夫が愛人を連れ込んだので、悪女らしく「円満」離婚いたします
「奥様、おやめください!」
切羽詰まった声で侍女が叫ぶけれど、それには聞こえぬふりをして、グレースは躊躇いなく寝室の扉を開け放った。
刹那、視界に飛び込んできたのは、乱雑に脱ぎ捨てられたシャツと、まるで足跡のように散らばった靴。そして、夫婦の為に設えられたベッドの上で、あられもない姿で重なり合うふたつの影だった。
乱れた白いシーツの上に、やわらかな桃色の髪の毛が広がっている。たくし上げられたシュミーズの裾から覗く、ほっそりとした生白い足。フリルのあしらわれた胸元にかけられた、骨の張った男らしい指先。
夫婦の為に作られた部屋、夫婦の為に設えられたベッド。けれどそこには今、妻ではない女と、そんな彼女を包み込むようにして組み敷く夫の姿があった。
「まあ……」
片手で口元を覆い、グレースはじわりと目を見開かせる。茫然と立ち尽くす彼女を前に、ベッド上の二人もまた唖然とした様子で動きをとめた。忽ち、冷たく重苦しい沈黙が室内を埋め尽くす。まるで此処だけが、時の流れに置き去りにされてしまったかのように。
けれどそれはすぐに、女があげた小さな悲鳴によって破られた。
「きゃっ……!」
女は慌ててシーツを引き寄せ、無防備な身体を覆う。しかしそれでも、ほんのりと赤く色付いた華奢な肩は露わなままで、そこにくっきりとつけられた幾つもの痕が、否が応でも目につく。
そんな彼女を護るように背に隠し、夫――エルヴィスは、憤怒を孕んだ瞳でグレースを睨みつけた。
「お前っ! 何しに来た!」
「何、と仰いましても……。ただ花の手入れをしにきただけですわ」
困惑しながら、グレースはちらりと、ベッドの横に置かれた小ぶりなチェストを一瞥する。硝子の花瓶に活けられた、枯れかけの赤い薔薇。その手前に転がる、美しいダイヤモンドをあしらった――見覚えのない――金細工のピアス。
「それにしても、エルヴィス……これはどういうことでしょうか」
口元を覆っていた手を右頬に添え、グレースは眉を下げながら、僅かに首を傾ける。
「そちらの方は……」
「彼女はアシュリンだ。私の新しい妻として迎えるつもりでいる」
「新しい妻? では、わたくしはいったいどうなるのです……?」
「お前とは離婚に決まっているだろう! 役立たずの能無し女めっ!」
唾が飛び散らんばかりの勢いでそう言い放ち、エルヴィスはシーツに包まる女――アシュリンを抱き締めた。一度もグレースに対してはしたことのない、やさしい手つきで、愛おしそうに。
「面白みも可愛げもないお前との結婚生活には、もううんざりしていたんだ! 何故いつまでも、愛していないどころか心底嫌っている女と“夫婦ごっこ”を続けねばならん! お前の顔を見るだけで、反吐が出るっ!」
「そんなっ……」
悲痛に顔を歪め、グレースは睫毛を震えさせながら、静かに目を伏せる。そんな彼女を、エルヴィスは軽蔑を剥き出しにして、鼻で嗤った。
「お前との結婚のせいで、遠回りをしてしまったが……私は遂に、“真実の愛”を手に入れた。可憐で聡明なアシュリンこそ、私の妻に相応しい女だ」
潤んだか細い声で、アシュリンが甘い囁きを漏らすのが聞こえる。そしてそれに応える、未だかつて耳にしたことのない、夫のやさしい声も。
そろりと視線をあげると、エルヴィスの逞しい身体の影から、アシュリンと目が合った。翡翠を溶かし込んだような、透明感のある美しい緑色の瞳。薄っすらと涙を滲ませたそれは、しかし明確な嘲笑を孕んで、グレースを真っ直ぐに見つめている。
「本当に、わたくしとは離婚なさるおつもりなのですね」
「当然だ。何度も言わせるな。アシュリンよりお前を選ぶ理由が何処にある? 今まで“侯爵夫人”でいさせてやったとはいえ、お前自身には何の価値もないんだ。勘違いするなよ」
「そう、ですか……」
