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ネガポジ  作者: 猫野ミケ
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瀬戸千歳Ⅴ

 洞窟内に入るとより一層空気が冷たくなった。

 けれどその冷たさは無機質で刺さるようなものではなく、身体を柔く包み、吸い込んだ肺の中を清涼感で満たしてくれるような、そんな神聖な感じさえした。

 少しずつ足場を確認するようにその内部へと降りていく。

 自分の足音と、衣擦れ音と、小さな吐息だけが澄んだ空間にこだまする。

 私は自分の鼓動が高鳴っているのを感じた。

 そのまま進んでいくと、入ってきた入り口から漏れていた脆弱な光は届かなくなり、自分が持っているライトだけが唯一の光源になっていた。

 少しだけ立ち止まって息を止めてみる。

 すると、完全な静寂が私を包んでくれた。

 この洞窟の中で、私だけが不純物なのね……。

 きっと、このままずっと息を止めて、やがて鼓動さえも止めて、何も動かない〝物〟となれば私もこの場所に、先ほど見た遺体と同じように、溶け込むことが出来るんだろう。ふとそんなことを思った。

 奥に進んでいくほど空気が澄んでいくようで、それに比例してより一層気温も下がっていく。

 足元は凍っているようで、手袋越しに触れている岩肌も、氷のように冷たかった。

 私は滑らないように気を付けながら、けれど決して迷うことなく足を進めた。きっと、自分の望んだ場所が、この先にあるのだと確信するように。

 そして、どれぐらい進んだのか、開けた空間へとたどり着いた。

 目を凝らしてその場所を見渡す。

 照らした明かりに、至るところで氷柱や(ひょう)(じゅん)が反射し、その光を弾いていた。

 岩肌から漏れ出た雫が伝い凍り、それを繰り返し、何年、何十年、何百年と、時間を積み重ねて作られた光景。

 透明で、純粋で、自然な、そんな世界。

 目を奪われて立ち尽くす。

「…………綺麗」

 思わず、そんな言葉が自分の口から漏れた。

 初めて見るそれは、緩やかで、厳かで、自分の存在さえ忘れそうなくらいで、その言葉が響いてやっと私は正気に戻った。

 この空間に完全に圧倒されて、一瞬意識が奪われていたと自覚した。

 時の流れや自然に比べれば、人間や、その意識というのは、どうしようもなく矮小なのだと思う。

 私はその光景を噛み締めるようにゆっくりと歩いて回ると、空間の一番奥の凍った壁へと、服が濡れることも気にせず腰を下ろして寄りかかった。

 背中から、お尻から、足から、冷たさが伝わって来て、体温が吸い取られていくのが分かる。

 ライトに照らされたその幻想的な光景をぼんやりと眺めながら、私はしばらく呆けていた。

 そして、今までの自分を逡巡してみる。

 なんで、こんなところに行き着いてしまったのか。

 何故、こんな場所を探していたのか。

 どうして、こうやって感動することだって出来るのに、死にたいという欲求にそれが負けると分かってしまうのか。

 どうして、感情に身を委ねたままにすることが出来ないのか。

 時折、私は言葉を忘れてしまいたくなる。

 純粋な自分の感情は、いつだって無粋な思考や言葉で邪魔される。

 そんなときこそ私は、どうしようもなく死にたくなるのだ。

 私はきっと、この先も同じように、感動だとか、喜びだとか、幸せだとか、人の好意や達成感、大切だった思い出さえも、このぐちゃぐちゃの今の自分と天秤で計ることしか出来ないんだ。そして、どうせどれもが、たかが知れているという結論を出してしまうんだ。

