『廃墟でまた会おう』⑸
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空から降ってくる雨に、顔の痛みを感じて、何やら嫌な気配を空に感じてしまった。というのも、自分はよくこの雨について、忌まわしい過去を持っているからだ。服が、レインコートを着てもびしょびしょになってしまった過去がある。雨に、少なくとも農業やダムは感謝するだろうが、外を歩く自分にとっては、雨は面倒なものでしかない。ただし、一日中家に居なければならない自分の場合にとっては、雨は音楽になって聴覚に染み込んでくる。それは、確かに、美しい現象だ。
発狂度数という言葉が思い当たる。不確かな感覚性から降りてくる物質の極度な重要性は、果たして自己の感覚に必要かどうか、と何度も廃墟に見える自分の家に向かって繰り返して聞く。それは、実際には声は出さないが、いわゆる心の声、神になりたいという、まるであたかも自己を神ではないと言い聞かせるような不思議な言葉なのだ。いつしか、もしも家の屋根に屋根がなく、雨が降り注ぐのであれば、結局住処ではあれども廃墟と同質だと断言したい欲求が生まれる。
外から音が聞こえるとき、自分はその正体を直視したくない。何故ならば、そこには必ず自己証明が必要だからだ。つまり、音の正体が声の時、自分は人間として、体を動かし外にでなければならない。また、音の正体が工事や動物の音の時、自分はそれに対しあるリアクションを必要とされるからだ。外界と内界という齟齬があたかも現実になる刹那である。自分は自分でいたい、何物にもなりたくない、ただの自分でいたいということなので、自分は、自分が廃墟になっても、その廃墟に住み着くのだ。
つまらないことから、自分は人を見なくなった。正確には、見る意識を失ったというべきか。それは辛いことでもあるのだが、自分は昔から人との内部の交流が苦手であって、何故か、観念の言語上の付き合いで話してしまうのだ。もっと心を、と思うのだが、それが何故かできない。自分は知らず知らずのうちに、外界とシャットダウンしてしまっていた。それは、人を大切にしすぎると、かえって人を傷つけてしまう経験があったからだ。だから、初めに傷つけてしまえば、後は交流を大切にしなくても生きていけると、無意識のうちに悟った。これが失敗だったので、自分は幼いころの本当の自分を取り戻すことを、既に年齢のいったころから始めた。