ふらりと身体がよろめきそうになるも、それでもグレースはどうにかドレスの端を摘み、優雅な仕草で恭しく膝を折った。一人前の淑女然と。侯爵夫人としての、最後の矜持を示すように。
「畏まりました……。仰せの通り、離婚をお受けいたしますわ」
▽
侯爵家の当主であるエルヴィス・ブライアントと、伯爵家の令嬢・グレースとの婚姻は、王侯貴族によくある政略的な思惑によって結ばれたものだった。無論そこに、愛だの恋だのというものがあるはずもない。
元々エルヴィスには、公爵家の一人娘との縁談が持ち上がっていた。けれどその話は、彼女が他国の王子に見初められたことで呆気なく流れ、空いた“次期侯爵夫人”の椅子に、謂わば繰り上がりで座ることになったのが、グレースだった。
公爵家は、王家の傍流の血を引いている。つまり爵位的にも血筋的にも格上の娘と結婚し、社交界での影響力を強めることを目論んでいた彼にとって、それは全く以て予想外な、到底納得出来うるものではなかっただろう。没落寸前の伯爵家の娘など、エルヴィスから見れば“格下”でしかない。しかし、当時はまだ成人すらしていない“跡継ぎ”という立場でしかなかった彼には、先代の取り決めた婚姻を拒むだけの力はなかった。
嫌々ながらに受け入れた、格落ち女との結婚。その上、本来得るはずだったもの――美しい娘と、王家の傍流たる公爵家という後ろ盾――を、他国の“王子”という、どうあがいても敵わない存在に奪われたのだ。恐らくは、その腹いせだろう。エルヴィスは婚約者だった頃から、グレースに対してひどく辛辣だった。
それは、先代侯爵が亡くなり、当主の座をエルヴィスが引継いでから、より顕著に、そしてより容赦のないものになった。
小さなことにもすぐ目くじらを立て、気に入らない言動をすれば侮辱的な言葉を徹底的に浴びせる。人間としても女としても価値がない、干からびたただの木偶、役立たずの能無し、侯爵家の恥、汚点、息をしているだけの穀潰し――。
人格や容姿の誹謗はもちろん、暴力を振るわれたことも一度や二度ではない。浮気なんてものはもはや日常茶飯時で、令嬢を取っ替え引っ替えしては、夜な夜なパーティーに繰り出す。
エルヴィスにとって、妻――というより、グレースという存在は、ただただ邪魔でしかなかったのだ。愛していたわけでも、望んでいたわけでもない女。だから、いるけれどいない人間として、常に扱っていた。或いは、手軽な鬱憤の捌け口として。
そんな男の、何に惹かれろというのだろう――。
控えめな音量で紡がれる旋律が、シャンデリアの灯りに溶けるように揺蕩っている。笑いの混じった無数の話し声。まるで大輪の花のように、そこここで翻る色鮮やかなドレス。それらに彩られた大広間を見下ろしながら、グレースは弄んでいたグラスに、そっと口をつけた。
王宮で開かれる舞踏会に参加したのは、いったいいつぶりだろう。頭の片隅で記憶を漁ってみるけれど、一年前の、建国記念祭の折に催されたそれしか思い出せない。
あの時、珍しく隣にはエルヴィスがいた。侯爵家の当主として。そして、グレースの夫として。もちろん彼がそう望んだからでは、決してない。夫婦は夫婦で必ず共にいることが、記念祭での習わしだからだ。王族も参加している手前、さすがのエルヴィスも、そのしきたりを無下には出来ない。けれど、彼の顔に貼り付けられた仮面の裏側には、明らかに不満が潜んでいた。苛立ちからか、普段は“善良な夫”を演じているにもかかわらず、所々でその化けの皮が剥がれかかっていたのを憶えている。
とはいえ、“懐かしい”と感慨や感傷に浸るような記憶では、どれもない。建国記念祭の時に限らず――婚約を結んでから離婚するまでの、その全ての記憶において。
「――こんな所にいたのか、グレース」
ふいに背後から声をかけられ、グレースは肩越しに振り返る。視線が絡み合った瞬間、驚きよりも先に、ふわりと顔が綻んでいた。殆ど無意識に。繕うのではなく、自然と。
「お会い出来て光栄ですわ、シエル殿下」
「先日会ったばかりだろ」
