第四話 地図にない散歩道
電車が多摩川を渡る時、ガタゴトという低い振動が座席を通じて腰に伝わってきた。
四月の陽光は窓ガラスを透して、蓮の幼い横顔を白く飛ばしている。
膝の上で、蓮は小さな手を組んでいた。
その指先が、時折ピアノを弾くような不規則な動きを見せる。
それは考え事をする時の大人の癖そのもので、亜希の胸をチリリと焼いた。
「次の駅で降りて、バスに乗るんだ。三番乗り場の、坂の上行き」
蓮が、一度も見たことがないはずの路線図も見ずに言った。
「……蓮、本当にいいの? 今ならまだ、引き返せるよ」
亜希の声は微かに震えていた。
「行かなきゃいけないんだ、亜希さん。僕が僕であるために、確かめなきゃいけないことがあって」
蓮は、母親である自分を「亜希さん」と呼ぶことを、もはや隠そうとしなくなっていた。
駅に降り立つと、春の湿った風が吹き抜けた。
見知らぬ町の、見知らぬ匂い。
だが、蓮は迷いなく歩き出す。
改札を出て、古びたパン屋の角を曲がり、緩やかな坂道を登っていく。
「あそこの角のパン屋、土曜日だけはクロワッサンが安くなるんだ。美智子がよく買いに行かされたっけ」
蓮が懐かしそうに目を細める。
その言葉一つひとつが、亜希の心に冷たい楔を打ち込んでいく。
私が産んだこの子は、私の知らない誰かのクロワッサンの味を知っている。
私が一度も作ったことのない、濃いお茶の味を欲している。
(この子は、本当に私の「蓮」なの……?)
繋いでいる小さな手の、柔らかくて温かい感触。
それだけが唯一、現実を繋ぎ止める命綱だった。
けれど、その手を通じて伝わってくるのは、自分に向けられた純粋な甘えではなく、遠い誰かへの思慕だった。
坂を登り切ったところに、その家はあった。
生い茂る緑の向こう側、白い外壁と大きな窓が印象的な、モダンな一軒家。
亜希は息を呑んだ。
蓮が描いたあの「図面」が、そのまま立体になって目の前に現れたかのようだった。
「……着いたよ」
蓮が立ち止まった。
その視線は、玄関脇のポストに向けられている。
そこには、真新しい真鍮のプレートに『坂本』と刻まれていた。
亜希の足が、根を張ったように動かなくなった。
心臓が耳元で、ドクンドクンと暴力的なまでに脈打っている。
この門をくぐれば、もう後戻りはできない。
それは、自分の息子を「一人の大人の男」として認めることであり、同時に、母親としての特権を半分失うことでもあった。
「蓮、やっぱり……」
「怖い?」
蓮が、透き通った瞳で亜希を見上げた。
その瞳には、自分の不安を見透かすような冷徹さと、それを包み込むような不思議な慈愛が同居していた。
「……怖い。あなたが、遠くへ行ってしまいそうで」
「どこにも行かないよ。僕はここにいる。君が産んでくれた、この体の中に」
蓮は、亜希の手をそっと解いた。
そして、自らの意思で一歩を踏み出し、門を抜けて玄関の前まで歩いていく。
四歳の子供の背中が、重厚な玄関ドアを前にして、ひどく頼りなく、同時に神々しく見えた。
蓮の指が、インターホンのボタンへと伸びる。
亜希の脳裏に、徹の怒鳴り声が蘇った。
『現実にいない人間を家庭に持ち込むな』。
そうだ。
今、ボタンを押せば、自分たちの「普通」の生活は、ガラス細工のように粉々に砕け散るだろう。
狂っている、と誰かに指を差されるかもしれない。
それでも。
目の前で、涙をこらえて震えている我が子を、これ以上「嘘」の中に閉じ込めておくことはできなかった。
「……押しなさい、蓮」
亜希の声は、自分でも驚くほど静かだった。
覚悟を決めた時、世界は急に色彩を増し、風に揺れる紫陽花の葉の音、遠くで鳴る犬の吠え声、自分の荒い呼吸の音が、鋭く耳に届いた。
カチ、という小さな、しかし決定的な音がした。
家の中から、澄んだチャイムの音が響く。
数秒の、永遠のような沈黙。
やがて、重いドアの向こう側で、スリッパが床を擦る音が近づいてきた。
ガチャリ、と鍵が回る金属音。
ゆっくりと開いたドアの隙間から、一人の女性が顔を出した。
白を基調としたブラウスに、緩くまとめられた髪。
目元には隠しきれない疲労と、深い孤独の影が落ちている。
けれど、その瞳は驚くほど優しく、知性に満ちていた。
「はい。……どちら様でしょうか?」
女性の声がした瞬間、隣にいた蓮が、小さく喘ぐような声を上げた。
亜希は、蓮の顔を見た。
そこには、もう「子供」の表情はなかった。
五年間、ずっと言いたくて、けれど言えなかった言葉を、魂の奥底から絞り出そうとする一人の「男」の顔があった。
「……美智子」
蓮の唇が、震えながらその名を紡いだ。
女性――美智子の表情が、一瞬で凍りついた。
春の柔らかな日差しの中で、三人の時間が、残酷に、そして劇的に止まった。




