第3話 微笑みの中で
遠いどこかで、誰かが泣く声がする。
触れて壊れる人の身で、鳴き声は最後の慟哭。最後の声。
どうにもならないこともある。
どうにかなることもある。
その男はそれを知っている。それを知っているからこそ、足掻く女を愛した。
未来は約束されてはいるけれども、そこに至る道は様々で。
万年もの間一族としての血を絶やさず残す。それが、どれほど難しいことか。それが、どれほど大切か。
男は知っている。心の底から。
だからこそ――――変えたのだ――――
開かれる扉。カランカランと扉に繋がれた鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルドへようこそ。何用ですか?」
礼儀正しく、さわやかな笑顔を振りまいて、男が来訪者に語り掛ける。長いマントに、布でできた動きやすい服。旅人の女は、笑顔でその男に答えた。
「魔法機関に用があるわ。通してくださる?」
「お約束はおありで?」
「ハルネリア・シュッツレイ。埋葬者第13位」
「貴君のお名前は?」
「アルスガンドと申します」
「はい、お聞きしております。どうぞ中へ。真っ直ぐ奥へ。他の部屋へは入らないようにしてください」
「はい、ありがとう案内様」
長く腰まで伸びた漆黒の髪を揺らして、冒険者ギルドの奥の扉に案内される。優雅に、そして堂々と、冒険者の姿をした女は笑顔のままその扉を潜った。
扉の向こうは、まるで別世界。明るく、賑やかな冒険者ギルド内部と違い、その通路は暗く、所々に魔方陣が描かれている。
世界各地にある冒険者のためのギルドは魔法機関支部でもあり、世界中の人々の往来と安全を守っている。
扉を潜った冒険者の女は、すぐさまその微笑みを消し鋭い眼を見せる。彼女は土埃のついたマントを投げ捨て、布の服を脱いでいく。
布でできた丈夫な服の下には、ぴったりと身体に密着している黒い服。そして髪を束ねて。冒険者の女は、あっという間にアルスガンド暗殺者であるエリンフィアの姿になった。
彼女は進む。魔法機関支部へと続く道を進む。奥に気配。二人。右の扉に一人。上階に三人。
空気の揺れと、気配だけで彼女にはどこに誰がいるかがわかる。正しく暗殺者としての極致。
目的の相手の気配も彼女にはすぐにわかる。気持ち早足になって。彼女は奥の扉をノックも無しに開いた。
そこは書庫。本の山。
「誰?」
本の山からでてきた赤い頭。肩口で切りそろえられてるその赤い髪は、彼女が誰か一目でわからせる。
「泥棒猫、久しぶりだな」
「…………あっ!?」
一瞬わからなかったのか、少しの間赤毛の女は固まっていた。だが流石に、忘れはしないのだろう。彼女は慌てて、手に持っていた本を落とした。
「あ、なっ……あ、アルスの……何故、ここに……!?」
「言われなきゃわからんか? うん?」
「なんで……私、手紙は、アルス宛に。岩の前に」
「ああ、あったぞ。甘い言葉遣いだったな。まるで恋する乙女だった。寒気がしたよ」
「なっ……」
恥ずかしいのか、それとも情けなさもあるのか、顔を赤くしてハルネリアは俯いた。
「確か、エリンフィア、さん」
「ああそうだ。よく覚えていたなハルネリア、さん?」
「……くっ」
エリンフィアは誇りを被っていた椅子を軽く手で払い、座った。身体を前に傾けて、両手を膝の上に乗せて、じっと彼女はハルネリアを見る。
比較的無表情でいることが多いハルネリアが、困ったような顔を見せる。
「……仕事、あなたが受けるの?」
「ああ、そうだ。今回は私だ。まぁちゃんとお前の言うアルスも来てるがな。夫婦で来てやったぞ、喜べ。うーん?」
「一人で十分なのに」
「なんだなんだ、私は邪魔か? うん?」
「そういう、わけじゃ……」
口ごもるハルネリアに、勝ち誇るエリンフィア。彼女たちの力関係は、この姿のままで。
「さて、私もくどいのは好きじゃないんだ。聞かせてもらおうか。何故私の夫に手を出した。わかっていただろう。私がいることを。わかっていただろう。こうなることを」
「それは、その……」
エリンフィアは、余裕なのか。それとも怒りが反転しているのか。彼女の顔は、笑顔だった。優しそうに、微笑んでいた。
それがどれほどの圧力を与えるか。たぶん彼女は知っていたのだろう。完全にエリンフィアは勝ち誇っていた。
「全く……情けない女だ。どこがいいんだか……いいか。二度と私の夫に色目を使うな。そしてもう二度と会うな。次は無いぞ」