くつりと喉の奥で笑いながら、彼――シエル・ヴァレンティアはグレースの隣で足を止め、艷やかに磨き立てられた大理石の手摺に頬杖をついた。
煌々とした灯りに照らされ淡く光を帯びたブロンドの髪の毛。長く濃い睫毛に縁取られた二重の目と、まるで青空そのもののような瞳。すっと通った高い鼻筋と形の整った唇の描く、凹凸のくっきりとした輪郭。童話に出てくる“理想の王子様”を体現したような麗しくも逞しいその姿に、グレースは暫し目をとめる。さっきまで確かに階下にいたはずなのだけれど、と思いながら。
シエル・ヴァレンティア。国王夫妻唯一の息子であり、この国の未来を背負う王太子。そんな彼とは、幼い頃からの腐れ縁――もとい、幼馴染という間柄だった。身分に差こそあれど、今も気軽に軽口を叩き合える仲を続けている。夫であったエルヴィスは、ついぞ知ることはなかったけれど。
「バルコニーにいてもつまらんだろ」
「そんなことありませんわ。此処からですと、広間が一望出来ますもの」
そう言って、グレースは小さく笑いながら、シエルに据えていた視線を階下へと落とした。宮廷楽団の奏でる音楽に合わせ、思い思いにダンスを楽しむ者。壁際に沿って群れを作り、酒や扇を片手に談笑に興じる者。人いきれに包まれたそこには、今宵、王都中の貴族が集っている。
けれど、グレースの瞳は真っ直ぐに、大広間の片端へと迷いなく吸い寄せられた。
「君もなかなか、悪い性格をしているな」
恐らく、彼もまた同じところを見ているのだろう。グレースは自嘲めいた笑みを口元に浮かべ、
「よく言われますわ」
と、臆面もなく答えた。
「まさか、これを見る為だけに来たのではないだろうな」
「それ以外に何がありますの」
「たとえば、俺と踊るとか」
「ご冗談を」
ふふっ、と吐息を漏らし、グレースは僅かに目を細める。横顔をちらりと一瞥されたが、それには敢えて素知らぬふりをして。
視線の先では、半月前に離婚が成立したばかりのエルヴィスが、誇らしげな顔で、ひどく上機嫌に男爵夫妻と話をしている。笑う時など、此処まで声が飛んできそうなほど、大きく口を開けて、心底満足そうに。
「ところで、“あれ”は何だ?」
「“あれ”、とは?」
「あの男の隣にいる奴だ」
「ああ、“あれ”は――」
悪びれた様子もなく、グレースは戯けた口調で返す。
「ご覧の通り、ただの“泥人形”ですわ」
エルヴィスの隣には、ひとりの女が立っている。淡い水色のやわらかなドレスを着た――あくまで“女の姿”をした、ただの“泥人形”が。けれどエルヴィスは、それに気付いていない。気付けるはずもない。彼には、彼だけには、その泥人形が、可憐で聡明な女――アシュリンに見えているのだから。
「よくもまあ、あそこまでうまく魔力を練り込んで造り上げたもんだ」
隣でシエルが肩を竦めるのを気配で感じながら、グレースはグラスの中に視線を移し、苦笑交じりに言葉を紡いだ。
「そういう家系ですもの。……エルヴィスは知らぬままでしたけれど」
彼とは早々に、離婚したいと考えていた。もう随分と前から、ずっと。
結婚当初こそ、どうにか“妻”として認めてもらおうと努力したものの、来る日も来る日も罵倒され、存在価値を否定され続ける日々の中で、そんなものは無意味だと悟った。何をどうしたところで、この人は私を“妻”として、それどころか"人間"としても認めることは決してないのだろう、と。
王侯貴族にとって、“政略結婚”とはごくありふれたものだ。愛のない夫婦なんて、この大広間にもたくさんいるだろう。けれど、だからといって、相手を貶すことが許されるわけではない。罵られ、嘲られる立場を、何故甘んじて受け入れねばならないのか。妻というだけで。女というだけで。グレースには、その何もかもが腹立たしかった。
とはいえ、そう簡単に離婚出来るわけではない。感情のままに突き進めば、何処かで必ず躓く。故に、計画立ては重要だった。社交界での立ち位置や、実家に及ぶ影響を思えば、特に。
