表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

読むことの多層性

 さて、前段「純文学が芸術ではなくてなにが悪い!」は「一部の人々に「純文学」が色々と誤解されているらしい件。」の内容を補完し、一部で補強するものとして書いたつもりです。

 基本的には純文学について書いているのですが、内容としては人間の創作活動全般に共通する普遍的なものになることを心がけました。

 それが成功しているのか否かは、読者諸兄の判断に任せるとして、この項では「読む」という一見単純な行為について書かせていただく予定でいます。


 前段までで、

「芸術性とか高尚であるとか、そうした評価はジャンルや製造者側の自己申告によらず、受容した側の評価によるべきだ」

 いったことを主張しました。

 この意見を撤回するつもりはありませんが、では、この受容者、小説でいえば「読者」とは、実のところ、「何者」なのでしょうか?


 これは、単純であるがゆえに、かえって答えにくい質問になるかと思います。

 ある特定の一個人に対象を絞ってしまえば回答をすることはかえって単純になるのですが、「不特定多数の読者」を相手にしてその正体を探るとなると、これはもう実際上は回答が不可能というか、できたとしても簡単なアンケート方式の素っ気ない内容にしかなりません。

 つまり、本質にはまるでせまることができません。


 前段では実例をいくつか挙げつつ、「一口に純文学といっても、中には様々な作品を含んでいるんだよ」といったことを説明しました。

 ジャンル別とか作家別とか、外から見えるわかりやすいラベリングのみで、その内容の把握したような気になるのは大変に危険です。

 少なくとも、対象の本質を理解することの妨げにしかなりません。

 そうした大雑把な集合としてではなく、個個の作品を個別に鑑賞、あるいは評価していく方が、より確実に理解を進めることができると思います。


「集合ではなく、個個の作品に注視した方がいい」

 のと同様に、読者の一人一人にも個性というものが存在します。

 性別や年齢、語彙や知識、読書経験などの多寡など、「不特定多数の読者」の中には、ただの一組も「まったく同一の存在である読者」がいないのです。

 指摘するまでもなく当たり前の事実ですが、この当たり前の事実を失念して、集合として「読者」を扱うような事例は、実際には決して少なくはありません。

「読者」に限らず、内実をよく理解していない癖に、「国籍」や「人種」という集団単位で判断をする例が、世間では往々にして横行しているようです。

 こうした、「ある集団ないしは集合にたいしてラベリングを施し、わかった風な扱いをする」ことを、一般には「偏見」と称します。

「個個の作品に注視した方がいい」のと同様に、読者に関しても曖昧模糊とした集団として扱うよりは「個個の読者に注視した方がいい」と、わたしなどは思います。

 ですが、「個個の読者」は先ほどにも説明したように、「みんな、全員」違います。


 そうした、「みんな、全員」違う読者にむけて同一の作品を発表することに、果たしてどれほどの意味があるのでしょうか?


 実際、現在は、価値観が多様化していく時代です。

 これは今だけの一時的な現象というよりは、不可逆的な、今後も継続していく傾向としてみるべきでしょう。

 こうした傾向は、つまるところネットが身近になったことによって、大勢の人々が受け取る情報量が飛躍的に増したことによって起きているからです。

 一度はじまってしまったら、この文明が壊滅でもしない限り、終わることはないでしょう。

 情報を送信するデバイスの種類は多くなり、ネット上の情報量は日々、いや、刻々と増大をし続けます。

 そうした膨大な情報に日常的に晒されることによって、不特定多数の人々はそれまでにない、多様な価値観を自然と形成していくわけです。


 ラジオ、映画、テレビ。

 二十世紀前半に普及したメディアというのは、「大勢の人たちに同一の情報を与える」という性質を持っていました。

 こうしたメディアの存在が「集団としての大衆」を形成し、ときに世論を誘導して、戦争などにも活用されてきた歴史があるわけです。

 ネットはこうしたメディアとは、「双方向性の通信が可能であること」と「流通する情報の種類と量が膨大であること」という二つの点で大きく異なります。

 ひどく大雑把ないいかたをあえていってしまえば、

「二十世紀の人々は同じものをみて、同じように感じることが可能であった。

 しかし、現代のわれわれは、まず大勢が同じものを見ることが稀であるし、見たとしてもそれぞれ別の感じ方をする」

 ということになります。

「価値観が多様化する」ということは、つまりはそういうことなのです。


 そんな世の中で、「不特定多数の顔のない読者にむけて作品を公表すること」に、どれほどの意味があるのでしょうか?

