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第五話 二つの家族の境界線

 開かれたドアの向こう側から、初夏の湿り気を帯びた風が、家の中に充満していた「静止した時間」の匂いを引き連れて吹き抜けた。

 古い紙の匂い、微かな珈琲の残り香、そして、生前に坂本健吾が愛用していたというサンダルウッドの芳香剤の、残り香のような甘い香り。


 美智子は、玄関のタイルに膝をついたまま、幽霊でも見るような目で蓮を凝視していた。  

 その細い指先が、震えながら自分の唇を覆う。

「今……なんて、言ったの?」

 掠れた声だった。

 五年分のみぞれが降り積もったような、冷たく、重い響き。  

 蓮は、亜希の手を離し、ゆっくりと美智子に近づいた。

 その足取りは四歳の子供のそれではなく、重い決意を秘めた大人の男の歩調だった。

 彼は美智子の目の前で立ち止まると、その小さな、温かい掌を彼女の冷え切った頬に添えた。

「泣かないで、美智子。僕だよ。……ハルくんだ」

 その瞬間、美智子の瞳から、ダムが決壊したように涙が溢れ出した。  

「ハルくん」

 それは、坂本健吾の仕事仲間や親戚も知らない、夫婦二人だけの、寝室で囁き合う時だけの秘密の呼び名だった。

「嘘……そんなはず、ない。だって、あなたは……こんなに、小さい……」

「三月二十八日、雨が降っていた。君は『今日は早く帰ってきて』って言ったんだ。記念日だったから。僕は銀色の皿のナポリタンを買って帰ろうとして……駅前の角を曲がったところで、傘が風に煽られて……」


 蓮の口から漏れる言葉は、もはや「記憶」ではなく「追体験」だった。  

 美智子は叫びにも似た声を漏らした。

 蓮の小さな体を抱きしめた。

 四歳の柔らかな背中が、喪服のような黒いカーディガンを着た女性の腕の中に埋もれていく。

 亜希は、その光景を数歩後ろで立ち尽くして見ていた。  

 足元のコンクリートが、底なしの沼に変わったような気がした。  

(私の蓮が、消えていく)  

