第三話 検索窓の向こう側
徹が仕事へ出かけた後の家の中は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
ダイニングテーブルの上には、半分残されたまま乾き始めたトーストと、表面に白い膜が張った冷たいコーヒーが放置されている。
亜希はそれを片付ける気力も湧かず、ただ呆然と、蓮が昨日描いたあの緻密な図面を見つめていた。
昨夜の徹の激昂は、嵐のように過ぎ去った。
彼は「明日、蓮を児童精神科の予約に入れる」と吐き捨てて寝室に閉じこもり、今朝は一度も目を合わせることなく家を出た。
彼にとって、理解できないものはすべて「病」か「エラー」なのだ。
だが、亜希は気付いていた。
蓮が放ったあの言葉の重み、あの眼差しの深さは、決して幼子の空想や心の病などで片付けられるものではない。
亜希は震える手でノートパソコンを開いた。
キッチンの換気扇が回る低い音だけが、今の彼女の唯一の伴侶だった。
窓の外からは、近所の公園で遊ぶ子供たちの甲高い声が聞こえてくる。
それが遠い世界の出来事のように感じられた。
「……坂本、ハルキ」
蓮が口にしていた名前。
それに、昨日テレビで見た商店街の場所を組み合わせて検索窓に打ち込む。
指先が冷たくなり、キーボードを叩くカチカチという乾いた音が、静かな部屋に不気味に響いた。
『商店街 ロアール ナポリタン』
『建築士 ハルキ』
『五年前 事故 坂本』
いくつもの検索結果が表示された。
最初は無関係なブログやニュースばかりだった。
だが、あるローカルニュースのアーカイブを掘り当てた瞬間、亜希の呼吸が止まった。
『【訃報】建築家・坂本健吾氏、不慮の事故により急逝。享年三十八歳』
名前は「ハルキ」ではなかった。
「ケンゴ」だ。
だが、記事を読み進めるうちに、亜希の全身から血の気が引いていくのが分かった。
坂本健吾氏は、若手ながら数々の賞を受賞した気鋭の建築家だった。
代表作として挙げられていた住宅の写真をクリックすると、そこには蓮が描いたあの「図面」と酷似した、開放的な吹き抜けと螺旋階段を持つ家が映し出されていた。
「……嘘、なにこれ……」
喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえ苦しい。
さらに調べると、坂本氏の愛称は、彼のミドルネーム的な通り名として、友人たちの間では「ハル(春)」と呼ばれていたことが分かった。
そして何より、彼が最後に設計を手がけ、ついに完成を見ることがなかったという「理想の家」のスケッチ。
それは、蓮が幼稚園で描き、先生を困惑させたあの絵と、窓の数まで一致していた。
画面の中の坂本健吾氏は、黒い縁の眼鏡をかけ、少し照れたように笑っていた。
その笑った時の目尻のシワ、口角の上がり方。
それは、四歳の蓮が、美味しいものを食べた時に見せる表情と、あまりにも重なりすぎていた。
亜希はパソコンをパタンと閉じた。
心臓の鼓動が、胸を破りそうなほど激しくなっていた。
恐怖、ではない。
もっと別の、形のない巨大な何かに飲み込まれそうな感覚。
私が産んだのは、本当に蓮なのだろうか。
それとも、この坂本健吾という男の「続き」なのだろうか。
その日の午後、蓮はリビングの窓際に座り、じっと外を眺めていた。
昼食のうどんにはほとんど手をつけず、ただぼんやりと空を見上げている。
外は朝からのどんよりとした曇り空が続き、今にも泣き出しそうな灰色の雲が低く垂れ込めていた。
「蓮、おやつ食べる? バナナあるよ」
努めて明るい声を出してみるが、自分の声が上滑りしているのが分かった。
蓮は振り向かなかった。
彼の小さな背中が、妙に大人びて見えて、亜希は駆け寄って抱きしめたい衝動と、触れてはいけないものに触れるような躊躇いの間で立ち尽くした。
「……亜希さん。今日は、何日?」
蓮の声は、ひどく静かだった。
「三月二十八日よ。どうしたの?」
蓮は、窓ガラスに自分の小さな額を押し当てた。
ガラスが白く曇り、彼の表情を隠す。
「雨、降ってきたね」
ポツ、ポツ、と窓を叩く音がし始めた。
予報通りの雨。
蓮はゆっくりと深呼吸をした。
その肩が微かに震えている。
「五年前の今日も、こんな雨だった。……寒くて、暗くて。傘を持っていなかったから、すごく急いでいたんだ。美智子が待っているから。早く帰らなきゃって」
亜希は、震える脚を叱咤して蓮の隣に膝をついた。
蓮の頬を伝って、一筋の涙がこぼれ落ちる。
それは、おもちゃを壊した時の泣き顔でも、転んで痛がっている子供の涙でもなかった。
取り返しのつかない喪失をただ静かに受け入れている大人の、深い、深い、慟哭のようだった。
「蓮……」
「今日、僕は死んだんだね。……あっちの僕が」
蓮は、亜希の方を見ようとしなかった。
ただ、濡れた窓の外を、かつての自分が消えていったその時間を、幼い瞳で見つめ続けていた。
亜希は、言葉を失った。
今日。三月二十八日。
先ほどパソコンの画面で確認した、坂本健吾氏の命日だった。
リビングの時計の秒針が、残酷なほど正確に時を刻んでいる。
雨音は次第に強まり、窓ガラスを激しく叩き始めた。
亜希は、蓮の小さな肩に手を置こうとして、止めた。
今、この子の魂は、自分の手の届かない、遠い過去の闇の中で彷徨っている。
その孤独に、自分はどう寄り添えばいいのか。
亜希の目からも、熱いものが溢れ出した。
目の前にいるのは、間違いなく自分が産んだ息子だ。
けれど、その魂の半分は、別の誰かの愛と後悔で満たされている。
夫の徹には決して理解できない、この残酷で、しかしあまりに純粋な奇跡。
二人は、降り続く雨を、言葉もなく見つめ続けていた。




