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第一話 四歳児のティータイム

 三月の朝の光は、まだどこか頼りなく、薄いカーテンを透過してダイニングの床にぼんやりとした四角い影を落としていた。  

 キッチンでは、トースターがカチカチと時を刻むような乾いた音を立て、沸騰したケトルからはシュンシュンと威勢のいい蒸気が吹き出している。


 佐野亜希は、寝癖のついた髪を雑にクリップで留め、洗いたてのマグカップを並べた。  

 わずかに残った洗剤の匂いと、焼き上がった食パンの香ばしい匂い。

 どこにでもある、静かな守るべき平和な朝の匂いだ。

「蓮、座って。パン焼けたよ」

 呼びかけると、四歳の息子・蓮が、パジャマの袖を引きずりながら椅子によじ登った。

 蓮はまだ指先に幼い丸みを残し、頬はつきたての餅のように柔らかい。

 亜希はその頬に指を触れ、体温を確認するのが毎朝の癖になっていた。

 そこにあるのは間違いなく、自分が腹を痛めて産み、四年間片時も離れずに育ててきた、柔らかな命の塊だった。


「はい、リンゴジュース」

「いらない」

 蓮が小さな手で、アンパンマンのイラストが描かれたコップを押し戻した。

 亜希は手を止める。

「え、いつも飲むじゃない。じゃあ、牛乳にする?」

「ハルキ……お茶がいい。できれば、少し苦いやつ」

 亜希は一瞬、蓮が何を言っているのか分からなかった。

 蓮は甘い麦茶かジュースしか飲まないはずだ。

「苦いお茶? ほうじ茶ならあるけど……」

「そうじゃなくて。もっとこう、葉っぱをしっかり煮出したやつ。亜希さん、いつもより長めに待ってから注いでよ」

 手が止まった。

 今、この子は何と言ったのか。

「……蓮、今なんて呼んだの?」

「え?」

「ママでしょ。亜希さん、なんて……」

「あ……ごめん」

 蓮はきょとんとした顔で、自分の口を手で押さえた。

 その仕草は子供らしく可愛らしいはずなのに、その瞳の奥に宿る静かな色が、亜希の背筋をかすかに撫でた。

「前のお家ではもっと濃いお茶を飲んでいたから。つい、そっちの癖が出ちゃった」

 蓮はそれ以上何も言わず、亜希が戸惑いながら淹れたほうじ茶を、大人のように少しずつ、啜るようにして飲んだ。

 熱い茶が喉を通る時、蓮は満足そうに目を細めた。

 その目つきは、幼稚園のクラスメイトに向けるそれではなく、どこか遠い過去を懐かしむ老人のようでもあった。


「ただいま。ふう、疲れた」

 夜、夫の徹が仕事から帰宅した。

 ネクタイを緩め、ソファに深く腰沈める彼からは、都会の駅の雑踏と煙草の残り香が混ざったような、外の世界の匂いがした。  

 亜希はキッチンで洗い物をしながら、意を決して口を開いた。

「ねえ、徹君。今日、蓮が変なことを言ったの」

「変なこと? またウルトラマンがどうとかか?」

「違うの。自分のことを『ハルキ』って呼んだり……私のことを『亜希さん』って呼んだり。それに、前の家では濃いお茶を飲んでたなんて……」

 徹は短く笑い、ビール缶のプルタブを引き抜いた。

 プシュッという鋭い音がリビングに響く。

「なんだよそれ。YouTubeか何かで見たんだろ。最近の子供は情報の吸収が早いからな。空想と現実の区別がついてないだけだよ」

「でも、あの言い方は……まるで見えてるみたいだった。私が知らない誰かの生活を……」

「亜希、考えすぎだって。育児ノイローゼの気があるんじゃないか? スピリチュアルとか勘弁してほしいよ。現実にいない人間を家庭に持ち込むなよ」

 徹の言葉は合理的で、正論だった。

 彼はいつだって、目に見える数字と結果しか信じない。

 証券会社で働く彼にとって、数字で証明できない現象は「エラー」に過ぎないのだ。  


 亜希は言葉を飲み込み、濡れた手をエプロンで拭いた。

 徹との間に、目に見えない透明な壁が立ち上がったような気がした。

 この家の中で、蓮の違和感に気づいているのは自分だけのような。

 その孤独感がじわじわと足元から冷え冷えとした水を吸い上げるように広がっていく。

「……そうね。ただの遊びよね」

 自分に言い聞かせるように呟き、亜希は蓮の寝室へ向かった。


 寝室は、おもちゃのブロックや絵本が散らかり、甘い乳幼児特有の匂いに満ちていた。

 蓮は小さな寝息を立てて眠っている。  

 亜希は蓮の隣に横たわり、その小さな手を握った。

 ぎゅっと握り返してくる力強さに、少しだけ安心する。

 やっぱりこの子は私の息子だ。どこにも行かない、私の蓮だ。


 深夜。

 ふと、耳元で風が鳴るような音がして、亜希は目を覚ました。  

 隣で眠っているはずの蓮が、むくりと起き上がっていた。

 暗闇の中で、蓮のシルエットが不自然に直立している。

「蓮? トイレ?」

 声をかけようとした時、蓮の口から声が漏れた。

「……美智子」

 それは、蓮の声ではなかった。  

 声帯こそ子供のものだが、そのイントネーション、呼気の使い方、そして何より、誰かを深く、深く慈しむような響きは、明らかに成熟した男のものだった。

「美智子、ごめん。雨が降ってきた。傘を……傘を持っていくよ……」

 蓮は虚空に向かって手を伸ばし、何かを掴もうとするように指を動かしている。

 その目からは、大粒の涙が溢れ、枕を濡らしていた。  


 亜希は息が止まった。

 心臓の鼓動が、耳元でけたたましく鳴り響いた。

 冷たいものが背筋をすっと走り抜けた。  

 目の前にいるのは、ほんとうに自分の息子なのか。

 それとも、息子という器を借りて、誰かを想い続けている見知らぬ「誰か」なのか。

 蓮はそのまま、力尽きたようにパタリと横になった。  

 静寂が戻った部屋で、亜希は震えながらスマートフォンを手に取った。  

「美智子」「雨」「事故」「傘」……。  

 取り憑かれたように検索窓に打ち込んだ。

 震えが止まらなかった。

「……あなたは、いったい誰?」

 暗闇の中で発したその問いに、答える者は誰もいなかった。

 ただ、遠くで深夜の貨物列車が走る、重苦しい地鳴りだけが聞こえていた。

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