瀬戸千歳Ⅲ
心臓の音が一際大きく耳を、体を打つ。
眼球が釘付けとなり、まばたきさえ忘れる。
こんなに近くに、先ほど腰を下ろしていたすぐ側に、私が望んでいた〝死〟が落ちていた。
ただの物体と化したそれは、親戚の葬儀で見たような生々しさはむしろなく、ただただひたすらに、静かに、そこにあるだけで、この自然の一部に違和感なく溶け込んでいた。
鬱蒼とした木々の隙間から僅かながら射す木漏れ日を浴びて、さながら休んでいるようにさえ見えた。
それは初めて見る、自分と同類の人間の終着点だった。
想像よりずっと味気なくて、それでいて思っていた以上に身近に感じる一つのカタチだった。
鼓動が徐々に落ち着き、全身に血が行き渡る脈動をじんわりと感じる。それと同時に、上半身の体温が下のほうへと移動していくような感覚を覚えて、鳥肌が立った。
心が、落ち着いていく。
「……綺麗な死に方」
思わず感想が口から漏れた。
一部の思考も挟む余地がないほど、私の頭の中は、目の前の〝ありかた〟に魅了されていた。
だから、すっかり忘れてしまっていた。
この場にいる、私以外のもう一人の人間のことを。
「理想的、ってことかな?」
声を掛けられて、無意識に近いところを漂っていた自我が引き戻される。
今、私なんて口走ったの?
「あ……、いえ」
正気に戻り釈明しようとしたけれど、言葉にならない。弁明の余地もなければ、何も話したくない衝動にも駆られる。
ただ、今は見入っていたものへの余韻を味わいたい。それとは逆に、何かを話そうとしなければという衝動に挟まれ、つい言葉を失う。
「これだけ白骨化が進んでいるってことは半年は経ってるのかな。良かったね、これが腐乱死体だったらもう少し印象も変わっていたと思うよ。それにしても、こんな奥の方で死んでるだなんてよっぽどこの人も変わり者だったんだろうね。大体樹海で発見される死体って、割と浅いところが多いんだよ。みんな何だかんだで見つけてほしいのかも知れないな」
淡々と私見を述べる男の子の言葉が、私の耳を通過していった。
死体を前にこれだけ平然としてるこの人は、もしかしたら危ない人間なのかも知れない。
そんなことは漠然と考えながらも、何故か警戒心が生まれない私は、彼の続ける言葉を特段理解しようと努力することもなく聞いていた。
「だから、遊歩道から外れてある程度エリアを限定して歩き回っていれば、まぁこういうものにも稀に出くわすらしい。惜しむべらくは、彼がとうの昔に事切れてしまっているという点かな」
彼が死体の方へと視線を落とし、薄く眼をつぶると、ゆっくりとした動作で合掌してみせた。
その仕草が、あまりに自然で、綺麗で、正しい行為に思えたので、私も倣うようにノロノロと手を合わせた。
得体は知れないけれど、わりと常識がある人間なのかも知れない。漠然とそんなことを思った。
しかし、それは一瞬のことで、彼は数瞬の黙祷を捧げ終えると、先ほどまでの場にそぐわない明るい雰囲気を取り戻し、こちらへと向き直った。
「それにしても、いいね! いいよ、君!!」
男の子はこちらへ歩み寄ると、私の両肩に手をかけて話しかけてきた。
彼の手が私の肩へと触れた途端、沈黙していた危機感が一気に眼を覚ます。
誰もいない森で、死体の前で得体の知れない少年に触れられる。異常の一言に尽きる状況だった。
「いいって、あの、何がですか?」
私は戸惑いながらさり気なく後ろに後ずさり、彼の手を外そうとする。私だって、幾らなんでも貞操観念ぐらいは持ち合わせている。
少なくとも目の前にいる男の子は私より十cm以上は身長が高い。助けも呼べないこんなところで襲われたら逃げようがない。
大体この人の探し物って何? 自殺者を狙った泥棒? それとも死体愛好家? あるいは、一環したこの陽気さ不気味さは精神異常者? 何はともあれ、私が出会ったことがない人種だわ。
そんなことが脳裏に過ぎり、再度彼の顔に視線を合わせると、爛々とした瞳でこちらを見つめていた。
