第13話~師の実力と卒業~
暗く冷たい闇の中。
どこまでも吸い込まれそうになる深い闇の中で、キィキィと無数の甲高い音と何かが連続して衝突するような轟音が響いている。
その闇の中で唯一の光源といえばポツリと地面に浮かんだ僅かな火の明かりのみ。その明かりの下に二人の人影が見える。
その人影、サートとユーザスは今アルバ迷宮の地下43階にいた。
「休憩! 休憩を要求します! もうホント精神的にきついですマジで!」
「……仕方がないな。まあ区切りも良いところではあるか。私も少し聞きたいことがあるしな、少し休むか」
「ありがとうございます。そして防音の結界を新たに重ね掛けしてくれると私はもっとありがたいです」
サートはいかにも疲れたといったような体で地面にへたり込みながら言う。
「それぐらいならばお前にもできるであろう。こんなにも早く体力が切れることといい、昔よりも腕が落ちたのではないか。」
「それには深ーい理由が、まあ一応ありまして。とりあえずまずは座りましょう、色々持って来たんですよ」
そういって先ほどの疲れた様子はどこへやら、嬉々として自分の影の中から多くの食べ物を取り出していく。
「ふむ、それも合わせてゆっくりと聞くとするかな」
宙に浮かんだいくつかの火の玉の下にいる二人は、共に何か巨大で複雑な丸い陣のようなものが描き込まれた地面の傍に腰を下ろし、昔と同じように軽口を含んだ雑談を交わしている。
二人が傍に座っているその陣の内側には、何やら巨大な黒い物体が山のように積み上げられていた。
周りが暗い闇に覆われている中でその黒い物体をはっきりと捉えるのは難しいが、注意深く目を凝らして見てみると、それは七日前サートが迷宮の地下4階で戦った蟻の主級と同じ、巨大な蟻の魔物が複数体横たわっていることが分かる。
この蟻は自分が地下4階で戦ったあの主級と同じ種類の魔物だ。羽こそないが、自分が切り取った前脚と見比べて確認しても大きな違いは見受けられなかった。まず間違いないとみて良いだろう。
さらに階層唯一の光源である火の明かりで照らされた二人の周りには、さらに別の死骸が無数に散乱しているのが僅かに見えた。
その魔物一体一体をよく見れば、大きさこそ小ぶりだが陣の内側にいる蟻とそっくりな姿をしている魔物であった。
小さい、とは言ってもそれはあくまで陣の中央にある主級サイズの蟻と比べた場合である。多少の個体差はあるが最低でも人間が数人は軽く跨って乗ることができる程の大きさがあり、それ以下のサイズのものは見つからなかった。
それが視界が届く限り、まるで地面に黒い絨毯が敷かれていると錯覚するほどに広がっている。その密集具合から、おそらく火の明かりの届かない更に奥にもかなり広範囲にわたって同じような光景が広がっているだろうことが簡単に予測がついた。
そしてこの光景はユーザス一人で作り出したものであり、サートは何もしてはいない。はっきり言って前世の元々の本職は魔術の研究者といった方が近いサートにはそこまでの実力は無い。時間をかけて一匹二匹を相手にするのならばともかく、これほどの数を相手にすればまず間違いなく数の暴力の前に圧殺されるだろう。これはサートだけでなくこの世のほぼすべての人間に等しく言えることでもある。
だがサートが地下42階でユーザスと落ち合い、この階層に来たときにはすでにこの状態であった。つまり、ユーザスは本職は同じ研究者でありながら、もはやヒトという枠を超えた領域に存在する人物である、ということを目の前の光景が証明しているのだ。
さて、では何故そんな超人たるユーザスにサートはわざわざこんなところまで呼び出されたのだろうか。
戦力としてではない。
既にすべての戦闘は終了しているし、そもそも戦力の増援などユーザスは必要としていない。
知識面でのサポートでもない。
そもそもユーザスはサートの師であり、サートの知っている知識の根本はそのほとんどがユーザスから学んだものである。それでも研究における専門分野の違いによってユーザスも知らない知識をサートは得ているが、生憎とサートの専門とする研究と目の前の多くの死骸の光景とでは些か関わりが浅い。ユーザスの知識の補強にはならないだろう。
ならば何故なのか。
偶々居たから?