 この設問に関しては、わたし自身、ときおり考え直して見るのですが、まだ満足のいく回答が得られていません。

 たぶん、「エーターテイメント」という概念も、今では少し前ほどに単純なものではなくなっているはずです。


 さて、個人的な事情についてここで書かせていただきますが、わたし個人は正直、純文学とというものをあまり好んでおりません。

 それなりに読んではいますが、「純文学」と強く意識をして読むことはなく、数多くの書物の中の一冊として気軽に楽しんでいるだけの一読者ということになります。

 個人的には、純文学よりはもっと娯楽性の強い小説の方を好みますし、その娯楽性の強い小説よりはノンフィクションの方が面白いと思ったりする感性を持つ乱読家に過ぎません。

 その文学観においても、

「円朝の「累」を無視するような文学史は論外だな」

 くらいの野蛮な発想を根本に持っています。

「「累」といえば、高田衛先生の「江戸のエクソシスト」は流石によかったな」

「高田衛先生といえば、「嗤う伊右衛門」の文庫解説はよかった」

 といった風に、連想をどこまでも続けることができるくらいには乱読をしています。

 かなり偏った、特殊な読者であることを自認しています。


「不特定多数の読者」の中には、一定数こうした偏った、特殊な読者も含まれているわけです。


 これほど価値観が多様化している時代ですから、読者の側の嗜好も同じように多様化しています。

 当然のことですが、仮に同じ作品を鑑賞したとしても、「あなたという読者」と「他の読者」とは、受けるべき印象が異なってきます。

 経験や知識、感受性など、まったく同一の「読者」は存在しないからです。

 だから、なにを読んだとしても、「あなたという読者」の感じ方は、あなただけのものです。

 文字通り、唯一無二、ですね。


 どんな作品を前にしても、怯む必要はありません。

 序盤をざっと目を通して、

「つまらない」

 と感じたら、その場で読むのを中断し、自分にとって面白く思える別の作品を探しにいく方が建設的な行為であると思います。

 読書という行為は大変に個人的なものですから、「合う、合わない」は絶対存在します。

「合わない」 無理して読む必要は、どこにもありません。

 気に食わなかったら本をすべて放り出して別の楽しみに耽溺するのも自由です。

 今の世の中ででは、読書も数ある娯楽の中の一種でしかありません。


 ただし。

 読書といいうのは、個人的な資質が大きく左右する行為ですから、ある時期にまるで受けつけなかった作品を数年後、なにかの拍子に読み返してみると大変に面白く読めた。

 などということは、ざらにあります。

 そこまでのことはなくても、同じ作品を数年ぶりに読み返してみると、

「あのときの自分は、なんてこの作品を読みこなせていなかったんだ!」

 と、愕然とすることもあります。


 世間一般である程度の評価をすでに得ている作品には、必ずなにがしかの内実を備えています。

 作品が書かれた当時の時代背景などについて、ある程度の予備知識がないと楽しめない作品や、書かれている言葉が古すぎてピンと来ない作品なども多々存在するわけですが、長い年月を経て生き残っている作品というのは、そうした知識を持った上で読めば、ちゃんと楽しめるようにはできています。

 いや、実際、パール・バックの「大地」やスタイベックの「怒りのぶどう」なんか、なんの予備知識もなしにいきなり読んで素直に共感する今どきの中高校生、ってのも、ほとんどいないと思うしね。


 それと、晦渋で、読み進めるのが苦痛で仕方がないんだけど、最後まで読んで見たら傑作だった、という作品も、世の中には存在します。

 一日一ページとか、数十行とか、そんなペースで辞書や解説書と首っ引きになって、格闘するような読み方ですね。

 こうした読み方は、誰にでも勧めるわけにはいきませんが、やるとすれば時間がある学生時代のうちに体験しておいた方がいいでしょう。


 なんの予備知識もなくページを開いた人が、十人中八人から九人が、

「なんじゃこりゃ!」

 と感じて、そのままページを閉じてしまうような「傑作」も、世の中には存在します。

 ジェイムズ・ジョイス作柳瀬尚紀訳の「フェネガンズ・ウェイク」なんか、ジョイスの作風と訳者の芸風の両方を飲み込んでいなけりゃ絶対に読み通せるものではない。


「読者」と「作品」との関係性とは、それだけ多種多様であり、一様に論じることができないわけです。

 読書という行為は、基本的に極めて個人性が強い、パーソナルな営為になりますから、みんな違っていて当たり前なのです。


 高野文子の短編マンガに、ある女子学生が何年もかけて「チボー家の人々」という長大な小説を読破する様子を淡々と描いたものがあります。

 長大な小説を読み、登場するキャラクターに感情移入しながら、そのマンガの主人公も成長し、進級し、就職していきます。

 ある意味では、理想的な読書体験を描いたマンガだな、と、わたしなんかは思っています。


 さて、本稿はもともと、

「妙な先入観や思い込みに惑わされることなく、自分自身の見識のみを頼りにして、目の前の事物を曇りのないめで 見て、評価した方がよろしいですよ。」

 の一文を解説することを目的として書き出したわけですが、ここまで詳細に書き連ねておけばその目的もおのずと達成されているはずです。

 拙い内容ではありますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