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第八話 魂の設計図

 その日の朝、佐野家の空気は、嵐の前の静止した海のように重く淀んでいた。  

 徹は、ダイニングテーブルで分厚い入所手続きの書類をめくり、ペンを走らせている。

 カチ、カチというノック式のボールペンの音が、処刑を待つ時計の刻みのようだった。  

 亜希は、キッチンで蓮の弁当を詰めていた。

 卵焼きの黄色、ブロッコリーの緑。

 そんな日常の色彩が、今はひどく空々しく、剥製のように見えた。


「十時になったら、迎えの車が来る。蓮、着替えは済んだか」  

 徹の声には、一切の迷いがなかった。

 彼は「正しいことをしている」という自負で自らを武装していた。  

 蓮は、ソファに座り、自分の小さな膝をじっと見つめていた。

 その瞳には、反抗の炎も、諦めの影もなかった。

 ただ、深い、深い湖のような静謐さがあった。


「……パパ。僕がその施設に行ったら、パパは安心するの?」

「安心の問題じゃない。お前のためだ。普通に戻らなきゃいけないんだ」

「『普通』って、誰が決めたもの? パパが見ている世界だけが、正しい形なの?」

 徹の手が止まった。

 彼はゆっくりと顔を上げ、冷たい目で息子を見た。

「そうだ。目に見えるもの、触れられるもの、証明できるもの。それだけがこの社会のルールだ。お前の中にいる『誰か』は、そのルールを壊そうとしている。俺はそれを許さない」


 亜希は、震える手で包丁を置いた。  

 今だ。

「徹君、ごめんなさい。……蓮の着替え、まだ一着足りなかった。寝室から持ってくるわ」  

 亜希は蓮の腕を掴み、二階へと上がる。

 徹は疑いもせず、再び書類に目を落とした。

 二階の寝室。亜希は蓮を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「蓮、走れる?」

「……うん。どこへ行くの?」

「坂本さんが、あなたのために遺してくれた場所へ。そこなら、きっと答えがあるはず」

 非常用のリュックを掴み、二人はベランダの避難はしごから、静かに庭へと降りた。

 徹が書類の数字に没頭している隙に、二人は裏門を抜け、春の陽光が降り注ぐ住宅街を駆け抜けた。


 一時間後。

 二人は、美智子が待つ郊外の森の入り口に立っていた。  

 そこは、かつて坂本健吾が「いつか、誰にも邪魔されずに設計に没頭したい」と語っていた、地図に載っていない古いアトリエだった。  

 美智子は、古びた軽自動車の前で、落ち着かない様子で二人を待っていた。

「よかった……無事で」  

 美智子が蓮の小さな肩を抱き寄せた。

 その目は赤く腫れていたが、そこには確固たる決意が宿っていた。

「行きましょう。健吾が、一番大切にしていた場所へ」


 森の奥へ進むと、蔦に覆われた木造の小さな建物が現れた。  

 周囲には、朽ちかけた設計用の模型や、苔むした大理石の破片が散らばっている。

 空気はひんやりと冷たく、森の土の匂いと、古いインクの匂いが混じり合っていた。  

 美智子が取り出した古い鍵を回すと、軋んだ音を立ててドアが開いた。

 中は、外の荒廃とは対照的に、まるで時間が止まったかのような美しさを保っていた。  

 高い天窓から差し込む一筋の光が、部屋の中央にある巨大な製図台を照らしている。

 そこには、数え切れないほどのスケッチや、計算式が書き込まれた付箋が、几帳面に並べられていた。


「これを見てください」  

 美智子が、製図台の隠し引き出しから一束の図面を取り出した。  

 それは、建物の設計図ではなかった。

『五歳からの君の成長に関する覚書』

 そこには、建築家ならではの緻密なグラフと図解で、ある「予測」が記されていた。  

 蓮が何歳でどのような感情を抱き、いつ頃に前世の記憶が薄れ始めるか。

 そして、その過程で、彼がどのように「自分自身の魂」を確立していくべきか――。  

 それは、坂本健吾が自分の転生を確信し、遺される「新しい自分」のために描いた、人生の設計図だった。

「健吾は、分かっていたんです」  

 美智子が、涙をこらえながら図面を指差した。

「いつか、自分が還ってきたとしても、それはもう『かつての夫』ではない。一人の新しい子供として、未来を歩まなければならない。だから彼は、自分が遺した知識や財産を、蓮くんが『自分』を取り戻すための武器として遺したんです」

