだ!」
「ほうほう、不死身とな」
元々はこのアルバとはまた違う迷宮都市にいたらしいのだが、パーティが全滅し、迷宮奴隷商に買い戻されたところを姫騎士団によって今回の主級討伐のために青田刈りされたとの噂があったらしい。
「だかラもしかしたラ今回も、そう思っていたのだが……! 悪いがそレ以上は私もよく知ラん!」
「ういっす、お忙しいところどうもあざーしたー」
そうしてグラルに礼を言った後に足元の男に視線を戻す。
「不死身、ね」
極限にまで酷使され、いつ死んでもおかしくない痩せ細った身体。サート達が来るのがあと少しでも遅かったら主級に踏み潰されて死んでいただろう。だが――――――
「結果だけ見れば、今回もまた一人だけ生き延びてしまったわけか」
随分と難儀な星の下に生まれたもんだ、そうサートは呟いた。
「うらあぁ!! もっと気合入れろぉ!」
一方ゴッツ達の方はといえば、主級相手に羽を掴みながら綱引き大会を開催していた。
人間とは比べ物にならない腕力を持つ獣人と、何故かその獣人にも負けず劣らずの力自慢である一応人間の巨漢たちが合わせて十名以上。だがそんな彼らが全力で羽を引っ張っているにもかかわらず、主級はびくともしない。
主級の正面では弓矢による牽制と、数羽の炎の鳥が複眼のすぐ傍を素早く飛び回って撹乱をしている。
その火の鳥が時折触覚に向かって体当たりして火花を散らすことで主級の注意を引いていた。しかし流石に自分の背中で羽を毟り取ろうと蠢いている者達を煩わしいと思い始めたのだろうか、主級の動きに変化が生じる。
障壁結界のせいで身体も羽も自由に動かせないが、方法が無いわけではない。
自分の周りにいる小賢しい者どもをまとめて吹っ飛ばすために、主級はその大きな前顎を思い切り開き、魔力を溜めながら口の中にある無数の襞をキュリキュリと擦り始めた。
「来たぞ、前兆だ」
「ミラァ! 今だ!」
「はい!」
今まで離れた場所で切り札となる魔術の構築をしていたミラが、この時を待っていたのだとばかりにその傍らに侍っていた油の蛇に命令を下す。
ゴッツ達が稼いでくれた時間のおかげで、ミラが極限まで洗練し続けた油の蛇はまさに目にもとまらぬ速さで地を這い、数瞬もしない内に主級の懐まで到達する。
そして蛇は主級の巨大な脚を伝いながら、そのまま大口を開けた口の中に飛び込むかのように自らの細長い体をねじ込んでいった。
「うわエグッ」
それを遠目から見ていたサートは思わず自分の口を両手で塞ぎながら、オエッと先ほど食べたあれやこれやが胃からせり上げそうになるのを抑え込む。
流血を伴う怪我や骨折などとはまた違ったグロさに、見れば他にも同じような動作をしている者、一瞬動きが止まる者も数名見られた。
「―――キュ、ル―――キュリ、リ―――」
だが、その効果は絶大であった。
油の蛇が自ら潤滑油の役目を果たし、その無数の襞を擦らせることによって発生させていた騒音を防ぐことに成功したのである。
「おお! マジでうまくいくとは……! 自分で提案しといてなんだけど、ちょっとビックリ」
「おいコラ、今の聞こえたぞサート」
「全ては俺の計算通ーーーり!!!」
ともかくこれで主級の放つ衝撃波は封じたと言っても良いだろう。
まだ時折キイキイと一瞬だけ甲高い音が響くときもあるが、それも油が馴染んでいくにつれて無視できる程度に小さくなった。
「おっしゃあ! こっからが正念場だぞお前ら!!」
「急いでくれ! 結界がもう持たん!!」
「遅くなりました! 今、強化魔術をかけます!」
ミラが、主級の背中で翅をもぎ取ろうと必死に格闘しているゴッツ達に向けてまとめて強化魔術をかける。
すると今まで十人がかりでもビクともしなかった主級の翅の付け根からミシリ、と今までにない手応えを感じさせる音がした。
「よおし! 手応え有り!!」
だが、それがかえって主級の危機感をより刺激したのだろう。今までにないほどに激しく暴れだし、その巨体を拘束していた結界に歪みが走る。
「急いでくれ!! 結界がもう限界だ!!」
