瀬戸千歳Ⅵ
気付けば、私は暗闇の中にいた。
意識だけが、その中に浮いているような感覚。
何だかハッキリせずに呆けてしまう。
しばらくの間、そのまま何も映らない闇を見詰め、私は死んだのだなと自覚した。
念願が叶ったんだ。
これで、もう悩む必要も、自分を責める必要も、生きる責任もない。
そうぼやけた意識のままに思った。
でも、次第に、時間が経つにつれ、それは絶望に変わった。
(…………え?)
私の意識は、消えていなかった。
私は私として、そこに存在してしまっていた。
(嘘……、そんな、だって……)
何もない暗闇と、静寂と、刺激も感触も何もかもが一切ない世界。
無の中で、自分だけが存在する世界。
(冗談、でしょ……。死んだ後って、こんななの……?)
――嘘だ。
だって、死んだら、何もなくなるんだって。
深い眠りに落ちたときみたいに無意識なんだって。
自分っていう存在は、何もかもなくなるんだって。
そう、ずっと、思ってた。
でも目の前に、いや、目の前とさえ言えないかもしれないけれど、私の周りは何もなくただただ暗闇が拡がるばかりで、手も、足もなくて、感覚だってなくて、言葉を口にしてるつもりでも、それは何も響かなくて、本当に、意識だけがそこにあった。
(こんなのって…………)
――あまりの現実に、途方に暮れた。
嘆くことも、叫ぶことも、後悔することも、何も出来なかった。
ただただ、ショックを受けるしかなかった。
立ち尽くす足さえなくて、頭を抱える腕もなくて、暗闇の中で、放心するしかなかった。
どれぐらいそんな状態になっていたのか分からないけれど、状況はいつまで経っても変わらなかった。
そして、絶望的な考えが思い浮かぶ。
自分の意識は、どこまで続くのかということ。
もしかすると、永遠にこのまま――。
(嘘でしょ……?)
みんな、みんなそうなの?
死んだら、みんなこうなるの?
それとも、自ら死んでしまった私だからこうなったの?
このまま永遠に、考えることしか出来ないってこと?
今、どれぐらい経ったの?
どれぐらい……、それが、あと、どれぐらい続くの……?
嘘、嘘、嘘。
こんなの、こんなの、耐えられるはずない。
――でも、耐えられないからって、どうすればいいの?
死ぬことはもう出来ない。
違う、死んだからこうなったのに。
(どうしようも……、ないの……?)
信じられなかった。
信じたくなかった。
死んだ後がこんな風になるだなんて。
矛盾した話しだけれど、死ぬことすら出来ない。
もしかしたら、永遠にこの暗闇の中で、どれだけ時が経とうとも、狂うことさえ出来ず、何も感じることも出来ず、ただただ自意識だけがあるのかも知れない。
(そんなのって……)
――地獄だ。
そんなもの信じてなんていなかったけれど、ここは、きっと地獄だ。
私が、自殺をしてしまったから、きっとこんなことになってしまったんだ。
生きることを放棄してしまったから、罰が与えられたんだ。
救いもない、この孤独な暗闇の中で、永遠に、苦しみ続けるんだ。
(……嫌、……嫌……。そんなの、絶対に……)
でも、どれだけ否定してもここには暗闇と自意識しかなくて――。
(……なんで? なんで、なんで、なんでなんでなんで? ……私が悪いの? 私が、死んでしまったのが、生きてるのが苦しかったのが、諦めてしまったことが、そんなに悪いの……?)
どれだけ考えても、答えは出ない。
誰も答えてくれない。それは明らかだった。
そして私は、この先永遠にそう考えて、悩んで、後悔して、苦しむだけの存在になるのかも知れない。
ゾッとする背筋もなく、けれども確かに悪寒に包まれた。
(……いやぁああああああああああああああ!!)
その叫びさえ、響くことなく暗闇に溶けていく。
どうしようもなく、ただ絶望だけが拡がる。
紛れもなく、ここは地獄だった。
「――きろ」
「……え?」
声?
「――おい、起きろ」
何もないはずの空間で、いきなり他人の声が聞こえてきた。
それと同時に、視界が真っ白な光に包まれる。
「……な、なに?」
私は眩しくて、思わず目に手を当てて光を遮っ……、手?