 蓮が、その図面に小さな手を置いた。

「……思い出した。僕は、美智子に『ただいま』を言いたかっただけじゃない。僕がいなくなった後の世界を、君たちがどう生きればいいか、それを伝えたかったんだ。この設計図は……僕が、僕を殺して、蓮として生きるための道しるべだ」


 その時、アトリエの外で、急ブレーキの音が響いた。  

 鳥たちが一斉に飛び立ち、森の静寂が破られる。

 バタン、と車のドアが閉まる音。

「亜希! 蓮! 出てこい!」  

 徹の声だった。彼の声は、怒りと、そして底知れぬ恐怖でひっくり返っていた。  

 背後には、倉橋教授の姿もあった。

 彼は白い診察衣のまま、冷ややかな視線を建物に向けている。

「……来たわ」  

 亜希は、蓮を自分の背中に隠した。  

 徹がドアを蹴り開け、アトリエの中に踏み込んできた。

「何をしている! こんなカビ臭い場所で! 蓮、今すぐそこを離れろ。お前を連れ戻しに来たんだ!」

 徹は、製図台の上に広げられた図面を掴み取り、それを乱暴に引き裂こうとした。

「こんなデタラメが何になる! 過去の幽霊に唆されて、現実を捨てるのか!」

「やめて、徹君!」  

 亜希が徹の腕にすがりつく。

 だが、徹は彼女を突き飛ばした。

 その時だった。  

 ずっと黙っていた蓮が、一歩前に出た。  

 彼は、徹の目を真っ直ぐに見据え、その手にある破れかけた図面を、驚くほど力強く奪い返した。

「徹君。……この図面をよく見て」  

 蓮の声は、アトリエの壁に反響し、不思議な威厳を持って響いた。

「これは、呪いなんかじゃない。僕たちが、君という『現実』の中で、どうやって笑って生きていくかを書いた手紙なんだ」


 蓮は、図面の隅に小さく書かれた数字を指差した。  

 そこには、徹がかつて挫折しかけた、あのプロジェクトの未解決だった構造計算の答えが、五年前の筆跡で記されていた。

「君が昨夜、書斎で泣いていた理由。……この男は、五年前にそれを予見して、君にギフトを遺していたんだ。彼は君を愛していた。自分の跡を継ぐ、一人の優れた建築家候補として」

 徹の顔から、表情が消えた。  

 彼は、震える手でその数字をなぞった。  

 それは、彼と坂本健吾だけが共有していた、理論の極致。

 倉橋教授が、眉を潜めて近づいてくる。

「……これは、何かのトリックだ。暗示にかかっているんですよ。そんな計算式が偶然……」

「偶然じゃない!」  

 徹が、突然叫んだ。  

 彼は図面を握りしめ、その場に崩れ落ちた。  

 合理主義の鎧が、一筋の「過去からの愛」によって、無残に砕け散った瞬間だった。

「……なぜだ。なぜ、死んだ男が俺のことを知っている。なぜ、俺が今苦しんでいることを……」

 徹の瞳から、初めて大粒の涙がこぼれ落ちた。  

 それは、否定し続けてきた「目に見えないもの」を、心が初めて受け入れた音だった。

 亜希は、震える徹の肩に手を置いた。  

 森の奥のアトリエに、夕暮れの赤い光が差し込み、三人の影を長く、一つに繋げた。

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