「駄目だ……! もう、壊れるっ!」
主級の足掻きはもはや暴走とも取れる程に激しさを増し、ついに一つ、二つとその巨躯を縛り付けていた結界がバキンと甲高いような、鈍いような独特の音を鳴らして破壊されてしまった。
「全員今すぐ離れろぉ!!」
今までギリギリで持ちこたえていた結界が一つでも壊れてしまうと、あとはもう加速度的に次々と結界が破壊されていく。
「ぬぅ、お……りゃああああああ!!」
だが最後の結界が破られ主級が完全に解き放たれるのとほぼ同時に、ゴッツ達によってミチミチと少しずつではあるが千切れかけていた主級の翅から、ブチンッという小さな音が立つ。
「よっしゃついにもぎ取って、どぉわっ!!」
「もぎ取ったは良いが、落下死したじゃ話になラんぞ!!」
「サートー、たーすけてーー!!」
「えぇ……、そこ考えてなかったんかい」
とうとうその翅をもぎ取ることに成功したゴッツ達だが、その反動と完全に自由を取り戻した主級の暴走によって大きく後ろに吹き飛んでしまう。このままだと地面に叩きつけられ、大怪我負う可能性があるところをサートが風で落ちる速さを和らげる。
「うーん、俺ってばなんて縁の下の力持ち。あの親子もすごいけど、地味に今回のMVPって俺だと思うの」
「ちょ、こっちに迫ってきてないかい!?」
「見りゃわかんだろ!!」
「喋ってる余裕があったら足を動かしましょう! 死にますよ!!」
全ての結界を破壊した主級は勢いそのままに、まず一番最初に視界に入った敵へと突進をする。即ち、先ほどからずっと主級の注意を引くように囮となっていたサイス達である。
「(あ……、これ僕死んだかもしれない)」
ギアール・エルマルドラは悟った。
一緒に主級の注意を引くために弓を射っていた仲間たちは自分の目の前にいる。獣人は勿論のこと、同じ人間種であるサイスやアイラも魔術師である自分とは比べ物にならないほど体が鍛えられている。
このまま轢き殺されるのか、踏み潰されてしまうのかは分からないが、足の速さを考えるとやはり一番最初に死ぬのは自分だろう。
あのサートという魔術師がまた主級を吹き飛ばしてくれないだろうか。そう考えるもすぐに無駄だと悟る。
一瞬前まではまだ遠くに感じていた主級の足音が、もうすぐ後ろにまで迫っている。距離が近すぎて今からでは自分も巻き添えで吹き飛ばされるだろう。あんな巨体を吹き飛ばす程の攻撃の巻き添えになったら、それこそ死んでしまう。
最早打つ手は無い。
「(だがこのまま死ぬのはエルマルドラ家の名折れ!!)」
せめて一矢報いてやる。そう決意すると不思議と時間の流れが遅くなったように感じた。
このまま振り返ってこのデカブツへ最後にキツイ一撃をお見舞いしてやろうと覚悟を決めた時、「そのまま倒れ込め!!」という声が聞こえる。
半ば反射的にその声に従って滑り込むように前に倒れるが、どうやらこのまま主級の下を潜り抜けてやり過ごすことは出来そうにない。
「(この化け物め! 一人ずつ確実に仕留めるつもりか!)」
倒れ込んだ体勢のまま首を回して主級に顔を向けると、自分を噛み千切ろうと巨大な大顎が迫って来るのが目に入ってくる。
「(良いだろう、だがたとえ体が半分に食い千切られようとただでは死んでやらんぞ!!)」
意識が途切れるまでの一瞬の間に、そのムカつく顔面に自慢の魔術をぶち込んでから死んでやる。
今まさにその大顎が自分の両脇腹に食い込んでくる生々しい感触を味わいつつ、魔術を発動する準備をする。
極度の興奮状態故に、全ての動きがゆっくりに感じられた。
こんな間近に主級を正面からゆっくり観察する機会などない。鼻を刺激する油の臭いと、口の中で未だに未練がましくギチギチと無数の襞を擦り合わせている光景を見て、少し気持ち悪いな、と的外れなことを考える。
だがその瞬間、主級と自分の間に何か黒くて長い物体が現れ、視界が遮られた。
続いて聞こえてきたのはガギィ!! という鈍い音。そして――――――
「セーーーーフ!!! ギリギリ、ギリッギリの滑り込みセーーーーフ!!!!
