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じゅももももももも!

掲載日:2026/05/24

 突然だけど、“水”という存在に国は関係ない。日本だろうが、アメリカだろうが、“水”は“水”。常温では液体で、氷点下で氷となり、蒸発して空高く昇り、いずれ雨になって降って来る。そういった性質は変わらない。でも、お金の“円”は日本とアメリカじゃまったく別の存在となる。日本では通貨として通用するけど、アメリカじゃほとんどの店で通貨としては扱ってくれない。

 これは“水”が自然科学的な存在で、“円”が社会科学的な存在だからだ。社会科学的な存在は、“環境と文脈”に依存して性質が変化し、場合によっては同一性が維持できない。つまり、環境と文脈が異なれば、別のものになってしまうのだ。

 これは差別用語を考えると、より分かり易いかもしれない。

 

 “シナ”という言葉は、日本では中国に対する蔑称として扱われる。シナは漢字では“支那”と書き、本来は侮蔑の意味はない。これが蔑称の意味合いを持ったのは、中国からの「日中戦争時に蔑称的に用いられた」というクレームを日本が受け入れたからで、逆説的だけど、つまりは中国が“シナ”を差別用語に変えてしまったと言えるのかもしれない(日本にも非があるけど)。

 ところが、シナは日本以外では差別用語の意味を持っていない。英語で中国を表すChinaは、実はシナだけど、誰も差別用語だなんて思っていない。また、文脈が異なった場合でもシナは差別用語ではなくなる。南シナ海や東シナ海の“シナ”も中国の事だけど、差別用語にはならない。地名を言っているだけだと思われるはずだ。日本国内での会話でも、日本人がアメリカ人相手に中国を指して、英語で「China」と言ったとしても、別に差別だとは思われないだろう。

 つまり、シナが差別用語としての意味を持つには、“環境と文脈”が必要になるのだ。

 これには必ずしも相手を必要としない。“シナ”は中国からのクレームで、差別用語となってしまった訳だけど、“朝鮮”という言葉は韓国や北朝鮮からのクレームなしに日本では差別用語として扱われている。これは日本人が侮蔑的な意味合いで朝鮮という言葉を使ってしまったからで、韓国や北朝鮮にとってみれば、だから差別用語として扱う方がむしろ失礼であると言えるかもしれない。何しろ、朝鮮という言葉には「朝日が鮮明なるところ」という綺麗な意味があるという説もあるらしいから。

 これらは元は蔑称ではなかった言葉が、使われ方の所為で差別用語になってしまった事例だけど、まったく逆のパターンもある。元は蔑称だったのに、今は普通の言葉として用いられているパターンもあるのだ。例えば、フランス。これには元はフランク…… “野蛮な”という意味があったのだけど、今は普通に国名として使われている。誰も差別用語だなんて思っていない。

 早い話が、元の意味がなんであれ、「この文脈では、この意味」という約束事がその社会(環境)で成立してしまったなら、その通りになってしまう、という事だ。

 近年になり、韓国の一部の人達が、「旭日旗は旧日本軍の軍国主義のシンボルだから使うな」といった主張をしているらしい(もしかしたら、一部の日本人によって誇張されているケースもあるかもしれないけど)。

 この主張は「社会科学的なものの存在は、“環境と文脈”に依存する」という事を理解していない。旧日本軍が使えば、旭日旗は確かに日本軍の旗を意味するのかもしれない。でも、別の場所の別の文脈で使えば、それは別の意味になるのだ。だから、当然、世界中に存在している旭日旗と似たような模様には、旧日本軍とは全く関係のないその社会独自の文化的背景や意味がある。もし、仮に「旧日本軍の象徴だから使うな」という主張を認めてしまったなら、それら文化が上書きされ、旧日本軍の象徴となり、失われてしまう事になるのだ。“シナ”という言葉が中国からのクレームによって差別用語になってしまったように。

 旧日本軍に、そこまでの文化的な影響力はない。何故、偶然、旧日本軍がシンボルとして使っただけで、他の文化が失われなくてはならないのだろう?

 一部に、「逆卍は、ナチス・ドイツのシンボルとして使われたから用いられるべきではない」という主張があるけど、これも同じだ。卍や逆卍には、ナチス・ドイツとは全く異なった文化圏においては、全く異なった文化的な意味がある。ナチス・ドイツが用いたからといって、その文化を破壊する理由にはならない。

 近年、時折話題になる“ブラックフェイス”問題も同じだ。アメリカにおいて、黒く肌を塗る事で黒人を馬鹿にしていた所為で、アメリカでは肌を黒く塗る行為…… ブラックフェイスが差別行為として扱われている。でも、それは、アメリカという社会において、ブラックフェイスで黒人を馬鹿にしていたという文脈があるからこそ成り立つものであって、他の文化の全く別の文脈で行われるブラックフェイスは差別の意味を持たない。例えば、コスプレ文化で、そのキャラになり切るために肌を褐色にしたり黒くしたりするのは、差別でも何でもないのだ。それを差別だと否定するのは、その文化の否定であって、つまりは文化の破壊を招いてしまう。

 しかし、それを理解しない一部の人間が、全てのブラックフェイスを否定し、文化を破壊しようとしてしまっている。早く彼らにこの事を教えるべきだろう。

 もし仮に、それで受け手側が傷つくというのなら、変わるべきなのは受け手側なのだ。この世界には、多様な文化が存在し、そのどれもに価値があるという事を理解できるように成長できさえすれば、それで傷つく事はなくなるはずだ。

 例え、その人の文化の中で、どんなに悲劇的な意味が“それ”にあったとしても、他の文化では別の意味があるのだという事実を認め尊重するという態度は恐らくは正しい。可能な限り、受け入れる努力をするべきなのだ。その姿勢は社会と社会の協調を実現する上で、きっと役に立つのだろうから。

 

 “或いは、他の文化を受け入れられないというのも、呪いの一種のなのかもしれない”

 

 ………これを聞いたら、果たして、彼女、板前ゆかりさんは何と言うだろう?

 どういう経緯なのか、詳しくは知らない。

 彼女は何故かそういった文化を操り、自分の為に利用する術を心得ている。それをここでは“呪術”と呼称する事にしよう。ただ、その所為で、ある意味では彼女はこの日本に住みながら、“他の文化”の存在になってしまっているのだ。

 だから差別も受けている。

 呪術を扱う女性として。

 ……つまりは、彼女は“魔女”なのである。

 

 ――雨が降っていた。

 ――それなりに強い“降り”で、雨音が地面を叩く音が少々うるさく感じられるほどだった。

 ザー、ザー

 ザー、ザー

 傘立ての前には三人の女の子達がいた。

 そして、僕はその光景を見て、驚いて固まってしまっていたのだった。軽くショックを受けていたと言っても良いかもしれない。

 下校する為に、僕は自分の傘を取り出そうと傘立てに向かっていて、そしてその時に、その女の子達三人と遭遇したのだけど、彼女達は傘立てから別の女生徒の傘を勝手に取り出そうとしていたのだ。

 放課後、僕は用事があって少し遅くに下校しようとしていた。だから偶然その悪戯の現場に居合わせてしまったのだ。その女の子達は“傘がないから困ってつい下心で”なんて理由じゃなくて、どうやら嫌がらせ目的で特定の女生徒の傘をこっそりと隠そうとしていたようだった。彼女達は自分の傘をそれぞれ持っていた。傘を盗む必要はない。

 話声から、ターゲットは“板前ゆかり”という女生徒らしいと分かった。同じ学年の女生徒だ。あまり詳しくは知らないけど、クールで物静かで大人しそうな女の子だというのは知っている。ショートカットがよく似合っていて、色白で、神秘的な雰囲気があって、ちょっと可愛い。

 僕は勇気を振り絞って、彼女達に注意をした。

 「あの…… そういうのは良くないよ。止めた方が良い」

 その声に彼女達は敏感に反応して素早く振り返った。きっと“悪い事をしている”という自覚があったのだろう。

 彼女達は僕をまじまじと観察すると、「確か、あなた、転校生の小鳥遊君よね?」と確認をするように尋ねて来た。

 「そうだけど」と僕は答える。

 実は僕はつい最近、この辺りに引っ越して来たばかりだった。高校に入学して、まだほとんど経っていないというのに、家の都合で転校する羽目になってしまったのだ。

 「なら、知らないと思うけど、板前ゆかりって女には問題があるのよ。放っておいて」

 僕は首を傾げる。

 「どんな問題があるかは知らないけど、泥棒は犯罪だよ。そんな手段で解決するのは良くない。下手すると、警察に捕まる」

 ……そもそも、解決にならない気がするし。

 僕の返答に彼女達は何故か変な表情を浮かべた。極めて常識的な指摘をしたと思うのだけど。僕は続けて言う。

 「何か直して欲しいところがあるのなら、話し合って説得すれば良いじゃないか」

 それを聞くと、先頭にいた長髪の女の子が面倒臭そうに頭を掻きながら言った。

 「あいつはそういうのじゃないのよ! 何にも知らないんだから黙っていてよ」

 「そういう訳にはいかないよ。犯罪は良くないし、いじめも良くない」

 「いじめって……。だから言っているでしょう? あいつはそういうのじゃないのよ! あの女、板前ゆかりは、呪文を操る魔女なのよ!?」

 それを聞いて、僕は思わず「はあ?」と疑問府を伴った声を上げてしまった。

 いやいやいや。“呪文”、それに“魔女”って……。

 心の中でツッコミを入れる。

 その僕の反応を受けて、後ろの方にいたボブカットの女の子が言った。

 「信じられないのも無理はないけど、本当なのよ。こうして嫌がらせをして、大人しくさせておかないと何をするか分からない」

 もう一人の童顔の女の子が続ける。

 「さっきあなたは警察って言ったけど、呪文だもの。警察だって管轄外だわ。何の役にも立たない」

 僕は彼女達が冗談を言っているのかと思って…… いや、半ば“願って”いたのだけど、口振りからいってどうやら本気らしい。

 「いやぁ。なんと言うか」

 返す言葉に困ってしまう。

 「あー! あなた、さてはドン引いているわね!?」

 それを受けて長髪の女の子がそう言った。まぁ、そりゃ、ドン引くでしょ、普通。

 「あなたは何にも知らないからそんな反応ができるのよ。あいつを放っておいたら、呪文で何をするか分からないんだから! しかも警察も先生も役に立たない! あの板前ゆかりは、普通の方法じゃ、どうにもならない危険人物なのよ!」

 そう彼女がまくしたてるように言った後だった。

 「――誰が危険人物なの?」

 そんな声が聞こえたのだ。

 後ろを振り返ると、ショートカットで色白の、神秘的な雰囲気を纏った女性がいた。板前ゆかりさんだ。

 彼女の登場に女の子達はたじろぐ。

 「大声で人聞きの悪い事をわめきちらさないで欲しいわ」

 それから彼女は、長髪の女の子が手にしている自分の傘に目を向けた。

 「なるほどね。私の傘を盗んで、呪いをかけようとしていたのね。中々に劣悪な行いだわ」

 淡々とそう述べる。淡々としているけど、妙な迫力と圧力があった。長髪の女の子は心外だと言わんばかりに返す。

 「“呪い”って、そんなのできるはずがないじゃない! あなたじゃないんだから。ただ隠して困らせてやろうとしただけよ」

 嫌がらせをしようとしていた事自体は否定をするつもりはないらしい。まあ、もう手遅れだろうけど。板前さんはやはり淡々と返す。

 「だから、それが“呪い”なのよ」

 ちょとだけ視線をきつくする。

 「他人の所有物を盗んで傷つける。それ自体が既に相手を呪うという呪術的な行いになるのよ。所有物とは、その人の存在の延長線上にある存在で、だから、所有物を傷つける事はその人を傷つけるのと同義。あなた達だって自分の何かを盗まれて、辱められていたら嫌な気持ちになるでしょう? その“嫌な気持ち”は呪いが効いている証拠なの」

 なんだかもっともらしい事を言っているけど、特にオカルト的な内容ではない。常識的な当たり前の事を言っているだけだ。

 が、それから彼女は続けて変な事を言ったのだった。

 「――けど、あなた達はその“呪いの儀式”は私に見られてしまった。見られたら、儀式は失敗よ。人を呪わば穴二つ掘れ。失敗すれば呪いは自分自身に返って来る。

 つまり、呪詛返し。

 あなた達だって、知っているでしょう? ね、綾小路さん」

 何を言いだすのだろう?