ぶっちゃけそれもある。
だがそれ以上にサートでなければならない理由がある。この状況でサートにしか出来ないこと、サート以外ではダメな理由―――――
そう、サートが今回ユーザスに呼び出された用件とは、一言で言うとただの荷物運びであった。
「それにしても、蟻という時点でなんとなく予想は出来ましたが、流石にこれほどまで数が多いとは……」
この光景を今上層にいる奴らが見たらどんな反応をするのか少し気になりますねと、どこか乾いた笑いを上げながらサートが言う。
「この程度、群れ全体と比べれば誤差にすぎん。私もだいぶ潰したつもりだったのだがな、ここから更に下層部にある『巣』の中はこんなものではなかったぞ。数など数えようとも思わなかったほどだ」
思わず声を出して笑ってしまったよはっはっは、と思い出し笑いをしているユーザスを深い溜息を吐きながら半目で見る。
自分が前世で生まれる前よりもはるか昔から存在し、多くのモノを見てきた人物だ。そんなユーザスの言う笑ってしまうぐらいの圧倒的な数とはどのようなものなのか、気にならないと言えば嘘になる。
だが、じゃあこれから見に行ってみるか? と言われてもそれはそれでとても困るので決して言葉には出さないサートである。
というかただの小銭稼ぎじゃなかったのかよ。
そう思ってしまっても仕方がなかった。自分の記憶が正しければユーザスは一時休暇としてしばらく隠居生活を楽しもうと言っていたのに、何をどう間違えばこんな前人未到の領域にまで潜りこんでいるのだろうと。
いや、思慮深く比較的常識を弁えた人には違いはないが、研究のためには破天荒なこともしでかす人だ。そして、それに弟子たちが毎回巻き込まれるのである。
どうせ今回もせっかくだから珍しい素材をを見てみようと迷宮を潜っているうちに夢中になってしまい、ストッパー代わりの御供の弟子もいないせいでサートからの連絡があるまで意識をしていなかったのだろう。思い返してみれば前世でも偶によくあることであった。
正直もう慣れたものなので、どうせこんなことだろうとは正直サートも予想していた。
予想していながらも呼ばれてすぐに駆けつける自分も自分であるが、それだけ自分にとって頭の上がらない恩のある人物であるのだ。それはたとえ来世だろうと変わらない。
それと同時に、師ならばたとえどんな危険な場所であろうと自分に危害が及ぶ前に対処してしまうだろう。
そう断言できるほどの強い信頼があったからこそこんな迷宮地下43階という人外魔境にまで来たのである。これが他の人物であったならば梃子でも了承はしなかっただろう。
そんなサートの心から信頼する偉大なる大魔術師ユーザスは、サートが影から出した多くの食べ物に興味津々といった顔で話の合間に時折質問を繰り出していた。
「これは、パンか。色が白いのもそうだが、これほどまでに柔らかいとは。香りも違うな、どんな小麦を使っているのだ?」
「ほう、焦がした砂糖に、牛の乳を混ぜて固めたのか。ふむ、珍しいな。このあたりに獣の乳を飲む風習があるのは北の騎馬民族と獣人の一部だが、あそこに砂糖があるとは思えんな」
「この香辛料は私の知識にはないものだな。どんな植物からとれるものなのだ? 地域は?」
「茶か。珍しいな。しかも今まで飲んだことのない味だ。この辺りに茶というものを知っている街は少なくて手に入れるのに苦労するのだが。少し茶葉を分けてもらえないか?」
中々に好評であった。
「とまあ、こうして食料を用意してきていることからも分かるように、今の体は昔のように燃費の良いものではなくて、20代そこそこの普通の人間の体なんですよ。なのでなるべく魔力は節約しようかと。
昔と同じような感覚で魔術を使用していると、ほら、ちょうど七日前に師匠と会った時みたいに激しい空腹に襲われたり、頭も回らなくなってしまうんですよね。」
主にカロリーが足りない。あと糖分も、と心の中で呟く。
これは魔術師の魔力欠乏状態であり、この状態からさらに無理して魔術を使い続けると激しい空腹感のほかにも激しい頭痛に襲われ気絶をしてしまう。そして目を覚ましたとしても魔力がある程度回復するまで体のだるさは続いていくのである。
因みに、魔力を消費した場合、一晩寝たからといって魔力がすべて回復するという訳ではない。よくよく考えてみれば当然のことではあるが、巨大な岩を跡形もなく破壊する魔法や、本物の雷と同じ威力を出す魔法を使ったとして、それほどのエネルギーをほんの数時間寝るだけで再び得る事が出来る、なんて言うのは普通は有り得ないことである。魔術師も決して万能ではないのだ。