 自分の腹の中で十ヶ月育て、産声を上げた瞬間のあの重みを、今でも覚えている。

 夜泣きに疲れ果てた日々も、初めて「ママ」と呼んでくれたあの震えるような喜びも。  

 それなのに、今、目の前で別の女性を抱きしめているこの子は、亜希の知らない男の記憶を共有し、彼女の知らない愛の言葉を囁いている。


 その光景は、あまりにも美しく、そして残酷なまでに「正解」に見えた。  

 美智子の腕の中で、蓮は安らぎを得たような顔をしていた。

 それは、亜希がいくら無償の愛を注いでも、決して引き出すことのできなかった、対等な「パートナーとしての安らぎ」だった。

「……あ、あの、すみません」

 亜希の声は、自分でも驚くほど乾いていた。  

 美智子がハッとして顔を上げ、涙に濡れた顔で亜希を見た。

「申し訳ありません、急に押しかけて。私は、佐野亜希と申します。この子は……息子の、蓮です」

「息子」という言葉を発した時、喉の奥がチリりと焼けるような痛みが走った。  

 美智子は困惑と驚愕、そして一筋の狂信的な希望が混ざり合った複雑な表情で立ち上がった。

「どうぞ……中へ。外では、なんですし」


 通されたリビングは、蓮が描いた図面そのものだった。  

 吹き抜けから降り注ぐ光が、埃の粒子をキラキラと反射させている。

 壁一面の本棚には建築関係の専門書が並び、隅には使い込まれた製図台が置かれていた。  

 美智子が淹れてくれたのは、蓮が欲しがっていた、色の濃い、渋みのあるほうじ茶だった。

 蓮は、当たり前のようにソファの決まった位置に座り、部屋を見渡した。

「あの模型、まだ置いてあるんだね。台座のネジ、僕が緩めたままだったのに」

「ええ……。あなたが最後に触ったものだから、怖くて動かせなかったの」

 二人の会話は、亜希を置き去りにして進んでいく。  

 美智子の瞳には、もはや蓮が「見知らぬ子供」としては映っていないようだった。

 彼女は、亡き夫の魂が、この小さな器に宿って還ってきたのだと、その全霊で信じようとしていた。


「佐野さん……信じられないかもしれませんが」  

 美智子が、震える手で茶碗を握りしめながら亜希を見た。

「この子が話すことは、私と健吾……夫しか知らないことばかりです。夫は、最期に私に『さよなら』も言えずに逝ってしまった。私は、あの日からずっと、彼を探していた気がします」

 亜希は、テーブルの下で自分の膝を強くつねった。  

 美智子の孤独は本物だ。

 五年間、この広い、夫の設計した家で一人、幽霊を待つように生きてきた女性の絶望。

 それを思えば、蓮を「還してあげたい」という慈悲が湧く。  

 だが、その一方で、猛烈な生理的嫌悪感が亜希を襲った。

(この人は、私の息子の体を、自分の夫の代わりにしようとしている)

 この子は、まだ四歳なのだ。

 これからランドセルを背負い、反抗期を迎え、自分の足で未来を切り開いていくはずの「佐野蓮」なのだ。

 それを、死んだ男の記憶で塗りつぶし、過去の遺品のように扱うことを、母親として許していいのか。


「美智子さん、落ち着いてください」  

 亜希は努めて穏やかに、しかし明確な境界線を引くように言った。

「蓮は、私の息子です。確かに、坂本さんの記憶を持っているのかもしれません。でも、この子の人生は、これから始まるんです。過去に縛られていい存在じゃない」

 その言葉に、美智子の顔から血の気が引いた。  

 同時に、隣にいた蓮が、悲しそうな目で亜希を見た。

「亜希さん、違うんだ。僕は美智子を束縛したいわけじゃない。ただ、最後にどうしても伝えなきゃいけないことがあって、だから還ってきたんだと思う」

「蓮、あなた……」

「僕は坂本健吾であり、佐野蓮でもあるんだ。どちらか一方を捨てることなんてできない」


 四歳の子供に、存在論的な答えを突きつけられ、亜希は絶句した。  

 その時、静かなリビングに、亜希のスマートフォンのバイブレーション音が、ひどく不快な音を立てて鳴り響いた。

 画面には『徹』の文字。

 亜希の背中に冷たい汗が流れた。  

 徹は今日、蓮を病院へ連れて行くつもりでいた。

 幼稚園を休ませ、無断でこんな遠い町まで来ていることがバレれば、彼は間違いなく激昂するだろう。

「……もしもし」 『どこにいるんだ。家にもいない、幼稚園からも連絡があったぞ。蓮はどうした』

 電話の向こうの夫の声は、低く、冷徹な怒りに満ちていた。  

 亜希は、蓮と美智子を見つめた。  

 この美しくも歪な「奇跡」の空間に、徹という「現実」が入り込もうとしている。

「今……蓮と、出かけてるの。少し、遠くまで」

『どこだ。今すぐ場所を言え。迎えに行く。……まさか、またあの「生まれ変わり」がどうとかいう寝言に付き合ってるんじゃないだろうな?』

 亜希は答えることができなかった。  

 今、ここで場所を言えば、徹はこの家を、そして美智子の心を、土足で踏みにじるだろう。  

 だが、隠し続ければ、自分は「誘拐犯」か「狂人」として、息子からも社会からも切り離されてしまう。

「亜希さん、代わって」  

 蓮が、小さな手を差し出した。

「僕が話すよ。……僕たちの家族の問題だ」


 亜希は、震える手でスマートフォンを蓮に渡した。  

 四歳の息子が、慣れた手つきで端末を耳に当てる。  

 その光景は、もはや感動的な再会などではなく、修復不可能な家庭の崩壊へと続く、最初の一歩のように思えた。

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