 呪詛返しなんて本当にあるはずがない。そもそも呪いの儀式ですらないのだし。ところが、その言葉に綾小路と呼ばれた長髪の女の子は、大いに動揺したのだった。

 「な、何を言っているのよ? 呪ったつもりもないのに、そんなの……」

 「だから、あなた達がしようとした事は立派に呪いの儀式だって言ったでしょう? それにあなた達は他ならぬ、この私に見られたのよ? 無事で済むと思っているの?

 一応、断っておくけど、自業自得だからね。あなた達が私を呪おうとしたのが悪い」

 その彼女の言葉に、女の子達三人は明らかに慄いていた。

 そして、互いに顔を見合わせると、板前さんの傘を元の場所に戻し、「くだらないわ」と強がりを言って逃げるように外に出て行ってしまう。激しい雨にまぎれて姿が見えなくなっていく。

 ザー、ザー

 という雨音が印象強く耳に響いていた。

 彼女達は実際に逃げたのかもしれない。それを見届けると、板前さんは軽い溜息を漏らした。

 僕は黙ってそんな彼女を観る。彼女はその視線に気が付くと、「なに?」と訊いて来た。「いや、別に、ちょっと驚いて……」と僕は返す。特に深い意味もなく返したのだけど、彼女は何を思ったのかこう述べた。

 「そう。助けてくれてありがとう。でも、私には深く関わらない方が良いわよ。私に味方し過ぎると、あなたまで“こっち側”の人間になっちゃうから」

 僕は首を傾げた。

 「こっち側? “こっち側”って?」

 「私と似たような立場の事よ。私はこの社会の文化の中に暮らしていながら、この社会の文化の外で暮らしているのよ。そんな立場にはなりたくないでしょう?」

 それから妙に事務的な動作で彼女はスマートフォンを取り出すと、何かメッセージを打ち始めた。そして何故か、僕の方にスマートフォンの画面を向ける。

 「今から、この画像を他の人に送るけど別に良いわよね? 今気づいたのだけど、少しだけ、あなたも入っちゃってて」

 見ると、どうも先ほどの場面を彼女はいつの間にかスマートフォンで撮影していたらしく、彼女の傘を持った綾小路さんというらしい長髪の女性と共に他の二人が映った画像がスマートフォンには表示されていた。彼女が言うように僕の姿も隅に映っている。もっとも、後ろ姿だから、誰なのか分からないだろうけど。

 「別に良いけど、何をしようとしているの?」

 「だから、呪詛返しよ。さっき、あの子達に言った通り」

 「呪詛返しって本当にやるの? まぁ、盗みは良くないけど未遂だった訳だし」

 「いいえ、ダメよ。ちゃんと罰を与えないとまたやるでしょう? 迷惑だから、多少は痛い目に遭ってもらわないと」

 それから彼女は淡々と、でも素早くメッセージの続きを打ち込み、それを送信したようだった。

 「誰に送ったの?」

 「安宅っていう一つ上の先輩に。彼女が呪詛返しをしてくれるの」

 意味がよく分からなかったけど、話してくれるとは思わなかった。

 「随分とあっさり教えてくれるんだね」

 「そりゃね。一応恩人だし、あなたも映っているし。それに、先輩と私が繋がっているくらい、皆知っているから。先輩も“こっち側”なのよ」

 ――また、“こっち側”だ。

 このノリなら、意外に簡単に教えてくれるかもしれないと思って僕は続けて質問した。

 「“呪詛返し”って、具体的には何をやるの?」

 彼女はそれに何か答えようとしたけど、直ぐに思い直したようだった。そして、代わりにこう返す。

 「明日になれば、きっとあなたにも分かると思うわよ。説明するより、その方が早いと思う」

 僕は首を傾げる。

 一体、何が起こるというのだろう?

 

 ……次の日。学校では昨日の件が話題になっていた。綾小路、佐伯、森という三人組の女の子達(彼女達はどうやらそんな名前らしい)が、板前さんの傘を盗もうとして途中で見つかってしまった、と。しかも画像の証拠付きで、それがSNSにアップされていた(僕の姿は上手に切り取られてあった)。学校内の生徒達だけが観られるコミュニティのみでの公開だけど、十分に噂を広める効果がある。それで三人は悪く言われていた。

 ――ただ、噂の内容は“悪事の露見”だけじゃなかった。

 「あの板前さんの傘を盗もうとして失敗したんだろう? あいつら、まずいのじゃない?」

 そんな事も言われていたのだ。そしてそれは、彼女が呪文を使える魔女だと、皆の間で信じられているかららしかった……

 僕は気になって、休み時間に三人の様子を見に行ったのだけど、心なしかちょっと気分が悪そうな顔をしていた。つまり、呪詛返しがちゃんと効いているという事になるのだろうか? 僕がイメージしていたのとは随分と違っているけれど。

 僕はその足で板前ゆかりさんの教室を訪ねた。僕の解釈が正しいのか知りたかったからだ。

 教室にやって来た僕の顔を見ると、彼女は目を大きくした。いつも無表情の彼女にしては珍しい事だ。彼女は僕が話しかけるより前に、目配せをして廊下に出るようにと合図を送って来た。妙に思いながらも僕が頷いて廊下に出ると、彼女も教室を出、そして、そのまま人気のない場所にまで歩いていった。僕もそれに付いていく。

 多分、昨日彼女が言っていた。「私に味方し過ぎると、あなたまで“こっち側”の人間になっちゃうから」という話と関係しているのだろう。でも、ここまでするような事なのだろうか?

 「……小鳥遊君。昨日、忠告をしたわよね? 私に関わると“こっち側”になっちゃうって。平気な顔で訪ねて来ないでよ」

 案の定、彼女は僕をそう言って叱った。

 「うん。でも、僕、それ、よく分からないんだ」

 そもそも“こっち側”というのが何の事だか分かっていない。

 「それよりも、昨日のことが気になっちゃってさ。君の言う“呪詛返し”って、綾小路さん達の悪い噂の事を言っているのかな? って思って。昨日の件がバレて、軽蔑されているみたいだから」

 呆れた顔のまま、彼女は返す。

 「凡そは当たっているわ。でも、それだけじゃない。“呪文が使える”っていう私の噂で彼女達はより不安に苛まれているはずよ。一度不安を覚えると、少しの事…… 例えば道で転んでたりした程度でも、呪詛返しの所為なんじゃないか?って思って不安が自己増殖していくの。気にしないようにって思っても、どこかで気にしてしまっている」

 「ああ、なるほど……」

 それは確かにとても嫌かもしれない。

 「でも、だとするのなら、やっぱり呪いなんてないんだよね? 呪詛返しも、呪文もただの噂とか思い込みで……」

 つまりは、板前さんが呪文を使える魔女だなんて噂もデマだという事になる。僕はそう続けようとしていたのだけど、その前に彼女に否定をされてしまった。

 「いいえ、違うわ。呪文も呪詛返しも実際に存在している。それらは社会科学的に実在しているのよ。摩訶不思議な力なんかじゃないけれどね」

 “社会科学的に実在?”

 彼女が何を言っているのか、僕にはよく分からなかった。彼女に関しては、よく分からない事ばっかりだ。

 「でも、君の言う“呪詛返し”って、単なるネガティブな噂なのだろう? なら、呪文なんてないって事じゃないの?」

 「いいえ、あるわ。実際に効くしね。例えば、ルーマニアの方じゃ、今でも魔女が“盗人除けのまじない”で身を護っているケースがあるっていうわ。本当にそれで泥棒には入られていない」

 「それって、呪文で泥棒を防いでいるって話?」

 「そう。結界を張っているのだって」

 “いやいやいや”と、それを聞いて僕はお思った。

 「そんなの無理だって。結界なんて物理的に存在するはずがないし」

 「だから、“物理的”じゃないわ。“社会科学的”よ。まじないは社会科学的に機能するものなのよ」

 「どーゆーこと? どんなにおまじないで結界を張ったって、物理的に護られていなかったら簡単に泥棒には入られちゃうじゃん」

 「そう? でも、よく想像をしてみてね。その地域社会じゃ、おまじないの存在が信じられているのよ? だから、皆が魔女の家には泥棒は入れないと信じている」

 「いや、でも、信じられているだけじゃ……」

 「だから、よく想像してみてって。泥棒だってその地域社会の人間なのよ? “魔女が盗人除けのまじないをしている”って知っているわ。すると、どうなる?」

 僕はそこまで聞いて初めて彼女の言わんとしている事を理解できた。

 「……つまり、泥棒も、盗人除けのまじないを信じて、泥棒に入ろうとしないってこと?」

 「そう」

 僕は腕組みをする。理屈は理解できた。本当にまじない…… 呪文が機能している。でも、完全には納得できなかった。

 「だけど、それって泥棒が信じていなかったら、何にもならないよね?」

 「ならないわね」

 「泥棒をするような悪い奴が、そんな事を信じるものなのかな?」

 「或いは完全には信じていないかもしれないわね。でも、“悪い事をしている”って後ろめたさや不安があると、それだけで何か拠り所に頼りたくなるものよ。まじないの類も、だから信じたくなる。

 例えば、昔、日本では、盗みに入られた被害者宅に人糞が残っているなんて事がよくあったそうなのよ」

 僕は“人糞”なんて彼女に似つかわしくない言葉が出て来た事に意表を突かれていたのだけど、彼女はまったく気にする様子も見せずに続けた。

 「どうも、かつて“盗んだ家で脱糞をすると捕まらない”って一種のおまじないが泥棒達の間で信じられていたらしくてね。それを信じた泥棒達が、盗んだ後で脱糞行為をしていたらしいのよ…… 却って見つかり易くなりそうだけど」

 「それは…… 被害に遭った人達は堪ったもんじゃないね」

 物やお金を盗まれた上に、汚物で部屋を汚されるのだから。

 「まったくそうね。もし、無理矢理にでも合理的な理屈を当て嵌めるのなら、“脱糞できるほどの余裕があるくらい盗みに入り易い家なら捕まり難い”って感じかしらね? まぁ、かなり無理があるけど。

 ……つまり、泥棒だっておまじないを信じるのよ。いえ、泥棒だからこそ、信じると言うべきかしらね? 何しろ、盗みに入った赤の他人の家の中で脱糞しちゃうのよ? 脱糞。信じてなければやらないでしょ」

 ……可愛い女の子が“脱糞”という言葉を連呼している。滅多に遭遇できる場面じゃない。

 そこで僕はちょっと考えると言った。

 「いや、待ってよ。それって効いていないじゃん、泥棒の警察に捕まらないって“脱糞”のおまじない」

 「そりゃ効かないでしょ。常識で考えてよ。当たり前じゃない。馬鹿じゃないの」

 「いやいやいや。さっき言っていたのと違うじゃん。板前さんはおまじないは効くって言っていたじゃないか」

 「効くわよ」

 「でも、泥棒達の“脱糞すると警察に捕まらない”っておまじないは効かないのでしょう?」

 「それはそうよ。だって、“脱糞すると警察に捕まらない”っておまじないは、泥棒達の間だけで信じられているのだもの。警察だとかもっと他の一般社会の人々の間では信じられていない。もし、信じられていたら、効いていたかもしれないけど」

 「いや、どうして……」と言いかけて僕は気が付いた。

 「ああ、そうか。警察が諦めちゃうかもしれないのか。“この家は脱糞されているから、捜査しても無駄か”みたいな感じで」

 「そう。分かって来たじゃない」

 彼女は満足げに頷くと続けた。

 「呪文が効くようになるのにはね、環境……、社会と文脈が重要なのよ。それが信じられている社会で、しかも限定された文脈でしか呪文は効いたりはしないの。でも、条件さえ満たしているのなら本当に効く。

 そして、呪術師、魔女だとかいった肩書きがあれば、その呪文を使う事ができるのよ。もちろん、私には使える。“魔女”って思われているからね」

 それを聞いて少しだけ僕は怖くなった。彼女、板前ゆかりさんは、呪文を操る…… 意図的に利用できるのだ。だからこそ、魔女として恐れられているのだろう。いや、或いは魔女として恐れられる事で、呪文を効き易くしているのだろうか?

