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純文学が芸術ではなくてなにが悪い!

 前作(「一部の人々に「純文学」が色々と誤解されているらしい件。」 http://ncode.syosetu.com/n3866dp/)については賛否両論毀誉褒貶を含み、反響は様々であったわけですが、いつになく感想欄に長文が多くて熱い印象がありました。


 その中にはメンタルヘルスすれすれの粘着行為や「こんな子どもの喧嘩レベルのことでランキングを汚すな!」みたいなお叱りもありましたが、その手のまるで筋の通っていないご意見については、わたしはさして気にかけていません。


 原則として、きちんとした批判や批評にならばちゃんと耳を傾けるし、その証拠にどんなに◯◯な態度で書き込まれた方に対しても、一応、わたしの方は聞く体勢は取っています。

(一通り聞いた上で、論外と判断して「へー。ほー。ふーん」程度に適当に聞き流すことは多々ありますけどね)


 でも、客観的に見て「ランキングを汚すな!」はないわ。

 ランキング集計に関しては不特定多数の人が入れたポイントが元になっています。

 そういうシステムである以上、わたしに文句をいうのはどう考えても筋違いというものです。

 わたし自身には制御できない範疇のことだからです。


 それと、拙文のなにがしかに不快感をおぼえたからといって、そのことをわざわざ表明しに来る意味が理解できません。

 いや、「文句をいうな」、ということではなく、「子どもの喧嘩」を否定する人が、わたしの言説なり態度なりになにか不快に感じたとしても、それを文字にして書き込んでしまう行為自体が矛盾しているのではないか、ということです。

 それってつまり、「子どもの喧嘩を否定している人自身が、率先して子どもの喧嘩をしにかかっている」、という構図になるからで、どこからどう見ましても「言葉」と「行動」が一致せず、矛盾しています。

 そうして書き込むことによって、「自分が他人に要求することを実践できていない」ということを自動的に表面していますので、これは大変に筋が悪い。

 いわゆる、

「お前がいうな!」

 というやつです。


 ということで、こうした反発ないしは批判に対しても、わたしは今後無視をする方針でいくことにします。


 以上、前置き終わり。


 ということで、以下から本番、前作「一部の人々に「純文学」が色々と誤解されているらしい件。」の続きとなります。


 寄せられた批判の中に、二、三、前項最後の文章、

「妙な先入観や思い込みに惑わされることなく、自分自身の見識のみを頼りにして、目の前の事物を曇りのないめで 見て、評価した方がよろしいですよ。」

 という文章が、前後の文脈からすると矛盾しているのではないか?

 といった趣旨の内容がありました。


 この批判は、極めて妥当なものであると思います。

 確かにこの文節は脈絡がなく、唐突で、それに前までの文章との繋がりが悪く、見方によっては矛盾しているように見える。

 書いてアップしたあとで、

「あそこは先走りすぎて、同時に舌足らずな箇所だったな」

 と思ったし、指摘を受けたときも、

「やっぱりいわれたか」

 という気分でした。


 前項のまでの文章は、あれはあれで完結したものだし、その指摘された部分についても、改めて詳細に説明をし出すとまた長くなると判断したからああいう形で切ったわけですが。

 ですが、前項の文章はごく短期間でえいやと書き上げた走り書きの割には大勢の人が読んでくださっているようなので、それならば補遺としてもう少し書き足す価値もあるか、と考え直した次第です。

 ですから以下の書き足しの部分は、基本的にその短い文章について説明することを目的とした性格のものになります。


 前項の内容と多少重なりますが、まずは「純文学」について考えてみることからはじめたいと思います。

「純文学」の定義としては文芸史的な要素からかはじまって様々な観点から設定することが可能ですが、大勢の人が納得するであろう定義として、ここでは、「社会的な文脈」から、以下のように仮定させてもらいことにします。


「出版社が純文学と認めた作品、ないしは作者による著作を純文学とする」


 厳密にいえば、アマチュアによる、つまりはプロの出版人とは関係のない場所で活動をする純文学作家というのも、原理上は存在してもおかしくはないわけですが、ここでの仮定はあくまで、

「社会的に純文学と認知れているのはなにか?」

 という観点から見ていますの、とりあえずそうした少数者についてはスルーさせていただきます。

 この仮定は、大多数の人々からも賛同を得られる内容であるかと思います。


 それで、この仮定を前提にすると、ちょと困ったことがおきます。

 なぜならば、世間的に純文学作家とみなされている作家の作品はすべて純文学でではならない、ということになるからです。

 でも、実際に、純文学作家がいつも真面目くさった、シリアスで高尚で上質な作品ばかり書いているものなのでしょうか?


 以下に、

「実際に純文学作家の手による、しかし、世間的な純文学像とはズレている作品」

 を、いくつか挙げて行こうかと思います。


芥川龍之介、「桃太郎」

 この作品は、今でいうパロディーになりますね。

 読んでもらえればご理解できるかと思いますが、諧謔とかユーモアは多々含まれていますが、文学性とか芸術性は微塵も感じることができない内容になっています。


 この作品は「青空文庫」内に収録されていて、全文を読むことができます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html


三島由紀夫、「複雑な彼」

 これも、芸術性とか文学性はあまり感じない作品です。

 小説としてみると、決して面白くないわけではないのだけれど、なんというか、決定的に「薄い」。

 テレビドラマかなんかのノベライズのような「薄さ」です。

 他の三島作品と比較したら、 数段落ちる印象があります。

 読んでいて、「なんであの三島がこんな作品を」という疑問が湧いてきたのですが、文庫版の解説で作家の安部譲二が「実はこの作品の執筆前後、先生は政治活動資金を必要としていて」的な打ち明け話を書いています。