その表情のまま人を殺せそうだな、と考えたら、先ほどとはまったく違う意味で鳥肌が立った。
「いやー、いい具合に病んでるっぽいなと思ってね! 歳も近そうだし、理想的だね」
「は? 何言ってるんですか?」
「そのままの意味だよ。探し物っていうのは、死にたそうな人間のことだったからさ」
きっぱりと男の子が答える。
言っている意味が分かっても意図がまったく理解できない。
「あの、ごめんなさい、よく分からないです。……あと、手、離して下さい」
「ああ! ごめんごめん、警戒させちゃったか。危害を加えるつもりはないから安心して」
「……いまいち信じられません」
「そうか。まぁこんな状況じゃしょうがないかな。じゃあ別に信じてくれなくていいや」
「はぁ」
能天気な返答に、こちらも適当な相槌を打つ。そのあっけらかんとした雰囲気に何だか肩すかしをくった。
よくよく冷静になってみれば実際に危害を加えそうな様子には見えない。何というか作り出している空気が、異常人物と言うよりは、どちらかというと馬鹿っぽい。
言ってることは意味が分からないけど、一応こちらの話も聞けるみたいだし、そこまで警戒する必要はないのかも知れない。
でも、危険がなさそうだと安堵すると、むしろ言われた言葉や無遠慮な態度に苛立ちを覚えた。
「あの、いい具合に病んでるってどういう意味ですか。とても初対面の人に掛ける言葉とは思えないんですけど」
「うーん、だって普通の女の子だったら死体見てあんな冷静な反応しないでしょ? それに、死にたそう人間がいたら邪魔でもしてやろうと思ってたからさ」
「は?」
自分でも声に怪訝さが含まれているのが分かる。
苛立ちを隠さず、語気に力を込めて問いかけた。
「何なんですか、それ? 何を目的としてですか?」
なんだか、彼の明るい口調で放たれた〝死にたそうな人間〟という言葉が、やけに癇に障った。まるで、悩んだ末、死に向かう人間を軽んじられているような、自分まで馬鹿にされているような、そんな受け取り方をしてしまう。
とても善意で人助けしようというようにも見えない。
「興味本位か何かだとしたら、さっさと帰ってくれませんか? はっきり言って場違いです」
「なるほど、場違いか。すごくしっくり来るな。でも興味本位とかではなくて、俺はただ利用したいなって思っただけなんだよ」
「死にたそうな人を利用? ……ま、まさかヤラシイこととかじゃないでしょうね?」
「っぶは!!」
言った瞬間、男の子が盛大に吹き出した。木々の間を笑い声がこだまする。
相当不意を付かれたのか、体をくの字に折り曲げ、息も絶え絶えといった様相で笑い続けている。
「ははははははっ、じゅ、樹海でその発想は、あははは、ちょ、ちょっと思いつかなかったな」
笑い声のせいで聞き取り辛いが、少年が私の疑いを切れ切れに否定する。
だって、どうせ死ぬんだったら好きにさせろとか、何かの漫画で見たことあるし
自分の発言を後悔しながら、顔が紅潮していることを自覚した。くそ、耳が熱い。
「ハハ、はー、いやー笑った。よくこんな状況でそんなこと思い付くね。君、もしかしてムッツリスケベだな?」
その一言でさらに顔面に血液が集中するのを感じた。
「な、なんでそんなこと言われなきゃならないんですか!! あなたがよく分からないこと言うから悪いんじゃない!!」
恥ずかしさのあまり、ついつい声を荒げてしまう。確かに彼の言うとおり、少しばかり見当違いの発言だったかも知れない。しかし、この人にそんなことで批判される筋合いはない。
「顔が真っ赤だけど大丈夫?」
「あんたのせいよ!!」
「いや、誤解させたみたいで悪かったよ。利用っていうのは、何て言うんだろ、そういう人間を集めて何かしてみようと思ってさ」
「活動? いったいなんの?」
「んー、例えば、同じような人間をひたすら邪魔するとか、笑い飛ばすとか」
「何それ? 何の意味があるの?」
「意味なんて特にないよ。さっき思いついたばかりだし。それで、これから人数を増やしていこうと思ってね」