浮気の証拠は幾らでもあった。脇が甘いというわけではなく、そもそもエルヴィスは愛人の存在を隠してはいなかったからだ。抱擁や口付けを、グレースの目の前でも平然とやってのける――見せるつける――くらいに。
その幾つかの浮気を原因として、別れを切り出すことは確かに出来た。しかし、他家の令嬢まで巻き込めば、要らぬ面倒事を引き起こしかねない。今後もこの世界で生きていかねばならないのだから、それはなるべく避けたかった。外聞云々というより、ただただ割に合わないからだ。
「怖い女だな、君は」
愉しげな口調で呟いたシエルに、グレースはゆっくりとひとつ瞬きながら含み笑う。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「俺もそのうち騙されそうだ」
「殿下を騙して何になるというのです」
グラスを軽く揺らし、小さな吐息をこぼして、グレースは血のように赤い葡萄酒をひと口含む。
「わたくしは、ただ――」
言葉を呑み、グレースは再びエルヴィスへ目を向ける。“最愛の女”を連れた元夫の哀れな姿に。
嫉妬に狂った妻の仕業とは、絶対に捉えられたくなかった。或いは、怒りによる妄言と。そう思われるのは甚だ不本意なことだった。あのエルヴィスに同情を寄せる者など、ひとりたりとも作りたくはない。
これまで散々“妻”としても“人間”としても、彼に蔑まれてきたのだ。今度はエルヴィスを、“侯爵家当主”としても“人間”としても、地に落としたかった。完膚なきまでに。
「エルヴィスや、術者の君には、あの泥人形はどんなふうに見えているんだ?」
「とても懐かしい姿ですわ。殿下もよくご存知の」
誰とは言えませんけれど。意味深にそう言い添え、グレースはちらりと、隣に立つシエルを一瞥する。魔力を持った彼にも、あれはただの“泥人形”にしか見えていないのだ。確かにうまく造り上げることが出来たのだろう。
けれどエルヴィスにはそれが、“己の最も理想とする女”に見えるようになっている。淡い桃色の髪の毛に、翡翠を溶かしたような緑色の瞳。その姿は正に、嘗て婚約相手として挙がっていた、公爵令嬢の姿と瓜二つだった。
呆れたものだ、と、グレースは元夫の滑稽な笑顔を見ながら思う。疾うに終わった縁談に、手に入れられるはずだった輝かしい未来に、未だ情けなく縋り付いているとは。
「これは悲劇か? それとも――」
“人間用”の麗しいドレスを着せられ、豪華なネックレスやピアスまでつけられた奇っ怪な泥人形を、“新しい妻”として嬉々と紹介する男。そんな彼を前に、男爵はどうにか愛想笑いを繕っているけれど、夫人の顔は歪に引き攣っているのが遠目にも分かる。すっかり腫れ物扱いされているのは、周囲に居る他の人々の軽蔑めいた様子を見れば明らかだ。
「喜劇なんだろうか」
シエルの問いに、グレースはくすりと笑う。
「さあ。どうなのでしょう」
彼が“真実の愛”の相手として見つけたアシュリンは、この世に存在しない。彼女は感情も思考もない、ただの泥人形でしかないのだから。端からエルヴィスを愛せるはずもない。それでも彼は、“真実の愛”だと信じ込んでいる。ただ独りだけ。
男爵夫妻と別れ、今度は子爵家の当主に声をかけようとしているエルヴィスを眺めつつ、グレースはグラスに残っていた葡萄酒をひと思いに呑み干す。通りかかった給仕に、空になったグラスを渡して隣を見遣ると、苦笑を滲ませながらこちらを見つめるシエルと目が合った。
「――“悪女”を演じるには、君は少しやさしすぎたな」
紡がれた言葉の意味――というより、真意――が読み取れず、グレースは僅かに目を瞠らせながら、首を傾ける。
どこをどうとれば、“やさしすぎた”などと言えるのだろう。これは正義かと問われれば、否、と答えるしかないというのに。嫉妬に駆られた妻の狂気だと思われたくはないけれど。しかし事実として、あの泥人形は復讐の産物でしかないのだから。