 その癖、苦しみや孤独や、悲しみや痛みは鮮烈で、何の緩衝も邪魔もなく胸を締め付ける。

良いものには難癖を付け、悪い物はより悪いと感じる。私は嫌味な人間だ。

 ――それは、一生、つまらない人生を送るということでしかなかった。


 気付けば、ぼんやりと眺めていた視界は滲んでいた。

 滲んで光を反射したその様子は、同じように綺麗で、だから余計切なくて。

 自分がどうしようもないほど不純な存在なのだなと思えた。

 私はもうその光景を見ないで済むように、膝を抱えて目を閉じた。

 もう、どうすればいいか分からなかった。

 自分がこの先変われるなんてとても想像出来ない。

 幾ら外面が良くなっても、化粧が上手くなっても、勉強が出来るようになっても、今の自分にない何かを身につけても、心の在り方は変えることが出来ない。

 たった十数年だけど、痛いほどそれは思い知らされた。

 変えようのないものはあるんだって、諦めるしかないことがあるんだって。

 そんなの、もう――。

「……死ぬしかないじゃない」

 口に出して、自分の声が震えているのが分かった。

 それが切っ掛けで、嗚咽混じりにしゃくりあげる。

 喉が締め付けられて、灼けるようで、息をするのも苦しかった。

 涙が後から後から溢れて、幾つも頬を伝い、それが顔を埋めた膝を濡らした。

 こんな風に泣くのは、もう何年もなかったのに。

 まるで、子供みたいで、馬鹿みたいだった。

 それでもやっぱり大した悩みの原因もない自分に嫌気がさして、情けなくて、苛立って、それが苦しくて、もう本当にどうすればいいか分からなかった。


「――じゃあ、実際に死んでみるっていうのはどうかな?」


 そう頭上から誰かの声がして、私はハッと顔を上げた。

「死ぬしかない、そう結論が出ているなら単純だろう? 選択の余地がないのに何を悩んでるんだ?」

 そう言葉を続ける声の主は、先ほど遺体の前で遭遇した男の子だった。

 何の気配もなく、物音もなく、そして悪びれもなく、蹲った私のすぐ目の前まで来てそんなことを言った。

「な、なんでこんなところに……」

 私は動揺と恥ずかしさで頭が混乱しそうになりながら、一生懸命涙を拭った。

 独り言や自分の世界に入っているところを誰かに見られるというのは相当に耐え難くて、バツの悪さで血液が駆け上がってくるようだった。

 しかし、そんな私を諌めるように男の子は首を横に振る。

「別に取り繕わなくていいよ」

 その顔は至って平静で、だからこそ見透かされているようで、私は立ち上がることも出来ず聞き返すことしか出来なかった。

「……何が?」

「ははっ、色々かな。恥ずかしさも、涙も、死にたい気持ちも、別にそのままでいい」

「あなたに何が分かるって言うの?」

「分からないよ、何も。君が誰かも、何歳かも、どこに住んでいて、どんな境遇で、どんな悩みを抱えてるのかも、ましてや名前すら知らない。でも、だからこそ、そんな何も知らない俺を気にして体裁を保つ必要なんてない」

「何が言いたいの?」

「そうだな、俺には気にせず引き続き鬱モードを継続してくれってことかな。何か邪魔した上に勝手に恥ずかしがってるみたいだから申し訳なくて。あと、何だったら手助けもするよ」

 その声は嫌味も屈託もない響きをしていて、本当に普通の会話のように平静で、だからこそ馬鹿にされてるようで。

「何なのあなた? 凄く癇に障るんだけど」

「ハッハッハッ、そこまで直球に言われることって稀だな。ごめんね、謝るよ」

「そう思うなら、ここから出てってよ」

「残念だけどそれは出来ない」

「なんで?」

「この後、君がどうするか見たいからだ」

「どうって……」

 私がどうするか? 

 そんなもの決まってる。


 普通に帰るわよ。


 こいつが何を期待しているか知らないけど、今の私は少なくとも、不快感や苛立ちしかないのだから。

 そう口を開きかけたとき、先回りされるように男の子が言葉を続けた。

「いいわけならいらない。取り繕わなくていいとも言った。そして、確かにここは死ぬには良い場所だ」

「……なに? あなた、私に死ねって言ってるの?」

「君がさっきそう言ったんだろう?」

「確かに言ったけど、今日は、そんな気で来てるわけじゃない。それに、こんな気持ちじゃ、あなたみたいな野次馬の前じゃ、少なくともそうしようとは思えない」

「そうか、また先延ばしか」

「また、ってなに?」

 知ったようなその言葉に私は、酷く苛立った。

 我慢できずに、語調を強めて食って掛かる。

「さっきから何なのよ! ふざけないで!」

「いや、別に君を侮辱してるわけじゃないんだけど、少し心配になっただけだよ。君は完璧主義でプライドが高そうだからさ。何かをしようとしても、あれをしなきゃ、これをしなきゃと、いつまで経っても実行に移せないんじゃないかなって」