 安部譲二は一時期三島の付き人兼ボディーガードのような役割を担っていた人物でもあり、この作品の主人公のモデルでもあります。


北杜夫、「大日本帝国スーパーマン」

 世間的には「ドクトルマンボウ」シリーズのようなエッセイ集の方が知られているようですが、芥川賞受賞経験もある純文学作家でもあります。

 個人的には、味のある短編をいっぱい書いている作家という印象がありますね。

 この「大日本帝国スーパーマン」は、クリプトン星から落ちてきたスーパーマンが、アメリカではなく、戦前の日本に落ちて来ていたとしたら」という設定のパロディー作品になります。

 落ちのしょーもなさも含めて、やはり芸術性も文学性もあまり感じません。


遠藤周作、「初春夢の宝船」

「沈黙」をはじめとするキリシタン物でよく知られている作家ですが、こんなパロディー作品も書いています。

 当時のSF映画「ミクロの決死圏」の設定を借りた作品になりますが、なんというか他愛のない内容で、もちろん、芸術性とか文学性とは無縁の内容になります。


 とまあ、こんな感じで。

「往事と現代とでは、作家という職業の役割が違う」

 といってしまえばそれまでなのですが、普段はシリアスな作品を書いている人も、案外ひょっこりお茶目な作品を書いて残していたりするんですよね。

 それ以外にも、「お金が欲しくて意に沿わない執筆依頼を受ける」ことも、それにスランプや病気など、心身の不調により止むを得ずクオリティの低い作品を公表してしまうことだって普通にあったでしょう。

 一定の評価を得た作品が「代表作」として注目を浴びているので、現在の目からみれば、一見してそうした不調な作品やお遊びで書かれた作品はあまり視界の中には入らないようになっています。

 ですが、過去の先人たちがすべて、常に「芸術! 高尚!」と血眼になって、高い目線を保ったままで作品を執筆していたわけではない。

 これはもう、断言できます。

 当然ですね。

 だって、作家だって生身の人間なんですから。


 でも、それっていけない、非難をされるべきことなのでしょうか?


 誤解を恐れずにいえば、スタージョンの法則を引くまでもなく、純文学であろうがその他のジャンルであろうが、人間の手による創造物の九割がたはクズですよ。

 だからこそ、クズであることをまぬがれた残り一割の存在が輝き、尊いわけで。


「純文学であるから、すべてが芸術性を帯びているべきだ」とか「高尚であるべきだ」というのは、実態を知らない人の戯言に過ぎないと思います。

「芸術性」とか「高尚」うんぬんの評価は、あくまで製作者以外の受容者が評価をすべき基準です。

 ある作品について、そうした評価が定まるまでには、大勢の受容者の目線に晒される必要があるわけですし、当然、それなりに長い時間が必要となるはずです。


 ということで、この項のタイトル、

「純文学が芸術ではなくてなにが悪い!」

 の設問に繋がるわけですが、わたし個人の見解としては、失敗作や試行錯誤期間中のあれこれも「純文学」に含めてもいいのだという立場を取ります。

 これは別に、「純文学」という特定のジャンルだけのことではなく、他のジャンルの小説やマンガ、映像や音楽までも含めて、人間による想像活動すべてにいえることですが、「芸術性」とか「高尚さ」なんてのは、作品を公表したあとで、評価として下されるものであると思うからです。

 失敗作になることを恐れていては、作品を製造することも公表することもできません。

 製造する側の人間にやる気があるのであれば、失敗を恐れずに積極的に動いていくべきだと思います。

 公表したあとに失敗だったと思ったら、次に活かせばいいだけのことです。


 結論。

「純文学のすべてが、芸術性やら高尚さを帯びているわけではない。

 そこまで到達できる作品は、ごく一部でしかないから。

 そしてその事情は、別のジャンルについてもたいして変わらない」



 この項の本題については、以上で終わり。

 以下、おまけというか蛇足。


 さて、この「小説家になろう」というサイトについてですが、小説投稿サイトという性格上、ある作品が「純文学」に相当するのかどうかは投稿者自身が判断をして決める必要があるんですよね。

 で、「小説家になろう」運営サイドが「純文学」作品の必要条件として定めているのが、「芸術性に重きをおいているかどうか」なのだそうです。

 さて、困りました。

 わたし個人の考えとしては、

「作品を製造した本人が、自分の作品がどれほどの芸術性を帯びているか判断できない」

 という立場を取っているからです。


 だって、そうでしょう。

 小説でも詩でも音楽でもなんでもいいんですが、自分でなんらかの表現活動をしている人が、自分の作品を他人の前に突き出して、

「ちぃっす!

 これ、おれのゲージュツです!」

 とか主張してきたとしたとしたら、これは客観的に見て、かなり滑稽な光景です。


 でもまあ、実際にはそんなこともいっていられないので、わたしが作品を登録する際には、

 1.作品が内包するテーマが、世間一般的な基準で文学性と呼ばれる概念を内包するものかどうか。

 2.作品を構成する技法や構造を見て、過去の文学作品との類似性が見られるのかどうか。

 などの項目を自分でチェックした上で、妥当だと思える内容であれば、作品を「純文学」カテゴリに登録をするようにしています。


 ということで、おまけや蛇足も含めて、この項すべて終わり。

 あと一回だけ、「読むことの多層性」だけ書かせていただいて、今度こそ本稿の完成とさせていただく予定です。

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