 どちらにしろ、普通ではない。

 綾小路さん達が彼女を恐れた理由も分かってしまう。

 でも……、

 それから僕は彼女に向かってこう言った。

 「凄く面白い。ねえ、良かったら、これからもこんな話を聞かせてもらえない?」

 彼女は驚いた顔を見せる。

 「え? あなた、私の話は理解できているわよね? 私が疎まている理由もよく分かったでしょう? それなのに、まだ関わるつもりでいるの?」

 「うん」と、僕はそれにはっきりと答えた。

 何故なら、恐れるのと同時に、僕は彼女にとても強く惹かれてもいたからだ。彼女と一緒にいれば、新しい何かが見えて来るような気がしていた。

 明確に「うん」と答えた僕がよっぽど意外だったのか、彼女はそれから「小鳥遊君って面白い人ね」と言って微笑んだ。

 ……そうして笑うと、彼女は普通の女の子のように僕には思えた。いや、本当に普通の女の子なのかもしれないけれど。

 

 「……エクソシストとか、憑き物落としとかって逆説的に思えるかもだけど、悪魔とか憑き物を再生産しているのよ」

 

 朝、通学途中の駅のホームで、僕は板前ゆかりさんを見かけて近付いていった。今までも時折見かける事があったから、きっと方向が同じなのだろう。彼女は僕の顔を見ると呆れた表情を浮かべたが、もう諦めているのか何も言わなかった。

 一緒に電車に乗り込む。反対側の開かない方のドアの前。それほど混まない電車だけど、一応は痴漢を警戒して、僕は彼女を護るような位置取りで立つ。つまりは壁役になったのだ。隣の頭の禿げたおじさんがそんな僕を羨ましそうな目で見る。彼女が僕の恋人だと思っているのかもしれない。僕は気にせず、ずっと思っていた疑問を彼女にぶつけた。

 「ねえ。うちの高校じゃ、どうして“呪文”が通用するの?」

 板前さんの話を信じるのなら、呪文は“それが信じられている社会”でしか効果がないのだ。逆に言えば、それはあの高校辺りでは“呪文が信じられている”という事でもある。だからそう尋ねたのだけど、彼女は「よく知らないわ」とそれに応えた。ただ、それからこう続けた。

 「……でも、多分、実際に効いてしまった事が原因の一つだとは思う」

 そして、

 「エクソシストとか、憑き物落としとかって逆説的に思えるかもだけど、悪魔とか憑き物を再生産しているのよ」

 なんて続けて来たのだった。何を言わんとしているのか僕にはまったく分からなかった。

 「どーゆーこと?」

 それで僕がそう疑問の声を上げると、彼女は淡々と説明し始めた。

 「憑き物が落ちた。それで、その人の問題が解決した。なら、本当に憑き物はいるんだ……

 まぁ、普通の人なら、そう思うのじゃない? それはつまりは憑き物落としという行為が、憑き物の実在を信じさせているとも言える。そして、人々が実在を信じてしまったなら、また生み出されてしまう。何か問題が起こったら“憑き物の所為だ”ってそんな風に思ってしまい易くなるでしょう? それでまた憑き物落としが問題を解決したら、更に強化される…… その繰り返し」

 彼女の説明に僕は思わず感心をしてしまった。見ると、隣のおじさんも興味深そうな顔を浮かべている。

 「つまり、呪文もそんな感じであの高校で信じられるようになったのじゃないか?って話?」

 「そう。ま、確証はないけど」

 頷きながら、僕はこんな話を電車の中でしてしまっても良いものかと少し思ったけれど、彼女には一切気にした様子がない。もし同じ高校の生徒に知られたら、彼女の呪文が効かなくなる可能性だってあるのに。僕らと同じ高校の生徒が近くにいないからか、それともそうなったらそうなったで別に構わないと彼女は思っているのか。

 彼女は“魔女”という自分の立場をあまり快くは思っていないようだから、或いは後者なのかもしれない。

 彼女は軽く溜息を漏らすとこう続けた。

 「子供の頃はそこまで深く考えていなかったのよ。ただ、友達の間で勝手に呪文を考えて、それで遊んでいただけ…… 私、それが上手だったのよね」

 「勝手に呪文を考えた?」

 「そうよ。でも、ごく簡単な差し障りのないやつよ? 子供が信じそうなの」

 「いたいのいたいのとんでいけー みたいな?」

 「流石にそこまで子供っぽくはないけれど…… 消しゴムに願い事を書いて、最後まで使い切ったら願い事が叶うとかそういったやつよ。私は偶々それっぽいのを考えるのが得意だったのよね。

 因みに子供達に信じられ易い呪文は、意味が分かるやつね。さっき小鳥遊君が言っていた“いたいのいたいの……”みたいなの。でも、大人になっていくと次第に意味不明性が重要になって来る。“古より伝わる謎の呪文”みたいな要素があるとよりグッドで、何らかの法則性…… 例えば、回文とか文字数に法則があるとかだと、更にそれっぽく思える」

 僕はそれを聞いて思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 「それっぽいって…… 随分といい加減な」

 「あら? 実際に伝わっている呪文もそんな感じなのよ?

 とにかく、私はそれを考えるのが得意だった。それが好評でね。誰かが“本当に効いた”とか言い出しちゃって。そうなると私が否定しても無駄だった。色々な人が頼って来るようになったのよ。極力、断るようにしているのだけど、断り切れない事もあって……」

 彼女が言うには、いじめの被害に遭っている人を助けた事もあったらしい。結果、彼女は中学時代には既に魔女としての立場を確立してしまっていたのだとか。高校に入学してその立場から逃れられる事を期待したのだけど、ネット文化の影響もあって、彼女は相変わらず魔女扱いされ続けて今に至っている。生徒同士で形成されたネットワークで、“呪文”の文化が複数の学校をまたがって共有されているのだそうだ。

 「前に言っていた先輩は?」

 「安宅さんね。中学時代からの知り合いよ。私の立場を知って接触して来たの…… 因みに、呪文とかの知識はほとんど彼女に教わったわ。“知識もないまま、呪文を扱うのは危険”って説得されたのだけど、お陰で益々魔女の立場が強く浸透しちゃった気もする。まぁ、色々と協力してくれているし、感謝もしているのだけど……」

 そこまで話すと彼女はまた軽く溜息を漏らして、疲れたような、でも、それでいてどこか媚びたような視線を僕に送って来た。

 「ここまで聞けばもう分かったでしょう? 昔、仲の良かった友達も、私が魔女の立場になってからは距離を置くようになっちゃった。嫌われているって訳じゃなさそうだけどね。あなたも私と深く関わっていると、同じ様に魔女の類だって思われて、周りから距離を置かれるわ。安宅さんは、元から“こっち側”の人だし、そもそも私の立場を知って接触して来たから別に気にしていないけど、あなたは違うでしょう? 転校生だし、これからも普通に学園生活を送りたいのなら、私とは距離を置くべきよ」

 それを聞いて僕は困ってしまった。

 「うーん…… 今のところ、特にそういうのはない気がするのだけど……」

 この場合、どう返すのが正解なのだろう? 僕には本心から彼女が僕に関わって欲しくないと思っているようには見えなかったのだ。

 少し考えると、僕は言った。

 「逆にこういう発想はどうかな? 僕が君と仲良くなって、君を再び、“普通の女の子”に戻すっていうのは?」

 それに「は?」と板前さんは疑問符を伴った声を上げる。

 「何を言っているの?」

 「だから、普通の学生の僕と仲良くしていたら、板前さんも普通の女の子だって皆は思うようになるのじゃないか? って理屈だよ」

 彼女は驚いた顔を見せる。

 「本気で言っているの?」

 「言ってるけど?」

 その僕の提案に、彼女は悩んでいるようだった。

 「……そんなの考えもしなかったわ」

 「つまり、試して来なかったんだね? なら、やってみる価値はあるよ」

 ふと横を見ると、さっきの禿げたおじさんがなんだかほっこりとした表情を浮かべていた。目が合うと、軽く拳を握って僕に見せて来る。

 ……もしや、応援されているのだろうか?

 「本当に良いの? 中には私を“黒魔術を使う”なんて言っている人もいるのよ? 一部の人からはかなり嫌われているわ」

 それはきっと、先日彼女の傘に悪戯をしようとしていた三人組の女の子達の事を言っているのだろう。他にもいるかもしれないけど。

 「使うの、黒魔術?」

 「使わないわよ! そもそも本当は呪術に黒だの白だのなんてないしね。

 ……でも、悪意を持って呪術を操る人ならいる。私に関わるって事は、そういう人とも関わるって事よ?」

 「へえ。そういう人もいるんだ。別に良いよ。なんか面白そうだし」

 あっさりと答えた僕に呆れているのか、それとも心配をしているのか、板前さんは何とも言えない表情で僕をじっと見つめた。

 「……もしかして、“寂しい想いをしている女の子なら、少し優しくすればチョロいぜ”とかって思っている?」

 僕は即答する。

 「思ってないよ」

 因みに、本当に思ってない。純粋に面白そうなだけだ。まぁ、板前さんは可愛いとは思ってはいるけれど。近しい関係になれたら、そりゃ嬉しい事は嬉しい。でも、それが目的って訳じゃない。……なんか、少し自信がなくなって来たけれど。

 「ふーん」とそれに彼女。疑わしそうにしている。

 「それよりも、呪術に黒も白もないって話が気になるな。それに悪意を持って呪術を操る人ってのも」

 その視線を誤魔化す為に僕はそう尋ねてみた。彼女は口を開きかけたのだけど、その前に電車が学校の最寄り駅に到着して、彼女の説明はおあずけになってしまった。

 

 ……聞いた話だ。

 僕が板前ゆかりさんと近しい関係になりそうになったちょうどうその日、彼女が言っていた呪術を操る女生徒の一人、二年の黒宮咲さんは綾小路、佐伯、森の例の三人組の女の子達に接触をしたらしい。

 

 カツ、カツ、カツ

 

 ――休み時間。

 高校の廊下をやや硬めのローファーの足音が響いている。

 小さな踵。大きな歩幅の足取り。スカートに覆われた臀部の筋肉が大胆に動いている。背中は真っ直ぐに伸び、その上では長く綺麗な、まるで吸い込まれそうな深い黒の髪が揺れている。

 近くを歩く他の生徒達は、そんな彼女にやや気圧されている様子だった。それは彼女が上級生である事ばかりが原因ではない。その自信たっぷりの不敵な表情と醸し出されている異質な雰囲気が、周囲の一年の生徒達を敬遠させていたのである。

 “この人と関わってはいけない”

 そのように思わせる独特の存在感が彼女にはあったのだ。

 とある一年生の教室に辿り着くと、彼女は部外者であるにも拘わらず、まったく物怖じしない堂々した様子で入っていく。そこは、今現在、板前ゆかりの傘を盗もうとしたところを発見されて、学校中から軽蔑の目を向けられている渦中の三人組の女子生徒、綾小路、佐伯、森がいる教室だった。

 綾小路穂香は生気のない表情でいきなり入って来た黒宮の姿を何事かと見やったが、黒宮が真っ直ぐに自分に向かって迫ってくるものだから大いに焦り、目を大きく見開いた。明らかに動揺している。まさか彼女の目的が自分だとは思っていなかったのだろう。

 「な、な、一体、何ですか?」

 どうも彼女は黒宮を知っているようだった。恐らくは“呪文を使える魔女”として多少は名が知られているからだろう。警戒心を剥き出しにしたその態度に、黒宮は「んふ」と可笑しそうに笑った。

