第8話 理想郷
魔の末は獄。それを超えて尚、進むというのならば、行き着く果てはきっと理想郷。そここそがエリュシオン。魂の座。
嘗て、その言葉を聞いた三人の男たちがいた。始まりの国、アスガルズより始まったその男たちの歩みは、数万の年月を超えて今へと至る。
未だエリュシオンに至った者はおらず。伝説は伝説のままで、至ることの意味すら知る者はおらず、ただ魂の座を求めて、人は魔を求め続ける。
夜が訪れた。
町は日が沈むと共に、その姿を変える。大広場にはいつの間にか人の姿が消え、いるのは一人だけになっていた。
待ち人は来ない。そのまま夜になって、肌寒い風が吹いて。
「遅いですね……一旦帰った方がよろしいのでしょうか……寒くなってきた……なぁ……っと」
一国の姫だったファレナにとって、夜の世界というものは何とも寂しく感じる。自然と独り言も出る。
両腕で身体を抱えて、彼女は震えていた。宿に彼を、ジュナシアを連れて帰らないといけない。場所を教えないといけない。食事を作るセレニアに頼まれた仕事、その責任感を胸に、彼女はただ待っていた。
いつの間にか日も完全に落ち、ついに夜が訪れたが、それでも彼はまだ姿を現さない。少し、心が折れそうになる。ファレナはただただ、待っていた。
「もし、そこのお嬢さん」
ふと、声をかけられた。彼女の前にいつの間にか笑顔の紳士が立っていた。その優しげな顔と、身なりのよさ、誰が見ても彼を貴族の紳士だと印象付けるその姿。
「このようなお時間に、誰かお待ちですかな? 身体に悪いですよ」
「すみません、目障りでしたか?」
「いえいえ、お美しい女性が震えているのです。心配して声をかけてしまいました。ただそれだけですよ」
笑顔でその男は話していた。その声はどこまでも優しげで、紳士は手を出し、小さな包み紙をファレナに手渡した。
「これは?」
「これは飴です。ああ、危険なものではありません。私こうみえましても菓子売りを生業にしておりまして、実は、それは売れ残ってしまったのですよ。人を待つ間の、時間つぶしにでもお使いください」
「あ、ありがとうございます。実は少しお腹がすいていて……いただきます」
包み紙の中には真っ赤な飴、それを一つの疑いもなくファレナは口へ運んだ。
普通の町娘ならば、きっとそれを手にすることは無いだろうし、口に運ぶことすらせずに捨てるだろう。だが彼女は世間を、世界を知らないのだ。
カラカラと、飴と歯が当たる音が鳴る。ファレナの口には少し大きめのそれを、必死で口の中で転がす。
ゆっくりと、ゆっくりと飴は融け、彼女の口の中に甘さが広がった。
「いかがですか?」
「甘いです。凄く、おいしいものですねこれは」
「ほぅ、それはよかった。いや何とも、甘いと言ってくれて本当にありがとうございます」
「いろんなものがありますね町には。菓子ですか……明日は買いにいかせていただきますね。どこのお店です?」
「それはそれは、ありがとうございます。いや、しかし残念です。この町での菓子売りはしばらく控えることになったんです」
「そうなんですか? こんなに甘い飴を作れますのに……えっと、もうちょっともらえます?」
「ああいいですよ。全てあげましょう。好きなだけ、お食べください」
包みの入った袋を、紳士はファレナに渡す。その袋の中はかすかに光っている。彼女はそれを手に下げていた籠に仕舞った。
その様子を見ていた男は、顔を少し歪めて、声を少し低くしてファレナに問いかける。
「お嬢さん、赤い色と、青い色、どちらがお好きですかな?」
「え? どちらかというと、赤い色ですけど」
「黒と白、どちらがお好きですか?」
「く、黒」
「ほぅ、意外ですね……では、参りましょうお嬢さん。その純潔、我が剣の贄として相応しい。さぁ共に果てに参りましょう」
その男は、紳士的な笑顔を振りまいていたその男は、気がつけば、狂気の笑みを浮かべていた。そして、男はファレナに向かって手を伸ばす。
ゆっくりと、その手は彼女へと近づく。警戒心の薄いファレナと言えども、さすがにどこか不安を感じて、その場から去ろうと彼女は足を後ろへと動かそうとした。
だが動く前にファレナの手は男に捕まった。もはや男に紳士的な顔はない。醜悪で、邪悪な顔を見せ、男は呟く。
「やはり町はいい」
そのまま光を見て、ファレナの意識は遠くなっていった。
血は材料で、魂は力で、人は魔に対する薪。くべればくべるほどその力は深くなる。
遅れること数刻、ファレナがいた場所には二人の男女が立っていた。暗殺者の一族アルスガンドの二人、ジュナシアとセレニア。
セレニアが瓶から水をまき、そして火をつける。火は強く燃え上がり、そして火の玉となって飛び、点々と道に沿って火の粉を置いていった。
「言われた通り餌にしたが、まさかこんなに早く食いつくとはな。数日粘るつもりだったが」
「セレニア」
「もう解析は終わったさ。術式も解明済み、血の魔術だな。血を媒介にしないと発動できない魔術。初歩の初歩、幼稚な術だ」
「そうか、では行こう」
「ああ、所詮はただの女。餌になるだけでも役に立つ。しかしお前、心配していたが変わってなくて何よりだ。ふふふ、仕事に私情を挟むお前など、お前ではない……優しさは私だけの……」
「セレニア」
「……どうした?」
「名で呼べ。俺には名がある。次に名で呼ばなかったら……」
「っ……わかった。す……すまないジュナシア」
「いくぞ。アルスガンドの名の下に。報いを」
「……報いを」
昼間みせた子供のような顔、その面影は無く、彼、ジュナシアは冷たい眼をしていた。それは紛れもなく、暗殺者の顔。
彼は暗殺に私情を持ち込むことが、如何に愚かなことか知っている。例え自分に名をつけた女であっても目的のためならば危険にさらすことに躊躇せず。それが生まれて来てから今までの彼の在りかた。
だが同時に、少し何か胸に詰まるものを感じていた。それが何かは、はっきりとは彼もわかっていなかったが。
セレニアはそんな彼に戸惑いを感じていた。幼少の頃から常に一緒にいた彼は、名をもらったことで少しだけ変わっていた。そのことが、セレニアに寂しさと戸惑いを感じさせる。
「まさか、怒りを……? お前は仕事に、怒りを持ち込むのか……?」
そして彼らは闇夜に走り出す。漆黒の服を纏って、人を殺すための武器を纏って。目指すは朽ちた砦、兵士たちが嘗て守ったその場所。
月は空に、闇は地に、彼らの左手の紋章は、闇夜に光り輝いていた。