「余計なお世話よ! 初対面のあなたにそんなこと言われる筋合いないわ」

「確かに余計かもね。でも、君は果たしてこの機会を逃していいのかな?」

「どういうこと?」

「この場所を見付けた、ただそれだけで満足、いや妥協してしまえるんじゃないかな?」

「……っ」

「このまま帰って、実際にこの場所を見付けたのだからって、まだ大丈夫、もう少し行けるはず、そうやって自分を騙し続けるんじゃないかな? それこそ、限界だと感じていたとしても」

「それは……」

「自分の死にたいという気持ちを信じてあげなよ。俺はそれを馬鹿にしないし、疑わないし、ましてや止めもしない」

「だから、今日は下見に来ただけで、そんなつもりもないし、それに、準備もしてな」

「何の?」

「だから、その」

 私は、少しだけそれを言葉にするのを躊躇した。

 口にしたら、安っぽくなってしまうようで、誰かに言うことで、そう主張することが目的で本気ではないのだと思われそうで。

 でも、目の前の男の子は、そんな私を見て笑った。

 それは、馬鹿にしているような笑いなどではなくて、何かを許すような、そんなささやかな笑顔だった。

 私はそれを見たら、自然と口が開いていた。

「死ぬ、ための」

「そのための準備?」

「えぇ」

「例えばそれはどんな準備が必要なんだ?」

「えっと、例えば、遺書とか」

「遺書ねぇ。じゃあ、それを書いていれば問題ないのか?」

「それは、そのときにはきっとそうなんじゃ」

「いや違う」

 私の言葉尻を捉えて、男の子は強く否定した。

 そのキッパリとした様子に少しだけ気圧される。

「仮に君が遺書を書いたとしよう。何度も推敲し、非の打ち所のない完璧なものを書きしたためたとしよう。でも、その時きっとこうも思う。あぁ、これで本当にいつでも死ねるのだなと。そして、恐らく君は、きっとまた先延ばしにする」

 先ほどと同じように、知ったような台詞だった。

 でも、その内容は、とても的を射ているような気がしてしまった。

 今度は、苛立ちも、反論もしなかった。

「そして、自分をそうやって騙し続けた先、君はきっと今の君とは変わってしまったものになっている」

「……変わるって、どんな風に?」

「それは俺には分からないよ。狂った挙句、美意識も何もなく突発的に死ぬかも知れない。妥協して、何も感じることなく生きていくのかも知れない。もしかしたら何か変化が起きて、日々を充実して生きていけるのかも知れない。ただ、一つだけ絶対に言えることがある」