開いた瞼からは、薄っすらとぼやけながらも、しかし、確かに自分の手の甲が映った。
「…………え?」
混乱しながら目をこらすと、先ほど私を殺してくれたはずの男の子が、ライトと共に私の顔を覗き込んできていた。
「やっと起きたか。えらくうなされてたぞ」
私は言葉の意味も分からず、状況も分からず、上体を起こした。
けれど、一つだけ分かったことがある。
私は、死んでなどいなかった。
「悪い夢でも見たのか?」
そう問いかけてくる男の子の顔を見ながら、私は無意識に顎を引いた。
「そうか。怖かったか?」
「……怖かった」
怖かった。本当に怖かった。
今まで見た夢の中で、一番怖かった。
「死んだら、あんな風になるだなんて、考えたこともなかった……」
今は、混乱しながらも、心底死んでいなくて良かったという安堵に包まれている。
取り返しのつかないことにならなくて良かったと、思ってしまっている。
「どうしよう、私……」
目を落とした先には、自分の手も膝も身体もあって、生きていることに安心している。
「死ぬのも、怖い」
その言葉を口にした瞬間、涙が溢れた。
「……怖かった。怖かったの。自分しかいなくて、自分がいてしまっていて、暗闇の中で、ずっとずっとそのままで」
泣きじゃくりながら、支離滅裂な言葉を吐き出す。
「あんなに生きてるのが嫌だったはずなのに、それなのに、今は生きていたことに安心してしまっている自分がいて……」
あっさりと掌を返した私自身の感情が、許せなくて、浅はかに思えて、どうしようもなく情けなくなった。
「なんで私、こんななの……?」
誰へとでもなく疑問を呟く。どうして、こんな人間が存在しているのか、どうしてこんな人間になってしまったのか。
傍らにいる男の子はそんな私を見詰めながら、けれど口を開くことはなかった。
それでも、私の言葉は止まらなかった。
感情が次から次へと溢れて、口から出さないとまるで体の中が真っ黒く染まってしまいそうだった。
「私は、私には何もない。何にもないの」
嗚咽混じりの自分の声が洞穴に響く。いつもの自分の声と違い、それは非常に幼いもののように感じた。
「きっとずっとこのまま、何もないまま、私は私を嫌い続けるの。何も変わることなく、幸せを感じることも出来ずに、いつか限界を迎えて死んでいく。誰も気付いてくれないし、誰に言うことも出来ない」
今まで、ずっと、自分の中だけに溜め込んできた絶望を口にする。
あれだけ、誰にも知られたくなかったことを、自分の醜さを言葉にする。
「私は、いつだって私自身の不幸を望んでる。そうすれば、不幸になれば、この感情はそのせいなんだって説明できるから。漠然とした不安や寂しさや、絶望感に支配されずに済むから。そのためなら、他の何が犠牲になろうといいって思ってしまっているの。両親が、友人が、世界がどうなろうと、むしろそうなってほしいと、心のどこかで望んでるの」
身勝手で、屈折していて、そして、分かりやすいぐらいに幼稚な考えだった。
可愛くて、キラキラしたヒロインになれないのなら、せめて悲劇のヒロインになりたかった。
そのためなら、身近な人や親しい人さえ、不幸になったっていいって、心のどこかで思ってたんだ。
その他大勢じゃなくて、特別不幸な人間になりたかったから。
そうすれば、この悩みも苦しみも、特別なのだと言える気がしたから。
「そんな自分が大嫌いで、汚らわしくて、でも、離れることが出来ないから、私はずっと私を殺したかったの。だって、四六時中大嫌いな人間と一緒にいるのよ? 我慢できると思う? 道連れに消えてしまったらいいじゃない。そうすれば、どんなに楽で、どんなにスッキリするか分からないわ」
私は酷い人間だ。
無責任で、呆れるぐらい矮小で、弱くて、自意識過剰で。
そして、どうしようもなくつまらない存在だ。
「頭がおかしいとか、理屈にあってないことぐらい、とっくの昔に分かってる。だから、苦しいの。なんで? 何でなの? この感情を何のせいにすればいいの? 何でなにもないのに、こんなに苦しいの……?」
それを今、初めて他人の前で曝け出した。
まるで、懺悔のように、私はそれを告白した。
口から吐き出さなければ、自己嫌悪で破裂してしまいそうだったから。
彼は、そんな私の言葉を最後まで聞いてくれた。
だからこそ、どうしようもない居辛さが胸を支配する。
どこに行っても、この居辛さは消えやしない。きっと世界中のどこに行っても。
恥ずかしくて、苦しくて、情けなくて、逃げ場所がないなら消えてしまいたかった。
都合良く、意識も過去も、何もかも消滅してしまいたかった。
でも、そんなことが出来る保証はないから、私は口にしてしまった。
縋るように、さらに情けない言葉を。
「……お願いだから、なんとか言ってよ!」
そう叫んだ私の言葉は、今まで生きてきた中で一番必死な響きをしていた気がした。
そのこだまが消えるのを待つようにして、男の子は口を開いた。
「君は、王子と乞食という話しを知ってるか?」
「え?」
