第13話 夢の終わり
雨が降っていた。
強い雨が降っていた。
流れる水は土を押しのけて、より低い方へ、より低い方へと落ちていく。
小さな石は、小さな虫は、その流れに逆らうことはできない。流れに逆らうことができるのは、力のあるモノだけ。
赤い髪を雨にぬらして、眼に入る水を拭いながら女は斜面を上へと登る。彼女の左手には小さな赤ん坊を抱いた女の子。その後ろには小さな子供たち。
人を材料に、道を突き進み続けた魔術師たちの子供たち。寒そうに身体を振わせ、その子たちは赤髪の女に、ハルネリア・シュッツレイについていく。
ハルネリアは濡れる手でぐずぐずになった本のページを一枚破り、小さく口元で何か言葉を発した。紙は燃え、火となり、空に浮かぶ。
「いいよ触れても……この火、触れても焼けないから、雨で消えることもないから、温まって」
子供たちは火に手を伸ばした。それは、不思議な火だった。触れても熱くない。ただ、ぬくもりだけが身体を包む、そんな火。
暖かな火に、子供たちの口元が緩む。
「あそこまで、あそこまで行こう。あの大きな木。地面が完全に濡れてない。雨、とどかないからきっと……」
言われるがままに、ハルネリアに連れられて子供たちは木の下へと急いだ。
雨が、降り注ぐ。
そして着く。木の下に。大きな木の下に。聖堂を見下ろす場所に生える、木の下に。
ハルネリアは濡れて駄目になった本を投げ捨て、胸元に入れていた布を絞って、赤子の顔を拭いた。その赤子を抱いていた女の子は、その様子を無表情で見ていた。
子供たちは一言も発しなかった。ハルネリアが出した暖かい火に触れる以上の反応を見せなかった。
ハルネリアは、この子供たちを哀れに思った。きっと想像を絶する日常の中で育てられたのであろう。だから、人にやさしくされて反応できないのだろう。
彼女の胸に抱かれたその想い、その哀れみは、母性。ヴェルーナ女王国の王女として育てられた彼女が、愛されることしか知らなかった彼女が、長い旅路の果てに得た人に対する、人の子に対する愛情。
正に夢。正に夢のような出来事だった。最初に彼女の想い人である男に会ったのは、3年程前。
男は若々しく、その時はまだ幼さも感じさせて、しかしながら圧倒的な殺意で。
男は立っていた。ハルネリアが倒すはずだった魔術師の首を持って、立っていた。
ニヤリと笑って、男はその首をハルネリアに向かって投げた。汚い魔術師の生首が、ハルネリアの方へ飛んで来たのだ。
嫌悪感を感じた。そして同時に、その首を投げた男に対して恐怖心を感じた。
その後、妙な縁があって、3度、悪の魔術師を狩りにいったハルネリアの前にその男は現れた。
危険だと、ハルネリアは感じた。この男は危険だと。
強すぎるのだ。埋葬者数人を連れて倒せるかどうかという敵をこの男は容易く殺してしまうのだ。
その力、制御できないその力。制しなければならない。捕らえなければならない。場合によっては、殺さなければならない。
彼女は仲間に声をかけ、その男を殺すべく動いた。思った以上に、その機会は早く訪れた。
男は暗殺者だった。相手がどんな力を持っていようが殺してしまえる暗殺者。オーダーとして登録された悪の魔術師は沢山の恨みを向けられている。故に、彼らの暗殺対象にもなりうるのだ。
暗殺者、人のために人を殺す暗殺者。とりわけ彼は、弱き者のために仕事をしていた。
故に、会うのは必然。男の情報が入るのも、必然。
ハルネリアは仲間と共に、敵の魔術師と戦っているその男に襲い掛かった。腕利きの埋葬者10名以上。普通ならば、負けるはずはない。
だが負けた。彼女一人残して、他は全員殺された。やはり、彼は強かったのだ。
それから奇妙なことになった。何故か、ハルネリアは焦がれていたのだ。その男に対して、想い焦がれていたのだ。
何故? 彼女は悔しかった。寝ても覚めても、悔しさで目が覚める。仲間が殺されて、そして自分も瀕死に追い込まれて、とにかく、悔しかったのだ。
だが同時に、魅了されていた。強い男に。誰よりも強い男に。人を殺しながら、少年のように笑える男に。
最初は小さな興味。次第にそれは知りたいという欲望になって、知ってしまったら、今度は自分も知って欲しいという欲望になって。
それは夢。箱を飛び出た姫が、箱の外で漆黒の男に出会って恋をする夢。
暖かい夢。
夢はいつか終わる。
夢は――――今終わる。
「うあっ!?」
突然走った痛み。痛みの元は、足。足の腱に突き立てられた短剣。
小さな手がそれを少しだけ右にひねる。あまりの痛みに、ハルネリアは座り込んだ。
両手と両足に重さを感じた。小さな何かが、彼女の両手と両足を抱えるように掴んで倒れ込んだのだ。
関節を逆方向に締め上げられて、両手と両足の自由を奪われた。