 私を見下ろして、先ほどと同じように断言する。


「――今日、この日に死ぬのであれば、間違いなく君は綺麗に死ぬことが出来る」


 何かの演説かのように、声高に彼はそう謳った。

 その言葉は洞窟内を反響して、あらゆる方向から私に降り注ぎ、そして溶けていった。

 綺麗に死ぬことが出来る。

 それは、事実なのだと思えた。

 今日より、より良い機会と準備があったとしても、それは確実なものではなくて、そして、今日という日は、準備さえ揃っていれば恵まれた日だった。

 しばしの静寂が洞窟内を包む。

 男の子は、まるで私が答えを出すのを待つように、無言だった。

 待ってくれているようにさえ感じた。

 しばらく経って、ようやく私は恐る恐る口を開く。

 まるで後押しをしてもらうためのように。

「で、でも、身辺整理とか……」

「へー、いやらしい雑誌や玩具でも隠してあるのか?」

「そ、そんなわけないでしょ!」

「じゃあ、あとはどんな理由があるんだ?」

「え、えっと、あと死ぬための道具とか」

「目の前にいい道具があるじゃないか?」

「え?」

 道具? 少なくとも、リュックは地上に置いてきたし、彼も軽装で何かを持っているようには見えなかった。

「どこにあるの?」

「ここだよ。ほら」

 そう言うと彼は、両手を私の目の前で広げた。

 その手には、何も握られてなかった。

 しばらく考えて、その意図を理解する。

「……本気?」

「あぁ。来たときに言っただろう? 何だったら手助けするって」

「でもそれって自殺じゃなくて」

「道具だよ。人の手は、死ぬには一番優しい道具だ」

 私の言葉を遮りながら、彼は私の首筋に手を当ててきた。

 洞窟内の冷気に当てられていたそれは、確かに道具のように熱がこもっておらず、ヒヤリとした感触を私に与えた。

「親指の付け根をね、顎の下に当てて圧迫するんだ。優しく、でも確実に」

 彼の手で押さえられた首筋から、ドクンドクンと、自分の脈拍が後頭部に響く。

 私はささやかな疑問を口にした。

「そんなことで死ねるの?」

 彼は答えた。

「――死ねるよ。ゆっくりと意識が遠のいて、安らかに逝ける」

 その右手に自分の手を重ねると、私の手も同じように冷え切ってるのだと気付いた。

 そして、冷気に身体が蝕まれているのと同じように、彼の言葉に私の心は侵されているのだと自覚する。

 非現実的なこの空気に、状況に、目の前の男の子に、私はすっかり毒されていた。

 でも、だからこそ、縋りたくなってしまった。

 先ほどと同じような感情が蘇ってくる。

「最低だな、私」

「何がだ?」

 ボソッと呟いたその言葉は、彼に対して投げかけたものではなく、正真正銘無意識から出た独り言だったのだけれど、彼はそれを聞き返してくれた。

「あのね、このまま死ぬのも悪くないかもって思ってるの。でもそれは、責任をあなたに押し付けられるって、そう考えてしまってる部分もあるの」

「そんなものだよ。誰もが皆、都合よく事故に遭えばいい、病気になればいい、誰かに殺されればいい、そう思ってる」

「そう。私って凡庸ね」 

「そうでもないさ。実際は思ってるだけで、いざそうなったら、焦ったり、避けようとしたりする人の方が多いと思うよ。ただ、少なくとも一定数の人間は待ち望んでるだろうけど」

 そう言いながら、彼は左手も私の首筋へと這わせた。

 決して強い力ではなく、けれども、少しだけ視界が暗くなった気がする。

「それに、俺が君を殺すわけじゃない。君が自ら死ぬんだ」

「あなたは道具、だったわね」

「そうだ。今だって、少し身を傾けるだけで、簡単にこの手は外れる」

「そうね。そう言われると少しだけ気が楽に、いや、悪くなれるわ」

 誰かに自分の死の責任を押し付けるのではなく、自分の意思で無責任に死ぬのだから。

 どちらにしろ私は最低だ。

 そう考えながらも、少しずつ、視界が狭くなっていく。

 暗く、靄がかかるように。

「ねぇ、痛くないかな?」

「あぁ、大丈夫。もし全自動頚動脈圧迫機なんてものが通販で売っていれば、きっと飛ぶように売れる。ゆっくりと柔らかに圧迫していって、死んだことを確認したら解放する。それと同じだよ」

 彼は、私の首筋に掌を添えながら、平静そのものと言った調子でそう言った。

道具とは言っているものの、傍目から見れば確実に殺人を犯すという状況なのにも関わらず。

 そして、一言付け足した。

「それに、安心しなよ。初めてじゃないから」

その言葉の内容は物騒ではあったけど、不思議と優しげで、朦朧とし始めた頭では気にはならなかった。

 私は不思議と安堵した。

 この男の子は、本当に私を殺しても自分を責めないのだと分かったからかも知れない。

「確かに……、私も……、そんなものがあれば買っていたかも、ね……」

「だろう?」

 そう彼の言葉は耳に届いたけれど、もうその表情を認識することは出来なかった。

 これが、そうなのね。

 意識が混濁するっていう。

 何も分からない。何も考えられない。

 ただ一つだけ、あぁ、死ぬ瞬間ってこんなものなんだなって。

 呆気ないんだなって。

 そんなことだけが頭に過ぎった。


 それを最後に、私の意識は途切れた。


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