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第十話(最終回) 未来の設計図

 森の奥のアトリエに、春の最後を告げるような、柔らかく黄金色の朝日が差し込んだ。  

 天窓から降り注ぐ光の粒子が、埃をキラキラと反射させながら、寝静まった三人の家族と、一人の女性を照らしている。


「……ん、ママ?」

 小さな、鈴を転がすような声。  

 亜希は、一晩中抱きしめていたその温もりが動いたのを感じて、ゆっくりと目を開けた。

 腕の中の蓮が、目をこすりながら、大きなあくびをしている。

 その瞳には、昨夜までの、あの深い思索の影はどこにもなかった。


「蓮、おはよう。……気分はどう?」

「おなか空いた。……ここ、どこ?」

 蓮は、不思議そうに周囲を見回した。

 精緻な図面、古い製図台、そして少し離れた場所で、優しく微笑みながら自分を見つめている美智子の姿。  

 蓮は美智子をじっと見つめた。

 亜希の心臓が、一瞬だけ鋭く跳ねた。  

 だが、蓮の口から出た言葉は、どこまでも「四歳の男の子」のそれだった。

「あ、昨日の、お茶くれた優しいおばちゃんだ」

 美智子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 けれど、それは悲しみの色ではなく、真っ白なキャンバスに戻った少年の瞳を祝福するような、清らかな涙だった。  

 彼女はゆっくりと首を振った。

「ええ、おはよう。よく眠れた?」

 蓮は、もう「美智子」とは呼ばなかった。  

 坂本健吾という壮大な物語は、夜明けとともに、彼の幼い意識の奥底へと、美しい記憶のおりとして沈んでいったのだ。


 数ヶ月後。  

 佐野家のリビングには、かつての「停滞した平和」とは違う、新しく、力強い風が吹き抜けていた。

 徹は、以前のように数字とグラフに追われるだけの日々を卒業していた。

 彼は坂本健吾が遺した図面の端に記されていた「答え」を、自分のプロジェクトに生かすことで、大きな成功を収めた。

 けれど、彼が最も変わったのは、仕事への姿勢ではなく、息子への眼差しだった。

「蓮、その積み木。重心を少し右にずらしてみろ。……ほら、高く積めるだろ?」

「わあ、パパすごい!」

 理屈でねじ伏せるのではなく、一緒に発見を楽しむ。  

 徹は、あのアトリエで見た「死んだ男からのギフト」を、生涯忘れないだろう。

 彼は今、目に見えない「愛情」という不確かな要素を、自分の人生の設計図に描き込むことを学んでいた。

 亜希は、キッチンで蓮の幼稚園の準備をしながら、時折、棚の奥に仕舞われた一冊のスケッチブックを思い出す。  

 あの日、アトリエを去る間際。

 美智子が「あなたに持っていてほしい」と手渡してくれたものだ。    

 そこには、坂本健吾が書き遺した、最後の一言があった。

 それは、図面の隅っこに、まるで落書きのように小さく、けれど力強い筆致で記されていた。

『愛を、僕の続きを、託します。』

 その言葉は、美智子へ向けられたものでもあり、そして何より、今の蓮を育てている亜希への、深い信頼と感謝の証だった。


 初夏の風が吹く日。  

 亜希たちは、美智子の家に招かれた。  

 美智子は、あの大きな家を売却し、小さなアパートへ引っ越すことを決めていた。

「彼が遺してくれた家も素敵だったけれど、私は、彼が愛したこの世界をもっと自分の足で歩いてみたいの」

 晴れやかな顔で笑う彼女の隣で、蓮が庭に咲く紫陽花を眺めていた。

「あ、この花、知ってる」  

 蓮がふと、呟いた。

「雨が降ると、もっと綺麗になるんだよね。ママ、知ってた?」

 亜希は、蓮の隣にしゃがみ込んだ。

「そうね。雨が降るから、綺麗に咲くのよ」

 蓮の記憶のどこかに、一滴の雫のように、坂本健吾の想いが残っているのかもしれない。  

 でも、それでいい。  

 過去は、未来を照らすための光であればいいのだ。

 蓮が、亜希の手をぎゅっと握った。

 「ママ、帰りに公園寄っていい? ブランコしたい!」

「いいわよ。パパも一緒にね」

 

 家族三人の影が、西日に長く伸びて重なる。  

 それは、どんな建築家も描くことができない、最高に美しく、温かな「家族」の設計図だった。

 坂本健吾が、そして佐野蓮が、今、この瞬間を愛している。  

 その確信だけで、亜希はこれからも、この柔らかな命を守り続けていける。

 空はどこまでも高く、青い。  新しい季節が、もうそこまで来ていた。

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