……セーフだよね?」
サートの焦ったような叫び声だった。
ああ、よく見ればこの黒い物体は主級の前脚じゃないか。彼がこの顎の間に投げ込んでくれたのか。
なるほど、流石に岩を噛み砕く主級の大顎も、自分の体の一部をそう簡単に噛み千切ることは出来ないらしい。
そう結論に至ったギアールは、次に大顎に挟まれたまま摘み上げられるような軽い浮遊感を感じた。だが、この自分と一緒に挟まれている巨大な脚のおかげで食い込みが浅かったためか途中でずり落ち、主級に持ち上げられるようなことにはならなかった。
見れば主級は自分が今その顎で捕まえているものが何なのか気付いていないのか、頭を大きく振り回しながら何とか噛み千切ろうと暴れている。
あの主級の前脚が身代わりになってくれていなければ、もしかしなくても自分があんな風になっていたのかと思うと今更ながらに怖くなり、大量の冷や汗が吹き出てきたギアール。
「ま、まあ、せっかく準備したんだ。記念に食らっておきたまえ」
そうして震える自分を誤魔化すように軽口を叩きながら、倒れ込んだ体勢のまま今までとは比べ物にならない程に巨大な炎の鳥の魔法を主級に向けて放つ。
「ギ―――――――ッッ!! ――――ギギ――――――ィ―――ッ!!!」
声にならない悲鳴とはこういうことを言うのだろうか。
見事に主級の顔に命中した炎の鳥は、ミラの油の蛇の魔術によって非常に火が付きやすくなっているのも合わさり、その襞が密集している口の中にまで炎が広がる。
痛みや熱さを感じるのかは分からないが、生命の危機であることは感じ取っているのだろう。自らの体に纏わりつく火を消すために、あちらこちらの大岩に突進を繰り返す。
「今度はこっちに来たぞ!!」
「ってオイオイ、もしかしてあの体勢って」
「岩陰に隠れろ!!」
だが何時までも消えない炎に今度は何を思ったのか、今までとは少し変わった動きを見せる主級にゴッツ達は警戒を表すが、すぐにあることに思い当たる。
ヒクヒクと少し痙攣しながら、まるで狙いを定めるように尾部の先をゴッツ達に向ける主級。事前に酸を飛ばすという情報をサートから聞いていたから、すぐに何をしようとしているのか察しがついた。
だが角度が悪い。ゴッツは思わず舌打ちする。
幸いこの4階層には身を隠すことの出来る大岩がそこかしこに点在をしているが、主級が暴れた影響で身近にある大岩は殆どが砕かれて身を隠せそうにない。結界を張れる魔術師親子も距離が遠く、あてには出来そうもない。
だが身を隠せるほどの大きな岩まで逃げるとなると、瞬発力の高い猫や犬の獣人ならともかく、それ以外の獣人や自分のような人間は数秒はかかってしまう。
「(範囲は広く、体長の五倍ほどが射程、だったか?)」
間に合わないな。
もう今すぐにでも酸を吹きだそうとしている主級を見てそう悟る。
「ええい、だったら一か八か!!」
岩陰まで間に合いそうにない一部の獣人やアーグに向けて、大声で指示を出す。
「翅を、盾にしろおおおお!!」
その直後に主級が噴射した酸は凄まじい勢いでゴッツ達を襲った。
一瞬ではあったが、バゴンッと空気を押し出すような大きな音が辺りに響くと同時に、霧状の酸が岩肌や地面を溶かしていく。
ジュウジュウと音を立てながら岩を溶かす様を見ると、人に直撃すればただでは済まないことが容易に見て取れる。
「流石にゴッツ達が心配だが、今はこいつをどうにかするのが優先!」
ゴッツ達を助けるにしても、いつ第二波が来るか分からない状況では救助など不可能。
今は一刻でも早くこの怪物を追っ払うことが重要だと判断したサートは、水素と酸素の濃度を上げた空気の塊を主級めがけて解き放つ。
瞬間、辺りに響く爆発音。