 「そんなに怖がらないでよ。助けに来てあげたんだから」

 「助けに? 一体、何の話ですか?」

 「とぼけないで。こんなに噂になっているのだもの、私の耳にまで届かない方が無理があるわ。二年の間でも知られているのよ。きっと三年生も知っているでしょうね」

 それを聞いて彼女は先日の件で黒宮がやって来たのだと悟った。近くにいる佐伯と森の両人は顔を見合わせる。

 「あの……。その件ですが、誤解があって」

 佐伯がそう弁明をしようとする。

 「あら? 誤解? じゃ、別に傘を盗もうとしたんじゃないの?」

 「いえ、その点は事実なのですが……」

 「なら、立派に警察沙汰じゃない」

 「でも、それにはちゃんと目的があって。あの板前ゆかりって女は黒魔術を使うやばい女で……」

 そう言いかけて佐伯は言葉を止める。彼女、黒宮咲にも、呪術を使えるという噂がある事を思い出したのだろう。

 「ん? 何?」

 言葉を止めて青い顔をしている佐伯に向けて、黒宮は余裕たっぷりに笑いかける。威圧しているようにも思えた。

 「……いえ、何でもないです」

 そう佐伯が返すと、黒宮は「アハハハハハハ!」と楽しそう笑った。

 「そんなに怯えなくても分かっているわよ。つまり、あなた達はこう言いたいのでしょう? 傘を盗もうとしたのは事実でも、解釈は間違っている。板前ゆかりという魔女を懲らしめる為にやろうとしたのであって、つまりは善意である…… と。

 ま、警察に言っても通じないでしょうけどね」

 それを聞くと森は言った。

 「そうなんです。仕方なかったんですよ」

 「仕方ない…… ねぇ。関わり合いになろうとしなければ良かっただけに思えるけど、まぁ、あなた達の言い分も分かるわ」

 綾小路が口を開く。

 「少なくとも、ここまで悪く言われる事じゃないと思うんですよ。黒魔術を使う方がどうかしているのだから……」

 と、言ってしまった後で、彼女は黒宮も似たような立場だと思い出したようだった。それでまた言い難そうに「いえ、その、すいません」と続ける。

 「気にしなくても大丈夫だって。よく誤解をされるけど、私は板前ゆかりとは別物だから」

 「別物?」

 「私は黒魔術じゃなくて、白魔術を使うって事よ」

 それを聞くと、森は目を輝かせた。

 「それって精霊とか天使とかの助けを借りるって事ですか? 聖人やキリストの名を呪文に使うって」

 「いやいや、違う違う」と、黒宮は笑う。

 「違う?」

 森は不服そうと言うよりは、不思議そうな様子だった。

 「そもそもキリスト教って呪術の類を否定しているのよ。嘘だと思うのなら、検索をかけてみなさいな」

 言われて、佐伯はスマートフォンで調べたようだった。「確かにそうですね」と返す。森はやはり不思議そうな様子だ。

 「なら、白魔術って……」

 「白魔術はね、みんなの為に役立たせる呪術の事を言うのよ。だから、キリスト教はあまり関係がないの。当然、キリスト教徒でも何でもない私でも使える」

 そこまでを聞くと、綾小路が尋ねた。

 「あの……、もしかして、その白魔術で私達を助けてくれるって事ですか?」

 すると黒宮は満足そうに深く頷く。

 「そう。不当にあなた達が悪く言われているって知ってね。これは助けてあげなくちゃって思ったのよ。後輩が黒魔術で苦しんでいるのだもの。見過ごせないわ。

 どう? 助けて欲しい?」

 三人はその言葉に顔を見合わせる。そして声を揃えて言った。

 「是非、お願いします!」

 綾小路が続けた。

 「あの女は“呪詛返し”が来るって私達を脅したんです。私、ずっと怖くって。一体、何が起こるんだろう?って」

 黒宮は目を細めて笑う。

 「そう。怖かったわね。でも、もう大丈夫だから安心して。

 ――私が護ってあげるから」

 “救いの手が現れた”という想いがあった所為だろうが、綾小路、佐伯、森の三人組は気が付いていなかった。その時、彼女、黒宮咲がまるで獲物を狙う蛇のような目つきをしていた事を。

 ……少なくとも、彼女が白魔術を使うようにはとても思えなかった。

 名前もそれっぽくないし。

 

 「……確かにキリスト教は呪術を否定したけどね。だからと言って、全く関係がない訳じゃないのよ」

 僕が休み時間に、通学途中でおあずけになっていた“呪術に黒も白もない”という話を板前さんに聴きに行くと、なんでか彼女はまずはそんな事を言った。

 多分、“精霊や天使の力を借りるのが白魔術”と、そんな風に一部では思われているからだろう。

 「日本でも神仏習合ってあるでしょう? キリスト教でも似たようなのがあってね、地域の宗教とキリスト教が混ざり合っていたりするのよ。それで本人達はキリスト教の宗教儀式としてやっているつもりの儀式が、“悪魔の儀式だ”ってキリスト教会から罰せられてしまうなんて事件も起こっていたりする。だから、呪術の文化とキリスト教が混ざり合っている地域では、司祭が呪術を使うなんて事例も報告されている」

 「つまり、それが白魔術?」

 「白魔術の一例ね。人によって黒魔術白魔術の定義って色々変わるのよ。中には白魔術とは自然科学の事だと言う人もいる。これはそう解釈したってだけの話だと思うのだけど、民間レベルだと区別はもっと曖昧」

 僕は少し考えると尋ねた。

 「黒魔術は悪魔の力を借りていて、白魔術は精霊や天使の力を借りるのじゃなくて?」

 「違うわよ。まあ、そういう話もある事はあるのだけど、そもそも、本来、呪術に悪魔は出て来ないし。悪魔の力を借りるっていうのは、異文化の宗教を排斥したいキリスト教のネガキャンだって理解した方が良いわ。まぁ、完全には否定し切れないのだけど。黒魔術白魔術の区別はもっと大雑把で、簡単に言っちゃえば、“嫌われ者が使うのが黒魔術で、人気者が使うのが白魔術”って感じ」

 「は?」とそれを聞いて僕は思わず疑問の声を上げた。

 「なにそれ? そんなんで良いの?」

 「そんなんで良いのよ。というか、実際にそうらしいから仕方ないわ」

 僕はあまりのてきとーさに呆れてしまった。

 「それって、昔は人気者で今は嫌われていたら、どうなるの?」

 「昔は白魔術で、今は黒魔術じゃない?」

 「ある人達からは人気があって、別の人達からは嫌われていたら?」

 「ある人達にとっては白魔術で、別の人達にとっては黒魔術なんじゃない?」

 いやいやいや、と僕は思う。

 「そんなの黒魔術も白魔術もないじゃんか!」

 思わずそう声を上げてしまった。すると、彼女はあっさりと「そうよ」とそれを認めてしまう。

 「だから私は言ったじゃない。“呪術に黒も白もない”のよ」

 その言葉に僕は“なるほど”と思う。その理屈が正しいのなら、確かに黒も白もない。それから彼女は淡々と続けた。

 「だからね。逆に言えば、“私が使うのは白魔術”だとか言って来る輩には注意した方が良いのよ。そういう人は何か邪な目的があって相手を騙して、取り入ろうとしているのかもしれないから。

 実際に、この学校にもそういう人がいるらしいのよね。困った立場の人に近付いて、白魔術師を名乗って金を巻き上げる……」

 「うわぁ。それは確かに悪質だねぇ」

 胡散臭い占い師か何かを僕は思い浮かべた。そして、何か不吉な予感めいたものを同時に覚えてもいたのだった。

 “あの例の三人組の女の子達は、当に今、困った立場にいるはずだ。なら、もしかして……”

 なんて想像してしまったのである。

 

 「――お前、板前さんと付き合っているのだって? 大丈夫なのか?」

 

 ある日の学校での昼休み、僕はいきなりクラスメイトの野戸という奴から、そう話しかけられた。

 色々とツッコミたい事はあった。まず、僕はまだ多分板前さんと付き合っていないし、“大丈夫なのか?”と心配される要素は微塵も彼女にはありはしない。ただ、それよりなによりも、何故彼が突然そんな心配をし始めたのか? といった点の方が僕には気になった。

 だから、

 「どうしたんだ? いきなり?」

 と、僕はそう尋ねたのだ。板前さんに“魔女”という悪い噂があるのは知っている。でも、それは今までだって同じなはずだ。もちろん、“あの例の三人組の女の子達”が何かしたのじゃないかと僕は不安を抱いていたのだ。

 「いやぁ、こんなメッセージが来てさ」

 それを聞くと彼はスマートフォンの画面を僕に見せて来た。SNS上のメッセージツールが開かれている。件名は、“黒魔術師・板前ゆかりの恐怖”で、凡その内容は板前さんが黒魔術を使う女で、彼女を抑える為には何かしら圧力をかけなくてはならない、といったようなものだった。

 “何かしら圧力”というのは、恐らくは例の三人組の女の子達が行おうとした板前さんの傘を盗むとかそういった類の事だろう。このメッセージは、不特定多数の生徒の間を回っているらしく、出所はどうやら不明であるようだった。けれど、ほぼ間違いなくあの三人組が犯人だろうと僕は考えていた。このタイミングが偶然だとは思えない。

 ただ、文面は考えられてあって、所謂誹謗中傷といったものではなかった。板前さんを擁護したくなるような気持ちになるのを巧みに避ける言い回しになっていて、被害者(?)に同情が集まるように工夫されている(ほぼデマに違いないが)。

 単なる想像だけど、あの三人組に考えられる文面じゃない気がする。もし、こんな巧いやり方ができるのなら、そもそも“傘を盗んで嫌がらせをする”なんて馬鹿な手段は選択していなかったはずだ。

 板前さんから前もって、“金儲けに呪術を使う人がいる”という話を聞かされていたからかもしれないけれど、僕はあの三人組を操っている何者かの存在を想像してしまっていた。

 野戸は心配そうな顔をしていた。多分、純粋な親切心から僕に声をかけてくれたのだろう。悪気がないのが、却ってやり辛い。

 「板前さんは普通の女の子だから、何にも心配はいらないけど…… そもそも僕は彼女と付き合ってはいないし」

 当たり障りのない感じにしようと、そう僕が返すと野戸は「そうなのか?」と軽く首を傾げた。僕の言葉を信頼してもらえているのかどうかいまいち掴み切れない。その“そうなのか?”が、何について言ったのかニュアンスも分からなかった。

 「でも、魔女って相手の心理を巧みに操るもんじゃないのか?」

 「いや、だから、普通の女の子だって」

 どうも“普通の女の子”という部分については完全にスルーされてしまっているらしい。

 「最近、少し仲良くなってよく話すけど、社会科学的方面の知識に強い以外は別に変ったところはないよ」

 ……これはちょっと嘘かもしれない。多分、呪術方面の知識がなくても、彼女はちょっと変わっている。

 僕がそう言っても、野戸は納得していないようだった。彼はそこまで思い込みや偏見が強い方じゃない。彼ですらこの状態なのだとすると、人によっては完全に信じ込んでしまっているのかもしれない。

 ふと、不安になって周囲を見渡してみると、僕らの会話にクラスメイト達が聞き耳を立てているのが分かった。僕の視線を受け、慌てて彼らは目を逸らす。

 “これは……、もう、かなりまずい事になっているのじゃないだろうか?”