個人の魔力総量と回復速度によって違いは出るが、迷宮に潜る一般的な力量の魔術師がすべての魔力を使い果たし、再び万全な状態になるまでは平均して十日はかかる。
基本的に魔力の量が多ければそれに比例して魔力の回復速度も速くなると言われいるが、稀に魔力は少ないが回復速度はかなり早い魔術師が現れることもあればその逆の魔術師も存在する。しかし、いくら魔力量と回復速度が比例するといってもそれはあくまである程度の話だ。膨大な魔力を持つものは全てが回復するまで二十日や一月以上かかる者もいる。
また、睡眠以外に効率よく魔力を回復させる方法として、瞑想を行い精神統一して空気中や大自然の魔力を意識して自分の中に取り込む方法があるが、たとえ手慣れた熟練者であっても十日を半分の五日に縮める程度でしかなく、未熟な者だとその魔力を取り込むことすら出来ない。
だが、それでも魔術師は普通の人間には出来ないことをする力がある。それがどんなに小さな力だとしても、あるのとないのとでは明確な差が存在し、それだけで魔術師に価値が生まれる。
たとえ体が貧弱で火の玉一つしか出せずとも、時と場合によってはどんな歴戦の戦士よりも役に立つことがある。それほどまでに魔術というアドバンテージは強く、魔術師というだけでどこの迷宮都市に行ったとしても仲間集めにはまず苦労はしない。
ただしコミュ障は除く。
「なるほどな。そういった感覚を感じなくなって随分と久しくなるが、そうか、これは盲点だったな」
「正直に言うと私もつい先日まで昔のように意識せずに魔術を使っていたのですが、魔物との直接戦闘を極力避けていたのと、魔力の効率的な運用は身に沁みついていたのもあって今まで欠乏状態にならなかったんですよね。
……あの蟻んこと遭遇するまでは」
朝から何も食べてない状態であれだけやればそりゃ余計に腹も空く。あの状態であのギルド長とまともに交渉をしていたとしたら一体どんな無理難題を押し付けられたか分かったものではない。やっぱ逃げて正解だったな、と再認識して短く安堵の息を吐く。
「そういう訳であの時の二の舞にならないように今回はしっかりと食料を準備してきたわけですけど、どうでした? お味の方は口に合いましたか?」
「非常に美味かったよ。また食べたいと思える味だった。
一体どこで作られているのかと無理やりにでも聞きだしたくなるぐらいにはな。
だがまあ、今回は死んでも治らなかった馬鹿弟子の性格に免じてそれは勘弁してやろう」
「ありがてぇありがてぇ」
偶に暴走するが、基本的にはこのように話の分かる常識人であるユーザスだからこそ、こうして無防備に色々と見せたのだ。それだけユーザスを信頼しているという証左であり、今ここで無理やり聞き出しても最終的に得にはならないということを互いに理解しているのである。
しかし、それでも興味を持ったものに対してはどこまでも外道に落ちることで有名なアーリンの魔術師に物珍しいものを見せるというのは常に一定の危険度を含む。絶対大丈夫という保証はないのだ。ゴッツ達と違い、長い人生で培われてきた老獪さと豊富な知識の前には誤魔化しは意味をなさない。じゃあそこへ連れて行ってくれと言われればもうなすすべがない。
だが何故限りなく低いとはいえリスクを背負ってまでユーザスに地球産の食べ物を見せたのか。
何のことはない。
そんなこと以上にただ単純に自慢したかったのが実際のところである。
「(だって自分の国の美味いものを食べた時のリアクションとか気になるじゃん)」
以前ゴッツにビーフジャーキーを食べさせたときに見せた反応があまりにも良かったせいか、少し癖になっきたサートである。
曰く、反省はしているが後悔はしていない、とのこと。
ノリと勢いは時としてどんなリスクにも勝るのだ、とはサートの談である。
「さて休憩はもう十分だな。作業の続きに戻るぞ」
「消化されて栄養が体に廻り切るまであと五時間ぐらい延長で」
さて、ユーザスに尻を蹴飛ばされながら前よりも速いペースで作業を再開するサート達であったが、その内容はいたって地味なものであった。
その作業とは地面に延々と魔力を込めた巨大な魔法陣を描いていき、蟻の死骸をその円中に収めていく、それだけである。
この魔法陣は範囲内のものをサートの影の中のような異空間に収納して手軽に持ち運べるようにするための物なのである。