それは、子供だった。四人の子供だった。子供たちが、その小さな身体を蛇のように使って、ハルネリアの四肢の自由を奪ったのだ。
「な、にを……うぶっ!?」
口に何かを突っ込まれた。ハルネリアの口に何かが、歯にあたる感触と、口に伝わる柔らかさ。それは、布。先ほどハルネリアが赤子の顔を吹くのに使った布。固められた布。
ハルネリアは見た。子供たちの顔を。その顔はしてやったという満足げな顔。
四肢を掴む子供たちは、笑っていた。笑いをこらえきれずに、笑っていた。
醜悪な笑みを、浮かべていた。
そして来る。ハルネリアの足元から、夢の終わりを告げる者が来る。
それは、少年だった。小さな小さな、10歳ほどの少年だった。
片手にナイフを、雨に濡れて、銀色に光るナイフを持っていた。
「……僕は、許さない。お前たちを許さない」
光。この豪雨の中、何故か月明かりが差し込んだ。
少年の顔を照らす月の光。その少年の顔に、ハルネリアは見覚えがあった。
それは――――あの日――――見逃した――――
「お前たちは覚えていないんだ……ゴミのように僕たちを、魔術師を殺すお前たちは、覚えてるはずがないんだ……でも、忘れない。僕は忘れない。お前は、お前らは……!」
少年は、両手で力一杯に短剣を握っていた。逆手に、少年は持ち帰る。
「やっちまえリュート……恨みを晴らすんだ!」
ハルネリアの右腕を抑えていた少し大柄の少年がそう叫ぶ。と同時に、短剣を持った少年はハルネリアに馬乗りになった。
「お前たちは僕のお母さんとお母さんのお腹の中にいた赤ちゃんを殺したんだ! こんな風にぃぃぃぃぃい!」
刻が、遅くなる。目の前が遅くなる。
ゆっくりゆっくりと、ゆっくりゆっくりと、ゆっくりゆっくりと、短剣は堕ちていった。
堕ちる先は、胸の下。腹部。
自分の中に、冷たい異物が入っていく感触がゆっくりゆっくり、ゆっくりゆっくり。
止まることなく、短剣は大きく腹を縦に裂いた。傷口に血がたまって、そして流れ出る。決壊した川のように。
遅れてくる痛み。この世の物とは思えない痛み。
「ううううぎぃぃ……あああああ!」
思わず、声が出た。口に押し込まれた布を押し返ほどの声が出た。一瞬で肺の中の空気を吐き出し、それでもハルネリアは声を出そうとして、ついには泡を吹く。
「煩い! 煩い! 煩い! 僕の家族だぞ! 僕の家族を殺したんだぞ! 死ね! 死ねぇ!」
刺した。少年は切り裂かれたハルネリアの腹を何度も、何度も刺した。両手両足を抑えている子供たちが、それを見て笑い、喜び、俺にもやらせろと叫ぶ。
何時しか、血の海ができていた。ハルネリアのローブは裂け胸元から下がさらけ出され、そしてそこは、ボロ布のように、沢山の穴と、血と。
刺す。少年は刺し続ける。腹部の傷は、すでに穴になっていて、そこからはみ出たハルネリアの内臓を、少年は刺して刺して刺して、そして切り刻む。
血。もはや雨は血に。流れていくものは赤い水。木の幹を真っ赤に染めて、木の根を真っ赤に染めて。
あまりの痛みに、あまりの衝撃に、ハルネリアは一つの抵抗もできなかった。両手両足を拘束していた子供たちの身体も、いつの間にか無くなっていて。
動けない。動かない。もう彼女は動くことができない。
「すげぇ……すげぇよ。ひひひ……埋葬者だぞこれ。大人でも殺せないんだぞ……リュートやったな」
「はぁはぁはぁ……あ、これって……」
「うん? おっこれは! すっげー! すっげーよ! おい皆みてみろよ!」
大柄な少年は、嬉しそうにハルネリアの開いた腹部に手を突っ込んだ。素手で内臓をかき回される感覚、拷問以上に拷問。ハルネリアはあまりの痛さと気持ち悪さに、血を吐きだした。
ずるずると、自分の中から何かが引きずり出される感触。腸ではない。臓器でもない。そもそも臓器も腸も、周囲に散らばっている。
引きずり出された何か。それを少年は高々と掲げる。血のしたたるそれを、高々と。
ハルネリアは理解した。一瞬で理解した。それが何なのか、少年が掲げたそれが何なのか、理解した。
それは――――
「子供だ! この女、子供がいたんだ! すごい! すごいぞ! パパが言ってたんだ! 産まれる前の子供は魔力の塊だって! すごいぞぉ!」
時が止まった。ハルネリアの目の前の時が止まった。自分の腸から引きずり出されたそれをみて、彼女は全身の細胞の全てが凍り固まるのを感じた。
それは赤子だった。正確には、人の形になろうとしている赤子だった。
自分の腸からでてきた赤子。つまり、自分の子。
つまりは――自分と、あの人の、子。
「どうする? どうする? リュートどうする?」
「お父さんは……食べてたけど……」
「食べる? これ食べる? 皆も食べる? どうやってわける?」
