瀬戸千歳Ⅳ
彼は別れ際に「またどこかで機会があれば」と爽やかに去って行った。
その爽やかさが、むしろ胡散臭さを強調している気がしたけど。
なにより、とても目の前に白骨死体が転がっている人間の振る舞いではないなと思った。
彼が去った後、私はもう一度、名も知らぬ故人に冥福を祈るよう合掌した。
この人が、どんな経緯でこのような終末を迎えたのかはまるで分からないけれど、年齢も、性別すら分からないけれど、一方的な親近感を私は抱いていた。何故この場所を選んだのか、分かる気がしたから。
この一際存在感を放つ大樹に身を寄せたかったのだと思う。何も語らず、文句の一つも言わず、静寂の中、荘厳と佇む大きな存在に。
「どうか、どうか安らかに」
私は、木々が揺れる音よりも小さな声で呟いた。
願わくば、いつかは私もこの人のように安らかに。
そんな願いを抱いて。
先ほど、男の子に飲み干されて空になってしまったペットボトルを潰しバックにしまうと、私は再び目的地へと歩き出すことにした。
途中、変な邪魔が入ってしまったけれど、静寂に包まれたこの空間と、身近な死に向かい合うことで、私は冷静さを取り戻した。
いや、冷静というよりは、自分の世界に入ると言った方が正しいのかも知れない。
歩いていても、地図を手に取ってみても、どことなくボーっとしてしまう。頭の中は鮮明なのだけれど、外の世界と上手く繋がっていない。どことなく世界が遠い感覚。
何だか、世界から自分が浮いてしまっているかのような奇妙な違和感。
考え込んでしまったりすると、昔からたまにこうなる。
自分一人の世界に引篭もって、思考だけが積み重なっていく。その癖、人と話したり何かをこなすことは自然に出来てしまう。
今だってそうだ。
特に意識するでもなく、気付けば勝手に地図と方位磁石を手に取り、方向を確認している。
時折樹の枝に引っ掛かる糸を外し、視界に入った木の根を無意識に跨ぐ。
そして、ずっと歩き続けているのに、先ほどと違い何も感じない。
体が勝手に動いてるようで、疲労にも気付かず、いつまでも歩けそうでさえある。
浮いているのは世界からではなく、私自身からなのかも知れない。自分のことが他人事のように、客観的になってしまうのかも知れない。
……つい一昨日もそうだった。
いつもは疎ましく思っている父親との会話を、何の苦とも思わず、淡々とこなしていた。笑顔も、返答も、相槌も、すべて機械的なもので、私の意志は介在していなかった。
だけど、その感覚から抜け出すと、決まって罪悪感で死にたくになる。
父は、珍しく長話に付き合う私に、嬉しそうに語りかけていた。
私はそれを、何も感じず、ただ違うことを考えていた。まるで、父親と話していることを忘れているかのように。
父はいったい誰と話していたのだろうか。
楽しそうにしていたのは、楽しませようとしていたのは、誰に対してだったのか。
これだったら、普段のように、多少素っ気なくあたっている方がまだマシだと思えた。これ以上ないほど不誠実な接し方だと思った。
自分への嫌悪感や不信感が溢れて、止まらなくなる。
友達といる時もそうだ。
みんなで笑っていても、どこかに行っても、分かり合うことが出来ても、私は不意に気付いてしまう。
楽しくても、大切に思っても、その時間と、私が私を嫌ってきた時間が等価ではないことを。
どれだけ楽しくても、良い時間だと思えても、帳尻が合うはずはないんだ。
きっと友達と別れた瞬間に、余韻も残さずいつも通りの暗い私に戻ると知っている。上辺だけで接していたんだって気付いてしまう。そういった充実していると言えるはずの時間が、人生の支えにはなり得ないと、分かってしまう。
そう気付いてしまうと、人の中にいるのに簡単に孤独になる。
自分は嫌な奴で、人と共感できない人間なのだと思えてしまう。
それを隠すように外面で変わらずに笑っている自分と、中でひたすら落ちていく自分が乖離する。
どこまで行っても自分はそういう人間だと、思い知らされるようだった。
多分私は、このまま変わることなく、死ぬまで、独りなんだ。
私は一つ大きく溜め息をついて、たこ糸を確認することにした。
溜め息を吐くと幸せが逃げていくと、昔友達が言っていた。
でも私は、自分の中の悪いものを吐き出すようで、このため息癖をやめることは出来なかった。叫ぶ代わりに、泣く代わりに、私は溜め息をつくのだ。
たこ糸は、三つ目の玉が切れそうだったので、私は次の糸玉と繋げることにした。
一玉が七百mだそうなので、おおよそ二kmを超えてくる計算になる。もうそろそろ辿り着いても良い頃だった。
しかし、ネット上で見つけた非公式な情報なので、実のところ実際に存在するかどうかは何とも言えなかった。そもそも目印がないので、この辺りであっているのかすら危うい。
時計を確認すると、意外なほど時間が過ぎていたことに気付く。
奥に進むほど足場が悪くなっていたので、進む速度が落ちていたのかも知れない。先ほどの男の子と別れてから一時間以上が経っていた。
駅までのバスを考えると、少し急ぐ必要があるのかも知れない。今までかかった時間を逆算して、そんなことを思った。しかし。
……私は急に、もしかしたら徒労に終わるかも知れないと思うと、探すのが面倒臭くなってしまった。
たこ糸を繋ぎ終えると、極力何も考えないように務めながら黙々と歩き続けることにした。
ここからは、ネット上の記載にあった土地の特徴と感覚だけで散策することになる。
