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第二話 解けないパズルのピース

 幼稚園の玄関先に漂う、湿った土と消毒液が混ざったような独特の匂い。

 亜希は膝をつき、蓮の足元に視線を落としていた。

「ほら、蓮。右と左、逆だよ」  

 言いながら、マジックテープを「ベリベリ」と剥がす。

 青いスニーカーはまだ新しく、生地も硬い。

 蓮はされるがままになりながら、自分の足先をどこか他人事のように眺めていた。

「……この靴、歩きにくいな。前のはもっと、足の裏に吸い付くような革だったのに」

「革靴なんて、蓮は持っていないでしょ?」  

 亜希が冗談めかして笑いかけると、蓮はハッとしたように表情を消し、

「……そうだったね。今の僕には早すぎるか」と、小さく独り言ちた。


 その日の午後、迎えに行くと、担任の佐藤先生が困惑した表情で亜希を呼び止めた。

「お母さん、これ……今日のお絵描きの時間に、蓮君が描いたものなんです」  

 渡された画用紙には、他の園児たちが描くような「黄色い太陽」や「笑顔の家族」はどこにもなかった。  

 そこにあったのは、黒いクレヨン一本で描かれた、緻密な建物の断面図だった。  

 吹き抜けの螺旋階段、窓の配置、さらには構造を支える梁のような線まで、パースの効いた正確な筆致で描き込まれている。

 四歳の子供が、定規も使わずに描けるはずのない、設計図に近い何か。

「蓮君にこれなあに? って聞いたら、『僕が昔住みたかった家だ』って。それから、ここにはお花を植えるんだ、って指差して……」  

 先生の言葉が、遠くの波音のように聞こえた。

 亜希は画用紙を握りしめた。指先が微かに震える。

「……少し、大人びた遊びが流行っているみたいで。すみません、変なものを描いてしまって」  

 愛想笑いを作り、逃げるように園を後にした。

 背後で鳴る園児たちの無邪気な喚き声が、今の亜希には鋭い切っ先のように刺さった。


 夕食の支度をするキッチン。

 トントントン、と軽快にネギを刻む音が響く。  

 リビングでは、蓮が静かにテレビを見ていた。

 普段なら戦隊ヒーローの真似をして暴れ回る時間だが、最近の彼は、流しっぱなしのニュース番組や旅番組をじっと見つめていることが多い。  

 テレビの中では、地方の寂れた商店街が映し出されていた。

「ああ、ここ……」  

 蓮がぽつりと呟いた。

「ここにあった喫茶店、『ロアール』っていうんだ。ナポリタンが銀色の皿に乗って出てくるんだよ。粉チーズをたっぷりかけるのが、あそこの流儀なんだ」  

 亜希は包丁を置いた。

 心臓の鼓動が速くなる。

「蓮、そこに行ったことがあるの? パパとママと?」

「ううん。一人で。仕事の合間に、よくサボりに行ってたんだ」  

 蓮は画面を見つめたまま、懐かしそうに目を細めた。

 その横顔は、やはり四歳児のものではない。

 長い年月を生き、経験を積み重ねてきた大人の、深い充足感に満ちていた。

「……蓮。そんな冗談、もうやめて」  

 絞り出すような声に、蓮がゆっくりと振り向いた。

「冗談じゃないよ、亜希さん。僕はただ、思い出しているだけなんだ。パズルのピースが、一つずつ嵌まっていくみたいに。でも……」  

 蓮は自分の小さな、白く柔らかな手を見つめた。

「ピースを全部嵌めても、今の僕の体には、その絵が大きすぎて入らないんだ」


 夜。

 帰宅した徹に、亜希は昼間の画用紙を見せた。  

 徹はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを解きながら一瞥しただけで、鼻で笑った。

「才能だな。英才教育でも受けさせるか? 図面なんて、ネットでいくらでも見られるだろ。蓮は頭がいいんだよ。それを変なオカルトに結びつけるな」

「オカルトじゃないわ。蓮は、あんな専門的な描き方、誰からも教わってない。それに、喫茶店の話だって……」

「いいか、亜希。俺たちは現実を生きてるんだ。株の動き、為替、明日の契約。それが真実だ。子供の寝言に付き合って、家庭の空気を悪くするなよ。お前がそんなに不安定だから、蓮も影響されてるんだ」

 徹はダイニングテーブルにつき、亜希が出した夕食を機械的に口に運び始めた。

 彼にとっての家族は、守るべき「資産」であり、予定調和であるべきもの。

 そこに「生まれ変わりや転生」などという不確定要素が入り込む余地はない。

 亜希は、冷めた味噌汁を啜った。

 出汁の味がしない。  

 この人に何を言っても無駄。

 亜希の中に、深い絶望と孤独が澱のように溜まっていく。


 その時だった。  

 食事中、蓮がスプーンをカチリと置いた。

 お気に入りのハンバーグが半分以上残っている。

「もういいの? 蓮。残しちゃダメだよ」  

 徹が低く、威圧的な声で言った。

 教育パパを自任する彼は、食事のマナーには厳しかった。

「お腹がいっぱいなんだ。無理に食べると、体に悪いよ」

「屁理屈を言うな。パパが一生懸命働いて買った食べ物だぞ。座って最後まで食べろ」  

 徹が蓮の腕を少し強めに掴んだ。

 蓮は、眉一つ動かさなかった。  

 彼はゆっくりと徹の目を見つめ返した。

 その瞳には、恐怖も、子供らしい甘えもなかった。

 あるのは、静かで圧倒的な「格上」の冷徹さだった。

「徹君。……君が僕の息子なら、そんな言い方は感心しないな。食事は義務じゃない、喜びであるべきだろ。自分の価値観を他人に押し付けるのは、自信がない証拠だよ」

 リビングに、凍りつくような沈黙が流れた。  

 徹の顔から血の気が引くのがわかった。

 掴んでいた蓮の腕が微かに震えていた。  

 四歳の息子から、父親としての尊厳を根底から否定するような言葉を、完璧な敬語と論理で突きつけられた。

「……お前、今、なんて言った?」  

 徹の声が裏返った。

 肩が小刻みに震えている。

 蓮は小さく溜息をつき、椅子から飛び降りた。

「少し、風に当たってくる。……あ、そうか。僕は一人じゃ外に出られないんだった」  

 蓮は自嘲気味に笑うと、そのまま寝室へと消えていった。


 残された亜希と徹。  

 徹は拳をギュッと握りしめ、顔を真っ赤にして立ち尽くしている。  

 亜希は、震える手で蓮の描きかけの画用紙を抱きしめた。  

 パズルのピースは、もう止まらない。  

 そして、そのパズルが完成した時、自分たちの「家族」という絵は、粉々に砕け散ってしまうのではないか――。  

 窓の外では、春の嵐を予感させる生温かい風が、窓枠をガタガタと揺らし始めていた。

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