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第九話 さよなら、坂本さん

 アトリエの窓を叩く雨は、いつの間にか霧雨へと変わっていた。  

 森の木々が吸い込んだ湿気が、古い木造の建物の隙間から忍び込み、冷えた空気をさらに重く沈めている。  


 中央の製図台に突っ伏したまま動かない徹の背中を、亜希は痛々しい思いで見つめていた。

 彼の指先には、今も坂本健吾が遺した図面が握られている。

 それは、世界を数式で測ろうとしていた男が、初めて「証明できない愛」という解に触れた証だった。


「……熱い。ママ、すごく、熱いよ」

 背後で、蓮の掠れた声が響いた。  

 亜希が慌てて振り返ると、美智子の腕の中で、蓮の顔が真っ赤に火照っていた。

 幼い額には大粒の汗が浮き、呼吸は浅く、速い。

「蓮! どうしたの、しっかりして!」  

 亜希が駆け寄り、蓮の体に触れた。

 指先から伝わる熱量は、尋常ではなかった。

 まるで、小さな体の中で何かが激しく燃焼し、限界を迎えようとしているかのように熱い。

「……器が、壊れかけているんだ」  


 美智子が、震える手で蓮の頭を撫でた。

 彼女の瞳には、深い悲哀と、すべてを悟ったような静かな覚悟が宿っていた。

「四歳の子供の脳には、大人の一生分の記憶は重すぎるのよ。健吾は……坂本さんは、もう、ここを去ろうとしている」

「去るって、どこへ……? 蓮はどうなっちゃうの!?」

「蓮くんは、蓮くんに戻るのよ。坂本健吾という記憶の重荷を脱ぎ捨てて、ただの子供に。でも、その『剥離』の痛みに、この子の体が耐えられるかどうか……」


 美智子は、自分の着ていたカーディガンを脱ぎ、蓮を包み込んだ。  

 かつて、夫を愛した女。  

 今、息子を愛する女。  

 二人の女性の視線が、蓮という一人の命の上で交錯した。

 そこには、数日前まであったような、刺すような嫉妬や疎外感はもうなかった。

 あるのは、ただ一つ。

「この魂を、無事に明日へ繋ぎたい」という、共通の、切実な願いだけだった。

「亜希さん、濡れタオルを持ってきて。奥に古い洗面台があるわ。私は、この子の意識が飛ばないように声をかけ続ける」

「……分かったわ、美智子さん」


 亜希はアトリエの奥へと走り、冷たい水でタオルを絞った。

 古びた蛇口から出る水の音だけが、静寂の中で残酷に響く。  

 戻ると、美智子が蓮の耳元で、優しく、しかし力強く語りかけていた。

「健吾、もういいのよ。あなたは十分に、私に『ただいま』を伝えてくれた。あのアトリエも、この図面も、全部受け取ったわ。だから……もう自分を責めないで。この子を、解放してあげて」

 蓮の瞳が、微かに開いた。

 その色は、今まで見たこともないほど澄んでいた。

「……美智子。僕は、君を独りぼっちにしたくなかった。それだけが、心残りだったんだ」

 大人の男の口調。

 けれど、その声は今にも消え入りそうなほど細い。  

 亜希は、冷たいタオルを蓮の額に置いた。

 蓮の手を美智子が握り、もう片方の手を亜希が握る。

 二人の女性の温もりが、蓮の小さな体を通じて一つに溶け合う。


「坂本さん」  

 亜希は、初めて彼の名を呼んだ。

「蓮」としてではなく、一人の男として。

「蓮を産んだのは私です。でも、今の蓮を形作っているのは、あなたの深い愛情です。……あなたが蓮に遺してくれた『未来』は、私たちが必ず守ります。だから、安心して……息子を、返してください」

 蓮の口角が、微かに上がった。  


 その瞬間、アトリエの入り口に、鋭いライトの光が差し込んだ。

「ここだ! 強行突破しろ!」

 倉橋教授が、屈強な看護師たちを引き連れて現れた。

 彼の手には、鎮静剤の入った注射器が握られていた。

「佐野さん、そこをどきなさい。その子はパニック状態だ。直ちに隔離して、薬物療法を行う必要がある!」

 教授の冷徹な声が、神聖な空間を切り裂く。  

 亜希は、反射的に蓮の前に立ちはだかった。

 だが、彼女よりも先に動いた影があった。

 床に崩れ落ちていた徹が、立ち上がった。  

 彼は、引き裂かれかけた図面を胸に抱き、倉橋教授の前に、壁のように立ちはだかった。

「……帰ってください、倉橋先生」

「何を言っている、佐野君。君も理解しているはずだ、これが『異常』であることを!」

「ああ、異常だ。あんたの言う通りだよ。……でも、あんたが今見ようとしているのは『症例』であって、俺の『息子』じゃない」


 徹の声は、低く、しかし地の底から響くような怒りを孕んでいた。

「俺は……この男に、計算式を教わった。俺の人生の欠けていたピースを、彼は五年前から用意してくれていたんだ。それを『疑似的人格』の一言で片付けるあんたに、これ以上息子を触らせるわけにはいかない」

「狂ったか、君まで!」

「狂って結構だ。……出て行け。ここは、家族の別れの時間だ」

 徹の気迫に、倉橋教授が一歩後ずさった。  

 論理を至上命題としていた男が、論理を捨てて「父」になった瞬間。

 その圧倒的な熱量に、医学という名の正論は、その輝きを失い、影へと退いた。


 夜が深まり、アトリエの中は、キャンドルの炎のような柔らかな静寂に包まれた。  

 蓮の熱は、少しずつ、、少しずつ下がり始めていた。  

 それに合わせて、彼の瞳から、あの「賢者のような色」が、潮が引くように消えていく。

「……あ、き、さん」  

 蓮が、震える唇を動かした。

「坂本さん?」  

 亜希が顔を近づける。

「ありがとう。……楽しかった。あ……あした……ようちえん……おにぎり、しゃけ……いいな……」

 語彙が、崩れていく。  

 複雑な構文が、単純な子供の言葉へと、巻き戻されていく。  

 蓮の意識の中で、坂本健吾という壮大な建築物が、静かに、優しく解体されていく音が聞こえるようだった。


 蓮は、美智子の手をそっと離した。  

 そして、最後の一力を振り絞るようにして、亜希の首に小さな手を回した。

「ママ……」

 その響きに、亜希の目から涙があふれた。  

 それは、迷子の子供が、ようやく自分の家に辿り着いた時のような、混じりけのない、純粋な甘えだった。

 美智子は、それを見て、静かに微笑んだ。  

 彼女は蓮の頭を最後にもう一度撫でると、音を立てずに立ち上がり、暗いアトリエの隅へと退いた。

 彼女の役目は、終わったのだ。

 夫を見送り、そして、一人の子供を母親へと返した。


 蓮は、そのまま深い、深い眠りに落ちた。  

 もう、寝言で誰かの名前を呼ぶこともない。  

 もう、雨の日の事故を悔やんで泣くこともない。

 亜希は、蓮を抱きしめたまま、夜明けを待った。  

 腕の中の重みは、確かに昨日までの蓮だった。

 けれど、その心臓の鼓動は、新しく生まれ変わったばかりのような、力強いリズムを刻んでいた。

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