「嫌」
「そうか、わかってくれたか。っておい!」
唐突に返されたハルネリアの言葉に、思わず声が出て。エリンフィアの顔から一瞬で余裕がなくなった。
「お前大人しそうな顔してよく言えるな! 私は妻だぞ! 本妻だぞ! もう5年だぞ!」
「嫌だから、嫌。会わないなんて、嫌」
「この、女……!」
「彼言ってた。妻が相手してくれなくて寂しいって。だから」
「真に受けるな! お前を抱きたいから嘘ついたに決まってるだろうが! お前馬鹿だろ! そんなんで抱かれるな馬鹿! 自分を大事にしろ!」
「だって、私は、ずっと一人で、誰も、私のこと……」
「馬鹿かもっと考えろ! くそ、あの馬鹿、こんな女を抱いたのか。くっそ……どうしてやろうかあの馬鹿……」
しかめっ面のまま自分の頭を押さえるエリンフィアの姿に、ハルネリアは不思議に思った。自分を責めていたはずの人が、いつの間にか自分を心配しているのだ。
その滑稽さに、何とも言えない親しみを感じて。
「……エリンフィアさん、もしかしていい人?」
「んなわけあるか馬鹿。くそ、お前、あれのどこがいいんだ。女にだらしない上に、暗殺以外は無能だぞ」
「どこがって、弱いところかな。壊れそうな私を、支えてくれたあの人は、そのまま壊れそう……うまく説明できないけど、あの人すごく脆い。たぶん言ったら拗ねるから言わないけど」
「なっ……」
「わかる、でしょ?」
「……ちっ」
ふてくされたように、エリンフィアは椅子の上で足を組み替える。
彼女は無意味に周りの本を見回して、そしておもむろに一冊の本を手に取った。
「はぁ……まぁ、いいさ。だがな、あれの支えになろうなんて思うな。引きずり込まれるぞ」
「うん」
「はぁぁぁ、全く、私も甘いな。ハルネリア。一つ約束しろ」
「何?」
「一族は万年にわたって血を守り続けてきた。わざと近親で子を作らせるなど日常茶飯事だ。あそこに恋などない。あそこに愛などない。アルスガンドは氷の村だ」
「うん」
「あいつはそれを変えた。膿を絞り出すように。方法は、褒められたものではなかったが。私はそれをあいつが頭首になる前から支えてきた。だから、ハルネリア」
「はい」
「どうか、裏切らないでくれ。あいつを」
「……はい。ハルネリア・シュッツレイ。誓います」
「ならいい。いつか来る別れならば、今を大切にしろともいうしな。まぁこういうのも、いいだろう。型破りな私たちには、な。さて、そろそろあいつが……」
「ハルネリア姐さん!」
バンと、大きな音を立てて部屋の扉が開かれた。その音に、ハルネリアも、エリンフィアも少しだけ驚き肩を揺らした。
大きな声でハルネリアの名を呼びながら部屋に入って来たのは青髪の魔法師。美しい顔に均整の取れた体つき。
「ラナ? どうした、の?」
「姐さんなんか変な男が!」
「変な?」
「げっ」
ラナと呼ばれた魔法師が指さす先。扉の向こう、通路の奥。旅人が着る服を半分ほど脱ぎながら、男が必死に走ってきていた。
その男の顔、必死な顔。思わず絶句するエリンフィア。
「ちょっと待て誤解だ! 誤解だって乳がでかい魔法師さん! 俺は決して怪しいもんじゃ!」
「怪しすぎる! 通路で服脱いでる男とか怪しすぎるから! あー走ってくる! 姐さん魔法! 何かでかい魔法してください!」
「いや、その、あの人は……ラナ……あの人はね」
「そうだハルネリア説明してやってくれ! おおエリンフィアもいるじゃないか! 説明!」
「黙れ馬鹿が! 一族の恥さらしがぁ!」
「うごっ!?」
まさに一瞬。動きは誰の目に止まることはない。エリンフィアは気がついた時には、半裸の男の腹部に拳を突き刺していた。
眼にも止まらない彼女の動きに、ハルネリアは一瞬感心したが、倒れ込む男の姿にその感心した心はどこかへと消え去っていった。
腹を抑えて蹲る男に駆け寄って、無言でその背をさすりながらハルネリアは張り続けていた心を少しずつ溶けていくのを感じていて。
「お前な! 着替えるのはいいが見つかってどうする! 全く……これで長か……村の者に見られたらお前いろいろとだな」
「ち、ちがっ……そこの乳がでかい女が探知の魔法を何故か使ってて……」
「言い訳するな! くっそ……はぁ、本当に普段は無能だなお前は……」
赤と青の剣を背に輝かし、アルスガンドの長は蹲る。
困惑するラナの視線の先で、ハルネリアは一人、笑顔だった。