 それで僕は板前さんがとても心配になってしまったのだった。

 

 「――ああ、なんだか変な噂が広まってしまっているみたいね」

 

 何でもない事のように板前さんは言った。下校時、下駄箱の前で僕は彼女を捕まえて、事の次第を説明したのだ。

 そんな僕らを通り過ぎる生徒達が見ている。多分、特別な意味はないのだろけど、つい気になって不吉な想像をしてしまった。皆が彼女を悪く考えているような。

 「いや、そんな、あっさりと……」

 僕は彼女の予想外の反応に戸惑ってしまう。

 「だって、私、慣れているもの」

 やはり何でもない事のように彼女は言う。

 「まぁ、今回はちょっと酷そうだけど……」

 「なら、まずいんじゃないの? どうするの?」

 「そうねぇ。大体、目星は付いているから、情報を集めをしつつ、取り敢えずは様子を見ようかしらね。治まらないようだったら、何か対策を考えるわ」

 僕には彼女の態度が随分と呑気に思えた。

 「そんなんで大丈夫なの?」

 「大丈夫だと思うわよ? 相手だって事を大きくし過ぎるとまずいって分かっていると思うし。度が過ぎれば、先生や警察が出て来かねない。噂の出所だって探られちゃうでしょ?」

 彼女の言う事は分かる。噂を流しているのは十中八九、例の三人組の女の子達だ。彼女達は傘の盗難未遂事件を起こしていて証拠だって残っている。学校側や警察が出てきて、都合が悪いのは彼女達の方だろう。

 でも、ここまで噂が広まってしまったら、あの三人組の都合はあまり関係のじゃないか? 噂を信じた別の生徒達が板前さんに何をするか分からない。

 「いや、物凄く不安なんだけど……」

 心配する僕に、彼女は困ったような笑顔を浮かべる。

 「大丈夫だって」

 心配をかけさせて悪いという気持ちと、心配してくれて嬉しいという気持ちが半々といったような複雑な表情だった。

 「さっきも言ったけど、こーいうのは慣れているのよ、私。専門家と言っても過言ではないわ」

 「でも、今回は相手にも専門家が付いているのじゃないの?」

 あっさりとそれを彼女は認める。

 「あ~、うん。そうかもね」

 ますます安心できない。

 そこで彼女は下駄箱を開けた。すると、その瞬間、下駄箱の中からゴミクズが零れ落ちて来る。たくさんの紙屑や飴を包むビニールやなんかだ。

 間違いなく、板前さんへの嫌がらせだろう。

 僕はそれを見て顔を引きつらせる。が、彼女の反応はやはり淡白だった。

 「おー、これはこれは」

 なんて抑揚ない口調で呟く。まるで他人事だ。

 気分が悪くなった僕は尋ねた。

 「これ、やっぱり駄目なんじゃないの?」

 落ちたゴミクズを拾いながら、彼女は返す。

 「これくらい大丈夫だって。ちょっとしたいたずらじゃない。液体系じゃなかっただけ良心があるわ」

 ゴミクズ拾いを手伝いながら、僕はなにかしらふつふつとした怒りが込みあがって来るのを感じていた。手伝っている僕に彼女は「ありがとう」とお礼を言う。彼女がお礼を言うのは筋じゃないと僕は憤る。お礼を…… 否、謝罪をするべきなのは、こんな酷い悪戯をした連中だろう。それから、彼女は下駄箱の中のゴミも綺麗にすると、

 「本当に大丈夫だから、気にしないでね」

 と、相変わらずの淡々とした口調でそう言って下校していった。飽くまで飄々としている。不自然なくらいに。そして、そのまま彼女は校門を出て行った。彼女の後ろ姿が校門の向こうに消えていく。

 ……或いは、彼女は本当に平気なのかもしれない。けど、僕に心配をかけさせまいと無理をしている可能性だってある。

 僕は踵を返すと校舎内に戻った。

 追いかけて彼女と一緒に帰っても良かった。だけど、僕はどうしてもこのまま帰りたくはなかったのだ。

 あの三人組の女の子達が、噂を流した犯人なのはほぼ確実なんだ。一言、言ってやらなくちゃ気が済まない!

 もしかしたら、彼女達はまだ校舎内に残っているかもしれない。

 

 綾小路、佐伯、森の三人組の教室に近付くと、何やら話し声が聞こえて来た。聞き覚えがある。これは綾小路さんの声だ。それ以外にも人の気配がする。どうやら彼女達はまだ残っているらしい。

 僕は文句を言ってやろうといきり立って教室に乗り込もうとしたのだけど、そこで三人組以外の誰かが教室にいる事に気が付いた。

 嫌な予感がする。

 それで慎重にこっそりと近づき、教室のドアの隙間から中を覗き込んだ。すると、やはり三人組以外の誰かがいる。綺麗な黒髪のロングヘア。女生徒だ。背筋が真っ直ぐに伸びている。後ろ姿だったけど、それでも彼女の高圧的な雰囲気が漂って来た。

 多分、上級生だ。

 そう僕は判断した。

 見た覚えがなかったし、三人が畏まった態度で彼女の前にいたからだ。

 「ね? 私の言った通りにしたら、上手くいったでしょう?」

 落ち着いた口調だったけれど、それでいて可笑しそうにしているのが感じ取れる独特な喋り方だった。

 「はい」と、それに佐伯さんが返す。

 「相変わらずに、私達を変な目で見て来る人もいる事はいますけど、随分と味方も増えました」

 森が頷く。

 「分かってくれる人が増えたわよね」

 綾小路が続けた。

 「すべて黒宮先輩のお陰です」

 “――黒宮”

 恐らくは黒幕だろう上級生の名は黒宮というらしい。板前さんは教えてくれなかったけれど、きっと彼女もこの黒宮という先輩を知っていると思う。僕に余計な偏見を与えたくないから言わなかっただけだろう。彼女は“目星は付いている”とも言っていたし。

 うんうんと、黒宮先輩はリズミカルに頷いた。

 「それなら、約束のものを頂戴な。そういう契約だったでしょう?」

 僕はそれを聞いて首を傾げた。

 “約束のもの? 契約?”

 それから三人を代表してか、綾小路さんが懐から何かを取り出した。お札に思えた。一万円。

 「んふ」と、黒宮先輩は嬉しそうな声を出した。

 「一人当たり約3333円。高い買い物じゃなかったでしょう?」

 それを聞いて僕は確信した。金銭のやり取りをしている。お金を貰って彼女は三人組にアドバイスをしたんだ。

 「ちょっと、何をやってるんですか?」

 僕は思わず声を出してしまっていた。三人組が鴨にされていると思ったからだ。流石に見過ごせない。

 その僕の声を聞いて、黒宮先輩は振り返った。やや細目で、怪しい雰囲気はあるけれど、美人の部類に入る顔立ちだろう。黒がよく似合いそうだった。先入観の所為もあるだろうけど、可愛い系で白が似合う板前さんとは対照的に思えた。

 「あら? あなたは誰?」

 「別のクラスの一年ですよ。小鳥遊っていいます。金銭のやり取りはまずいのじゃないですか?」

 詳しくはないけど、校則に違反…… 下手すれば法律に違反しているかもしれない。いや、それ以前の問題だ。

 僕は三人を見ると続けて言った。

 「お金を貰って、嫌がらせの方法を教えてもらうなんて、常識で考えておかしいと思わないの? 絶対に騙されているよ」

 それに綾小路さんが肩を怒らせながら応える。

 「嫌がらせ? 心外だわ。身を護る為の方法を教えてもらっただけ」

 「どっちでも良いよ。君達は、そんなのに一万円も払う価値があると本気で思っているの?」

 そこで森さんが言った。

 「何か勘違いをしているようだけど、皆の間に回っている告発文へのアドバイス料は、飽くまでお金の一部に過ぎないわよ?」

 「じゃ、君達は何にお金を払ったっていうのさ?」

 「当然、“板前ゆかりの呪詛返しからの防御”よ。そのお陰で私達は解放されたの。もうあの女の呪術は怖くないわ!」

 僕はそれで納得した。板前さんの呪術を恐れていた彼女達が、怪文書で彼女を攻撃できたのは“黒宮先輩から護られている”という安心感があるからだったんだ。

 そこに佐伯さんが続ける。

 「もう一つ付け足しておくけど、“お金を支払う”というのは、それ自体が呪術の一部でもあるのよ。そのお陰で契約が強くなり、より防御術式が効き易くなるの。だから、これは必要な事でもあったのね」

 それを聞いて、僕は思わず額に手を当てた。恐らく、そう言われて説得されたのだろう。お金を支払う事を。

 すっかり信じ込んでしまっている。

 「いやいやいや、君達、絶対に騙されているって」

 さっき覚えた彼女達への憤りの中に、同情心が混ざり始めていた。ちょっと思い込みが激しいだけの普通の女の子達が、性質の悪い詐欺師に引っかかってしまっているだけなのかもしれない。まぁ、彼女達は板前さんの傘を盗もうとしたけれども。

 「絶対にお金を払う必要なんてないよ!」

 そう僕が訴えると、やや食い気味に黒宮先輩が声を上げた。

 「黙って聞いていれば、随分と失礼な事を言うわね、あなた」

 そこで彼女は身体全体を回転させて、仁王立ちで僕を真っ直ぐに見据えた。背は僕の方がやや高いはずなのに、何故か見下ろされているような気分になった。

 “呪術を使う”という先入観がある所為かもしれないけど、彼女の存在感に僕は気圧されてしまっていたのだ。

 無自覚だったけど、僕は怯えていたのだろう。気が付くと「だって……」と必死に言葉を探していた。そして、なんとか見つけ出した言葉がこれだった。

 「僕は板前さんを知っているんです。彼女は出回っている怪文書で語られているような黒魔術を使う魔女なんかじゃない。だから、そもそも抑え込む必要も攻撃する必要もないんです」

 が、それが悪かった。

 それを聞くと「ふーん」と、嬉しそうに黒宮先輩は笑ったのだ。何か、物凄く嫌な笑顔だった。ニマァ。

 「つまり、あなたは板前ゆかりの味方な訳ね。なら、私を悪く言うのも当然ね」

 「味方って……、まぁ、味方ではあるけど、飽くまでフェアに判断しています」

 「ふんふん。あなたはそう信じ込んでしまっているって訳ね。あなた、さっき私が彼女達を騙しているみたいな事を言っていたけど、あなた自身は自分が騙されている可能性を疑わないの? あなたが板前ゆかりに騙されているだけかもしれないじゃない」

 僕はそれに反論した。

 「そんなはずはないです。僕は彼女が盗難の被害に遭いそうになっているのを見ているし、色々と直接話を聞いているし」

 「だから、そういうのが全て、言葉巧みに騙されているだけかもしれないじゃない」

 「少なくとも、彼女は金を支払わせるような事はしていません!」

 その僕の断固とした発言を聞くと、黒宮先輩は大きく頭を振った。そして、肩を竦めながら口を開く。

 「これは駄目ね。すっかりと洗脳されちゃっている」

 僕はその発言に目を大きくした。盗人猛々しいとはこの事かと思う。それから彼女は三人組を見やると、こう続けた。

 「耳を貸しちゃ駄目だからね。彼、板前ゆかりに操られているみたい」

 それに三人組は頷いていた。

 操られているのは、彼女達の方だと僕はそれを見て思う。

 「どうにかなりませんかね?」

 綾小路さんがそう訊いた。本心から僕を心配している顔だった。黒宮先輩は微笑みながらこう返す。

 「安心して。ちゃんと方法はあるから。彼を助けてあげましょう」

 “――方法はある?”