聞こえなかったわけじゃない。ただ、その質問の意図が分からなかった。
「よく似た顔をした王子と乞食が入れ替わってしまう話しなんだけど、中々深い話しなんだよ」
「そ、それがどうしたの?」
確かにその話しなら知っている。確か、何かの映画の元にもなった話しだ。
「例えば、君は乞食と王女ならどっちになりたい?」
何故そんな質問を? そう思いながらも、私は答えた。
矛盾だらけの答えを。
「王女、の方がいいと思う」
あれだけ不幸を望んでおきながらふざけた選択だ。
けれど、ここで嘘を付くことはあまりに滑稽なように思えた。
「……好き好んで汚い暮らしをしたくはないわ」
「素直だね。意地を張って乞食を選ぶと思ったよ」
朗らかな顔で男の子がそう言う。
まるで、よく出来ました、と子供を褒めるように。
「でもね、きっとどっちも変わらないんだよ。君は君のままで、恵まれていても、見放されていても、今の後ろ向きなままなんだ」
「何が言いたいの……?」
「幸せは自動的だってことだよ」
「自動的?」
「幾ら幸せの要素が満ち溢れていても、心がそれを感じてくれなければ意味はないんだ」
「そんなことぐらい、分かってるわよ」
「だから君は、王女になっても幸せになれない」
「……やっぱり何が言いたいのか分からないわ」
慰めているようにも、励ましているようにも見えない。
だけど、どうしてか、ふざけているようにも見えなかった。
「そして、きっと乞食になっても、不幸にはなれない」
「何故?」
「本当に不幸になることの出来る人間ってのは、幸せな人間なんだよ。だから、幸せになれない君は不幸にもなれない」
「詭弁もいいところだわ」
「そうかな? 幸せっていう字はね、大切な何かを一つでも失うと辛くなる、そんな不安定な状態を表しているんだと思うよ。けど君は、その何かを持っていない」
「……」
「そこで質問なんだけど、君は何かを失うのと、何もないのはどちらがマシだと思う?」
「……私には分からないわ。ただ、私は、どうせならいっそ何もかもを失ってしまいたい」
「でも、今の君が失えるのは、命だけだよ」
「どういうこと?」
「価値のないものを失っても、意味はないんだ」
少しだけ突き放すように彼は言う。
淡々と、洞窟内の空気と同じように冷徹に。
「自分にとって本当に大切なものじゃないと、失ったとは言えないんだ。それすらない人間は失うことすら出来なくて、でも、やっぱりそっちの方がマシなのかも知れない」
それは、遠まわしに私の全ては無価値だと言われているようだった。
いや、違うかな。
私自身が、私自身を含めて全て無価値だと思っていることを理解してくれているんだ。
別に嬉しくはないけれど。
「君はさっき、不幸になれるのなら、家族や友人や、世界がどうなろうと構わないと言った。けれど、もし他人から見て不幸になったとしても、君はきっと変わらない。むしろ、そんなことがあったのに、深く悲しむことの出来ない自分への嫌悪感に押し潰されるだけだ」
――不意に、自分でも気付いてなかった事実を言われてしまった。
容赦も遠慮もない彼の言葉は、私の胸を綺麗に貫いた。
不思議なぐらい、納得してしまった。
納得しきって、言葉が出てこなかった。
「誰が死んでも悲しまないだろうという予感は、それだけで人生を無意味にする」
そうか。
私はすでに……。
「だからね、ここは、君が言った虚無の地獄と同じなんだ」
男の子が言葉を続ける。
先ほどとは違い、諭すように、丁寧に教えるように、言い聞かせるように話しかけてくる。
「何もない君だから、君だからこそ、苦しくていいんだ。何も間違っていない。おかしくもない。不幸じゃなくても辛くていい。その感情に見合うだけの理由を、何もないという絶望を、君はしっかり手にしている」
その言葉の一つ一つが、身体に染み込んでいくようだった。
「だから、胸を張りなよ。君は間違いなく可哀想な人間だ」
それは、私が一番欲しかった言葉だったのかも知れない。
許された気がした。
ずっと、許されたかったのかも知れない。
誰かに、苦しくていいんだって言ってほしかったのかも知れない。
自分でも分からない不安を、苦しみを、理由のない悩みを、肯定してもらいたかったのかも知れない。
今まで、ダメなことなんだって、理由がなくちゃおかしいんだって、もっと苦しい人なんてそこら中にいるんだって、自分の感情が否定されると思って生きてきた。
だから怖かった。
だから理由が欲しかった。
でも、目の前の男の子は、私の感情を認めてくれた。
苦しくていいんだと、許してくれた。
それは、私にとっては、何より心を落ち着かせてくれることだった。
何かが晴れていくように、胸のうちの黒い靄が消えていく。
そうだった、ここの空気はこんなにも澄んで、綺麗なものだった。
そう気付けるほどに、私の心は雪がれていた。
まるで、長年の謎が解けたかのような、視界が鮮やかになるような、そんな心地だった。
「……ありがとう」
気付けば、自然と彼の目を見ながらそう言っていた。
男の子は、「どういたしまして」と、曇りなく笑った。