この階層に存在する蟻の死骸を全て持っていくわけではない。小物は無視して大物だけをサートの魔術で収納して地上に持っていく。だがそれでも数は膨大なものになる。
流石にそれほどの量を自分の魔術で影に収めるのは無理だ。新しく空間を作るところから始めないといけない。そしてそれはものすごく重労働なのだとサートは声高に主張する。
「つーかこれ確実に商人たちが破産しますわ。むしろ売り切れんでしょう、こんな量」
「売らぬよ」
「………… は あ ? じゃあなんで俺を呼んだし」
あ、ヤベつい心の声がと少し焦るサートだが、ユーザスは慣れているのかスルーして言葉を続ける。
「売るのは一部の魔核だけだ。それ以外の魔核と死骸は別のことに使用する」
「……また何か造る、いや、造ったので?」
「うむ。なかなかの自信作なのだが、少々大喰らいでな。だが流石にこれほどの量があれば当分は持つだろう」
「どんだけ歯が丈夫だよ」
少なくともサートが岩を投げつけた感触からして鉄よりも硬い外殻であるのは間違いない。なのにそれを食べるという。こんどはどんなモノができたのか想像したくはなかった。
そんな雑談を交わしながらも時間は過ぎていく。そして三十分後、この階層に来てからあわせて五時間が過ぎようとする頃に全ての下準備が完了した。
「っしゃあ終わったあ! やっと帰れる! この場からおさらば出来る!」
あとは実際に魔術を発動させるだけなのだが、サートがここまで嬉しがるのは何も長時間の単純作業から解放されるという喜びだけではなかった。
その理由とはこの階層に存在する蟻以外の生物の存在にあった。
ユーザスが防音の結界を張る前にマシンガンの如く周りで響き渡っていた音の正体は、蝙蝠とツバメを混ぜたような姿をした、小さな鳥がユーザスの張った結界に突撃を繰り返している音であった。ただでさえ暗い迷宮の中で、更に全身漆黒の保護色を纏っている名前もわからないその鳥は正に銃弾のような速さで飛び回り、飛行中のその姿をはっきりと視認するのは不可能であった。
加えて鳥とは思えない程の硬さと頑丈さがある。
普通ならば弾丸の速さで何かに激突すれば頭が潰れて吹っ飛ぶものを、ユーザスの張った結界にぶつかって地面に落ちても嘴に罅すら入れずに即座に飛び上がり、また突撃を繰り返す。その威力は周りの岩を貫き地面を抉り、サートが攻撃してもびくともしなかったあの蟻の魔物の外殻に傷を付けるほどであった。
そんな化け物が数百、数千単位で飛び回っているのだ。
気分としては透明な防弾ガラスの前で延々とマシンガンを撃たれているような感覚であった。ユーザスの結界の頑丈さを理解していて絶対に大丈夫だと頭では分かっていても、こればかりはどうしようもない。音を遮断するだけでだいぶマシにはなったが、それでもじわじわと精神を削っていく。
そしてユーザスが何故直接サートをこの地下43階に呼ばずに一つ上の階層に呼びつけたのか、その理由も理解できた。
「(うむ。まさに地獄だ)」
普通に死ぬな、俺。ちょっと迷宮舐めてたかもしんない。
はっきり言って、サートには分不相応な場所だ。ユーザスと一緒でなければこの迷宮地下43階に入った瞬間、二秒で死ぬ確信がサートにはあった。さらに言えば、サートには今飛んでいるこの鳥の、たとえ一羽のみが相手でも確実に勝てる自信はなかった。
単純に相性の問題もあるが、亜音速で空中を飛びまわる鳥に攻撃を中てることも、その速度で壁に衝突してもぴんぴんしているタフな相手に効く威力のある魔法は、無くはないがまず中たらない。
出来る事といえば搦め手で動きを阻害した隙にとっとと転移して逃げることぐらいである。それが数の暴力で襲ってくるのならば、もう成す術は無い。
そして改めて目の前に高く積み上げられている巨蟻たちを見上る。
「(序盤のボスも、最終ダンジョンではモブと変わらないか。現実だと絶望しか感じないな)」
アルバ迷宮地下43階。前人未到の領域である。
だがここまで来ても終わりではない。まだまだ、まだまだまだまだ下があるかもしれない。いつになったら『底』に着くのか。いや、そもそも迷宮に『底』などあるのか。それは誰も知らない。
ユーザスも、この迷宮を発見した『勇者アルバ』も、過去に英雄や迷宮王と呼ばれた者たちも、誰一人として迷宮を踏破出来た者は存在しない。どれほど実力があろうと、どれほど仲間に恵まれようと、迷宮の闇はそのすべてを飲み干してきた。
