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究極の贖罪、あるいは汚濁と理不尽と穢れの中に見出す聖性 それこそが聖者の道なのだろう。改訂版わが人生瞑想ノートより

作者: 舜風人

聖者への道

すなわち究極の求道の道とは?

何だろうか?


それは古今東西それこそ

人生に道を求め。

究極の答えを求めつづけた

求道者たちのそれは問い続けた答え?だったはずだ。


聖人の

聖者たちの

聖なるみちすじとは?


それは正に聖者が辿るべき唯一の求道の方程式だったのだ。


それはサトリとも呼ばれ

あるいは解脱とも

聖者への道とも呼ばれる雲上の道なのだろうか

不可知の雲のかなたにはどんな光明世界があるのだろうか?


いかにしてそこへたどり着くのかが

それが、、それこそが、求道者たちの唯一の重荷だった。


彼らはこの人生で唯一価値あることとは


道を求めることであり

本当の幸いを求めることであり

真実のまことを求めることであり

本当の善を求めることであり

それこそがこの人生という道の唯一の価値ある歩み方なのだと知っていた。


だがそれは本当に険しい道であり

生半可な修行などではたどり着けない道でもあった。


そういう道を求めようとする修行者。求道者には


世間の人々から悪罵が浴びせかけられたり

無辜の罪で投獄されたり

さらには難病が突然襲いかかったり

様々な苦難が待ち受けているのだった。


だが修行者たちはそういう苦難こそが

この道の正しさを証明していると信じたのだ、


なぜなら、、彼らは知っていたのだ、


真実の道を求める者には

様々な苦難が待ち受けていることを、


それはあるいは疫病であり

戦乱であり、

理由なき投獄であり、

この上ないような辱めであり、


あるいは無慈悲な死ですらあるであろうことが、。

理由のない

ありえないような

はずかしめ

贖罪

劫罰


え?


何でこの私がこんなひどい目に合わなければならないの?


そういうありとあらゆる理不尽な苦役が。業病が、戦乱が。疫病が


待ち受けているのだ。


でも、それはあなたが選ばれた証明


あなたが神の使徒として指名された証拠でもあるのだ。


ある日突然なんの前触れもなく振りかかる災難、病気、戦争。悪罵、投獄、拷問、


あなたはなにひとつ悪いことも一切してはこなかったのに、


なぜこのような不幸が突然舞い込むのか?


分からない、


全くわからない、


しかし神の采配はそういう劫罰をなんの罪もないあなたに下したというこの事実。


それは、なぜなのだろうか?


いくら考えてもわからないし、合点がいかない。


でも苦難。疫病が、悪罵が拷問が襲ってくるというこの事実。


心は千々に乱れ

神を呪いたくもなるだろう。


なぜ私にこのような故無き劫罰が下されなければならないのか?

と、いくら神に問いかけても一切返事は返ってはこないだろう。


一切は不条理である。一切はわからないまま、

無邪気な子供にも

清純な処女にも何らお構いなしにある日突然無残な劫罰が下される。


まさに、イノセントであるということはなんにも言い訳にはならないのだろう。


この世にはいたいけな無実の子供があまりにもむごい辱めを受けて虐殺されるという事件が

毎日のように起こっているではないか、

彼らにいったい何の罪があったろうか、

何も、、何一つ無いのである。


それなのにイノセントな

無垢な魂は身に余る辱めを受けざるを得なかった。


それはいったいなぜ?


それはおそらく神の視座からしか理解できないことなのだろう。


肉の子である、人間、

泥から作られ、また泥に帰るしかない人の子には

決して理解も承諾もできない

だが

それがきっと、もしかしたら?「神の善」であるのだろう、


「神の善」??、、というよりも、

むしろ、それは、

「神の差配」といった方が良いだろうか。


いずれにしろ

神の善は人の子の「人間愛」とか「命の重さ」などという

価値観をはるかに超えた、、

わたしたちの理解などは遥かに超えたところにある、つまりそれが究極の「神の善」なのであろう。


だから

神の善とは


人間にとっては病気とか、戦争とか、恥ずかしめとかの悪であるという姿にすぎないないのかもしれない。

だがそれらは

神の差配にとっては神の善であるのだろう。


そういう人間の価値を超えた遥かかなたの「宇宙的真理」においては

疫病も

戦乱も

難病も

投獄も

拷問も

恥辱も

犬死も

すべて神の善であるのかもしれない、

、、、という恐ろしい神の真理なのかもしれない。


人間の浅知恵では決して理解できない


この世の不条理

戦乱も

疫病も

災難も

無実の辱めも


それが下されるという事実においては、それが究極の神の善なのでしょう。


肉の子の贖罪とはまさに、

故無き罪の贖罪なのでしょう。


だからこそなんの罪もないイノセントが

かかる劫罰を受けるというまさに不条理としか見えないことがこの世では起こるのでしょうね。


けがれなきイノセントはなぜこんなにも辱められねばならなかったのか?

