『廃墟でまた会おう』⑷
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話は変わって、行き付く先のことを暗闇から感知しようと、誰も自分の舞台裏など見たいとは思わないだろう。大抵の場合、信用され、人生の階段を滑らずに上っていく人は、サーカスを見せない。すると、人々は、その舞台裏のサーカスを知りたいと思う。本人は、教えるはずがあるまい、と思っている、当然の如く。
しかしどうだろう、芸術とは、実は人生の舞台裏を反映したものだとすると、芸術家とは、自分の実生活を生きるお金のために、自身の他者からは隔離された舞台裏を売っていることになる。
ところで、誰しもが上記したサーカスを持っているとは言えないだろう。先天的に与えられている人もいれば、何かの拍子に所謂芸術の世界にのめり込み、サーカスを獲得する人間もいる。幸か不幸かは別にして、一つの手段として、まるで狂ったかのようにこのサーカスを武器にすると、地獄行きが確定しても気付かないままそのサーカスを売り続ける類の人間もいる。そのサーカスの危険は自分で発見せねばなるまい、軌道修正も可能だが、困ったことに芸術の世界にいる人の多くは皆同類であって、気付かないまま死んでいくことが多い。しかし、それが悪いと言っているのではない、芸術至上主義も華やかなものではあるし、人々を楽しませるための貢献人の役割を果たすことになるからだ。
こうして考えてみるに、どうせなら自分も、廃墟の自分を廃墟に投影して、そこに表出される芸術を、書き綴ってみようかと、学業を終えた後、考えたことがあり、今に至っている。気分が乗る時は、もちろんその情緒に任せて小説を書くし、気が乗らない時も、何かしらの空想へと頭の方向を傾けてみる努力はする。芸術とは、死と表裏一体だと自分は感じる、直感的に。独創がどれほど難しいかは、後から気付くものだ。大概が、芸術の一見して売れているものは、何かを盗んだものだ。意識的にせよ無意識的にせよ、何かを盗んだものなのだ。もちろんそれは、時代の一大事として世間に現れるが、結果、すぐに消えてしまうことも少なくない。その一瞬に与えられる対価など、何の苦労もないものであれば、すぐさま使い切ってしまうのが芸術家に見える芸術家の典型的な行動だろう。
死後に評価される作品を持った作家の場合、おそらく自分が思うにその作家は天国に行っている。或いは、死後でなくとも、努力しても努力しても報われない凡人に見える芸術家も、天国に行っている。社会に出たころから死ぬまで売れ続けた人間は、文学史上、死を賭しているため、この場合、早い死を迎え、廃墟に近づくばかりか、廃墟のまま死んでいくのだ。自分の場合、早めに廃墟になってしまうことを気づくべきだったと思っている。それでも、もう一度言っておくが、芸術至上主義は素晴らしいことなのだ、死を賭しているのだから。そして、それは理想の芸術に位置づけられるはずだ。