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『廃墟でまた会おう』⑶


いつからだろう、生きることが生きていることとは乖離していることに気付いたのは。生きることとは、何かの目的をもって構造することだ。それに対し、生きていることとは、躍動感あふれる、所謂感情に入り込んだ一瞬であることだ。その二つを行ったり来たりしているのだ、我々は。衝動と治癒のために、自分は小説を書いた。何かの真似事ではない、ただ自分であるということを確認するために。廃墟に行って観察しようと思い出したのもこの頃からだった。


観念の空想は壊れる。壊れるとそこに現実が現れる。現実に無力な自分は、再び観念の空想に戻る。この、一見して宇宙から運ばれてきたような思想の行き付きは、どうやら身体ではなく精神にあるようであって、それが色々なものを邪魔するのだ。許そうと思っても、それが自身の生活を脅かすものであれば、許せるものではない。例えば、生活していくうえで重要なお金の問題、それは、結果に対しての対価として存在するが、そのお金が生きる上で重要なものだと思えてしょうがない。当たり前のことだ、金がなければ家庭も維持できまい。


過去への飛躍した憂鬱とでもいおうか、そう言った、忌まわしい観念は、いつしか過去を忘却させ、光ある未来へと視線を転移させてしまった。それが自分を救った、唯一の人生の転換だった。廃墟に向かうことが、何を隠そう、自分が廃墟であるという証拠であるから。自分の中は、もう、虚無の世界であって、廃墟に自分を投影しているのだ。自分はそこで悩む、考える、言葉にする、去る。そういう循環機能が、実は人生でとても大事であるように。


思えば、自分の言い放った一言を守り抜くことよりも、その一言を真実に変えてしまうこと、そして振り返らずに、保存しておくことの方がよっぽど大切だろう。人は言葉を信じる、それが、嘘だったなどと言ってはいけない、人は人と繋がる時、言葉を信じるから。だから、否定せず、城壁のように塗り固めて置かねばなるまい。すると、この人は、例え中身が廃墟であっても、信用できる人だ、と思われるようになる。確かに、言葉とは、言葉以外の何物でもないから。

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