「やべ、濃度調整ミスった」
ちょっと火の勢いを強めるだけのつもりだったのに。
だがこれには流石の主級も堪えたのだろう。未だ消えない炎が更に激しさを増し、もはや限界という様子でサート達に背中を向けて迷宮の奥へと走り去っていった。
「逃げた、のか?」
そんな主級の姿を見た誰かがふと呟く。
「俺が後を追う!! ミラはゴッツ達の救助! 早く!!」
「は、はい!」
「他の奴らは撤収準備!!」
あの主級が逃げ去ったという事実に現実味を感じずに放心していた他の者たちも、そのサートの声に現実に引き戻され、慌ただしく動き出した。
「大丈夫ですか? エルマルドラ様?」
「……い、今まで、どれほど鍛えようと肉が付かなかった自分が恨めしかったが、き、今日ほど、自分が細身でよかったと思えた日は無いよ。
あ、あとだね、情けない話だが、今更怖くなってきて、こ、腰が抜けてしまって動けないんだ。悪いがサイス君、肩を貸してくれ」
「いや、あれは無理ないって。むしろその程度で済んだことがすげえよ」
「ああ……ありがとうアイラ君。だがこれから先、何度あの光景が夢に出てくるのか考えると、い、今から憂鬱だ」
「それは、なんと言えば良いのか……」
「負けるな、頑張れとしか言いようがないな」
その言葉を聞いたギアールは「安眠がまた遠のいた」と、がっくりと頭を下げるのだった。
「ゴッツ! アーグ! 大丈夫ですか!?」
「ホヴゥ! 無事か!」
ミラが水で地面に溜まった酸を洗い流しながらゴッツ達の下へ駆け寄る。
「おーう。なんか意外と大丈夫だったぜ、鎧以外は」
「お肌もちょっとピリピリするわね」
「オラもう今度こそ死んじまうかと思っただ」
強い不安に心が押し潰されそうになりながらも、もしもの時は一刻も早く治療を始めなければという思いでたどり着けば、何とも軽い返事が返ってきた。
よく見ればわずかに皮鎧の端が溶けかかっている以外は特に大きな怪我もなく、その姿を確認してようやくミラは安堵の溜息をつくのだった。
「良かった……」
「サートの声も聞こえたぜ。早いとこ撤収準備を終わらせようや。またあの主級が戻ってこない内にな」
「おお、本当に逃げとる」
一方逃げた主級の後を気付かれないように追っていたサート。
これも本能なのだろうか、燃え続ける炎を消すために主級が以前サートが釣りをしていた湖まで辿りつき、その水で消火をする姿を確認していた。
「やっぱり逃げるって選択が出来る程度の知能はあるのか」
ユーザスが地下43階で戦った蟻は、どれも逃げるといった行動を取る様子が無く、ただひたすら敵に向かって突き進んでいくだけであったという。
そう考えると、この主級は翅が付いていることや知能が高いことからもしかしたら女王蟻候補といった特別な個体だったのかもしれない。
そこまで考えたところで、一つ嫌な疑問が頭によぎる。
ここまで痛めつけられても主級は同じ階層のこの湖までしか逃亡をせず、そこから更に奥へとは動こうとしない。そして、そこでユーザスの言葉を思い出す。
『推測の域を出ないが、おそらく迷宮のさらに下層の何かから逃げているのではないかと私は思っている』
「あんなところからからここまで、一体何から逃げてきたんだか」
『相当ヤバイものが現れたのだろうなぁ! あっはっはっはっは!』
「ええい、やかましい!」
自分の記憶の中の人物に文句を言うサート。
「帰る! もう俺帰る!
厄ネタとか知らん! 面倒事も全部サイスに放り投げる! あのアシャットとかいう男についてもひとまず保留!」
と、何で休日なのにこんなに気疲れしなければならないのかと一人キレるサートは、次こそはゆったりとした休日を過ごすと心に決めてゴッツ達の下へ戻った。