そしてなぶり殺しにされなければならなかったのか、


無実の処女はなぜかくもはずかしめられ、石打たれ八つ裂きにされたあげくのはてに、犬死にしなければならなかったのか?


それはおそらく


究極の聖者への道


人間の浅知恵では決して理解不能な


「究極の神の善」なのでしょうね。


だから

聖者への道とは


究極の求道とは


悪罵され


業病にさいなまれ


無実で投獄され


汚物にまみれ


究極の捨身行をする中で初めて


見いだされるべきものなのでしょうね。


それが聖者の道であり


それが求道者のほんとうの道なのでしょうね。


それが、

肉の子である

塵から塵へかえるべき


泥から作られまた、泥へと帰る


人の子の


究極の贖罪であり


究極の捨身行であり


究極の


求道者の道


聖者の道であるのでしょう?


そして穢れと


汚濁と


濁世と


どん底の贖罪の果てに

最期の最後に、


けがれの汚物の中から


とつぜん


その苦行の聖者は最後に、まるでどんでん返しのように蛹が時充ちて羽化するように


とつぜん汚物ダメの中から


燦然と光を放ち


ひかりの聖霊となって


上昇し世界を照覧し


そして再び人間界に降臨するのですね。


汚濁の果てに光の使者となって再生する


落ちるところまで落ちてぎりぎりの最後に


病苦の果てに突如ひっくり返って天国を見るように


辱められた処女は突如反転して、今度は聖女となって降臨するのだ。



それこそが神の救済であり


なぶり殺しにされた処女の死体の横たわる地面から


聖なる泉が突如湧き出すように


それこそが神の本当の「恩寵」だったのだ。


聖なるものの苦悩と懊悩と恥辱と贖罪は


このように落ちるところまで落ちて

どん底に達して


そこから突然

神の恩寵で

清らかな聖なる泉となってコンコンと湧き出してくるのだ。


これが神の救済であり


聖者の求道の行き着い最終地点としての

神の視座だったのだ。



無垢な乙女はいったん辱められてどん底まで貶められるだろう


だがそのどん底から乙女は神の恩寵で


再び

聖なる処女と転生して神の視座に帰るのだ、


それこそが神の差配の真理であり


それこそが神の恩寵の真理だったのだから。


聖なるものはいったん汚濁にまみれさせられ


その汚濁の聖別・昇華作用を経てこそ、


始めて

本当の聖性を獲得できるのであるのだ、


それは清らかな聖玲な泉となって

コンコンと湧き出し、渇いた人々の喉を潤すだろう。


それが無垢なものの真のよみがえりだったのだ。


それこそが

イノセントがなぜかくも辱められねばならなかったのかという疑問への


まさに神の答えだったのだ。


それが

けがれの中に聖性を見出すという


究極の秘密の秘められた

この世の謎を解く究極の鍵だったのだ。


そのカギでしか開けられない

この人間界の苦難と求道の聖性に至る


パラドキシカルな秘密だったのである。


わたしは、想うのです。


汚い泥沼の中に咲く白蓮の花、


それは決して泥沼にけがされることもなく


純白の花をさかせるのです。


このことの本当の意味をよく考えるのです。



それはあるいはこんな寓話で体現されうべきことなのかもしれない。。。。



汚い泥沼の中から

純金の観音像が


ある日偶然発見されたように。


そして清水で洗われた金の観音様は

全く錆びもせず

全く穢れもしていなかったように。


洗えば一点の汚れもないもとの黄金の輝きに輝くように。


この寓話の意味を何度でもよくよく考えるのです。


聖なるものの意味を


けがれに染まぬ、本当の聖性の意味を。


それは現世のいかなる汚濁にも


汚泥にも


恥辱にも


疫病にも


決してけがされぬ


本当の聖性であり、


それを証明するために


あえて

望んで


聖者は


この世の汚辱を甘受してあえて自ら望んで、汚い泥にまみれたのだということを、



そうだ


聖なるものが本当に聖性の光を発するためには


一度、とことん、どん底に落ちて

どん底にたたきつけられて

地獄の底まで落ちなければ

ならないという恐ろしい、それが真実なのだ、


そういうどん底の底から本当の聖性は

まるで突然変異のように突如よみがえり


ぐんぐん上昇して天上界まで上り詰め


そうして再び光の聖者となって

この地上界に降臨するのだ。


それこそが真の神の恩寵


それこそが真の聖性であるのだから。


けがれの中に神の聖性をみること、


汚濁の果てに神の恩寵を甘受すること


そうだ


わたしは見たのだ、


吹き出物だらけの、膿と血垢にまみれた、ぼろぼろの着物を着た、汚いもの乞いの老人が


一瞬のうちに


光り輝く純金のみほとけに変身するのを、、、、。

























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