少年はその赤子の、手になろうとしている突起を握る。力の加減などする気はないのだろう。無造作に、まるで人形を掴むように、少年は赤子の手を握った。
当然、まだ辛うじて形を成しているだけのそれなのだ。簡単に、簡単にそれはもげた。音もなく、ぷつんと、赤子の手は取れた。
ぽとりと堕ちる赤子。それは、開かれたハルネリアの腹部に堕ちた。小さく小さく、何かが自分の中にあたる感触。
そして感じる。小さな鼓動を感じる。
生きている。生きているのだ。赤子は生きているのだ。当然のように、生きているのだ。
「あ、落ちちゃった」
悪意。そこには悪意などないのだろう。たぶんその少年にとって、今この光景は日常で。故に悪意などないのだろう。
だが、そんなことはもはや関係ない。その声を聴いたハルネリアは、自分の中にとてつもない憎しみの心が沸くのを感じた。どす黒い何かが生まれたのを感じた。
動くはずのない腕、だが、動いた。ハルネリアは自らの開かれた腹に手を突っ込んだ。
痛みなど関係ない。苦しみなど関係ない。ただ、ただ守りたい。
ハルネリアは自分の腸から赤子を救い出す。そしてそれを胸元へと持って行く。
彼女は抱いた。生まれる前の我が子を抱いた。彼女の眼には、血と雨と涙が混ざった物が流れていた。
ハルネリアは赤子を抱いている手とは反対の手を突き出した。少年に、赤子の腕をもいだ少年に向かって突き出した。
次の瞬間、少年の頭が吹き飛んだ。魔力放出による、魔力の弾。魔を納める者ならば誰でもできる魔力操作。
この状態で子供とは言え、一人の人間の頭を吹き飛ばせるのはさすがはヴェルーナの血か。
だがそれを見て、黙っている子供たちではない。短剣を持った少年は、再びハルネリアに襲い掛かった。
どこで間違えたのだろうか。彼女は、どこで間違えたのだろうか。
城を出た時? 暗殺者の男を愛した時? それとも、子供を助けようとした時?
きっとどれも間違いで、どれも正解で。
彼女が到達したのは、この結末なのだ。
執拗に腹部を切り裂かれ、胸元に抱いていた赤子も切り裂かれ。
ハルネリア・シュッツレイは、シルフィナ・ヴェルーナ・アポクリファは、後悔していた。城を出たことにではない。暗殺者の男を愛したことにではない。子供を助けたことにではない。
彼女は後悔していた。気付かなかったことに。自分の中に、想い人の子供が宿っていることに気付かなかったことに。
謝った。何度も何度も、誤った。彼女は謝った。想い人に、自分の子供に。
そして後悔の中、彼女は死んだ。腹部を執拗に切り刻まれて、彼女は死んだ。
死んだように、眠った。
残されたのは血。大量の血。散らばる内臓。
そして子供の死体。細切れになった複数の子供の死体。
そして――漆黒の男女と、青髪の魔法師。
「死ぬさ。いつか人は死ぬ。早いか遅いか、そんなものは人が決めていいものじゃないんだ」
無表情に、真っ赤に染まった木の下で、漆黒の女がそう言った。
「何で、こうなった……?」
雨に打たれて、漆黒の男がそう言った。
「姐さん……姐さぁん……ううう……」
自分のローブが真っ赤に染まるのも構わずに、青髪の魔法師が赤い女に抱きついて、泣いていた。
「……間違ってたんだな俺」
「間違いなど、あって当たり前だ」
「こいつは俺にとって太陽だ。眩しかった。暖かかった。だから、触れたかった。触れて一緒に……日向で少しでも俺の夜を……」
「いいさ……もう……いいさ……」
「……俺は、馬鹿だった。逃げ場を、こいつに求めていた。こいつを……俺が巻き込んだんだ。俺の夜に、巻き込んだんだ」
漆黒の男は泣いていた。雨の中、確実に泣いていた。
彼にとっても、夢だったのだ。今までは夢の中だったのだ。
誰よりも強く、一族を統べる男が、逃れられない一族という鎖。それを緩めてくれる女と過ごす日々は、夢の中の出来事で。
彼は赤と青の双剣をその場において、歩き出した。自由になれない自分の代わりに、二本の剣を傍らに、安らかに眠って欲しいという思いを込めて、彼はそれを置いていった。
その意、妻であるエリンフィアは当然理解した。アルスガンドに伝わる最高の宝。赤青の双剣。彼女はそれを持ちあげて、倒れるハルネリアの傍らに置いた。
そして背を向ける。立ち去ろうと足を一歩前へ出す。
「待って……エリンフィアさん……待って」
彼女の背で、青髪の魔法師が、ラナが小さな声で、しかしながらはっきりとエリンフィアを呼ぶ。
振り返ることなく、足を止めるエリンフィア。
「姐さん……姐さん……動いてる……まだ心臓……うごいて……」
絞り出すように、確かめるように、ラナはそう告げた。エリンフィアは驚いた顔で振り返る。
そして、見つける。もう一つの、事実。
「こいつ抱いてるの……胎児……か?」
夢の終わりは、次の夢の始まりになる。
――始まりは、血の海の中で。




