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『廃墟でまた会おう』⑴

『廃墟でまた会おう』⑴



昔からの友人というものは、年をとるに連れてだんだんと変わっていくものだ。世界が広がったり、家庭が出来たり、そして子供が産まれれば、自分たちのことを守ることで精いっぱいになるからだ。それは恐らく、正しいことなのだと思っている。太宰治が、家庭の幸福は諸悪の根源のように言ったが、それは、裏を返せば、悪を働いてでも、自分や家庭を守らなければならないという大人の感覚が出てくるということだ。悪いこと、それは、正しいことなのだと思う、大人にとって。


今からもう十何年も前に、大学生だったころ、自分は文学部にいたが、他の学科を自由履修というので単位を取らなければ駄目で、それが弾みになって非常に関心を持って受けた講義がある。『廃墟』に関する講義だった。ただ、今になって、もう講義の内容などは大分忘れてしまったが、廃墟の写真だけが、今でも脳裏に焼き付いている。廃墟とは、かつて栄えていた人々が居たはずの空間のことだろうが、そこには、怨念やら希望やら無知やら、色々なものが残っている気がして、自分は少しその写真を見て怖くなった覚えがある。思えば、その廃墟はやがて改築工事で生まれ変わり、また、活気あふれる人々の生活の場になっていくことがあるだろうが、それでも、そこにいた人々は、新しい場所に馴染めないかもしれない。変化、とは、自己の内部で起こるだけでなく、世界としての外部で起こりうることなのだ。


今、もう歳をとって、大学のころのことを思い返すと、卒業後に何回か行った大学は、校舎の編成などで、また、時代の隆盛などで、様々に形を変えていった。その時にあった、自分の思い出も、壊すかのように。だから、新しい校舎、自分の居たころの校舎が壊され新しく出来上がった校舎には、もう自分の過去を見ることはできない。しかしそれは、大人になるという視点を踏まえると、確かに廃墟のままではおかしくて、新しく校舎が出来上がるのは当たり前のことなのだ。大人に悪が必要なように。


この前久しぶりに、夢の中に大学のころの友人が出てきた。昔と何ら変わらぬ友人の姿だった。もしかすると、過去とは夢の中だけにあるのかもしれないと思ったことがある。過去は過ぎ去っていく、今も過ぎ去っていく、形があるのは未来だけだ。だから、もう今となっては、古い友人などに直接会うより、夢の中で見たほうが幸せなのかもしれない。もしかすると、人は自分を見て、自分は変わったと言うかもしれない。しかし、同じように君も変わったよと言うと思う。時代の流れには、人は逆らえまい。当たり前のことだ。

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