緩慢とした調子で周囲を見渡し、当てもなく森林を進んでいく。家を出たときに比べ、見つけようというモチベーションは限りなく落ちていた。探す作業が事務的でさえあり、少し分かりにくいところにあるようならば見落としてもおかしくないほど精彩を欠いていた。
せっかくここまで来たのだから。
そんな申し訳程度の義務感だけが私を動かしている。
でも仕方ない。何となく想像が付いてしまったから。
結局目的地を見付けることも出来ず、無駄な時間と労力とお金を費やしただけで終わることを。
どれだけ意気込んだところで、いつだってそうだ。想像した通りに、期待通りになることなんてなくて、現実はいつだって予想を上回らない。例え見付けることが出来ても、きっとそれは期待外れのもので。
人生はそんなものなんだって、やる気が失せる。
単純に言ってしまえば、私はシラフに戻ってしまったのだ。
少しばかりの期待と高揚感に突き動かされたものの、それを持続出来るようであればそもそもこんなところに来てはいないと思う。もっと何か他のものに時間を使って、何かに打ち込んで、そして、こんな恥ずかしくて馬鹿なことはしていないと思う。
私はきっと、冷めやすい人間なのだなと、何かを達成することは出来ない人間なんだなと、つくづく思った。
もしかしたら、普段から渇望していることさえ、自ら死ぬことさえ、いざそのときになったら出来ないのかも知れない。
今じゃなくていい、次でいいと、やれば出来るからと、明日の自分に、いつかの自分に丸投げしてしまうようにさえ思う。
そんな自分が矮小で、安っぽく見えて、だからこそ苦しくて、矛盾した葛藤にまた胸が圧迫された。
どれだけ失望しても、見限りたくても、離れることは出来なくていつだってそこにいる。
自分が嫌いというのは、一番嫌いな存在が四六時中そばにいるということは、生きているだけでストレスなんじゃないかしら。
こんなときは、自分から抜け出して、目の前にした自分を叩いてやりたい気持ちに駆られるのだけれど、そんなことは当然出来るはずがないからいつだって泣き寝入りだ。
「こんなところに来てまで、いつもと変わらないのね……」
私は自嘲気味にそう呟くと、目を瞑りまた一つため息を吐いた。
そんなことで悲壮感に打ちひしがれるほど、この感覚は珍しいものではないから。
ただ、どうやら注意は散漫になるらしくて、私はその直後に地面がフッと消えるような感覚を覚えた。
踏み出した足は地面ではなく、崖際の草を、その下の宙を踏み抜いていた。
「きゃっ!!」
バランスを崩し焦ったけれど、それを自覚するころには斜面を転げ落ちていた。
幸い大した高さではなかったみたいですぐに叩きつけられ、無様に這い蹲る。視界に入った苔混じりの地面から土臭さが鼻を抜けた。
所々身体を打ったらしく痛みで少しばかり涙目になる。
「なんなのよ、もー!」
そう憤慨しながら、自分が落ちてきた方を見上げる。わりと急な斜面だけど、所々に木が生えているので、登ることは出来そうだった。
周りを見渡すと、どうやらそこは窪地になっていて、丸いクレーターのようになっている。
窪地は他の場所と違い大きな樹木などはなく、その分今まで歩いてきた地面との高低差でより深い陰を落としていた。
先ほどまでの僅かながらの木漏れ日が差す鬱蒼とした森の中よりも、より一層隔絶した空間のように感じる。
そして、見渡しながら気付いた。
自分がいる対面の斜面に、黒い空洞のようなものがポッカリと口を開けていることを。
まだ痛みの引かない身体を立ち上がらせ、それを凝視する。
「あ、あれって……」
私はその暗闇へと吸い寄せられるように近付いていく。
少しばかり戸惑いながら、恐る恐るゆっくりと。
緊張にも近い感覚を覚えながら、淡い期待を持つ。
ただの小さな洞穴かも知れないのだからと、それでも自制しながら。
けれど、その洞窟のようなものの前まで来たとき、紛れもなくそれが自分の探していたものなのだと確信した。
仄かに流れ出る冷気が足元を抜けていく。
深い深い暗闇は、それだけで日常とは切り離された非現実的な存在感を放っていた。
――氷穴だ。本当に、あった。
しばらくその洞窟を覗き込むように立ち尽くす。
この中はまるで違う世界と繋がっているのではないか、そう思わせるほど神秘的な引力を放っていた。
ただの無骨な岩肌で形成された洞窟の入口のはずなのに。
「い、いや、あるのは当たり前なのよね」
思わず正気に戻るように口に出す。
何だか気後れしてしまいそうになるのを紛らわせるように。
ただの噂話とはいえ、樹海にはこういった氷穴、風穴の類いがたくさんあるのは事実なのだし、こうやって実際に見つけることが出来るのはそこまで変な話しじゃなかった。
ただ、諦めかけたときに見付かるという、タイミングが良すぎただけで。
「取り合えず、えーと」
私は背負ったリュックを下ろすと、中に入るために上着と手袋とライトを取り出した。
身軽になるため、リュックはそこへと置いていくことにする。どうせこんな場所であれば、誰かに盗まれることを警戒する必要もないし。
試しに取り出したライトで入口から中を照らしてみる。
照らした先は割と傾斜があり、歩いていくというよりは、下っていくというような形容が正しいような様子だった。
岩肌がゴツゴツとしていて、先ほどと同じように足など踏み外せば打撲程度では済みそうにない。
私は注意しながらその中へと意を決するように足を踏み出した。