『廃墟でまた会おう』⑵
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通常であれば、未開の地へ行く衝動が正しい衝動のような気がするが、自分の場合、何故か既知の過去へと思いはさかのぼってしまう。それが何故なのかわからないが、そうすることで、自分が自分であることを肯定出来る様なのだ。他人にとっては迷惑な話かもしれない。しかし、過去こそ財産だと思えば、自分の衝動は正しいはずだ。
自分が住んでいる家が、果たして誰のものになるのか。それがわからない。自分が証明できるたった一つのものは、自己と他者の内部のつながりである。それは時折壊れるが、大概の場合、先天的な楽観主義者の自分は人と繋がれる。一度きりの人もいれば、何回も目にする人もいる。自分の家が、廃墟になってしまっても、自分には行くとこが帰る場所があることが確信させられるのだ、世界から。
一体いくつになれば、自分は子供を脱するだろうか。しかし、子供が大人になる機会は必ずやってくる。
妙な言い方だが、自分の内部が壊れた分だけ、ひとから与えられるものは増えていく様なのだ。不思議だ、の一言で済ましてしまえばそれで終わりだが、つまりは、完全体であることとは、無知の証ではなかろうか。それはそうだろう、世界に幾多に余る未知があるのに、それを遠ざけてしまっては、生まれたままの存在があるだけで、傷つかない代わりに、何も得るものはない。飛び込んでみなければわからないものは、無数に世界に散らばっているのだ。廃墟もそうだ、廃墟を調べることは、過去を調べること。完全体の店などには、本当に欲しいものなどなにもない。
いつからか、自分は観念を捨ててしまった。しかしそれは悪いことでもなく、自分が自分であるために選んだ道だ。何かのレールからそれてしまった時、それが初めての自分の運命となる。運命は自分に強いる、もう元には戻れないことを。しかし、所謂偶像としての自分であろうと思えば、その運命さえも、絶対としての初めから与えられることになっていた運命として理解する。理解することは、人のアドバイスを受け入れない。何故なら、絶対として理解しているからだ。絶対に対して何の忠告も無力なことは、レールを外れたものだけが知っている真実なのだ。