「……意味が分からないわ」
やましいものじゃないという前置きが、なおのこと怪しい勧誘の上等文句にしか聞こえない。
「悪いけどけっこうです。そんな悪趣味なこと興味ありませんから」
こういう話は、一度聞いてしまうとしつこく勧誘されるので、はじめにキッパリと断ることが大事だと誰かが言っていた気がする。
そもそも、死のうって考えの人間は、そういった何かに属する選択肢がないと思う。死への願望が、薄っぺらくなるようで、安っぽくなるようで、この男の子の怪しさを抜きにしても何だか抵抗がある。
「そうか。君に合いそうな内容だと思ったんだけどな」
男の子が、心底勿体無いとでもいうような面持ちで残念がる。確かにそこには悪意がありそうな感じではなかったけれど、それ以前に、私はこの人に何かしらの苦手意識のようなものを感じ始めていたので、出来るだけ関わりたくはなかった。
「勝手に決め付けないで下さい。あなたに私の何が分かるっていうんですか? 適当なこと言わないで下さい」
出会って数分の、こんな変な男の子に嗜好を理解されるほど、私は自分のことを浅い人間だと思いたくはなかった。
ショップ店員が『お客様、よくお似合いですよ』と、何の商品でも、誰に対しても同じことを言うことへの嫌悪感に似たものを感じる。
「それは的確といった意味での適当じゃないよね?」
「分かってて聞いてますよね? 揚げ足取りは嫌いです」
「それは勿体無い。人生損してるよ」
「話を逸らされるのも嫌いです」
そして、〝人生損してる〟という言葉も嫌いだ。さも簡単に、人生に得を生み出せるような物言いがさらに癇に障った。
「いいからさっさとどこか行って下さい。あなたと話してると疲れるし苛々してきます。それに、やっぱり怪しいので一緒にいたくありません」
危害を受ける警戒心は薄れているせいか、歳が近そうなせいか、多少強い物言いになる。
ただでさえ初対面の人間と話すことは体力を消費するのに、この状況とこの男の子とではなおさらだ、と内心毒づいた。
「そうか、それじゃあ仕方ないね。お望み通り俺は消えるとするよ。不快にさせてしまったみたいで悪かったね」
何かしら言い返してくるのかと思ったけど、男の子は拍子抜けするぐらい素直に謝ってきた。
ここまであっさり引き下がられると、それはそれで今までのやり取りは何だったのだとイラッとする。
「彼については、少なくとも俺は報告をするつもりがないから君の好きにしたらいい。もっとも、彼自身はこのまま風化することを望んでるように思うけどね」
傍らにある白骨死体を見下ろしながら、物言わぬその人の代弁をするかのように言う。先ほどの合掌や、死者の意思を尊重しようとするその姿勢が、余計にちぐはぐなイメージを与えた。
言われずとも、私は通報するつもりなど欠片もなかったけど、敢えて何も言い返さなかった。
それじゃ、と私に一声かけると、彼は背中を向けて歩き出した。
声をかけるのは嫌だったし、かける言葉も浮かばなかったので、私は立ち去る彼を無言で見送った。
しかし、男の子は数歩も歩かないうちに立ち止まり、思い出したように私に訊ねてきた。
「そういえば、君は結局何をしにここに来てるんだ? さっき言っていた自然好きっていうのは嘘だろうし、かと言って死にに来たわけでもなさそうだ。何というか、そう、俺と同じで何かを探しに来たみたいに見える」
「……っ」
咄嗟に何か言い返そうとしたけど、言葉に詰まってしまった。
何でこの男の子は、ろくに人のことを知りもしないくせに決め付けて話すのだろう。
そして、何でそれが当たっていたりするんだろう。
この偶然出くわした変人と会うことはもうないのだろうと考えたら、自然と口が開いた。
「氷穴を目指しているっていうのは本当です」
思わず口が滑らないよう、私は言葉を飲み込むのではなく、付け足すことにした。
「……ようは下見です。旅行の」
いつか来る、人生最後の旅行の。