果たして冒険者が、いや、人類がこの迷宮を踏破する日が来るのだろうか。サートはもう一度周囲にいる巨蟻と鳥たちを見てそう考えた。
「ようやくか。お前もまだまだ精進が足りないな。この程度の規模の魔術陣など、わざわざ手描きするまでもなく片手間で出現させることが出来るぐらいにはならんか」
「無茶言わんでください」
三秒後、自分には関係のないことだと気付き、そして師の無茶ぶりによってそんな考え事などすぐにどうでもよくなってしまった。
「さて、お喋りもこの辺にして仕上げに入りましょうか」
今日はもうだらだら過ごしたい。そういって手をパンッと叩く。
すると地面に描かれた無数の魔法陣が鈍く光り始める。
詠唱は無い。派手さもない。
だが、あらゆる無駄を省き極限まで効率化されたその光景には、まるで気が狂うほどの長い時間をかけて研究され洗練され尽くしたことを訴えるかのような、そんな執念さえ感じさせる不思議な迫力が存在した。
鈍い光が一瞬淡く光ったかと思うとすぐに消滅し、それと同時に山のように積み重なっていた大量の巨蟻の残骸がまるで落とし穴にでも落ちたかのように全て一瞬で消滅した。
残るのは地面にぽっかりと空いた、光を全く反射しない複数の真っ黒な巨大な穴のみである。
もう一度手をパンと叩く。
するとそれらの穴が閉じていき、ほんの数秒ですべて閉じきるとその場には最初からなにも存在していなかったかのような広い地面が現れた。
そして自分の懐の影から数枚の小さな白い紙を取り出し、手をかざす。すると真っ白だったそれぞれの紙の表面に先ほど地面に描いた魔法陣とはまた別の模様をした魔法陣が現れた。
「どうぞ。使用方法は以前と変わりません。この紙を破るか燃やすかして魔術陣を壊してください。あ、一応念のために言っておきますが、広い所で使用してくださいね」
「うむ、確かに受け取った。では報酬を渡そう」
そのユーザスの言葉を聞いたサートは怪訝な顔をする。
「……報酬?」
そんなもの今まで一度も貰ったことなどないが、一体どういうことなのだろうか。
そう思っているうちにユーザスがポイッと何かを投げ渡してきた。
「うおっと、急に投げないで下さ……い、よ?」
その何かをキャッチし、それがなんなのかを確認した瞬間、サートの表情が変わる。
いつものどこか気の抜けた表情から一転、堅い表情へと変貌する。
「……」
言葉こそ発しないが、目でいったいどういうことなのかとユーザスに問いかける。
その手の中にあるのはビー玉サイズの一つの黒い石だった。黒真珠のような艶もなければ黒曜石のような透明感もないが、瞳の瞳孔のようにどこまでも吸い込まれそうな深い黒であった。
そしてサートはこれがなんなのかを知っている。どれほどの価値があるのかを理解している。いかにユーザスの役に立ち、手助けになったとしても、少なくともこんな荷物持ち程度では何百回やろうと対価になり得ないことは確かだ。
明らかに釣り合わない、過ぎた報酬だ。冗談で出して良いものでもない。
何故これを、それが分からない故に言葉も出ない。
「弟子の卒業祝いと被ってしまって悪いのだがな、そう考えれば悪い報酬でもないだろう。
……何を驚いた顔をしている。お前はもう『サトラク』ではなく、『サート』なのだろう? ならばそれ相応の対価を渡すのは当たり前だ」
「…………あー」
今度は違う意味で言葉が出てこない。
つまりは、ユーザスはサートのことをユーザスの弟子である『サトラク』としてではなく、己と対等な一人前の一魔術師『サート』として認識したのだ。
弟子ならばどれほどこき使おうともそれに対する報酬など必要ないが、己と対等な魔術師に頼みごとをしたのならば対価を渡さなければならない。弟子からの卒業というのはそういうことだ。
ユーザスはサートのことを既に弟子ではなく人として対等であることを認め、そしてアーリンの魔術師としても自分の『夢』を叶えた一人前であると認めた、ということなのだ。
要するに、『荷物持ち』なんてついでなのである。
ユーザスは最初からこのためにサートを呼び出したのだ。それをようやく理解したサートは、なんと表現したらよいか分からない感情に襲われた。
嬉しいような、気まずいような、気恥ずかしいような――――
それでも、言うことはただ一つ。
「ありがとう、ございました」
やはり、どうやってもユーザスには敵いそうもない。
やっと言葉に言い表すことのできた感情は、やっぱりそれだった。