 僕はその言葉に何かしら不吉なものを感じていた。

 そして、自分が何かとてつもなく大きなミスを犯してしまったのじゃないかと思い始めていたのだった。

 

 ――次の日の朝、教室で、僕は野戸から心配そうな声で話しかけられた。

 「お前、板前ゆかりの件は本当に大丈夫なのか?」

 僕はそれに“またか”と思う。心配してくれるのはありがたいけど、少々しつこい。

 「だから、彼女は普通の女の子だから、大丈夫だって」

 「でもな、お前が洗脳されているって噂になっているぞ?」

 「はぁ?」と、それを聞いて僕は思わず声を漏らしてしまう。

 「洗脳ってなに?」

 宗教や自己啓発セミナーでもあるまいに。それに彼は何も応えない。言い難そうにしていた。僕はそんな彼の様子を変に思う。そこで思い出した。昨日の黒宮先輩との出来事を。彼女がまた何かをしたのかもしれない。

 「もしかして、また何か変な噂でも……」

 不安になってそう尋ねる。が、野戸が何かを返す前のタイミングで「お前! 板前さんと淫らな事をしているって本当か!?」と、同じクラスの幸田という奴がいきなり話しかけて来たのだった。

 僕はそれに驚いてしまう。

 「どこで聞いた、その話? 嘘に決まっているだろうが!」

 「だって、お前! 彼女との淫らな行為で、すっかりお前が彼女の信者になっているって噂になっているぞ?! 実際、お前は彼女を庇っているじゃないか!」

 「いや、彼女とは普通に友達になっただけだよ。友達なら庇うだろう?」

 幸田は少々ふくよかな体型をしているのだけど、その膨らんだ腹を左右に揺らしながら彼は叫んだ。

 「羨ましい! おれも板前さんとの甘美で淫らな行為を心行くまで味わいたい! その為なら洗脳された振りでもなんでもする!」

 聞く耳持っちゃいない。

 ただ、お陰でどんな噂が流れているのか、凡そは分かった。

 また野戸が心配そうに話しかけて来た。

 「本当に大丈夫なのか?」

 「本当に大丈夫だよ。因みに、多分、それ、黒宮先輩が嫌がらせ目的で流した噂だと思う。普通に名誉棄損だよねぇ」

 もっとも、黒宮先輩がやったという明確な証拠はない。そういうのは上手くやっていそうだから、証拠を掴むのはきっと難しい。これでは文句も言えそうにない。野戸は僕の返答を聞いて、何かを察したらしく、

 「何があったんだ?」

 と訊いて来た。

 野戸一人だけ誤解を解いても、あまり効果はなさそうだとは思ったけれど、一応は昨日の出来事を僕は説明してみた。

 「なるほどね」と、彼は腕組みをする。

 「つまり、誹謗中傷合戦をしているみたいなもんなのか、板前さんと黒宮先輩達は」

 「板前さんは、ほぼ被害者だけどね」

 確かに悪い噂を流しはしたけど、それだけでも名誉棄損にはなるのだけど(事実であっても、名誉棄損罪は成立する)、正当防衛みたいなもんだから、彼女の罪は軽いと思う。

 板前さんを庇う僕に、ちょっと不審そうな目を向けてはいたけれど、野戸はそれから、「まぁ、皆にも信じないようにって伝えておくよ」と言ってくれた。どれだけの効果があるかはかなり疑わしいけれど有難い。僕は「ありがとう」とお礼を言った。

 ……傍らでは相変わらずに幸田が身体を振るわせながら「羨ましい」と連呼している。話は聞いていたと思うのだけど。やっぱり、聞く耳持っちゃいない。

 

 「……ごめんね。僕が余計な事をしたばっかりに、変な事になっちゃって」

 

 そう僕は謝った。

 そこは板前ゆかりさんの部屋だった。僕は様々なタイプの緊張で少々硬くなっていた。もっとも、決して不快ではない。むしろ、その逆だった。彼女はいつも通りの無表情で少なくとも怒っている様子は微塵もなかった。

 「いいえ、仕方ないわ。よく言っておかなかった私も悪いのだし。それに私の為にしてくれたことだし」

 と、淡々と返す。

 スマートフォンで板前さんに連絡を取ると、彼女は「一度、話し合いたいから」と言って、僕を自宅に招いてくれたのだ。学校で僕らが話したら、今流れている変な噂に拍車がかかってしまうかもしれないから。

 現在の深刻な状況を考えると、喜んではいけないのは分かっていたけれど、それでも僕は喜んでしまっていた。

 だって、

 女の子の部屋。

 しかも、二人っきり。

 “ラッキー!”

 と、思わずにはいられない。

 白を基調とした色使い。清潔そうなベッドに、小さな机。部屋の隅にはパソコンがあった。彼女の部屋はやや殺風景ではあったけど、それでも普通の部屋だった。呪術の為の道具なんかないし、可愛い系のお洒落な小物まであるし、女の子向けの漫画だってある。奥の本棚には日本やヨーロッパなどの民俗学系の本が並んでいたけど、変わっているのはそれくらいだった。

 “やっぱり、普通の女の子だよなぁ”

 と、そう僕は思う。

 その、普通の同年代の、しかも少しばかり気になっている女の子の部屋に、今、僕は足を踏み入れているのである。年頃の男にとっては聖域とも言える空間だ。

 緊張しないはずがない。

 彼女の部屋は何かとてもいい匂いがした。思い切り鼻から空気を吸い込みたくなる衝動をなんとか堪えると僕は尋ねる。

 「あの噂の所為で、何か嫌な目に遭わなかった?」

 今回は、今までの噂とは少しばかり趣きが違う。彼女は性的なニュアンスの悪口には耐性がないかもしれないと思ったのだ。具体的に、僕という相手もいるし。

 「いいえ、それほどでもないわ。前にも言ったけど、慣れているから。ただ……」

 「ただ?」

 「話したこともない男の子達から何故か連絡があったわね。突発的にモッテモテ」

 「……もしかして、幸田って奴からも連絡があった?」

 「あったわね」

 やっぱりか…… と、僕は思った。

 あいつ、ある意味、清々しい。

 「私の事よりも、小鳥遊君を巻き込んでしまって申し訳ないと思っているわ」

 「いやいや、そんな事ないよ。そこまで嫌な目には遭っていないし」

 「でも、私と肉体関係があるみたいに言われているのでしょ? 嫌じゃない?」

 ……え、そこ?

 「いや、まぁ、それはそんなに嫌じゃないよ」

 “嫌じゃない”というか、むしろ“有り寄りの有り”なのだけど。流石にそれは言えなかった。

 「と言うか、それはむしろ板前さんの方が嫌なんじゃないの?」

 若い女の子なのだし、普通は嫌なものだろう。ところが、それにあっさりと彼女はこう返すのだった。

 「私? 私は別に嫌じゃないわよ」

 淡々としている上に無表情だったから、感情までは読み取れなかった。どんなつもりで言っているのだろう?

 ……でも、深読みするのなら、意図的に照れ隠しの為に表情を変えずにいるという線もある。なら、期待が持てるのかもしれない。

 「とにかく、小鳥遊君にまで迷惑をかけてしまっている状況は捨て置けないわ。ほとぼりが冷めるまで、放置しようかとも思っていたのだけれど、そうもいかない。考えていた対策を実行しようと思うの」

 「考えていた対策って?」

 「まだ、詳しくは言えないわ。でも、そうね…… 私は呪術を使える魔女で、黒宮先輩もそれは同じ。なら、当然、呪術でやり合うという事にはなるわね」

 それを聞いて僕はビックリした。

 「黒宮先輩には、そういうのは通じないのじゃないの?」

 きっと黒宮先輩は呪術が、人間が信じ込むことで成立するものだって知っているだろう。つまり、摩訶不思議な力なんかじゃないって。なら、いくら彼女が黒宮先輩を呪っても効果はないはずだ。

 「そうね」と、それにあっさりと彼女は頷く。

 「でも、そこは色々とあるのよ。やり方が。とにかく、私に任せておいて」

 それから彼女は薄っすらと笑った。それまで無表情だったからか、その笑顔はなんだかとても怪しく思えた。

 そして、その時、少しだけ、板前さんが“普通の女の子”ではないように僕には思えてしまったのだった。

 

 それから数日程は何事も起こらなかった。板前さんは何をしようとしているのか僕に何も伝えてはくれず、その間で広まっている噂の内容はどんどん酷くなっていった。呪術の為に板前さんが違法薬物を使っているだとか、裏の世界と繋がりがあるだとか。

 ……黒宮先輩を呪っているだとか。

 多分、黒宮先輩は何もしていないと思う。噂が勝手に自己進化しているのだ。

 そして、そんな中、こんな噂も聞こえて来るようになったのだった。

 

 “板前ゆかりと、黒宮咲が呪い合いをしている”

 

 本当なのか嘘なのかは分からなかった。でも、板前さんは“対策を実行する”とは言っていたから、何かしている可能性はある。

 それから更に数日が経って、板前さんが学校を休んだ。ただの風邪だと、僕には言っていた。のに、次の日も、また次の日も彼女は学校を休んだのだった。

 流石に心配になって来た。

 黒宮先輩との呪い合い。

 まさか、彼女は敗けてしまったのだろうか?

 彼女の自宅は知っている。先日、招待されたから。僕はスマートフォンで彼女に連絡を入れた。

 “病気が心配だから、お見舞いに行くね”

 敢えて許可は求めなかった。許可を求めると断られてしまいそうだったから。本当に嫌なら“来ないで”と返信があるだろう。彼女からの返信は何もなかった。既読すら付いていない。

 病気が相当に酷いのだろうか? でも、それだけとは限らない……

 恐怖に近い不安に駆られた僕は、放課後になると直ぐに板前さんの家を目指した。ただ、玄関前でチャイムを押そうとして、流石に躊躇してしまった。一度は訪ねているとはいえ、病気で弱っている女の子の家に男が一人で上がり込もうとしているのだ。世間一般的には非常識だと怒られてしまっても仕方がないだろう。

 “せめて、家に他の人がいてくれれば、まだ入り易いのだけど”

 そう思って、庭に回って誰かいないかと観察をする。板前さんの自宅は、静かな普通の大きさの一軒家で、お洒落な雰囲気があった。薄手のカーテンがかかっていて、中の様子はよく分からない。電灯は灯っていないようだったけど、まだ暗くはないから別に不自然でもない。誰かいる可能性はある。

 そして、しばらく迷って気が付く。今の自分が完全に不審者にしか見えない事に。

 “――いつまでも悩んでいても何にもならない!”

 僕は意を決して、再び玄関前に戻ってチャイムを押そうとした。が、指が触れるか触れないかというところで僕の指はまた止まってしまったのだった。

 “うう…… 我ながら意気地がない”

 そう自己嫌悪を感じていると、不意に声がかかった。

 「あの~ 何かご用でしょうか?」

 見ると、ロングヘアの穏やかそうな女性が玄関から顔を出していた。家の前をウロチョロしていたから、変に思われてしまったのだ。僕は慌てて言い訳をする。

 「僕は、その…… 板前さん、あ、ゆかりさ…… じゃなくて、妹さんと同じ学校で…」

 “板前さん”と言いかけて、この家では全員“板前さん”だから通じないと思い直し、“ゆかりさん”と言おうとして、名前呼びは流石に馴れ馴れしいとそれも止め、最終的には“妹さん”にしたのだ。

 その女性はまだ若そうだったから、歳の離れたお姉さんだと判断したのだけど。

 かなり動揺してしまった。我ながら非常に情けない。

 「妹さん?」

 と、その女性は呟いて首を軽く傾げる。少し考えると、顔を明るくした。

 「ああ、なるほど。ゆかりですか。ゆかりなら、部屋にいますよ。ゆかりに何かご用ですか?」

 気の所為か、機嫌が良さそうに思える。

 「はい。数日病欠しているみたいなので心配になって、お見舞いに来たんです」

 そう言って僕は紙袋を見せる。何を持って行けば良いのか分からなかったので、胃にやさしそうなお菓子を持参したのだ。それを見るとお姉さんは、にこにこと笑った。

 「まあまあ、それはどうもご丁寧に。上がっていってくださいな」

 あっさりと許しが出た事に、僕はちょっと驚いてしまった。

 「いいのですか?」

 「ええ。きっと、ゆかりも喜びます。男の子と最近仲良くなったって聞いていましたし」

 どうやら僕の事を家族に話していたらしい。素直に嬉しい。僕はやや緊張を覚えつつ、板前さんの家の中に入っていった。

 

 板前さんの自室の前で、僕は軽く深呼吸をした。お姉さんの様子からいって、彼女の病状はそこまで深刻ではないのだろう。でも、それは表面上に過ぎないのかもしれない。何しろ、彼女は既にあの黒宮先輩と呪い合いをしている可能性があるのだから。

 お姉さんからは「お茶を用意しますから、先にゆかりの部屋に行っていてくださいな」と言われていた。僕が部屋に入っていなかったら変に思われるかもしれない。

 僕は意を決してノックをし、ドアの前で声をかけた。

 「板前さん。僕だよ。小鳥遊。お見舞いに来たんだ」

 スマートフォンで送ったメッセージには、未だに既読は付いていなかった。僕が来る事はきっと知らない。

 返事がなかった。躊躇しつつ、ドアノブを掴んで回すとあっけなく回ってしまった。鍵はかけられていないらしい。ドアがゆっくりと開いていく。

 果たして、彼女はどんな状態なのか……

 僕はやつれてベッドに横になっている彼女の姿を想像していた。いたのだけど、

 「あら? 小鳥遊君」

 と、妙に軽い感じの声が聞こえる。彼女はヘッドセットを付けて、テレビ画面の前に座っていた。そして、手にはゲームのコントローラーが握られている。

 僕は目が点になる。

 「……何を、しているの?」

 「ゲームよ。風邪でやる事がないとくれば、積みゲーの消化でしょう?」

 「大丈夫なの?」

 「ええ。お陰で、随分とゲームが進んだわ。クリアできそう」

 いや、ゲームの話ではなく。

 そこで声が聞こえた。

 「お茶を持ってきましたよ~」

 お姉さんだ。

 お盆に(多分)麦茶と、さっき僕が持参したお菓子を載せている。板前さんの姿を見ると頬を膨らませた。

 「あら? ゆかりったら、風邪で休んでいるのにゲームなんかして。ベッドに横になっていなくちゃ駄目じゃない」

 叱っているが、あまり怒っているようには思えない口調だった。

 「大丈夫よ。後少しでセーブできるから」

 何が大丈夫なのかよく分からない。それから板前さんは言葉通りにセーブすると、ゲーム機の電源を落とした。お姉さんは、お盆を小さな机の上に置くと部屋を出て行ってしまった。板前さんと二人きりになる。

 「あの…… 本当に大丈夫なの?」

 と、僕は話しかけた。ゲームなんかして誤魔化しているだけで、本当は追い込まれているのじゃないかと僕は疑っていた。

 「大丈夫よ。見ての通り、風邪は大したことないわ」

 「いや、それだけじゃなくて…… 君は黒宮先輩と呪い合いをしているのでしょう? 君のお姉さんはまったく心配していなかったみたいだけど……」

 それに板前さんはゆっくりと首を横に振った。

 「小鳥遊君。あなたは勘違いをしているわ」

 ドキリとした。何の事だろう?

