第七話 白磁の檻
大学病院の待合室は、独特の「死角のない白さ」に満ちていた。
高い天井から降り注ぐ蛍光灯の光は、影を徹底的に排除し、そこに座る人々の表情から生気を奪っていく。
空気清浄機が吐き出す無機質な風の音と、時折スピーカーから流れる診察番号を告げる合成音声。
亜希は、隣に座る蓮の小さな手を握りしめていた。
蓮の手は、この冷え切った空間にあっても驚くほど温かかった。
「……蓮、怖くない?」
「怖くないよ、亜希さん。ただ、少し退屈なだけだ。大人たちはいつも、答えを決めてから質問をしてくるから」
蓮は、膝の上に置かれた絵本には目もくれず、壁に貼られた「発達段階における言語獲得の指標」というポスターを、分析するように眺めていた。
その横顔には、四歳児が持つべき「未知への不安」が欠落している。
対照的に、夫の徹は、診察室のドアが開くのを今か今かと待ちわびていた。
彼の背中はピンと伸び、手元のタブレット端末で熱心に脳科学の論文を読み漁っている。
彼にとってこの病院は、狂った歯車を正すための「修理工場」なのだ。
「佐野蓮くん、診察室へどうぞ」
重厚な防音ドアが開いた。
診察室の主、倉橋教授は、銀縁の眼鏡の奥で怜悧な光を湛えた目をしていた。
彼は数々の症例を扱ってきた権威であり、徹が「最も信頼できる合理的判断を下す人物」として心酔している医師だった。
「さて、蓮くん。今日はいくつかパズルをしたり、お話をしたりしようか」
診察は、淡々と進められた。
知能検査、言語流暢性テスト、そして投影法による心理テスト。
蓮は、倉橋教授が差し出す積み木や絵カードに対し、淀みなく、しかし「四歳児として期待される範囲内」で答えようとしているように見えた。
だが、時折、本能的な知性が隠しきれずに漏れ出す。
「この絵を見て、何を感じるかな?」
「……構図が少し不安定ですね。左側の消失点がズレている。でも、描いた人の孤独はよく伝わります」
倉橋教授のペンが、カルテの上で止まった。
シュッ、シュッ、という紙を削るような音が、亜希の心臓を逆撫でする。
徹が、身を乗り出すようにして尋ねた。
「先生、どうでしょうか。やはり、何らかの脳の機能障害、あるいは解離性障害の疑いがあるのでは?」
倉橋教授は、眼鏡を指で押し上げ、ゆっくりと口を開いた。
その声は、感情を排した医療器具のように冷徹だった。
「……非常に興味深い症例です。医学的に言えば、蓮くんの脳に器質的な異常は見られません。しかし、言語能力と論理的思考力が、実年齢を遥かに超越している。これは、いわゆる『ギフテッド』の範疇を超え、周囲の大人……特にお母様の強い期待や、特定の情報の過剰な摂取による『疑似的人格の形成』である可能性が高い」
「疑似的人格……?」 亜希が震える声で聞き返した。
「ええ。子供の脳は柔軟です。身近な大人の願望や、無意識に触れた物語を、自分の真実だと思い込んでしまうことがある。お母様、失礼ですが、あなたが過去の未練やスピリチュアルな物語を蓮くんに語り聞かせたことは?」
「そんなこと、一度もありません!」
「そうですか。しかし、蓮くんが『誰かの生まれ変わり』を演じることで、家庭内の注目を集めようとしている、という側面は否定できません。これは一種の適応障害です」
徹が、大きく息を吐き出した。
それは、待ち望んでいた「正解」を手に入れた者の安堵だった。
「やはりそうか……。先生、治療法は?」
「まずは、情報の遮断です。彼が『前世』と呼ぶ事象に関連するものから、物理的にも精神的にも引き離す必要があります。しばらくの間、専門の療養施設で観察を行うのがベストでしょう。そこでは、彼を『普通の四歳児』としてのみ扱います」
施設。
隔離。
亜希の目の前が暗転した。
それは、蓮の中から「坂本健吾」を消すだけでなく、蓮という個人の魂そのものを、社会の型に嵌めるために磨り潰す作業に思えた。
「……それは、僕を壊すっていうことだね」
蓮が、静かに言った。
倉橋教授は、子供に諭すような微笑を浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「いいかい、蓮くん。君を『治す』んだよ。お父さんもお母さんも、君が普通に笑って、普通に友達と遊ぶ姿が見たいんだ」
「僕は今も笑っているし、友達とも遊べるよ。ただ、僕には『続き』があるだけなんだ。それを否定されたら、僕は僕じゃなくなってしまう」
蓮の言葉は、医学の牙城である診察室の中で、虚しく響いた。
徹はもはや、蓮の言葉を聞いていなかった。
彼は倉橋教授の手を取り、熱心に入所の手続きについて相談し始めている。
亜希の隣で、蓮が小さな拳を握りしめ、唇を噛んでいるのが分かった。
その瞳に、初めて「絶望」の色が差していた。
診察の後。
徹が事務手続きで席を外した隙に、亜希のスマートフォンが震えた。
画面には美智子の名前。亜希は人目を避けるように、人気のない非常階段の踊り場へと駆け込んだ。
「……もしもし、美智子さん」
『亜希さん! よかった、繋がって。……今、家で健吾の遺品を整理していたら、奇妙なものを見つけたんです』
美智子の声は上ずっていた。
『隠し床の下に、小さな金庫があったんです。その中に、私への遺言とは別に、一冊の通帳と手紙が……。受取人の名前は空欄ですが、暗証番号が、健吾の命日じゃなくて……蓮くんの今の誕生日になっているんです』
「え……?」
『それだけじゃないんです。通帳には、五年前から毎月、決まった額が振り込まれていました。そして、手紙にはこう書いてあった。……「いつか還ってくる子供のために。彼が五歳になる年に、これを渡してほしい」と』
亜希は、冷たいコンクリートの壁に背中を預けた。
五年前。
坂本健吾が亡くなるよりずっと前から、彼は自分が「還ってくる」ことを予感していたというのか。
あるいは、彼が設計した「未来」の中に、最初から蓮の存在が組み込まれていたのか。
『手紙の最後には、ある場所の鍵の隠し場所が記されていました。
健吾が、誰にも教えずに建てたという、小さなアトリエの場所です。……亜希さん、そこに蓮くんを連れてきて。医学や論理じゃ説明できない何かが、そこに隠されているはずです』
踊り場に、徹の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「亜希、どこだ! 帰るぞ!」
亜希はスマートフォンを強く握りしめた。
目の前には、蓮を「異常者」として扱い、去勢しようとする冷徹な論理の世界がある。
けれど、受話器の向こうには、時を超えて届けられた、温かく、あまりにも非常識な愛の物語がある。
「……分かったわ、美智子さん。必ず、連れて行く」
非常階段を下りて待合室に戻ると、そこには徹に手を引かれ、人形のように無表情になった蓮が立っていた。
亜希は、蓮の目を見つめた。
言葉は交わさなかった。
けれど、蓮の瞳に、微かな、しかし力強い光が灯るのを、母親の直感が見逃さなかった。
白磁の檻を壊すための、反撃が始まろうとしていた。




