『廃墟でまた会おう』⑹
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子供の頃の記憶というのは曖昧で、今思うと一体どこを歩いて山の中に入って、不可思議な体験をしたのだろうと思う。またそれが、時たま夢の中で繰り返し訪れることになると、ますますその場所は地球上ではないはるかどこかの宇宙世界にでも行っていたような気分になる。昔高かった草木は、今はもう自分の背のほうが高さを超えていて、そんな少しのことでも、不思議を作っていると思った。
山の中に秘密基地を作って遊んだりしたが、自分は何かの理由で、一度その遊びをすっぽかしたことがある。今となってはその理由が判別しないので、後悔の念があるが、しかしまた、翌日友人に何でこなかったのかと軽くたしなめられると、ああ、友人は自分を待っていたのだと気づき、謝った。しかしそんな思いでも、今では、なんとも不思議な出来事なのだ。例えば色々な知識を持った大人が、廃墟に行ってもあまり恐怖を感じないだろうが、子供の頃の感受性というものは多少の差こそあれ皆持ち合わせているものだから、廃墟など、恐怖の場所でしかないだろう。だとすると、大人の自分は恐怖という感受性を失っていることになる。
その転換と言ったら、驚くべきもので、自分の身体が恐怖の塊になったのではないかと痛感する。奇しくも、それが、自身の廃墟という行きつく先の迷宮の場所のようであるかという風に。しかしもういいのだろう、ここら辺でこの小説は終わりにしなければ思想が持たない感覚がある。最後に希望的観測で、心にあるこの、
「廃墟でまた会おう」
という声は通念として残っていると言ってみる。そしてもう一度、不可思議に、断定的にも言ってみる。何かを超越したものに対して。