 「勘違いって何?」

 「さっきの女性は、“お姉さん”じゃなくて“お母さん”よ。私に姉はいない」

 「へ?」

 再び目が点になる。

 そこでいきなりドアが開いた。

 「言い忘れたけど、もしやる事やるのなら、ちゃんとゴムを付けなさいよ~」

 お姉さん…… もとい、お母さんだ。板前さんの。

 「え? え?」と、それに僕。いや、なんと返せば良いのか分からなくって。その僕の反応をどう勘違いしたのかお母さんは続けた。

 「安心して。ゴムがなかったら、貸してあげるから。あ、あとでちゃんと返してね。使った分」

 それに板前さんは淡々とツッコミを入れる。

 「お母さん。あなたの娘はそこまでオープンではないわ。こんな状況でできるはずがないじゃない」

 それに何故か、お母さんは「チッ」と残念そうに舌打ちをすると、渋々部屋を出て行った。そこで気が付いた。さっきお母さんが機嫌が良かったのは、僕が板前さんのお姉さんだと彼女を勘違いしたからだったんだ。

 「……とにかく、大丈夫なの? 黒宮先輩と呪い合いをしているのなら、普通は何かをされているのじゃないか?って疑うよ」

 仕切り直して、僕はそう訊いた。

 「ええ。大丈夫よ」

 あっさりと板前さんはそう返す。どうも真面目に答えているようには思えない。

 「――僕は心配しているんだよ、板前さん」

 じっと見つめる。すると、彼女は少しだけ辛そうに表情を歪ませた。

 「心配してくれて、ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」

 そこで彼女が腕を痛そうに摩るのを僕は見逃さなかった。袖が少し捲れる。彼女の腕の素肌が見えた。

 彼女は色白だ。だから、普通なら綺麗な白い腕が見えるはずだ。だけど、そこには黒々とした、まるで蛇の鱗みたいな模様があったのだった。

 僕が“見てしまった”事を敏感に察したのか、彼女は目を伏せると「お願い。今日は帰って」とポツリと言う。

 真剣な表情だった。追及はさせないという強い意志を感じる。

 「分かった」と僕は返す。

 大人しく部屋を出るしない。そう思った。

 きっとその腕の模様は見られたくなかったのだろう。

 家を出る時、興味津々な様子で、お母さんが寄って来て僕を見送ってくれた。けど、僕の落ち込んだ様子に気が付いたのか普通に挨拶をしただけだった。それから、彼女の家を出て僕は思う。

 

 “……あれは、一体、何だったのだろう?”

 

 絶対に、普通ではない。あんな模様が皮膚にできる病気なんか聞いた事がない。もしかしたら彼女は、本当に呪われているのだろうか? 本物の呪いに。

 

 次の日も、僕は学校で悶々としていた。昨晩、一応スマートフォンで板前さんに“問題ない? 何かあったら言ってね”とメッセージを送ってみた。今回は既読は付いたけど、何の返信もなかった。やはり、あの腕の模様は見られたくはなかったのじゃないかと僕は心配になった。

 彼女に悪い事をした。

 そして、どうにも解消できない底知れない恐怖に近い不安を同時に抱いてもいた。

 板前さんは“呪文は信じる事”で効果を発揮すると言っていた。確かに言っていた。それはつまりは、“呪い”が人間心理や社会に影響を与える事で成り立っていると言っているのだ。摩訶不思議な力などではなく。それを知っている彼女に呪いが効くとは思えない。

 ――なのに、彼女は呪いにかかってしまった。

 それに心理的な影響だけで肌があんな風になってしまうだなんて僕には思えない。まるで蛇の鱗みたいな模様。心理的な影響が人体に影響を与える場合もあるらしいけど、流石に限界があるだろう。

 ならば、こう考えるしかない。

 “――黒宮先輩の呪いは本物だった”

 板前さんの呪文は、社会科学的なものだけど、黒宮先輩の呪文は超自然的なものなのじゃないのだろうか?

 そう結論付けると、俄かに僕の中の恐怖は大きくなっていった。もしも、板前さんのあの肌の変異が本物の呪いに因るものだったとするのなら、彼女をどう助ければ良い? 助ける方法がないから、彼女は僕に何も言って来ないのじゃないのか?

 学校では相変わらずに、僕らの噂が流れていた。“板前さんが呪文を扱う魔女で、僕が彼女に魅入られている”、というような。だけど、それにちょっと変化があった。板前さんが学校を休み続けている事で、“彼女が黒宮先輩との呪い勝負で敗北し、通学できない状態になっている”という噂が加わっていたのだ。

 綾小路、佐伯、森の三人がどんな様子でいるのか、昼休みに観に行ってみた。三人の様子には何の変哲もなかった。楽しそうにお喋りをしている。けど、僕の顔を見ると後ろめたいような、恐怖しているような顔を浮かべて目を背けた。

 罪悪感や、呪いというものに対する根本的な忌避。それに自分達が関わってしまったという焦り。そんな雑多な感情が混然となった複雑な表情のように思えた。僕は意を決して、彼女達に近付いていった。そして、こう告げる。

 「昨日、彼女のお見舞いに行って来たよ」

 板前さんの名前を出さなくても、それだけで彼女達には誰のお見舞いなのか通じたようだった。僕と目を合わせようとしない。僕は怒りを覚える。

 「あそこまでする必要はあったの? 元々は君達が彼女の傘を盗もうとしたのが悪いのじゃないか!」

 思わずそう言ってしまっていた。

 教室内の生徒達が一斉に僕らに注目をする。興味本位の視線だけじゃない。三人組に対する白い眼も含まれてあるように思えた。僕の言葉から、噂は本当だったと確信を持ったのだろう。何人かはヒソヒソと何事かを語り合っていた。

 その教室の雰囲気に堪りかねたのか、綾小路さんが口を開いた。

 「知らないわよ! 私達は何も黒宮先輩に頼んでいない!」

 「じゃ、どうして板前さんは、あんな風になっちゃったんだよ?!」

 思わず叫んでしまった僕の言葉で、教室の空気が凍りついたのが分かった。しばらくの間の後で、佐伯さんが口を開く。

 「“あんな状態”って、彼女、どうなっていたのよ?」

 「それは……」と僕は言い淀む。

 「言えない。多分、彼女は言って欲しくないと思うから…… 僕に見られたのだって、きっとショックだったと思う」

 その僕の説明で三人組の顔が青ざめるのが分かった。教室の中に、再びヒソヒソとした声が響く。

 森さんが口を開く。

 「とにかく、わたし達は本当に何も頼んでいないの。きっと黒宮先輩が気を利かせてやったのだと思うわ。でも、流石にそれはやり過ぎだと思う。止めてもらうようにわたし達から言っておくから……」

 それは教室内の視線に圧されて出た言葉でもあったのだろうけど、本心でもあるように僕には見えた。信頼しても良さそうだった。

 「頼むよ。本当に……」と、それから僕は言って、彼女達の教室を出て行った。明日には板前さんが登校してくれる事を願って……

 

 ――でも、

 

 次の日になっても板前さんは登校して来なかった。一応、彼女の教室に見に行ったけど、彼女の机には誰も座っていない。荷物も何もなかった。

 午前中にスマートフォンに、板前さんから連絡が入った。

 『気を付けて。あなたは私と無関係じゃない。呪われていると思う』

 僕はその言葉に戦慄した。

 薄っらとは心の何処かでその可能性について考えてはいた。でも、多分、僕は無意識の内に目を背けていたのだと思う。

 そう思うと急に気分が悪くなって来た。軽い腹痛がする。つまづいて足に怪我をした。かすり傷だけど、血が不気味に滲む。鈍い痛みがじんわりと沁みるように続く、とても不快なタイプの痛みだった。

 これは、もしかしたら、呪いの所為なのかもしれない。

 もちろん、気の所為の可能性もある。だけど、それをどう証明したら良い?

 一日中、僕は名状し難い不安と恐怖に苛まれた。厭な気分。とてもとても厭な気分。そしてその晩、悪夢を見た。

 

 僕は板前さんの部屋にいて、彼女を心配している。彼女は自分の変質してしまった蛇の鱗のような腕にコンプレックスを感じているらしく、必死に腕を隠していた。

 「そんな腕くらい、全然僕は平気だよ」

 僕は彼女を少しでも楽にしてあげられればと思ってそう言う。すると彼女はそれに「本当?」と返す。僕は頷いて「もちろんだよ」と返した。すると、彼女は「これでも?」と呟くように言い、その途端、腕の蛇の鱗模様が全身に広がっていったのだった。

 「ヒィッ」

 そう悲鳴を上げた僕の腕を彼女は掴んだ。

 「全然、平気なのでしょう?」

 そして、じっと僕を見据えて来る。

 「も、もちろん……」と、僕は返そうとした。けど、その間で掴まれている腕の部分から蛇の鱗模様が僕の腕に伝染して来て、広がっていくのだった。僕の肉体が呪いに侵食されていく。

 「うわあぁぁぁぁ!」

 悲鳴を上げて目を覚ますと、もう朝だった。慌てて腕を見てみたけど、蛇の模様なんて付いていなかった。

 

 ……通学電車の中で、考えた。

 あんな夢を見たのは、多分、呪いに苦しんでいる板前さんを助けられないでいる罪悪感と呪いに対する恐怖の所為だ。

 “どうすれば良い?”

 確実な方法は何も分からなかった。でも、試していない事ならあった。

 “黒宮先輩に直に言って、板前さんの呪いを解いてもらう”

 板前さんなら、或いは危険だから止めろと言うかもしれない。でも、彼女を助けられる手段は僕には他には思い付けなかった。

 そして、決心をした。

 

 ――昼休みに、黒宮先輩の教室を訪ねよう。そこで、呪いを解いてもらうようにお願いするんだ!