「なにか勘違いをされているのでは」
「そんなことはない。実際、あの男は今、“最愛の女”と共にいれて幸せなんだろう? 良い夢を見させてやっているだけ、君は情け深い人間だと思うが」
「皮肉を仰るのですね」
「まあ、“甘すぎる”のは事実だろ」
グレースは肩を竦め、それからにやりと、唇の端を妖しく釣り上げた。
「殿下は、お分かりになっていないのですね」
「何をだ」
「甘い夢ほど、覚めた後に待つのは、深い絶望ですわ。夢の中に長くいればいるほど。幸せを得れば得るほど」
「なんだ、あれはいつか解けるのか」
「ええ、もちろん。彼が愛を囁く度に、少しずつ魔力が薄れていく仕組みになっていますの」
そう言って、グレースはにこりと目を細める。
「それでも、半年は持つでしょうけれど」
「随分と愉しげに言うんだな」
「一番の見所は“その時”ではありませんか」
ひょいと眉を跳ねさせ、シエルは労しそうにエルヴィスを一瞥する。けれどその一瞬の横顔に浮かんでいたのは、呆れでも憐れみでもなく、微かな愉悦だった。新しい玩具を見つけた子どものような。
「まあ、“その時”にはもう、あの男の立場は社交界からなくなっているだろうな。今でさえ気狂いと思われているのだから」
ははっ、と軽やかな笑い声をあげながら、シエルは徐に手摺から身体を離す。
「――ところで、グレース」
エルヴィスや、彼の連れた泥人形にはもう興味を失ったのか、唐突に向き直った彼を、グレースは疑問を滲ませながら見上げた。いつ見ても惚れ惚れするほど整った、男らしくも麗しい、類稀な美貌。彼の瞳はまるでサファイアのようだ、と、誰かの例えた言葉がふと脳裏を過ぎり、グレースはその双眸に静かに魅入る。
昔から、この男の真っ直ぐな眼差しは、少しも変わらない。無邪気でありながら、真綿のような包容力も感じさせる、不思議な瞳――。
「離婚したということは、君は今独り身だ。夫も婚約者もいない」
確認するような口調に、グレースは訝りながらも頷く。その返しに満足したのか、シエルは満面の笑みを浮かべると、グレースの右手を掬い上げるようにして持ち上げた。
「ならば、君を本気で口説いても構わない、ということだな」
「えっ」
意表を突かれ、グレースは思わず間抜けな声をこぼす。ぱちり、と大きく目を瞬かせれば、シエルは心底愉快そうに、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「いつもの君に戻ったな」
そう言って、彼は恭しく握ったグレースの指先に、ゆっくりと唇を落とす。ぎょっとして肩を跳ねさせるも、その反応さえシエルの“思う壺”だったのだとすぐに悟り、グレースは諦念に似た溜息を深々と吐き出した。
「さて、まずは一曲、お相手願おうか――グレース」
▽
「ねえ、お聞きになって? 侯爵様のお茶会のこと」
「ええ、存じておりますわ」
「皆さまの前で、“あの方”に口付けをなさったというではありませんの」
「わたくしも耳にいたしました。けれど、驚いたのはその後ですわよ」
「ああ……あれは、今思い出しても胸が痛みますわ」
「あら、思ってもいないことを仰って」
「それはもう、ひどい絶叫でしたもの」
「無理もございませんわ。何しろ、“最愛の妻”だと思い込んでいらした方が、ただの“泥人形”だったと、お気付きになってしまったのですから」
「あれほどドレスや宝石を買い与えていらしたというのに」
「そのせいで、今ではすっかり火の車だとか」
「もう、どうにもなりませんわね。半年前の舞踏会の頃から、既に“気狂い”でいらしたのですもの――」
「それに引き換え、今のグレース様はお幸せそうで何よりですわ」
「ええ。シエル殿下が片時もお離しにならないほどのご寵愛ぶりだとか」
「昔からお慕い申し上げていらしたのは、社交界でも有名でしたものね」
「グレース様ご自身は、ちっともお気付きになっていらっしゃらなかったようですけれど」