 

 緊張していた。

 考えてみれば、この高校に入学して以来、一度も高学年の階には行った事がない。一年上だけのはずなのに、見慣れた一年生に比べて、二年生達は随分と大人びて思えた。それで僕は余計に委縮してしまっていた。

 昼休みの賑やかな楽しそうな雰囲気。

 僕だけが一人深刻そうな表情で二年生の階の廊下を進んでいた。

 やがて黒宮先輩の教室が見えて来る。“いなければ良いのに”。気弱な自分が心の何処かでそう言っていた。いなければ、黒宮先輩との対峙を引き伸ばせる……

 が、黒宮先輩は教室にいた。

 昼食は既に食べ終えているらしく、一人でスマートフォンを眺めている。他にもたくさんの二年生がいて、それぞれお喋りをしたりゲームをしたりして過ごしている。

 本物の呪いを使える、本物の魔女。

 僕は深呼吸をすると、教室に足を踏み入れた。真っ直ぐに黒宮先輩に向かっていく。教室内の二年生数人がそれに気が付き、何事かと僕を見やった。僕は絡みつくようなその視線を振り切って黒宮先輩の前に立った。そこで黒宮先輩は僕に気が付いたようだった。

 「あら? あなた……」と、黒宮先輩は何かを言いかけたけど、必死だった僕にその言葉を聞いている余裕はなかった。

 頭を下げると僕はこう叫んだ。

 「お願いします! 黒宮先輩! 板前さんにかけた呪いを解いてください!」

 それを聞くと、黒宮先輩は唖然とした表情を浮かべた。教室内の二年生達が僕に注目をするのが分かった。賑やかだった教室内が一瞬で静かになる。

 「いや、ちょっと待ってよ。何の事だか私には分からないのだけど……」

 周囲の視線もあったからだろう。慌てたように黒宮先輩はそう言った。

 「嘘を言わないでください。あなたがお金を貰って呪術を施しているのは知っています。僕の目の前でお金を受け取っていたじゃないですか!」

 その僕の言葉に教室内の二年生達が反応したのが分かった。

 黒宮先輩は更に慌てる。

 「何を言っているのよ? あなた。私には何の事だか分からないわ!」

 「とぼけないください! 実際、板前さんはあなたの呪いの所為で何日間も学校を休んでいるんです! 僕はお見舞いに行って、彼女の様子も見ています。あんなの、呪われている以外じゃ説明がつかない!

 女の子なのに! いくらなんでも可哀想です!」

 その僕の訴えに教室内は騒然となった。

 「板前さんが? 一体、どうなったって言うのよ?」

 「それはあなたが一番良く分かっているのじゃないですか? 多分、あなたは僕だって呪っているのでしょう? いずれ、僕もああなってしまうんだ」

 教室内の二年生達が、一斉に白い眼を黒宮先輩に向けるのが分かった。

 「はいー? 本当に何を言っているのか分からないわ。デマよ。完全なデマ」

 「何がデマですか? 実際にお金を受け取っていたじゃないですか?

 確かに、あの女生徒達が板前さんの傘を盗んだ事を広めた彼女のやり方も褒められたもんじゃありません。でも、それでも、あの女生徒達にだって非はあるじゃないですか! それなのに板前さんばかりを一方的に呪いで苦しめるなんて、どう考えてもおかしいです!」

 綾小路、佐伯、森の三人が、板前さんの傘を盗んだ件は、二年生の間でも話題になっている。だからだろう。

 “あの件か……”

 と、納得した顔を二年生達は浮かべていた。

 「お金を貰ったのは確かにそうよ。でも、その呪いはデマ。そんな事はしないって。きっと偶然何かの病気に罹ったのだと思うわ」

 そう言わなければ、僕が治まらないと思ったのだろう。彼女はなんとか僕を宥めようとしているようだった。僕はそれに反論しようとした。あんな風に皮膚がなってしまう病気なんて聞いた事がない。が、その前に声が上がったのだった。

 「待ちなさい。いくら何でも、聞き捨てならないわね」

 見ると、腕組みをしたポニーテールの女の先輩が、黒宮先輩を睨みつけていた。「木原……」と、それを見て黒宮先輩は呟いた。木原先輩というらしい。彼女は続けた。

 「黒宮、あんたまだオカハラ(オカルティック・ハラスメント)を続けていたのね。しかも、下級生相手のいじめ…… パワハラまでしていてお金も取っている。許されると思っているの?」

 黒宮先輩の様子を見るに、どうも彼女は木原先輩が苦手のようだった。更にクラス全体の雰囲気が木原先輩の味方…… つまりは僕の味方をしている。流石の黒宮先輩も、大いにたじろいでいた。

 「だから、私は知らないって言っているでしょう? 後輩を病気に追い込むような呪いなんてかけていないって」

 そう言い訳をする。

 ところが、そのタイミングだった。

 「――果たして、そうかしら?」

 そんな声が教室の出入り口の辺りからしたのだ。

 見ると、背が小さくていかにも不健康そうな女生徒がいた。「あら、安宅。あなた、何か知っているの?」と、木原先輩が言う。

 安宅?

 聞き覚えがあると思って思い出した。板前さんの知り合いの先輩の名だ。

 「黒宮、あんたは板前さんやそこにいる小鳥遊君の事を呪っているじゃない。知っているのよ? 変な噂をさんざん流しているでしょう? しかも、事実無根のデマ」

 黒宮先輩は安宅先輩の登場に頬を引きつらせた。「はっ」と言って、誤魔化す為にか笑った。

 「どこにそんな証拠があるのよ?」

 安宅先輩は淡々と言う。

 「綾小路、佐伯、森の三人は知っているわよね? その三人から証言は取っている。あなたにお金を支払って、噂の流し方のアドバイスをしてもらったって。

 あの子達、まさか、あなたがそんなにも恐ろしい呪いを板前さんにかけるだなんて思っていなかったのでしょうね。怖くなって、相談に乗ってあげたわたしに正直に話してくれたわよ」

 そう言い終えると、安宅先輩はタブレット端末を取り出した。なんと、そこには板前さんの姿が映っていた。画面の端には“ライブ映像”の文字があった。多分、彼女の自室で撮影しているのだろう。

 『黒宮先輩。お久しぶりです。板前です』

 と、彼女は言った。いつも通りの淡々とした口調で。

 『呪い。お見事でした。お陰で私はもう一週間以上も自宅で療養しています。あなたに呪いを解いてもらわなくては、登校できそうにありません。

 どうか、お願いです。呪いを解いてはもらえないでしょうか?』

 「だから、その呪いが何の事だか分からないって言っているでしょう?」

 『何を言うのですか? あなたは私や小鳥遊君の悪い噂を流したじゃありませんか。それこそが呪いですよ。

 ……分かっているのでしょう?』

 その彼女の言葉に黒宮先輩は黙る。その無言の間は、彼女の言葉を肯定していた。

 『あなたが今、この場で“全てはデマでした”と言えば、私にかかった呪いは解けるんですよ。もちろん、そこにいる小鳥遊君の呪いも。

 あなたは、ちゃんと分かっているはずですよね?』

 彼女が言い終えると、黒宮先輩は板前さんを睨みつけた。

 「嵌めたわね。板前ゆかり!」

 『ご冗談を。呪われているのは、私の方ですよ?』

 僕はそのやり取りを見ながら戸惑っていた。明らかに板前さんが優勢だから、戸惑うのは変に思うかもしれないけど、どうにも話の展開がおかしい。

 黒宮先輩の呪いは、超自然的なものであったはずだ。なのに、板前さんは社会科学的なものとして喋っているように思える。

 俄かに、ある予感が僕の中に込み上げて来る……

 まさか。

 教室内の視線が、黒宮先輩を襲った。その視線に圧されて黒宮先輩は口を開いた。

 「分かったわよ! 認めるわよ。私があなた達のデマを流したのよ! あんたが黒魔術を使うのも、肉体関係で小鳥遊君を信者にしているのもすべて嘘!」

 そう黒宮先輩が言い終えると、安宅先輩とその安宅先輩が手に持っているタブレット端末の中の板前さんが同時に笑った。

 “企みが上手くいった”

 そんな感じの悪賢そうな笑顔だった。

 そして、その笑顔を見て、僕は確信を持ったのだった。

 “板前さんは、僕を騙していたんだ……”

 

 「どーゆー事だったの?」

 と、僕は尋ねた。板前さんに。短い休み時間の図書室は利用者が少ないので、そこに僕らはいた。彼女はケロッとした様子だった。彼女の肌に蛇の鱗模様なんて少しもなかった。きれいさっぱり消えている。

 「あれのこと? あの蛇の鱗模様は、タトゥーシールよ。できる限りリアルなやつを探したの。安宅さんがそういうのに詳しくって」

 「つまり、僕を騙していたの?」

 「騙すだなんて、そんな……。まぁ、騙してはいたのだけど。でも結果上手くいったでしょう? 見事、黒宮先輩の呪いを撃破できたわ」

 「そうだけど。なら、話してくれていても良かったじゃないか」

 「でも、小鳥遊君は演技なんかできないでしょう? 二年の先輩だけじゃなくて、綾小路さん達だって騙さなくちゃいけなかったのよ?」

 それを聞いて僕は黙った。もし、最初から全てを知らされていたら、きっと僕の下手な演技ではすぐにバレてしまっていただろう。認めるしかない。代わりに僕は別の疑問を口にした。

 「随分とタイミング良く安宅先輩が現れたけど、どうしてそんな事ができたの?」

 「安宅さんのクラスは黒宮先輩のクラスの近くだから、騒ぎがあれば直ぐに分かるの。事前準備ができたのは綾小路さん達を常にマークしていたから。彼女達が不安に駆られているようだったら、安宅さんが相談に乗るって言って接触する計画でいたのよ」

 「それだけじゃないよね? 君は僕にメッセージを送って、黒宮先輩に突撃するように促さなかった?」

 「まあ、それもあるわね。でも、勘弁して。いい加減休み過ぎだったから、親を誤魔化すのも難しくなっていたのよ。積みゲーも消化しちゃって暇だったし。そろそろ学校に行かなくちゃいけなくって」

 そう説明する彼女に悪びれた様子はまるでなかった。本来ならば怒るべきだと僕は思っていたし、怒りたくもあったのだけど、そんな彼女の顔を見つめていると何故か怒りは湧いてこなかった。

 「もー。僕がどれだけ心配したと思っているのさ」

 力なく、そう僕は文句を言った。

 ただ、確かに彼女の計画は完ぺきだった。黒宮先輩がデマだと認めた証言は、安宅先輩や板前さんがあっという間に広め、わずかな例外を残して誤解は既に解けている状態になっていた。お陰で、こうして二人きりで会っていてもあまり変には思われていない。

 まあ、別の疑われ方はしているかもしれないけれど……

 「今回の件、小鳥遊君にはとても感謝しているのよ。あなたが私の事を心から心配してくれていなかったら、この計画は上手くいっていなかった。それに蛇の模様についてもあなたは黙ってくれていたでしょ? 多分、私に気を遣って。話さなかったお陰で、想像力を刺激出来て、呪いの恐怖が余計に生徒達の間で増幅されたみたい。それで随分とやり易くなった。

 ……ありがとうね」

 僕はそれを聞いて顔が熱くなるのを感じていた。感情をあまり表に出さない彼女だからこそ、素直なお礼の言葉はとてもよく効く。

 「うん。まぁ、友達があんな目に遭っていたら、そりゃ、ね……」

 と、僕は照れを誤魔化しながら返した。にっこりと彼女は笑う。

 「さんざん“呪いは信じる事で機能する”って説明していたから不安だったのだけど、あっさりと騙されてくれて良かったわ」

 「からかわないでよ。まだ、ちょっと呪われたって不安はあるんだから」

 僕は頬を膨らませていた。

 我ながら、気弱で思い込みが激しい。人間の心理は想像以上に自分の想い通りにはならないものであるらしい。それを聞くと、板前さんは何かを思い付いたようだった。

 「ふーん。小鳥遊君。それじゃ、おまじないをしてあげよっか?」

 「おまじない?」

 「そ。呪いが完全に解けるおまじない」

 僕は即答した。

 「そんな便利なおまじないがあるなら是非やってよ」

 すると、それを聞くなり彼女は僕の頬に顔を寄せ、そっとキスをして来たのだった。

 「はい。これで小鳥遊君にかかっていた呪いは完全に解けました」

 僕は驚いて、固まってしまう。そんな僕に向けて彼女は続けた。

 「ね。小鳥遊君。前に、“寂しい想いをしている女の子なら、少し優しくすればチョロいぜ”とか思っている? って訊いたのを覚えている?」

 驚いたまま僕は返す。

 「覚えているけど……」

 すると彼女は屈託なく笑って言った。

 「うん。それね。もしかしたら、正しいかもしれないわ」

 その言葉で僕は更に顔が熱くなった。

 ……だって、こんなの、ほとんど告白に近いじゃないか。

 ただ、同時に少しだけ疑っていた。これは、もしかしたら、僕の呪いを完全に解く為のおまじないの一環なのじゃないか?って。

 真意は分からない。

 でも、どちらにしろ、僕にかけられた呪いは完全に解けていたのだった。

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